第66話「なぜ、あなたは撮るのか」
朝の湯気は、いつもより薄かった。
台所で湯を沸かす音を聞きながら、私はカップに茶葉を落とした。湯を注ぐと、ふっと立ちのぼる香りが一瞬だけ濃くて、それからすぐに日常の匂いに戻っていく。昨日まで胸の奥に残っていた“査定”の気配も、湯気と一緒に薄まっていけばいいのに、と思う。
戸棚の奥からカメラバッグを引っ張り出す。ファスナーの金具が、乾いた音を立てた。その音に、私は妙に安心する。昨日も今日も、同じ音がする。街が揺れても、私の手の動きは同じだ。
玄関を出ると、朧町の朝はちゃんと冷たくて、ちゃんと忙しい。
パン屋の前には開店を待つ人が二人。路地の角で新聞を抱えた少年が走っていく。路面電車が軋むように曲がって、鈴の音を残す。川からは湿った匂いが上がってきて、冬の光に混ざる。
――生きたがっている街。
昨日、灰島が口にした言葉が、私の中で勝手に反芻される。ラベルみたいに貼りついて離れない。私は自分の指先を見て、息を吐いた。貼られるなら、自分で貼った方がまだましだ、とも思う。でも、貼るっていう行為自体が、誰かの裁量に近い。
幻灯局の階段を上がると、御影がすでに机の上の紙束を整理していた。深度ログのコピー、視察団に出した写真のリスト、今日の予定。
「おはようございます」
「おはよう。……灯子、連絡が入っています」
御影の声は平板で、いつも通りなのに、紙の端を押さえる指先がほんの少しだけ強かった。
「灰島さんが、あなたを指名して、個別に話がしたいと」
胸の奥が、ひゅっと狭くなる。
「……私だけ?」
「はい。場所も指定されています。帝都のはずれの高台の公園」
私はその場所の名前を聞く前から、景色を思い出していた。帝都を見下ろせる高台。昼なら、川と線路と煙突がひとつの絵になって見える場所。夕方になると、街の輪郭が薄い金色に縁取られる場所。
誰かが、昔からそこで街を撮っていた、と聞いたことがある。幻灯局の古い棚に残っていた写真の、撮影位置がそこだった。
御影は、私の表情を見てから言った。
「断っても構いません。ただ――」
「断ったら、どうなりますか」
私の声が、自分でも驚くほど乾いていた。
御影は一拍置いた。
「評価が変わるだけです」
評価。
その言葉が、昨日からずっと胸を重くする。撮ることが、誰かの採点表に載る。街の運命が、点数みたいに上下する。
「……行きます」
言ってしまってから、私の中に小さな反発が生まれた。行くのは怖い。でも、行かないのはもっと怖い。何が怖いのかも、まだ言葉にならない。
御影は頷き、短く言った。
「帰りは暗くなります。足元に気をつけて」
その言葉が、妙に優しかった。
◇
高台の公園は、昼の光を受けても静かだった。
遊具は古く、塗装が少し剥げている。滑り台の金属は冷たく、風が吹くたびに小さく鳴る。ベンチが二つ。片方に灰島が座っていた。
昨日と同じコート。昨日と同じ姿勢。背筋がまっすぐで、視線だけが街の方を向いている。隣には誰もいない。ソラもいない。
私はベンチの前で足を止めた。カメラバッグが肩に食い込む。今日のこの重さが、いつもの重さと違う気がする。
「三上灯子さん」
灰島がこちらを見た。目は相変わらず温度が薄い。それでも、昨日よりは少しだけ、人の顔をしているように見えた。私がそう思いたいだけかもしれない。
「来てくださってありがとうございます」
「……こちらこそ」
私はベンチの端に腰を下ろす。距離を詰めすぎないように。逃げすぎないように。
目の前に帝都が広がっている。川、線路、煙突、屋根、ビル。空は薄い青で、遠くの霞が街を少しだけ柔らかく見せている。上から見ると、帝都は本当に模型みたいだ。小さな人が動き、小さな車が走り、小さな電車が線を引いていく。
灰島が言った。
「率直に言いましょう。帝都は、“残される側”に傾きつつあります」
言葉は淡々としているのに、胃の底が冷える。
「……私たちが撮ったから、ですか?」
私は自分でも驚くほど正面から聞いていた。昨日から喉の奥に引っかかっていた疑問が、勝手に形になって出ていく。
灰島は否定しない。
「部分的には、そうです。“生きたがっている街”を、あなたのカットはよく写している」
またその言葉だ。生きたがっている街。私は景色を見下ろしながら、眉間に力が入るのを感じた。
「街が……生きたがっているかどうかなんて、誰が決めるんですか」
灰島は少しだけ目を細めた。怒っているわけではない。ただ、質問の重さを測っている。
「世界が。あるいは――世界の代行者たちが」
私はその“代行者”という言葉に、昨日の黒塗りの車を重ねた。軍、行政、教会、メディア、観測機関。誰もが自分の立場で街を扱う。その中で、私は“撮る人”として扱われている。
灰島は、景色から視線を外し、私を見た。
「……なぜ、あなたは撮るんですか?」
不意打ちみたいに心臓が跳ねた。
質問は簡単な形をしているのに、答えはどこにも置いていない。私は口を開こうとして、閉じた。舌が乾いている。喉の奥が、昨日からずっと砂を噛んでいるみたいだ。
沈黙が、ベンチの間に落ちる。遠くで、路面電車のベルが鳴る。子どもの笑い声が、風に運ばれてくる。そんな音があるのに、この質問の前では全部が遠い。
「最初は……」
私はやっと言葉を拾った。
「ただ、消えていくものが怖かったからです。何も残らないのが嫌で」
言いながら、思い出す。最初に消えたのは、小さな店だった。次に消えたのは、人だった。名前を呼んでも、誰も振り向かなかった。写真だけが、そこにいたことを示していた。
「でも、撮っていくうちに、“残したくないもの”まで写ってしまうのを見て……それでも撮るべきなのか、何度も迷いました」
私は膝の上で指を絡めた。爪が指先に食い込む。痛みで、自分がここにいることを確かめる。
「今は……“残りたかったけど残れなかった人たち”の代わりに、ここにいたって刻むために撮ってる……つもりです」
言い切ったのに、最後が弱かった。自分でも分かる。“つもり”が逃げ道になっている。
灰島が、静かに聞き返した。
「“つもり”ですか」
私は頷いた。
「はい。本当にそれが正しいのか、自信はありません」
灰島は少しだけ視線を外し、街を見下ろした。
「世界は、ときどき街を沈めます」
その言い方が、あまりにも普通で、私は一瞬耳を疑った。
「それは、“壊れた部分を切り離して全体を守る行為”でもある」
私は景色を見つめたまま、唇を噛む。壊れた部分。切り離す。守る。言葉は合理的だ。でも、そこに住む人間の体温が入っていない。
「でも――」
灰島の声が続く。
「そのときに“何も残さない”選択をすると、そこにいた人々のことは、本当に最初からいなかったことになる」
私は喉が詰まった。私が怖かったのは、きっとそれだ。消えることそのものより、消えたことが“無かったことになる”こと。
「世界がそれを良しとするかどうかは、まだ分かっていません。だから、“記憶を預かる者”が必要になる」
記憶を預かる者。
またその言葉。今度は御影の口からではなく、灰島の口から出る。御影が言うときより、ずっと制度の匂いがする。役職の匂いがする。
「その人は、世界の決定に抗うのではなく、ただ事実を持ち続ける役です」
私は思わず言った。
「……それは、優しい役目ですか? それとも、残酷な役目ですか?」
灰島は、ほんの少しだけ口角を動かした。笑ったのかどうか分からないほどの変化。
「両方でしょうね」
風が吹いて、公園の枯れ葉がカサ、と鳴った。その音が、やけに大きく聞こえる。
灰島はコートの内ポケットから、小さな封筒を取り出した。白い封筒。角が揃っていて、紙が硬い。何かの“公式”に使われる紙の質感。
封筒は、私の膝の上に置かれた。紙一枚の重さなのに、鉛みたいに感じる。
「これは正式な任命ではありません。ただの“確認書”です」
私は封筒を見つめたまま、指を動かせなかった。開けるのが怖い。開けなければ何も変わらない気がする。そんなわけないのに。
「開けてください」
灰島は淡々と促す。
私はゆっくり封を切った。紙が擦れる音が、耳の奥まで響く。中には一枚の紙。帝都のコードと、私の名前が印字されている。
文字が、黒い。
『帝都深度観測補助員(候補)/田村灯子』
田村灯子。
私の名前。
それが紙の上にあるだけで、胸が苦しくなる。ラベルを貼られたのは街だけじゃない。私もだ。
「……仮の肩書き、ですか」
「そうです。あなたが撮り続けるなら、この肩書きは、いずれ別のものに変わるかもしれません」
別のもの――黒い手帳。任命。預かる者。
私は紙を握りしめそうになって、やめた。折り目をつけたら、戻せない気がした。
「撮るのを、やめたら?」
自分でも驚くほど、声が小さかった。
灰島はしばらく黙った。帝都の模型みたいな動きを見下ろしてから、言う。
「……そのときは別の誰かが選ばれる。あるいは、帝都そのものが別の扱いを受けるでしょう」
「それは、“沈む”ってことですか?」
灰島は、私を見た。昨日より少しだけ、温度があった気がした。気のせいかもしれない。でも、その一瞬、彼は“研究者”じゃなく“人”だった。
「あなたにだけは、そうとは言いたくないですね」
その言葉が優しさなのか、ただの回避なのか、私には判断できなかった。
封筒を閉じる。紙が封筒の中で擦れる音がした。その音が、私の胸の奥にしまわれていくみたいだった。
灰島は立ち上がる。
「今日はここまでです。……あなたの答えは、未完成でいい。未完成のまま撮れる人の方が、危うくないこともある」
危うくない。
それは褒め言葉なのか、管理しやすいという意味なのか。私は返事をせず、ただ頷いた。
灰島の背中が公園の階段を降りていく。足音は軽い。まるで、紙一枚が世界を動かす重さなんて、本当は存在しないと言うみたいに。
私はベンチに残り、封筒を胸に押し当てた。
帝都が、遠い。
でも、遠いからこそ、私は撮ってきた。近すぎると、目を逸らすから。
◇
夜、幻灯局の事務所は、いつも通りの匂いがした。
花が持ってきた惣菜の甘辛い匂い。湯気の立つ味噌汁。誰かが乱暴に椅子を引く音。紙の擦れる音。笑い声。小さな愚痴。
私は封筒を鞄の内ポケットに入れたまま、何も言わなかった。
言えば、空気が変わる。言わなくても、紙はそこにある。どちらにしても、私は今日の帝都を撮った人間だ。
「今日の帝都、なんか空気が軽かった気がしません?」
花が箸を持ったまま言う。
「子どもたちが、やたら走り回ってて」
相馬が味噌汁を啜り、頷く。
「訓練も終わって、サイレンも鳴らなくて。そりゃ解放感もあるだろ」
七瀬が、口の端で笑う。
「ま、どうせまたすぐ何か起きるさ。この街に“平穏だけ”ってのは似合わねえ」
九条が、箸でご飯をつつきながら言う。
「似合わないって言い方が雑だな。でも、まあ……この街は、普通の顔で変なことをする」
御影は黙って食べていた。食べているだけで、ここにいることを示している。彼女の視線が、ときどき私に来るのが分かった。封筒のことを言わない私を責めているわけじゃない。ただ、見ている。
私は笑って、頷いて、同じテーブルの上の湯気を見つめた。
胸ポケットの封筒の重さを、確かめる。
もしこの紙一枚で、みんなが見ている帝都の明日が変わってしまうなら。
私はそれを、黙って持っていていいのか。
でも、言えば、もう戻れない気もした。肩書きが、現実になってしまう気がした。
食卓の会話は続く。誰も、査定の話なんてしない。そういう“日常の選び方”を、私たちは昨日、壁に貼ったはずだ。
私は箸を置き、軽く笑ってしまった。
「……ねえ」
皆が私を見る。
私は一瞬だけ迷ってから言った。
「今日、いい景色の場所に行ったんです。帝都が、すごく小さく見える高台」
それだけ言うと、花がぱっと目を輝かせた。
「高台! そこ、夕焼けがきれいなとこですか?」
「うん」
「私も昔、行ったことあります。なんか、街が玩具みたいで……変な気持ちになりますよね」
相馬が笑う。
「高いところから見ると、全部どうでもよく見えるってやつか」
「どうでもよくは……」
私は首を振る。
「逆。どうでもよく見えて、でもどうでもよくないって分かる感じ」
九条が、少しだけ真面目な顔をした。
「それ、記事に使えそうだ」
「使わないでください」
私が即答すると、皆が笑った。笑い声が湯気に混ざって、部屋が温かくなる。
私はその温かさの中で、封筒の存在をさらに強く意識した。
私は撮るのをやめないのか。
それとも、“やめられない”だけなのか。
答えは、まだ出ない。
◇
夜の帝都を、一人で歩く。
川沿いの遊歩道。あの日、ガラス板みたいに静止した水面は、今日は普通に揺れている。街灯が揺れを切り取り、細い光の筋になって流れる。路面電車の終点では、最後の便が折り返す準備をしている。車掌の声が、冷たい空気に溶ける。
花の店の前のシャッターは下りていて、そこだけ影が濃い。でも、店先の小さな看板がまだ出ていて、白いチョークの文字がうっすら残っている。
私は立ち止まり、シャッターの前で一枚撮った。
カメラの液晶に映るのは、ただのシャッターと影。でも、私はその影の中に“色”を見ようとしてしまう。あの日の色の強さが、目の奥に残っているから。
川沿いを歩き続け、また高台へ向かう。
昼間の公園は静かだったが、夜の高台はさらに静かだ。街の音が遠い。風が冷たい。帝都の灯りが、下で波打っている。人の営みの光が、ひとつの海みたいに広がっている。
私はベンチの近くで立ち止まり、鞄の内ポケットに触れる。封筒はまだ開かれていない。開いたのは昼間だけ。今は閉じている。閉じているのに、存在だけは消えない。
私はカメラを構え、夜景に向ける。
ファインダーの隅に、自分の指先が映る。指は少し震えている。寒さのせいか、重さのせいか分からない。
シャッターを切る。
街の灯りが、一瞬だけ静止する。写真の中でだけ、帝都は止まる。止まって、残る。
私は息を吐き、封筒にもう一度触れた。
“候補”という文字が、紙の中でまだ乾いていない気がする。
撮ることを選び続けた先に、世界が選ぶ。
それでも私は、明日の街を撮る。
それが意思なのか、癖なのか、任命の前段階なのか――まだ分からないまま。
夜景の上に、見えない線が重なる錯覚がした。
深度ログのラインみたいな、細い白い線。
私はそれを見なかったことにせず、もう一枚、シャッターを切った。




