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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第67話「テスト区画」

 その朝、三上商店の店先に並んだ味噌の樽は、いつもより“きっちり”して見えた。


 木の蓋の縁、札の角、紐の結び目。全部が揃っている。揃っているのに、私はその揃い方が少し怖い。整然としていることが、誰かの手による“線引き”みたいに感じる日がある。


「灯子、醤油の瓶そこ。割るなよ」


 父――店の奥から声が飛ぶ。私は返事をして、瓶を両手で持ち上げた。ガラスの冷たさが掌に残る。


 店の前を、通学帽の少年が走り抜ける。路面電車のベルが、通りの向こうで鳴った。川から湿った風が吹き上げて、味噌と魚と冬の匂いが混ざる。


 ――日常は、音でできている。


 あの日、帝都全域の音が消えた瞬間のことを思い出す。車も、人も、風も止まった。代わりに深い水の底みたいなざわめきだけがあった。


 今日の音は全部ある。あるのに、昨日から胸の中に“封筒”が残っているせいで、世界の輪郭が薄く感じる。


 幻灯局へ向かう路面電車の窓に、街の白線が流れていく。私はその白線を無意識に追ってしまう。どこまでが道で、どこからが線の外か。そんなこと、普段考えないのに。


 事務所の扉を開けると、御影がすでに机の上に紙を広げていた。深度ログのコピーではない、帝都庁の封筒。印が新しい。


「おはようございます」


「おはよう。……来ました」


 御影は一言でそう言って、紙を滑らせる。相馬も七瀬も九条も花も、今日は早い。全員が揃っているのは、それだけで嫌な予感がする。


 相馬が封筒の角を見て、鼻で笑った。


「また“通達”か」


 七瀬が腕を組む。


「通達って言葉はよ、いいこと書いてある試しがねえ」


 御影が読み上げた。


「『第七河岸区一帯を、帝都深度安定検証のためのテスト区画とする』」


 部屋の空気が、ほんの少しだけ重くなった。


 第七河岸区。川沿いの古い住宅街。小さな商店が並ぶ、あのあたり。私は何度も撮っている。花の常連客の顔も、駄菓子屋の子どもたちも、洗濯物を干す手も。


 御影は続ける。


「端的に言えば、“ここをどこまで残すか”の実験です。深度ラインを境に、一部の建物や道が“存在の優先度”を下げられる」


 七瀬が舌打ちした。


「要するに、試しに削るってことかよ」


 相馬は肩を落とすように言う。


「治安維持って名目で、警察も動員されるらしい。住民の退避誘導を頼まれてる」


 九条が、机を指で叩いた。いつもより回数が多い。


「……それ、記事にするんですか」


 御影は九条を見て、それから私たち全員を見る。


「幻灯局には、テスト前後の“記録係”として同行してほしい、という依頼です」


 私は喉の奥が乾くのを感じた。


「……残るかもしれない街を撮るのか、消されるかもしれない街を撮るのか、どっちなんでしょう」


 言った瞬間、部屋の誰も笑わなかった。笑えない種類の問いだった。


 花が小さく息を吐いた。


「第七河岸区って……私、あそこに知り合いの花屋さんがいる。川沿いの古い店。あの人、腰が悪いのに毎朝水替えてるの」


 その店先の花の色を、私は思い出す。川の灰色の光を吸って、妙に鮮やかに見えるときがある。


 御影は淡々と、でも確実に言った。


「今日、現地確認です。明日、テスト実施が予定されています」


 相馬が立ち上がった。


「行くしかねえな。退避のルートも見ねえと」


 七瀬が頷く。


「俺は住民側の動線を見る。相馬、お前とだな」


 九条が視線を落としたまま言う。


「……俺は、見るだけでいいんですかね」


「何を?」


 相馬が聞き返す。


「これを、“見出し”にするかどうか」


 九条は自嘲気味に笑った。


「記事にしたらパニックになる。でも黙って見てたら、何もなかったことにされる」


 七瀬が短く言った。


「どっちにしても恨まれる役だな」


 相馬が、私のカメラバッグを見て言う。


「だからこそ、“記録しておくやつ”が必要なんだろ」


 その言葉が、胸に刺さった。昨日の封筒の紙が、また少し重くなる。



 第七河岸区に着くと、最初に目についたのは“線”だった。


 地面に、壁に、電柱に。淡い光の帯が浮かび上がっている。ホログラムみたいに薄いのに、確かな意志でそこにある。


 線の横には小さな文字。


 ――基準深度ライン。


 ――補正対象エリア。


 ――優先保全区。


 まるで、地図の凡例を現実の街に貼り付けたみたいだった。


「……うそ」


 花が口を押さえた。


 線の向こう側でも、洗濯物は揺れている。川べりでは老人が釣り竿を垂らしている。駄菓子屋には子どもが集まっていて、紙のくじを引く声がする。


 ただ、線の向こう側の家の輪郭だけが、ときどき薄い霧に包まれたみたいに“頼りない”。風景が、少しだけ下書きになる。鉛筆が弱くなる。


 御影が携行端末を見ながら言う。


「深度が不安定です。……こういう“輪郭が薄くなる”現象が、テスト対象の理由のひとつでしょうね」


 相馬が周囲を見回しながら、いつもの警察の顔になる。


「住民は、どこまで聞かされてる?」


 近くで立っていた自治会の腕章の男が、困ったように頭を掻いた。


「“防災”ってことで……明日は避難訓練だって。けど、線が出たら、みんな勘づきますよ。何を隠しても」


 モブの声が、生活の匂いを持っている。薄い恐怖と、諦めと、怒りと、今日の買い物の心配。


 そのとき、黒塗りの車が二台、川沿いの道に滑り込んできた。静かに停まり、扉が開く。


 灰島が降りる。ソラもいる。ソラは周囲の駄菓子屋を見て目を丸くした。昨日の“視察団”の顔ではなく、ただの若い女性の顔。


「ここ、すごい……」


 ソラが呟く。


「線が出てるのに、普通に買い物してる」


 灰島はソラを一瞬だけ見て、それから線を見た。


「普通にできるうちは、普通にする。それが街の生存戦略です」


 私は、その言い方が嫌だった。戦略って言葉は、街の人の体温を削る。


 灰島がこちらに向き直る。


「皆さん、ご協力ありがとうございます。ここから川側は“沈下候補”。こちら側は“残存候補”です」


 線が、現実の空気を切り分けた。


 花が、線の向こうに立つ洗濯物を見て言う。


「そんな、線一本で……」


 灰島は言い訳のようにではなく、事実のように言う。


「線は“決定”ではありません。テストです」


 七瀬が鼻で笑った。


「テストって言い方が、いちばん腹立つな」


 相馬は灰島に食ってかかるように言う。


「住民に何て説明してる」


「防災訓練、インフラ点検、深度安定検証……言い方はいくらでもあります」


 灰島の視線は、冷たいわけじゃない。むしろ、現実に慣れすぎている。


「ただ、明日の結果次第で、線の扱いは変わります」


 私は、線の上に立ってみたくなる衝動を抑えた。昨日、高台で“線”の話を聞いたばかりだ。今、目の前に本物がある。世界が描いた線か、人間が描いた線か、その折衷か。


 そして、その線の上に、私の街の人がいる。


 私はカメラを構えた。


 線のこちら側。駄菓子屋の前で笑う子どもたち。線の向こう側。釣りをする老人の背中。線の上。立ち尽くす自治会の男の足元。


 シャッターを切るたびに、世界が少しずつ“記録”になっていく。そのことが、ありがたくも怖い。



 役割は自然に分裂した。


 相馬と七瀬は、住民退避ルートの確認へ。狭い路地、川沿いの階段、古い橋の下。相馬は地図を見て、七瀬は実際に走って距離を測る。二人とも、苛立っているのに動きが速い。


 九条は、線の手前で立ち止まって、携帯録音機を弄っている。口元が苦い。


 花は、川沿いの古い花屋へ駆けていった。知り合いの店を手伝うと言って。私は花の背中を一枚撮った。線の光が、花の肩に薄くかかっている。


 私はひたすら“線のこちら側/あちら側”の両方を撮る。


 線のこちら側では、いつも通りの笑い声がある。


「ねえねえ、あれ光ってるのなに?」


 駄菓子屋の子が、友達に聞く。


「ゲームじゃね? ほら、街がイベントになるやつ」


「明日、またサイレン鳴るのかな」


 そういう会話が、普通に交わされる。それが普通であることが、苦しい。


 線の向こう側では、話し声が小さい。


 軒先で煙草を吸う男が、線を睨む。


「……あっち側に置いた洗濯機、どうすんだよ」


 老婆が買い物袋を抱え、線を跨げずに立ち尽くす。


「こっちに戻ったら、戻れないのかい」


 誰も正確な答えを持っていない。持っていないまま、“光る線”だけが先に来てしまった。


 川べりの老人が、釣り竿をそのままに私を見た。顔は皺だらけで、目が澄んでいる。沈んだ目というより、覚悟の目だった。


「嬢ちゃん、また撮りに来たか」


「……はい」


 私はカメラを下ろして、老人の横に立つ。川の水は今日も灰色で、線の光が水面に細い帯を作っている。


「明日、ここ、どうなるんですか」


 私が聞くと、老人は笑った。笑っているのに、軽くない。


「どうせなら、沈むところまでちゃんと撮っといてくれ」


 釣り糸が揺れる。風が冷たい。


「わしらがここにいたって、誰か、一人くらい覚えててくれるだろ」


 その言葉が、胸の奥に落ちていく。重いのに、静かで、逃げ場がない。


「……はい」


 私はそう答えるしかなかった。


 協力なのか、抵抗なのか。


 撮ることは、どちらにもなり得る。撮って提出すれば“協力”。撮って隠せば“抵抗”。撮って残せば“証言”。撮っても救えないなら、それは何だ。


 私は、老人の手元を撮った。釣り竿を握る指、皺、爪の黒ずみ。そこに“生活”がある。線の向こう側の生活だ。


 九条が近づいてきて、私の隣に立った。目は線を見ているのに、声は私に向けられる。


「これ、どう書けばいいと思う」


「……書くんですか」


「書かなかったら、なかったことにされる」


 九条は低く言う。


「でも書いたら、明日の朝、ここに人が押し寄せる。見物人とか、怒鳴る人とか、怖がる人とか。線を踏みに来るやつもいる」


 私は川面の光の帯を見る。夕方の光が薄くなって、線だけが残っていくみたいだ。


「……記事の線引きも、今日の線みたいですね」


 九条が短く息を吐いた。


「線を引くのは誰だと思う? 灰島? 帝都庁? それとも――」


 その“それとも”の先を、九条は言わなかった。言えば、言葉が現実になるから。


 私は答えられない。


 でも、ひとつだけ確かなことがある。


 線は、もう引かれている。



 夕方、花の店――いや、花が手伝っていた古い花屋に寄ると、店主の女性が腰を押さえながら笑っていた。


「花ちゃん、ありがとねえ。こんな日に水替え手伝ってくれるなんて」


「当たり前です。花がしおれたら、もっと嫌な気持ちになりますから」


 花の声は、普段より強い。


 店先の花は、今日も色が濃い。線の光が当たると、一瞬だけ輪郭が強くなる。まるで、存在を主張するみたいに。


 私は花の手元を撮った。水を入れ替える音。花瓶のガラスに映る線。店の奥で咳をする客の声。


 店の外では、線の向こう側の家々が、また一瞬だけ薄くなった。鉛筆の線が消えかけたみたいに。


 私はシャッターを切った。


 その瞬間、カメラの液晶に映った花が、ほんの少しだけ二重に見えた。焦点がずれる。まるで、別の“明日”が重なっているみたいに。


 私は背筋が冷えた。


 御影が私の背後に立っていた。いつ来たのか分からないほど静かに。


「……揺れてますね」


「揺れてます」


 私は言った。嘘じゃない。街が揺れている。でも、地面が揺れているわけじゃない。輪郭が揺れている。


 御影は線を見たまま言う。


「線は、人間側だけでは引けません。世界側だけでも引けません。……折衷案です」


 それが答えのようで、答えじゃない。結局、誰も責任を持たない形。


 私は尋ねた。


「なぜ、第七河岸区なんですか」


 御影は少しだけ眉を寄せた。


「深度が不安定だから、という説明が表向きです」


「本当は?」


 御影は私を見る。目が静かで、でもそこに揺らぎがある。


「“ここを削っても、帝都は続くか”を見たい人がいる。……そして、“削ったときに、誰がどんな顔をするか”も」


 評価。査定。適性。候補。


 それらが全部、線の光の中に溶けている気がした。


 私たちは協力しているのか。抵抗しているのか。


 歴史に残るとき、どう書かれるのか。


 その問いが、喉の奥で固まる。



 テスト実施は翌日。


 夜の川沿いは、昼よりも線がよく見えた。周囲の光が落ちると、線だけがぼんやり光って、街の境界を描く。川面にも細い光の帯が映っている。水が、線をなぞって流れていく。


 私は一人で歩いていた。誰も一緒じゃない方が、足音がよく聞こえる。自分の心臓の音も。


「この細い線一本で、明日の帝都の形が変わる」


 口に出すと、言葉が寒さに白くなる。線みたいに薄いのに、消えない。


 私は立ち止まり、線の上にそっと足を乗せてみた。


 ――その瞬間、視界が揺らいだ。


 川沿いの家々が、二重写しになって見える。ひとつは、今日の街。もうひとつは、少しだけ薄い街。鉛筆の下書きみたいな街。そこに人の影があるのに、音が遠い。


 私は息を呑んだ。


「明日もここにある帝都と、明日にはもうない帝都」


 言いながら、自分の声がどちらの世界に届いているのか分からなくなる。足元の線が、私の存在を“どっち側”に置こうとしている気がした。


 私は反射的にカメラを構えた。


 ファインダーの中で、線の光がまっすぐ伸びる。川面の帯。家の輪郭。窓の灯り。洗濯物の影。


 揺らぎはまだ残っている。二重の街が重なっている。私は震える指でピントを合わせた。合わせたと思った瞬間、また少しずれる。


 それでも。


 私はシャッターを切った。


 乾いた音が、夜の川沿いに響く。線の光が一瞬だけ強くなるように見えた。


 撮ることが協力でも抵抗でもなく、ただの“証言”になる瞬間があるなら、たぶん今だ。


 私はもう一枚、切った。


 線の上に立ったまま、明日の帝都を撮る。あるかもしれない帝都と、ないかもしれない帝都を、同じフレームに押し込めるように。


 シャッターの音だけが、確かな日常だった。


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