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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第69話「判定日通知」

 朝の空は、いつもより薄い青だった。


 薄い、というのは色の話だけじゃない。空気が、紙一枚ぶんだけ軽くなっていて、その下の街が“置かれている”感じがした。鍋の蓋を少しだけ浮かせたときみたいに、内部の蒸気が逃げる隙間ができる。あれに似ている。


 路面電車の窓を拭く車掌の手が、いつもよりゆっくりに見える。沿線の小さな花屋が、シャッターを上げる音が、やけに響く。


 私はカメラバッグを握り直した。


 ――また、空が測られてる。


 そう思ったのは、見えたからではない。見えないのに、背中が先に気づく。第七河岸区の“線”に触れてから、私は空がただの空でいられない感覚を覚えてしまった。


 そして、その感覚は当たっていた。


 帝都庁の方角に目をやると、上空に一瞬だけ、薄い六角形の格子模様の光がふっと浮かんだ。蜂の巣の断面みたいな、規則正しい形。光は現れて、消える。消えた瞬間、見ていたはずの私のほうが“見なかったこと”にされそうになる。


 私は反射的にシャッターを切った。


 しかし、ファインダーの中に残ったのは普通の空だけだった。雲の薄い影。遠くに引く電線。目の錯覚のように、格子の残像が瞼の裏に残る。


「……撮れないのか」


 独り言が喉の奥で掠れた。撮れないものがある。撮っても写らないものがある。なのに、測られている。


 幻灯局に着くと、玄関の靴がきちんと揃っていた。こういうときほど、みんな変に丁寧になる。乱れたものを見たくないのだと思う。


 九条が机の端に肘をつき、紙切れを睨んでいた。目の下に薄い影がある。徹夜した顔だ。


「灯子」


 呼ばれて、私は近づく。


「これ……回ってきた」


 九条が差し出したのは、半分だけ折られたメモだった。官庁の文字の癖がある、固い文体。短いのに、背筋が冷える。


「“帝都深度最終判定日、通告”?」


 声に出した途端、言葉が部屋の空気を変えた。花が息を呑み、相馬が眉を寄せる。七瀬は椅子にもたれたまま、笑うでもなく唇を歪めた。


「最終って、言っちゃったか」


 御影が奥から現れた。いつも通りの無表情。でも、その目だけが、少しだけ硬い。


「招集が来ています。地下会議室。――記録者代表として、私と灯子さんが呼ばれました」


 私の胃が小さく縮んだ。


 記録者代表。そんな言葉、いつの間にか“役職”みたいに扱われるようになった。カメラを持っているだけだったはずなのに。


「俺たちは?」


 相馬が聞く。


「警察にも別枠で連絡が行っています」


 御影の視線が相馬に向き、次に七瀬、九条、花へと流れた。


「今日の会議で、帝都の“扱い”が具体化する可能性があります。情報の整理は後で。まず、行きましょう」


 九条がぼそりと言う。


「書く前に、街が決まる……か」


 私は言い返せなかった。決まる、という言い方が怖い。決める、ではなく、決まる。誰が? どこで? どんな手順で?


 玄関を出ると、商店街の八百屋の親父が荷台を押していた。私たちの顔を見て、手を止める。


「今日はまた、なんかあんのか」


 冗談みたいな口調なのに、目だけが本気だ。あの日から、帝都の人たちは“訓練”という嘘を覚え、嘘の裏側を疑うことにも慣れた。


「……大丈夫です。たぶん」


 私がそう言うと、親父は鼻で笑った。


「たぶんって便利だよな。俺もそれでずっと生きてる」


 たぶん。便利で、残酷な言葉だ。私は手を振り、帝都庁へ向かった。



 地下会議室は、地上の帝都より冷えていた。


 壁が厚いのか、温度が低いのか、音が吸われる。歩く靴音が薄くなる。光も、電灯の白さが鈍い。地上の街のざわめきが遠くなるほど、ここで話される言葉が“現実”として力を持つ。


 長い机の向こうに、行政トップが座っていた。軍の司令部の人間。教会の高位聖職者。メディア代表――九条ではない、別の大新聞の顔。深度観測機関の灰島とソラ。ソラは少し疲れた目をしている。第七河岸区の空白を見た目だ。


 そして、私と御影。


 “記録者代表”という札はない。けれど、視線がそれを名札の代わりにする。


 行政側が、まず口火を切った。


「大規模異常に対する、世界側の整理が本格化しています」


 “世界側”。その言葉を、行政の口から聞くのは二度目だった。最初は、ただの婉曲表現だと思った。でも今は違う。確かな相手がいる。灰島の背後にある、何か。


「帝都も例外ではありません」


 例外じゃない。そう言われると、帝都は急に“特殊じゃない”ものになる。私たちが大事にしてきた日常が、巨大な仕分け作業の中の一項目に落ちる。


 灰島が手を上げると、空中にホログラムの都市模型が浮かんだ。


 帝都全体。立体地図。中央タワー、川、坂の住宅街、商店街アーケード、路面電車の線路。街の骨格が淡い光で再現される。その表面を、無数の細い光の線が走っていた。深度ラインやテスト記録。私たちが見てきた“線”が、ここでは“データ”になっている。


 見下ろされる街は、可哀想なくらい小さい。


「帝都は、残す候補です」


 灰島の声は淡々としているのに、その一言で室内の空気が微かに動いた。安心とも、緊張ともつかない揺れ。


「ただし、今のままの形ではなく、ある程度削って安定させる必要がある」


「削るって、またその言い方かよ」


 会議室の端に控えていた七瀬が、つい口を挟んだ。軍の人間が睨む。行政が咳払いをする。教会の聖職者が眉をひそめる。


 でも灰島は、七瀬の言葉を否定しない。


「表現の問題ではありません。現象の性質です」


 ソラが一瞬、こちらを見た。目が“ごめんなさい”と言っている気がした。けれど、彼女もこの言葉の中で仕事をしているのだ。私たちと同じように。


 灰島が次に映し出したのは、世界地図だった。


 世界地図の上に、いくつかの都市が点で表示される。点のいくつかが、ふっと消える。消えた部分が“空白”になる。白い穴。半分だけ残され、周囲が空白になっている地域もある。第七河岸区で見た路地の空白が、世界規模で起きている。


 私は喉の奥が冷えた。


「すでに沈んだ都市。半分だけ残された地域。そして――記録者不在の街」


 灰島の指が、ある地点に止まる。そこは、空白の深さが濃い。


「記録者不在の街は、特に深く沈んでいます」


 行政トップが口を挟む。


「“記録者”という言葉を、公式の場で使うのは……」


「言い換えもできます。現地で継続的に観測し、外部へも残す者」


 灰島の言葉は冷静で、だからこそ残酷だ。


「記録の密度と、街が残る確率には、明確な相関があります。帝都は、幻灯局やメディアの存在によって、残りやすい街に分類されている」


 九条ではないメディア代表が、苦々しい顔をした。自分たちが“残存要因”として数えられていると知った瞬間の顔だ。


 私の隣で、御影の表情は変わらない。でも、指先が一度だけ机を叩いた。癖のない動きなのに、私はそれを“苛立ち”だと読んだ。


 そのとき、九条本人の声が脳裏で鳴った。


 ――書いたらパニックになる。でも黙って見てたら、何もなかったことにされる。


 今日、灰島はその“何もなかったこと”のメカニズムを、ほぼ言葉にしている。


 会議室の別席から、九条の代理として来た局員が質問した。声が震えている。


「それってつまり……書き続ければ生き残れる、書かなければ沈む、って話ですか」


 灰島は即答しなかった。間を置く。その間が、真実の湿度を帯びる。


「少なくとも、まったく無関係とは言い切れません」


 言い切れない、という言い方が、逆に重い。


 “無関係ではない”。


 つまり、関係がある。


 私は胃が痛くなった。関係があるなら、私たちはもう外野じゃない。私たちがシャッターを切る音が、街の存続の確率に触れている。


 行政トップが咳払いをし、話を進めた。


「判定日までに、世界側へ提示すべき案が三つある」


 ホログラムの帝都に、三つの影が重なった。


 一つ目。中心部のみを残し、周辺区域を整理する案。光の輪が帝都の中心を囲い、外側が薄くなる。


 二つ目。帝都全体を浅く薄め、記憶の密度を下げる代わりに広く残す案。街全体が霧がかったように淡くなる。


 三つ目。帝都を丸ごと他の層に移し替え、外界との接続をほとんど断つ代わりに、形そのものを保存する案。帝都の模型が、ふっと別の透明な膜の中に沈む。


 私は息を呑んだ。三つ目は、街が生きるというより、“保存される”感じがした。標本。封印。展示。


 軍がすぐに言った。


「一で中心を残し、周辺は防衛ラインとして処理するのが妥当だ」


 教会側が首を振る。


「三は、神の領域に踏み込みすぎている。人の手でそこまで決めるべきではない」


 行政トップは現実的な口調でまとめる。


「一番現実的なのは一か二だ。三は、事実上の封印と変わらない」


 封印。言葉が私の胸に刺さる。封印された街。残るのに、生きられない街。


 灰島が淡々と、最後の条項を読み上げた。


「世界側からの条件として、“記録者の意見を一度だけ反映する”という条項が付されています」


 会議室の空気が凍った。


 私は思わず口を開いた。


「……“総意”なんて、そんなの、決められません」


 行政トップがこちらを見て、少し苛立った顔をした。苛立ちは、余裕のなさの裏返しだ。


「決められないと言われても、条項は条項だ。現地記録者の総意として、どの案を望むのか――判定日前日までに提示してほしい、と」


 御影が静かに言った。


「それでも。決めなければ、向こうは向こうで勝手に決める、という話だろう?」


 勝手に決める。言葉が冷える。勝手に決められたくないのに、決める責任を負いたくもない。


 私は自分の手を見た。シャッターを押す指。紙に触れる指。誰かの顔を思い出す指。そんな指が、街の形を選ぶ?


 灰島が私を見た。


「三上さん」


 呼ばれたのは、名字だった。灯子ではない。個人ではなく、“記録者”として呼ばれている。


「今日のあなたの写真は、帝都を“残りやすい”分類に押し上げています。だからこそ――この条項が付いた」


 私は言葉を失った。押し上げた。私が。私の写真が。


 会議は、結論のないまま終わった。結論を出すには、時間がないのに。



 地上に戻ると、空が少し眩しかった。


 地下の冷えが、まだ背中に張り付いている。帝都庁の階段を上がりきったところで、私はもう一度空を見上げた。六角形の格子は、今は見えない。見えないけれど、そこに“ある”気がしてならない。


 幻灯局へ戻る途中、路面電車の窓から見える街が、さっきのホログラムと重なった。立体模型の帝都。光の線。薄くなる周辺。封印される街。現実の帝都が、まだ温かい色をしていることが怖い。温かいから、失うのが痛い。


 事務所に入ると、すぐに空気が割れた。


 御影は机の上に三つの案を簡単に書き出し、皆の前に置いた。文字が、妙に整っている。御影の字はいつもそうだ。整っているから、決定事項に見える。


「判定日前日までに、総意として提示しろ、ということです」


 相馬が腕を組む。


「……全部守るってのは、多分もう無理なんだろう」


 その言い方が、相馬らしかった。彼は“守る”という言葉を捨てない。捨てたら自分が崩れる。


 七瀬が机を指で叩く。


「“全部守る”って言いながら、守れなかったときのツケもデカいからな」


 現実路線。中心だけ残す。切り捨てた場所の恨みを背負う覚悟。七瀬はそういう顔をする。


 相馬はすぐに返す。


「薄く広く残すってのも、結局は……全部がぼやけるんだろ。生活も、記憶も」


 御影が頷く。


「二は、街を生かす代わりに、“街としての輪郭”を削る案です」


 花が両手を握ったまま言う。


「でも、具体的な顔のある街を守れる選択を……一緒に考えてもよくないですか。神社みたいに。あそこは……残りましたよね」


 花の言葉に、私は第七河岸区の拝殿を思い出した。写真を抱えて走る人たち。額縁の中の笑顔。線が微かに動いた瞬間。


 九条は椅子にもたれ、天井を見上げた。


「総意、ね。誰が責任を取るのか。……誰か一人の意見を“みんなの意思”ってことにしていいのかどうか」


 その問いは、刃のように正しい。正しいから、答えられない。


 御影が言う。


「だからこそ、我々は“どう撮ってきたか”で答えるしかない」


 私は息を止めた。


 どう撮ってきたか。写真の並べ方。記録の密度。何を残し、何を残さなかったか。私のシャッターの癖が、街の形の癖になる。


 私は小さく首を振った。


「……写真で答えるって、逃げじゃないですか」


 言ってしまってから、胸が痛んだ。御影に対して、失礼かもしれない。でも言わないと、私は自分の足場を失う。


 御影は怒らなかった。少しだけ目を細める。


「逃げでもいい。言葉で決めると、嘘が混ざる。写真なら、嘘は混ざりにくい」


「でも、写真も……選ぶじゃないですか」


 私は言った。


「撮る場所も、撮らない場所も。見せる写真も、隠す写真も。私たちは、もう……線を引いてる」


 沈黙が落ちた。落ちた沈黙の重さが、さっきの地下会議室に似ていた。


 花が小さく言う。


「灯子さん……じゃあ、どうしたいですか」


 私は答えられなかった。どうしたい、という問いが、今日いちばん苦しい。どうしたいかは、全部守りたい、しか出てこない。全部守りたい、なんて、子どもみたいだ。現実が許さない。


 相馬が、私の沈黙を救うように言った。


「……とりあえずさ。今日一日で決める必要はないんだろ。判定日前日まで、って言うなら……」


 九条が笑った。


「その“判定”ってのが、いつかは言ってないけどな」


「通告、って書いてあっただろ」


 七瀬が吐き捨てる。


「近いってことだ」


 近い。近いのに、日常は今日も動いている。花屋のシャッターは明日も上がるかもしれない。路面電車は走るかもしれない。もしかしたら、走らないかもしれない。


 御影が机の上の紙を指で揃えた。


「灯子さん。あなたは、今夜、屋上に上がれますか」


 問いに、私は反射的に頷いた。


「帝都全体を撮ってください。――今の帝都を、一枚に収める」


 無茶だ。広すぎる。光が多すぎる。暗すぎる部分もある。全部は入らない。入らないのに、入れろと言われる。


 でも、その無茶が今の状況に似ている。


 帝都をどう残したいか、決める写真を撮れ、と言われている。



 夜。局の屋上は風が強かった。


 遠くの街の灯りが瞬いている。帝都の夜景はいつもきれいだ。きれいだからこそ、残したい。残したいという感情が、ここまで来ると自分勝手に思える。


 私は三脚を立てた。足を広げ、固定する。指先が冷える。カメラを乗せ、構図を決める。帝都全体を見下ろすアングル。中央タワーが画面の中心に来るように。川のラインが入るように。路面電車の終点の光が端に見えるように。


「この街全部を、一枚に収めるなんて無茶だけど」


 独り言が風に散った。


 屋上の端で、御影が黙って見守っている。相馬も上がってきていた。煙草は吸わない。吸う余裕がないのだろう。花と九条と七瀬は下に残った。皆がそれぞれの夜を抱えている。


 ファインダーを覗くと、街が小さな模型みたいに見える。昼間のホログラムの帝都と同じだ。違うのは、これは生きているということ。光が瞬く。人が動く。川が黒く流れ、橋の上を車が渡る。


 私は呼吸を整え、シャッターを切る準備をした。


 その瞬間。


 空に、六角形の格子がうっすら浮かんだ。


 昼間より薄い。薄いのに、確かだ。格子は空全体を覆うように広がり、帝都を“測る”網になる。私は息を止めた。怖い。美しい。美しいから、怖い。


 格子の下で、帝都のあちこちで見てきたカットが脳裏にフラッシュバックする。


 川沿いの遊歩道。路面電車の車窓から見た夕焼け。坂の住宅街の洗濯物。商店街アーケードの魚屋のシャッター。第七河岸区の小さな神社。線の上のベンチ。白く塗りつぶされた路地。そこを一瞬よぎった後ろ姿。


 私は唇を噛んだ。


 ――どんな帝都として残したい?


 問いが、喉を締め付ける。


 中心だけ残す帝都。広く薄い帝都。封印された帝都。


 どれも、帝都だ。どれも、帝都じゃない。


 私は、シャッターを切った。


 カシャ、という音が夜に響いた。小さな音なのに、世界に触れてしまった感覚がした。格子が一瞬だけ強く光ったように見え、次の瞬間には消えた。消えたのに、消えたことが怖い。消えたことが“見なかったこと”にされそうで。


 私はカメラを抱きしめた。


 撮った一枚が、何を決めるのか分からない。けれど、決めるための写真を撮らなきゃいけない、と今夜は分かった。


 外野ではいられない。


 私はもう、帝都の線の外側に立てない。


 屋上の風が頬を撫で、街の匂いが上がってくる。焼き魚の匂い、石畳の湿り、花の香り。日常の匂い。


 その匂いが、判定日まで残っていることを、私は祈った。祈りながら、もう一度カメラの設定を変えた。次の一枚は、少しだけ違う帝都を写すために。


 答えを言葉にできないなら、せめて、撮り方で答えるしかない。


 カシャ。


 もう一度、シャッターの音が鳴った。


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