第63話 「沈みかけた街に与えられた名前」
川の護岸に、見慣れない水位標識が立っていた。
木製の板に黒い数字。雨に打たれた形跡はないのに、妙に古びた色をしている。誰かが新しく立てたのなら、もっと明るい木肌のはずだ。けれどこれは、昔からそこにあったように見える。昔からそこにあったものが、数日前の“沈みかけ”の後に、思い出したように顔を出した――そんな感じだ。
「これ、昨日はなかったんですよ」
護岸の草を踏んで覗き込んでいた男が、私にそう言った。配達用の自転車の籠に空き瓶を積んでいる。腕まくりした前腕には、薄い擦り傷がいくつもあった。
「昨日もここ通ったんですか」
「毎日です。朝は川沿いが近道でね。……ほら、あの日から、川がちょっと怖くなって」
怖い、という言葉が軽く発音される。軽く言わないと、重くなりすぎるから。
私は水位標識を撮った。シャッターの音はいつもと同じなのに、響き方が違う。薄い膜を叩くような音がする。
路面電車がベルを鳴らして通り過ぎる。線路脇には、消えかけた白線が残っていた。今のルートとは違う方向へ、ほんの数メートルだけ伸びて、途切れる。舗装の下から、昔の道が透けて見えているみたいだ。
坂道を上がる途中、段数を数え直したような新しい番号札が打ち付けられているのも見つけた。木札に墨で、壱、弐、参。なぜ今さら。誰が、何のために。
街の人たちは、笑いながらそれを見ていた。
「迷子防止かしらねえ」
「いや、こういうの昔はあったんだよ。ほら、祭りのときとか」
笑いの中に、薄い緊張が混じる。まるで“あの日”のことを、うまく別の話にすり替えようとしているみたいだ。
私は、すり替えられないものを抱えていた。
あの無音。深い水の底みたいなざわめき。ガラス板になった川。二重になった線路。塔の窓辺にちらりと見えた黒い形。
あれは、今も私のカメラの中にある。
◇
中央タワーは、遠くから見るといつもと同じだった。
帝都の上に立つ一本の縦線。雲のない空に刺さっている。けれど近づくほど、空気が乾いていく。石とガラスと金属の匂いが、身体の内側に染み込む。
受付で名前を告げると、薄い紙の名札を渡された。手触りが妙に滑らかで、指先が落ち着かない。
高層階の会議室は、冷たい蛍光灯に満たされていた。窓の外には帝都全景が広がる。霞んでいるのは季節のせいなのか、数日前の“沈みかけ”の名残なのか、判断できない。
会議テーブルの上には資料が整然と並んでいた。
その中の一枚に、太い文字が印字されている。
『帝都深度安定化試験運用時局地異常事案 第零号』
読み上げた瞬間、喉の奥がざらついた。“第零号”。まるで、これが始まりだと言っている。
行政官が咳払いをして言った。
「あくまで“試験運用中に起きた局地異常”です。帝都全体が沈みかけた、という表現は避けてください」
軍服の男が、資料を指で叩く。
「外部からの“引き”が確認されている以上、安全保障上の秘匿事項に含めるべきだ。観測データの外部流出は、厳密に管理する」
教会の代表は、白い襟元を整えながら静かに言った。
「信徒たちは“終末の徴”と結びつけております。慎重に、しかし希望を失わせない形での解釈が必要です」
メディア側の調整役らしい男は、曖昧に笑った。
「市民感情としては、“怖いもの”に名前をつけたいんですよ。名前があれば、箱に入れられる。箱に入れれば、日常に戻れる。……そのための呼称も必要でしょう」
箱に入れる。
私は窓の外の帝都を見た。路面電車が走り、川には船が浮かび、商店街には人がいる。日常は戻っている。戻っているように見える。
でも、箱に入れたものは消えない。箱の蓋の下で、まだ鳴っている。
御影が、深度ログのデータを前に静かに口を開いた。
「事実として、帝都の深度ラインは……触れる寸前まで落ちました」
彼は、言い切ることを避けた。触れた、と言わなかった。触れた瞬間を見たのは、たぶん私たちだけだ。証拠はある。けれど証拠を出すことが、誰を救うのか。
御影は続ける。
「これは“局地”とは呼べない規模です」
行政官が、眉間に皺を寄せた。
「観測データは尊重します。しかし、“帝都が沈みかけた”という物語が独り歩きすれば、それ自体がこの街を沈めかねない」
軍服の男が頷く。
「恐慌は敵だ。情報の扱いは、こちらで管理する」
教会の代表は、声を落とした。
「恐れを煽ることは、信仰の敵でもあります。ですが……恐れをなかったことにするのも、また」
会議室の空気が、薄く張りつめる。
事実と物語。その線引きを、ここで決めようとしている。
私は、どちらにも嘘が混じっていないことが怖かった。
“試験運用中の局地異常”。嘘ではない。実際、試験運用だった。異常だった。局地と言い切れるかどうかは、言葉の選び方だ。
“帝都が沈みかけた”。これも嘘じゃない。あの日の空の近さと、音の消え方と、街の透明度を思い出せば、沈む直前の感触は身体に残っている。
嘘じゃないもの同士が、同じ場所に並ぶとき、人はどちらかを“物語”にして片づける。
物語にしたほうが、楽だから。
◇
会議の中盤で、幻灯局への指示が出た。
行政官が資料をめくりながら言う。
「今回の訓練について、幻灯局からも公式の“記録報告書”を提出していただきたい」
軍服の男が目を細める。
「写真は検閲の対象になります。露骨に不安を煽るものは、公開用からは外していただければ」
教会の代表が、少しだけ表情を和らげた。
「“試練の中で人々がどう助け合ったか”に焦点を当てていただけると、読む者の救いになります」
救い。
私は、その言葉に反射的に頷きそうになった。救いが欲しいのは、私も同じだ。
でも、その“救い”が、箱の蓋になるなら。
会議室の片隅で、九条がペンを止めた。目が、一瞬だけ私とぶつかる。彼も同じことを考えているのが分かった。
会議が一旦途切れた廊下で、私は相馬に小声で言った。
「“沈みかけた”写真じゃなくて、“それでも助け合った”写真を出してほしいってことですよね」
相馬は壁にもたれ、ため息を吐いた。
「ああ。どっちも嘘じゃないのが、また面倒だ」
「嘘じゃないのに、片方しか出せない」
「出せるのは、出したいものじゃなくて、出していいものだ」
相馬の言葉は、警察の人間の言葉だった。現場で見たものを、そのまま言えない世界で生きてきた人の言葉。
私は、自分のカメラを思い出した。あの黒い形。塔の窓辺。手帳みたいな影。
それは、出していいものなのか。出したいものなのか。そもそも“出す”という行為が、何を引き寄せるのか。
廊下の窓から、帝都が見えた。白線が二重に見える気がして、私は目を擦った。
目を擦っても、二重線は消えない。
私の目が狂ったのか。街が狂ったのか。たぶん、両方だ。
◇
会議室に戻ると、話はメディアの扱いに移っていた。
九条のところに、編集部からのメッセージが届いたらしい。彼は会議の隅で端末を見て、眉をひそめる。
隣に座っていた調整役が、笑いながら肩をすくめた。
「見出しは大事だよ。読者の心を守るためにもね」
九条は、低い声で返した。
「守るための板を張るってやつですか」
調整役は驚いたように笑った。
「はは、話が早い。そうそう。底が抜けかけてるからこそ、上に板を張る。そうしないと、全部落ちる」
九条は端末の画面を見つめたまま言った。
「板を張った上から、落ちる音だけ聞こえる。……それって、余計に怖くないですか」
彼の目には、屋上から見た“透明度の増した帝都”がまだ残っている。私も同じだった。
会議が終盤に差しかかった頃、軍服の男が何気なく口にした。
「……過去に一度、ここまで深度が落ちた街があったそうだ」
行政官が鋭く言った。
「古い話はやめましょう。迷信じみた噂は、この場にふさわしくない」
噂。
その単語が出た瞬間、会議室の空気が少しだけ変わった。冷たい蛍光灯の下で、影が濃くなる。窓の外の帝都が遠のく。
御影が、ぽつりと言った。
「“黒い手帳”の話ですね」
誰もが、一瞬言葉を失った。軍服の男も、教会の代表も、メディアの調整役も。
行政官だけが、硬い声で言う。
「……観測機関が、そのような言葉を不用意に」
御影は動じない。淡々と、しかし決定的な調子で続けた。
「深度臨界ギリギリまで沈んで、それでも残された街には——その街の記憶を預かる者に“黒い手帳”が渡される。そんな記録が、外側の観測ログに残っています」
外側。
Abyssという名を、御影はここでも口にしなかった。けれど私には分かった。あの日、御影が叫んだ“側”のことだ。
教会の代表が、祈るように指を組んだ。
「……それは、任命のようにも聞こえます」
軍服の男が、目を細めた。
「任命だと? 誰が、誰に?」
御影は答えなかった。答えられないのか、答えたくないのか。それとも、答えること自体が引き金になるのか。
私は、自分のカメラの中の一枚を思い出した。
塔の窓辺の黒い形。
あれはただのノイズではないのかもしれない。
私の指が、無意識にバッグのジッパーを触った。金具の冷たさが、現実に引き戻す。
行政官が、場を締めるように言った。
「本件は、『帝都深度安定化試験運用時局地異常事案 第零号』として扱います。呼称は統一してください。各機関は、必要な情報を共有しつつ、不要な混乱を避ける。——以上です」
第零号。
その言葉が、私の胸の内で何度も反響した。
ラベルを貼られたものは、管理される。管理されるものは、次に使われる。
“次の実験地”として、ロックオンされる。
そんな気がしてならなかった。
◇
エレベーターを降りて庁舎を出ると、帝都は一見いつも通りだった。
路面電車は走り、川には船が浮かび、商店街には人がいる。コロッケ屋の前には行列ができていて、子どもが熱そうに頬張っている。
でも、私の目には、街全体の輪郭がうっすら「鉛筆でなぞり直された」みたいに二重に見えた。
道路の白線が、二本に見える。ビルの角が、ほんの少しずれて重なる。看板の文字が、一瞬だけ別の字体に見える。
まばたきをしても消えない。
世界は、もう一度線を引き直した。あの日の“沈みかけ”で、帝都の輪郭は一度溶けた。そして今、誰かが新しい線でなぞっている。
その線引きをするのは、行政か、軍か、教会か、メディアか。
それとも——もっと外側の“誰か”か。
喫茶店に入ると、テレビがいつもより大きな音で鳴っていた。
『防災訓練の一環として行われた深度調整テストは、無事完了しました——』
画面の中で、笑顔の家族が「安心しました」と言う。テロップは柔らかい言葉で満たされている。支援窓口、連携、つながり、備え。
私はその言葉を否定できない。あの日、助け合いがあったのも本当だ。花が花束を渡したのも本当だ。七瀬が背中を見せたのも本当だ。相馬が住民を優先したのも本当だ。九条が音を残したのも本当だ。御影がアンカーを打ち続けたのも本当だ。
でも、その本当が、別の本当を覆い隠す。
沈みかけた帝都の色。無音。低いざわめき。透明度の増した街。
それも、本当だ。
相馬が隣の席に座り、コーヒーを一口飲んだ。
「報告書、出すのか」
「出さないと、もっと別の形で書かれる」
「だな」
九条が遅れて入ってきた。端末を弄りながら、苦い顔をしている。
「見出し、来ましたよ」
彼は画面を見せた。
『帝都、防災訓練に見る“つながり”】【写真:避難所で花を受け取る子ども】
花の店の写真。鮮やかな花束。外のモノクロを切り裂く色。
九条は、笑うでも怒るでもなく、ただ言った。
「板を張りましたね」
相馬が肩をすくめる。
「板があるだけマシ、って言うやつもいる」
九条は、ゆっくり首を振った。
「板の下で何が鳴ってるか、俺は書きたいんですよ」
私は、カメラバッグを膝の上で抱えた。
出していいもの。出したいもの。出すことで引き寄せてしまうもの。
報告書に載せる写真を選べと言われたら、私はたぶん、花の写真を選ぶ。避難誘導の写真を選ぶ。助け合いの写真を選ぶ。
それは嘘じゃない。
でも、それだけを出すのも、また嘘に近い。
私は、カメラの中の一枚を思った。
遠くの塔。窓辺の黒い形。
黒い手帳の噂が、ただの噂であってほしい。けれど、あの日の一瞬を思い出すたび、噂は現実の輪郭を持ち始める。
私は、コーヒーのカップを指で撫でながら言った。
「私たちは、“第零号”としてラベルを貼られた帝都を、これから撮るんだ」
言葉にした途端、胸の奥が静かに冷えた。
第零号は、始まりだ。
始まりに名前がついたということは、次があるということだ。
相馬は短く笑った。笑いというより、歯を見せただけだった。
「第零号、ね。……妙に縁起が悪い」
九条が、カップを持ち上げた。
「縁起が悪いなら、書いて残すしかない」
花からメッセージが届いた。『今日も店、開けてるよ。花、減った。みんな持ってった』
みんな持っていった。花を。色を。
私は返信を打った。『撮った写真、今度見せる』
あとで、という言葉を、私はまだ捨てたくなかった。
喫茶店の窓の外で、路面電車が走る。白線は一瞬だけ二重に見えたが、次の瞬間には一本に戻った。
一本に戻ったように見えただけかもしれない。
帝都はいつも通りの顔をしている。
でも私は知っている。顔の下に、別の層があることを。
その層に触れかけた街に、名前が与えられたことを。
名前は箱だ。箱は管理だ。管理は次の手だ。
私はカメラバッグのジッパーを、ゆっくり閉めた。
シャッターを切る準備をするみたいに。
これから撮るのは、“第零号”の帝都。
そして、私たち自身だ。




