第64話「それでも、この街の明日を撮る」
朝、シャッターを切る音が、いつもより慎重になっていることに気づいた。
カメラを構える前に、まず息を整える。焦点を合わせる前に、窓の外の色を確かめる。色がある。川が流れている。路面電車が走っている。店先に並ぶパンの焼けた匂いが、ちゃんと空気に混じっている。
――大丈夫。
そう言い聞かせるのは、街のためというより、自分のためだった。
いつもの路地を抜けると、三上商店の看板が見える。父の代からの古い看板は、昨日も今日も同じ角度でぶら下がっている。揺れているのは風のせい。……たぶん。
「灯子、これ、今朝のだよ」
花が店先で手を振った。小さな花束を抱えている。白い花が中心で、薄い黄色が縁に混じる。昨日までの“避難所の花”とは違う、売り物としての花束だ。
「今日は配達?」
「ううん。なんか……置いときたくて。幻灯局、集まるんでしょ」
「うん。ありがとう」
花は微笑んでから、ふっと表情を曇らせる。
「ねえ、灯子。……ほんとに、もう大丈夫なのかな」
その質問に、私はすぐ答えられなかった。大丈夫かどうかを決めるのは、私じゃない。決めたがっているのは、たぶん別の側だ。
だから私は、いつもの逃げ道を使う。
「今日の色は、ちゃんとあるよ」
花は、自分の花束を見下ろした。
「……そっか。じゃあ、よかった」
よかった、と言う声が小さかった。よかったと、言っていいのか迷っている声だった。
店の奥から、子どもの笑い声が聞こえた。学校が再開して、朝の通学路が戻ってきた。制服の裾が揺れ、靴音が規則正しく鳴る。サイレンの話は、もう「大きな訓練だったね」で済まされている。済まされている、という言い方は意地悪かもしれないけれど、そうやって人は生きる。
私は花束を受け取り、幻灯局の事務所へ向かった。
◇
事務所の机の上は、色と線で埋まっていた。
深度ログのコピー。事件当日の写真プリント。九条が持ってきた記事のゲラ。相馬が雑にまとめた現場メモ。花の小さな花束。色のあるものと、モノクロの線。カラフルなプリントと、白いグラフ。
それはまるで、二重露光の机だった。
御影が端末を置き、椅子に腰掛けた。今日はいつもの白衣ではなく、淡い色のシャツだった。中央タワーの蛍光灯を引きずってきたような顔をしている。
「今日は“公式の報告書”じゃなくて、幻灯局としての“内部記録”を決めましょう」
相馬が腕を組む。
「外に出せない写真や話は、こっちに置いておく、ってことか」
九条がゲラの紙をひらひらと揺らした。
「表向きの記事と、ここに置く“裏の記録”。二重構造になるわけですね」
「二重が好きだな、お前」
七瀬が椅子を傾けて笑った。煙草は吸っていない。吸えない場所だから、指先が落ち着かないのか、机の端を叩いている。
御影は、机の上の写真を一枚ずつ見ていった。避難誘導の写真。花を配る写真。屋上からの俯瞰。川のガラス板。線路の二重。モノクロに落ちた街。
そして、御影の指が止まった。
塔の窓に写った、黒い長方形の影。
私の喉が、条件反射みたいに固くなる。
「まず確認します」
御影は淡々とした声で言った。
「外に出す“報告”と、ここに残す“記録”は別です。外に出すものには、誰かのフィルターがかかる。ここに残すものは、私たちが見たもののまま」
相馬が小さく頷く。
「どっちも必要だ。……どっちかだけだと、誰かが死ぬ」
「物騒だね、相馬さん」
花が苦笑した。
「物騒だけど、そういう仕事だろ」
七瀬が言うと、部屋に一瞬、妙な静けさが落ちた。七瀬が“仕事”と言うとき、それは警察とも新聞とも違う意味を持つ。生き残るための段取り。人を動かすための言葉。逃げ道を確保するための脅し。
御影は、机の中心に深度ログを広げた。白い紙に引かれた線が、上下に揺れている。あの日、Abyss側に触れかけた角度で止まっている。
「沈みかけた帝都を、私たちは“誰のために”撮ったと思いますか?」
問いは静かだったのに、部屋の空気を一段冷たくした。
七瀬が最初に答えた。
「まずは、今ここにいる連中のためだろ。あのとき何が起きたのか、忘れないようにするために」
「忘れないために、って……それ、誰が?」
九条がすぐに返す。
「忘れたい人の方が多い。現場を見てない人ほど、忘れたがる。見た人は、むしろ忘れられない」
花が花束のリボンを指でいじりながら言った。
「……それと、もし本当に沈んじゃったあとに、ここにいた人がいたって、誰かに伝えるため」
“沈んじゃったあと”。
その言い方が、優しすぎて、逆に刺さった。沈むかもしれない街を、花はずっと「沈む」とは言わずにいた。今日も、言い切らない。
相馬が、少しだけ視線を落とす。
「“誰か”ってのは、未来の警官かもしれないし、もうここにいない誰かかもしれない」
「もうここにいない誰か、ね」
七瀬の声が少し低くなる。彼の組の若い連中の顔が、ちらっと浮かんだ。
九条が肩をすくめた。
「もしかして、人間じゃない“誰か”の可能性もありますね。世界のほうが、ここにどういう人たちがいたか知りたいとか」
冗談みたいな言い方をしたのに、誰も笑わなかった。冗談にできるギリギリの線を、九条はわざと踏んだ。踏んでみて、皆がどこまで耐えられるか確かめた。
御影は、否定もしない。
「……観測する側がいるのは、事実です。データの上では」
机の上の深度ログが、白い線でそれを肯定しているみたいだった。
私は、少し考えてから、ゆっくり言った。
「……私は、“残りたかったけど、残れなかった人”のために撮っている気がします」
口に出した瞬間、胸の奥が詰まった。
残りたかったけど残れなかった人。避難した人。引っ越した人。異動した人。もう戻れない人。沈む前に出ていった人。沈んだあとで初めて知る人。
そして――消えた人。
部屋が、一瞬静かになる。沈黙が、音として聞こえるくらいに。
相馬が小さく息を吐いた。
「……それ、いいな。救いになる」
「救い、ですか」
九条が私を見た。その目は優しいのに、どこか残酷だった。
「救いになるから、外に出したがる人もいる。けど……救いにした瞬間、箱になる」
箱。第零号。ラベル。
私は言葉を飲み込んだ。
御影が、話を次に進めた。
「内部記録の方針を決めたら、次に――“黒い手帳”の話を共有しておきたい」
◇
御影は、古い記録のコピーを机に置いた。
紙は黄ばんでいる。印字は薄い。文字の端が滲んでいる。どこかの観測ログを、人の手で写し取ったものだろう。
「深度臨界ギリギリで残された街の記録です。そこには必ず、“その街の記憶を預かる者”がいる」
相馬が眉をひそめる。
「それが“黒い手帳”の持ち主ってわけか」
「伝承レベルの話なので、事実かどうかは分かりません。ただ——」
御影は、私の写真を一枚取り出した。指先が、慎重だった。
塔の窓に、うっすらと黒い長方形の影。
写真を見るたび、あの日の無音が蘇る。耳の奥がじんとする。
「帝都は、“残される側の候補”に入った。その証拠かもしれません」
七瀬が、鼻で笑う。
「候補、ね。嫌な言い方だな。落ちたら終わりの選考会みたいだ」
九条が、指で写真の端を押さえた。
「候補ということは、選ぶ側がいる。選ぶ基準もある。……それを誰が決めるか、って話ですよね」
御影は、少しだけ目を伏せた。
「私の見ているログでは、外側の層から“引き”が何度も確認されている。誰かが線を引いている。……でも、それが意思なのか、制度なのか、私には断言できません」
相馬が言った。
「意思でも制度でも、結果は同じだ。線を引かれたら、越えられない」
「線、引き直されてたもんな」
七瀬がぽつりと呟く。坂道の段数が変わったことを思い出しているのだろう。
私は、写真の黒い影を見つめた。これが本当に手帳なのか、それともただの影なのか。どちらでもいいのかもしれない。問題は、それが“意味”として流通し始めたことだ。噂が制度を呼び、制度が噂を補強する。
私は、つい聞いてしまう。
「もし本当に、その“黒い手帳”が誰かのところに来るとして……そのとき、私たちの記録は役に立つんでしょうか」
御影はすぐに答えなかった。端末の画面に映る深度ラインを見てから、ゆっくり言う。
「それは、そのときまで撮り続けないと分からないですね」
九条が軽く笑った。
「結局、そこに戻る。撮り続けるしかない」
「撮り続けた結果、何が起きるか分からないのに?」
相馬の言葉は、警察官の現実だった。
私は、カメラバッグの金具に触れた。
「分からないから撮るんだと思います。分かったら……遅い」
自分でも驚くほど、声がまっすぐ出た。
七瀬が目を細める。
「お嬢、強くなったな」
「強くないです」
私はすぐに否定した。否定しないと、強いことにされる。強いとされると、逃げられなくなる。
御影が、机の上の花束に目を向けた。
「……内部記録の方針。こうしましょう。外に出せないものは、ここに残す。外に出すものは、誰かが板を張ってでも渡す。それでも、私たちは“板の下の音”を忘れない」
九条が頷いた。
「見出しは板。本文は音。写真は……」
「写真は、二重露光だ」
相馬が言った。
「嘘じゃないもの同士を重ねる。どっちかを消すんじゃなくて、重ねて残す」
御影が少しだけ微笑んだ。
「それが、幻灯局のやり方ですね」
◇
会合が終わる頃には、外の光が柔らかくなっていた。
私たちは花の店へ移動した。商店街のアーケードは、いつもの色で光っている。あの日の二重ネオンはない。ないはずだ。
店の前には子どもが二人いて、花を選んでいた。ランドセルを背負っている。店の中の花の色が、そのまま彼らの頬に映る。
「ねえねえ、あのときさ、外がモノクロみたいになっててさー」
「うん! なんか、ゲームみたいだった!」
「でもここの花だけ、めちゃくちゃ色がすごかったんだよ」
子どもたちの声は、驚くほど軽い。軽いまま、記憶を言葉にしている。重くしないと話せない大人と違って、彼らは軽いまま抱えられるのかもしれない。
花が笑って言った。
「じゃあ、今日は“ふつうの色”の花にしようか。それが続いてくれたほうが、きっといいから」
「ふつうの色ってなに?」
「うーん……見慣れてる色。でもね、いちばん大事な色」
子どもが花を一本選んだ。赤でも青でもない、淡い桃色。花びらの端が少し白くて、真ん中がやわらかい。
私は、カメラを構えた。
シャッターを切る。店の中はフルカラー。外の街も、今日はフルカラー。なのにファインダーの端に、薄くモノクロの残像が重なる気がした。あの日の街が、今もどこかに重なっている。
私は息を止め、もう一枚撮った。
灯子
「沈みかけた街で、まだ“ふつうの色”を選べる子どもがいる。それを撮れるうちは――きっと、帝都はまだ大丈夫だ」
言い聞かせるような言葉だった。祈りに近い言葉だった。
七瀬が店の外で、子どもたちに手を振った。
「おい、花は落とすなよ。落としたら泣くぞ」
「泣かないし!」
子どもが反発して、七瀬が笑う。その笑いは、あの坂道の夜と同じ背中の温度を持っていた。
九条が店の隅で、ゲラをもう一度見直している。見出しを板にするために、本文の音をどう残すか考えている顔だ。
相馬は、店の前を通る人の流れを見ていた。守るべきものが、そこにあるか確かめるみたいに。
御影は、花束の写真を見て、深度ログのラインを思い出すみたいに目を細めた。
私たちは、それぞれの“残り方”で、この街にいる。
◇
夕方、川沿いの遊歩道を歩いた。
事件の日に“ガラス板”みたいになった水面は、今日はただの川の色をしている。風が吹けば揺れ、陽が落ちれば暗くなる。普通の水だ。
私はカメラを下ろし、相馬と並んで歩いた。言葉がない時間が、心地よいわけじゃない。言葉があると、壊れそうだから黙っているだけだ。
相馬が先に口を開いた。
「次、本当に沈むときが来たら――どうする?」
私は水面を見た。水面には、帝都のビル群が映っている。揺れる輪郭。二重線になりそうで、ならない。
「そのときもきっと、誰かが“残る/逃げる”を選ぶはずで」
私は、ゆっくり言葉を探した。
「私は、その瞬間を撮るんだと思います」
「自分の選択は?」
相馬が問う。問いは、柔らかいのに逃げ道がない。
私は、少しだけ笑った。笑うしかなかった。
「それを決めるために、明日の街も撮ります」
相馬は、短く頷いた。
「……そうか」
夕暮れの帝都のスカイラインが、遠くに伸びている。いつも通りの形。いつも通りの明日が来るように見える形。
でも私の目には、一瞬だけ、深度ログの白いラインが空に重なった気がした。上下に揺れながら、触れかけて、跳ね返る線。
“残される側の候補”。
その言葉が、また胸の奥で鳴る。
候補であるうちは、まだ決まっていない。決まっていないから、撮る。撮って、残す。残して、渡す。
誰に渡すのかは、まだ分からない。
ただ、渡す先が人間だけとは限らないことを、私はもう知っている。
川の水面が、夕焼けを映して赤くなる。普通の色だ。普通の色が、今日は少しだけ眩しい。
私はその眩しさを、もう一枚だけ撮った。




