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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第61話「沈みかけの街で決める場所」

 朝の三上商店は、湯気と紙の匂いが混ざっている。


 父が注いだ熱い湯が湯気を立て、新聞の折り目がパリ、と鳴る。いつもなら、それだけで「今日」が始まる合図になった。


 でも、最近は合図が増えすぎた。


 店先の掲示板には、いつの間にか同じ色の紙が何枚も重なっている。防災訓練のお知らせ。支援窓口の案内。安心キャンペーン。どれもきちんとした言葉で、きちんとした書体で、きちんとした“出口”を示している。


 私は瓶の並びを整えながら、掲示板の一番上に貼られた新しい紙を読んだ。


『深度安定化システム 試験運用のお知らせ』


 深度、という言葉が、とうとう表に出てきた。今までは「照明」「表示」「工事」で包んでいたのに。包み紙の端から中身が覗いたみたいに、怖さが増す。


 父は新聞から顔を上げないまま言った。


「灯子。今日は局か」


「うん。昼前には戻るよ」


 嘘じゃない。戻るつもりだ。戻れたら、の話だけど。


 通りを見れば、路面電車がいつも通り走っている。ベルの音も、レールの響きも、変わらない。なのに、乗っている人の顔が少し硬い。窓の外を確かめるように見る人が増えた。目に見えない何かが、街の上に薄く被さり始めている気がする。


 私はカメラのストラップを首にかけ、予備のフィルムを指で確かめた。金属の冷たさが、いまの私には落ち着く。


 撮る。残す。昨日までの私なら、それだけでよかった。


 でも今日は、“残る”の意味が違う。



 幻灯局の部屋に入ると、御影がいつもより早くモニターに張りついていた。机の上には帝都庁の告知の紙が置かれ、その横に、見慣れない小型端末が光っている。海外の観測ネットワークと繋がっている、と彼が言っていたやつだ。


 御影は、私の足音に気づいても顔を上げずに言った。


「出ました。正式に」


「……深度安定化」


 私が紙を覗き込むと、丁寧な説明が並んでいた。万が一の場合に備えた防災訓練を兼ねています。任意参加です。指定の待機場所へ。


 任意参加。そう書いてあるのに、行かなかったら“何かあったとき”に責められそうな言い方だった。行けば行ったで、誰かの思惑に乗ってしまう気もする。


 御影が端末を指で叩き、眉を寄せる。


「“訓練”というより……一度、本気で“沈んだときの挙動”を見るつもりかもしれません」


 言葉の端が、氷みたいに硬かった。


「シミュレーションじゃなくて、実地実験ってことですか」


「ええ。……深度を“人工的に調整する”。その言い方が、もう」


 御影の視線はモニターの波形に戻った。線が、今までの範囲から外れかけている。帝都が、ギリギリのところで踏ん張っているのが、数字で見える。


 相馬が遅れて入ってきた。肩の力がいつもより抜けている。抜けているのに、目だけが鋭い。


「決定だとよ。テストやる。街ごと、動かす」


 七瀬は窓際に立ち、外を眺めていた。彼女は“任意参加”という言葉を鼻で笑うように吐き捨てた。


「任意? ここで任意が通るなら、最初からこんなことになってねえよ」


 九条は椅子に座り、紙を裏返したり表にしたりしている。文字より、紙の“重み”を量るみたいに。


「試験運用、ね。言葉の響きが明るい。試すだけ。運用するだけ。誰も傷つかないみたいに言う」


 私は、言葉の間に落ちた沈黙を見つめた。みんな、もう分かっている。


 これが終わりの始まりかもしれないって。



 期限、というものは、いつも現実を連れてくる。


 誰かの決意を迫るために、世界は“日付”という刃を用意する。私はカメラのシャッターなら切れるのに、期限の刃の前ではいつも手が止まる。


 その日の午後、相馬は一度、署へ戻った。


 私は一緒に行った。署内はいつもの忙しさだった。誰かが電話を取り、誰かが書類を運び、誰かが笑っている。いつもの日常は、こんなふうに継続する力がある。だからこそ、壊れたときの音が想像できてしまう。


 相馬の上司は、廊下の端で彼を呼び止めた。声は低く、周囲に聞こえないように。


「相馬。返事は今日だ。ここから出ろ」


「……分かってます」


「終わる“前”に出るやつのほうが生き残る確率は高いぞ」


 “確率”という言葉が、やけに刺さった。人の生き残りが、計算の中に入れられている。


 相馬は一瞬、唇を噛んだ。それから、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。


「異動願いは、保留にしてもらいます。少なくとも、このテストが終わるまでは」


「馬鹿か」


 上司は怒っているわけじゃない。心配している。心配の形が、怒りに似ているだけだ。


 相馬は頷いた。


「それでも、俺は“沈むかもしれない”ほうを見ていたいんです」


 私は、その横顔を見て、胸の奥が少しだけ痛くなった。彼の“守れなかった”の影が、また肩に戻ってきたみたいだった。


 署を出ると、路地の向こうで七瀬の一団が荷物を運んでいた。大きな木箱。布に包んだ細長いもの。生活の道具。商売の道具。逃げる、というより、動く準備。


 若い男が七瀬に訊いていた。


「兄貴、本当に俺ら、行くんすか」


「行きたい奴は行け」


 七瀬は煙草を咥えていないのに、口元が煙草を噛んでいるみたいに硬い。


「ここが沈むなら、誰かが最後まで見てなきゃなんねえ」


「兄貴は?」


 七瀬は少しだけ笑った。笑いは苦い。


「沈むなら沈むのを見てから考える。そのほうが性に合ってんだよ」


 “本体”は移動する。彼女は残る。残る、という言葉が、ここまで複雑だとは思わなかった。


 九条はその夜、本社と電話をしていた。喫茶店の隅の席。彼の声は抑えられているのに、言葉は鋭い。


「……帝都支局閉鎖、ですね。はい。東京か地方か、二択。……分かってます」


 電話の向こうで誰かが説得しているのが、彼の表情で分かった。


 九条は、笑ったように息を吐いて言った。


「終わりかけてる街のことを、終わった後から書くのって、すごく安全で、すごくつまらないですよね」


 少し間が空いた。編集長の声が聞こえないのに、九条の返事だけで内容が想像できる。


「お前はもっと“長く書く”べきだ。……そう言われても」


 九条は視線を落とし、指で机を叩いた。迷いを叩き出すみたいに。


「じゃあ、長く書くために、もう少しだけ沈みかけを見てきます」


 電話を切ったあと、九条は私を見て肩をすくめた。


「残るって言うと、かっこよく聞こえるけどさ。契約上は“自己責任”だって。便利だよね、この言葉」


 自己責任。任意参加。安心キャンペーン。どれも、逃げ道の形をしているのに、どれも人を追い詰める。


 花の店は、いつもより長く灯りがついていた。商店街の会議を終えたばかりなのか、花は店先のバケツを並べ直していた。手が少し震えている。


「花さん、大丈夫?」


 私が声をかけると、花は顔を上げて笑った。笑顔は作れてしまう。花は、そういう人だ。


「うん。……決めたよ」


「移転の話?」


 花は、花束を作りかけの手を止めた。


「たしかに、あっちは安心かもしれない。でも、私が花を渡したい人たちは、ここに来る人たちで……」


 組合長に言われた言葉を、花はそのまま口にした。


「沈むかもしれない街に店を残すのか、って」


 花はバケツの水面を見て、ゆっくり言った。


「沈むかもしれないから、最後まで花があったほうがいいと思うんです」


 私はその言葉が、妙に美しくて、怖いと思った。花は、沈む街に“花”を置く。それは慰めであり、祈りであり、そして——誰かにとっては“ここに残る証拠”にもなる。


 御影は夜遅く、中央タワーからのメールに返信した。私は隣で見ていた。御影の指は迷いを挟まず、言葉を選び取った。


『帝都が沈むかもしれない瞬間を、一番近くで見たいので。もし私を使うなら、現場代表として帝都に残る形でお願いします』


 送信ボタンを押したとき、御影は肩で息を吐いた。


「……これで、中央にも言い訳が立つでしょう。 “現場で観測する必要がある”って」


「言い訳」


 私が繰り返すと、御影は苦笑した。


「言い訳、ですよ。生き残るための。残るための。……どっちも」


 残る、ということが、言い訳を必要とする時代が来ている。



 そして、私にも電話が来た。


 相手は、あの“他都市の記録組織”の担当者だった。声は優しい。優しい声は、いつも逃げ道を用意する。


『帝都の状態は不安定です。もしここであなたを失ったら——』


 失う。彼は私を“人材”として失うと言ったのか、それとも本当に“命”として失うと言ったのか。境界が曖昧だった。


「私が撮ってきたのは、帝都にいる人たちで。まだ、撮り終えていないので……今は行けません」


 口にしてから、指先が冷たくなった。拒否は、罪悪感を連れてくる。


『“今は”?』


 相手は、私の言葉の端を拾った。逃げ道を残してくれる。逃げ道を残すことで、逃げることを前提にする。


 私は息を吸って、言葉を選んだ。


「帝都がどうなるのか見届けてから。それでも、まだ私に撮れるものがあるなら、そのときにあらためて考えます」


 電話の向こうで、相手が微かに笑った気がした。満足したのか、諦めたのか分からない。


『承知しました。……ご無事で』


 切れた通話音が、やけに乾いて聞こえた。


 私は受話器を置いて、しばらく動けなかった。


 “今は”残る。永住宣言じゃない。そう言い訳して、私は帝都に留まる。でも、本当は分かっている。仮決着は、決着の形をしている。人は一度選んだ側へ、身体が寄っていく。


 私はカメラを触った。シャッターは軽い。けれど、残る場所を決めるのは重い。


 記録することは、私の仕事だ。


 でも、今夜の私は、記録者である前に、ただの帝都の住民だった。



 その夜。


 帝都全域に、低いサイレンが鳴り響いた。


 音は、空気を押し下げるみたいに街に広がった。窓ガラスが震え、路面電車のレールが共鳴し、人の胸の奥がざわつく。


 同時に、スマホが一斉に震えた。


 街角の人々が、同じ動きをした。ポケットに手を入れ、画面を見る。まるで見えない糸で操られているみたいに。


 通知の文面は、明るい言葉で整えられていた。


『深度安定化試験運用 開始まで、あと60分』


 六十分。


 短い。長い。どちらとも言えない長さが、恐怖を増幅する。


 幻灯局の部屋でも、全員の端末が同じタイミングで鳴った。画面の光が、顔を青白く照らす。


 御影がモニターを見つめながら言った。


「……来ますよ。帝都が“一度だけ本気で沈みかける”瞬間が」


 その言葉は、宣告だった。準備のための言葉じゃなく、覚悟のための言葉。


 私たちは、その場で短い確認をした。誰がどこにいる。何を撮る。何を優先する。言葉は少なく、動きは早い。


 不思議なことに、誰も泣かなかった。


 泣くのは、もっと後の時間に取っておくみたいに。


 相馬は拳銃を点検した。署内で見た手つきより落ち着いている。金属音が小さく響く。


「俺は現場へ出る。警察署を抜けて、現場対応班に合流する」


 七瀬は夜の坂道でライターに火をつけた。火が顔を一瞬だけ照らし、すぐ闇に溶けた。


「神社の近くにいる。見張り役だ。変なのが出たら、先に叩く」


 九条は屋上に三脚を立てる準備をしていた。彼の手は慣れている。慣れているのに、指の節が白い。


「帝都全体の俯瞰を押さえる。……終わりの顔は、上からのほうがよく見える」


 花は店のシャッターを半開きにして、「避難所」の紙を貼った。紙が風で揺れ、花の指が押さえる。花の店が、避難拠点になる。


「来た人に花を渡す。……意味があるか分からないけど、私にはそれしかできないから」


 御影は私を見た。


「灯子くん。あなたは私と一緒に、最初のテスト地点へ行きましょう。現場の“ズレ”を、あなたのカメラで押さえたい」


 私は頷いた。バッグのジッパーをゆっくり閉めた。音がやけに大きい。まるで、これが最後の準備だと言われているみたいに。


 そして、私たちは散った。


 それぞれの“残る場所”へ。


 残る。残ると言いながら、誰も同じ場所にはいない。残り方が違う。守り方も違う。逃げ方の形も違う。


 それでも、今夜だけは、同じ街の同じ空の下にいる。



 路面電車に乗った。時間の針が、いつもより速く進む。車内の照明は明るいのに、誰も明るい顔をしていない。手すりを握る指が、少し強い。


 車内アナウンスが流れた。いつもの声で、いつもの調子で。


『本日は深度安定化試験運用に伴い、一部区間で運行が変更となります——』


 いつもの声が、いつもの言葉の中に、異物を混ぜる。それが、いちばん怖い。


 窓ガラスに自分の顔が映った。青白い。目が少し大きい。私はその顔が“帝都の住民”の顔だと気づいてしまって、目を逸らした。


 そのとき。


 窓の外に、薄い光の輪が映った。


 夜景の灯りとは違う。ネオンの反射でもない。円形の、ごく薄い、幾何学模様みたいな光。ガラスの表面に浮かんでいるようで、外の空に貼りついているようでもある。


 私は息を止めた。


 乗客の誰かが「今、何か……」と呟いた。でも声は続かない。みんな、見たのか見ていないのか分からない顔をする。自分の視界が信用できない。


 私はカメラを取り出し、窓越しに撮った。撮った瞬間、光の輪は薄くなり、消えそうになった。まるで、記録されるのを嫌がるみたいに。


 隣に立っていた御影が、小さく呟く。


「……蓋、ですね」


「蓋?」


「上から降りてくる“蓋”。深度を閉じ込めるための……」


 御影の言葉は途中で途切れた。言葉にした瞬間、現実になりすぎるから。私たちは、現実になる一歩手前で止めることで、自分を守っている。


 電車はカーブを曲がり、街の灯りが一瞬だけ揺れた。照明が揺れたのか、街が揺れたのか、分からない揺れ。


 私は、カメラの背面画面を見た。輪郭線のような光が、確かに写っている。薄いのに、消えていない。写ってしまった。


 私は背筋が冷えた。


 写ったものは、もう戻せない。



 テスト開始まで、残り時間が減っていく。


 街は静かだった。静かすぎる。みんなが息を潜めているみたいに、車の音も、人の声も、少し遠い。


 高台に出ると、帝都の夜景が見えた。光の面。川の黒。路面電車の線。いつもの景色が、今夜は儀式の舞台みたいに整っている。


 その上空に。


 目を凝らすと、見えない“輪郭線”のような光の筋が、じわじわと広がり始めていた。


 薄い。ほとんど錯覚だ。だけど、広がり方が規則的だった。円。格子。幾何学。自然の気まぐれじゃない。意志のある形。


 私はカメラを構えた。シャッターを切る。切るたびに、光の筋は少しだけ濃くなるように見える。見えるようになってしまう。


 御影が、モニターを抱えたまま言った。


「帝都の深度が、固定され始めています。……閉じられる」


 閉じられる。蓋が降りる。


 私は喉が鳴るのを感じながら、もう一枚撮った。


 夜景は美しい。美しいまま終わるのか。美しいまま消えるのか。美しいまま、別の層へ落ちるのか。


 私はまだ知らない。誰も知らない。


 でも、ひとつだけ分かる。


 私たちは今夜、それぞれの場所で、“残る”を選んだ。


 仮決着だ。そう言い訳できる形で。


 けれど——街が本気で揺れたとき、その言い訳は通用しない。


 残り続けるのか。逃げるのか。撮り続けるのか。撮らないのか。


 空の上で、薄い幾何学模様が広がっていく。見えない蓋が、降りてくる。


 帝都の灯りは、まだ、普通に瞬いていた。


 その普通さが、いちばん怖かった。


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