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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第60話 「それでも、どこに残るのか」

 朝、三上商店のシャッターが上がる音は、昔から同じだ。


 金属が擦れて、いったん詰まって、それから諦めたみたいに滑らかになる。店の奥からは、豆を挽く音がする。父が、ひとさじの手間で“今日”を整える音だ。


 私は棚の前を拭きながら、外の通りを見た。昨日までと同じ路面電車が走り、同じ時間に同じ犬が散歩をしている。いつもの顔。いつもの朝。


 なのに、通りの端には見慣れない紙が貼られていた。


『安心キャンペーン実施中』


 帝都庁の印があり、下には小さな文字で「照明・表示系統の誤作動について」と書いてある。地下インフラ工事に伴う一時的な……と、もっともらしい言葉が続く。昨日、路面電車の窓に映った“存在しない駅”も、川沿いのガードレールに写った“存在しない案内板”も、あれは全部、誤作動。


 誤作動、という言葉の便利さに、私は笑えなかった。


 店の外では、通りがいつもより少しだけ遅く動いていた。人が歩く速度が落ちている。立ち止まって紙を読む人がいる。顔を上げて、遠くの電車を確かめる人がいる。


 父がカウンターの向こうから言った。


「灯子。今日は喫茶の方へ寄るんだろ。……気をつけてな」


「うん」


 気をつけて。何に? 段差に? 人混みに? それとも、街そのものに?


 私は頷いて、カメラのストラップを首にかけ直した。フィルムの予備も確かめる。小さな儀式みたいに、いつもの手順をなぞることで、私は自分の立ち位置を確認する。


 店を出ると、商店街の入口にも同じポスターが貼られていた。隣にはもうひとつ。


『他都市への生活支援・就労支援窓口 開設』


 “希望者向け”。丸い文字で、優しい言葉で、出口が用意されている。


 ふと、花の顔が浮かんだ。花屋の店先。石畳の前で花を選ぶ人たち。あの人たちの背中が、この「希望者向け」の列に混じったら、花はどんな顔をするだろう。


 路面電車のベルが鳴った。私はそれに背中を押されるみたいに歩き出した。



 喫茶店はいつもより混んでいた。人の会話が大きいわけじゃない。むしろ、みんな声を落としている。声を落とした分だけ、ざわめきが重なる。


 カウンターの上のテレビでは、ニュース番組が流れていた。


『“新しい一歩”を支える支援制度』


 テロップの文字が白く眩しい。画面の中では、帝都から出ていく家族が笑っている。車に荷物を積み、子どもが手を振り、母親が「ちょうど仕事も変えたいと思っていたので、いいきっかけかなって」と言う。


 いいきっかけ。


 私はその言葉の軽さに、喉の奥が少しだけ冷たくなった。


 同じ画面の外、喫茶店の窓の向こうでは、シャッターを下ろす店があった。いつもは昼まで開ける雑貨屋が、今日は早い。店主が鍵をかける手が、どこか急いでいる。


 九条が、私の向かいの席で砂糖をいじりながら言った。


「……上手い映像よね。笑顔だけで、街の空気を塗り替えようとする」


 相馬はコーヒーを一口飲んで、苦そうに眉を寄せた。


「安心させるのが仕事だってのは分かる。だが、こういうのは――」


「“出ていくのが正解”って空気を作る」


 七瀬が言った。彼女は煙草を吸わないのに、指先が煙草を持っているみたいに落ち着かない。


 御影は黙ってテレビを見ていた。目の下の影は昨日より濃い。彼の視線は画面の家族ではなく、画面の隅に映る行政のロゴへ落ちている。


 私はスプーンでカップの縁をなぞっていた。音がしないように、ゆっくりと。自分の心臓の音の方が大きく感じる。


「公式見解、出たんだよね」


 私が言うと、九条は小さく頷いた。


「地下インフラ工事に伴う照明・表示系統の誤作動。……ま、便利な言葉」


「信じる人もいるし、信じない人もいる」


 相馬が言った。


「でも信じる方が、楽だ」


 楽。楽であることが、時に人を救う。でも、その楽が誰かの負担になるときがある。私のカメラは、楽の裏側を写してしまう。


 喫茶店の扉が開いて、制服姿の若い男が二人入ってきた。役所の腕章。彼らは店内のポスターを貼り替え、店主に頭を下げ、手早く帰っていく。宣伝は丁寧で、態度は礼儀正しい。だからこそ、余計に怖い。悪意のない手で、街が動かされていく。


 九条がカップを置いて、少しだけ声を落とした。


「で、次は、みんなの番」


 彼の言葉に、空気が一段沈んだ。



 相馬の異動内示は、紙切れ一枚で現実になった。


 役所のホールのような場所で、説明会が開かれていた。壁には「生活支援」「就労支援」と書かれたポスター。相談窓口の列に並ぶ人たちの背中。背中はみんな同じ形をしている。迷いと諦めと、少しの希望が混ざった形。


 相馬は列の外側に立って、その背中を見ていた。警察の制服ではなく、私服。私服の相馬は、仕事の鎧を脱いだ分だけ疲れて見える。


「本部の捜査一課だってさ」


 彼は言った。笑うでもなく、怒るでもなく、ただ事実を口にする。


「受けたら、帝都を離れる」


「……受けるの?」


 私は訊いた。訊いてしまったことに、すぐ後悔した。答えがどちらでも、私は受け止めきれない気がしたから。


 相馬は肩をすくめた。


「受けた方が“安全”なんだろうな。ここに残っても、俺にできることなんてもうあんまりないのかもしれない」


 安全。安全という言葉の中に、誰の安全が含まれているのか、最近私は疑う癖がついた。


 七瀬は会場の反対側にいた。彼女の周りには、見慣れない男たちが何人かいる。手下、と言うと乱暴だが、彼女の“シマ”の人間だ。彼らは役所の空気に馴染まない。馴染まないからこそ目立つ。彼女はその中心で、淡々と説明資料を読んでいた。


 近づくと、七瀬は私を見ずに言った。


「具体化した」


「……移る計画?」


「そう。土地だけじゃねえ。人間ごと動かせって話なんだよ」


 彼女の声は低い。怒りの温度が入っているのに、表面は冷たい。怒りを外に出したら、それが“問題”として処理されるのを知っている顔。


 九条は別の場所にいた。市役所の外、柱の陰。携帯を耳に当て、短く返事をしている。電話を切ったあと、彼は私たちに向かって手を振った。


「帝都支局、閉鎖」


 言い切りが早い。


「東京本社か地方支局か、二択。……“危ない街”を離れて“安全なところ”から物書きしろってか。それ、ただの観光ライターだろ」


 彼は笑った。けれどその笑いは、紙を破るみたいに乾いていた。


 花は商店街の会議だと言っていた。商店街ごと郊外モールに移転する案。賛否を迫る会議。花にとっては、店だけじゃない。街角そのものが店の一部だった。石畳の前で花を選ぶ人たちの足音。雨上がりの匂い。そういうものが、モールの床に移植できるわけがない。


 御影は幻灯局に残っている。中央タワーの専任ポスト。条件付きの提示。彼はそれを受ければ、深度の“外側”に行ける。でも外側に行くことが、帝都を見捨てることになるのか、それとも守るための位置取りになるのか——誰にも分からない。


 私たちの周囲で、人々が静かに列を作り、静かに資料を受け取り、静かにペンを走らせていた。泣く人はいない。怒鳴る人もいない。だからこそ、これは本当に“進む”。


 私のカメラは、その背中を撮った。撮らずにいられなかった。誰かが「これで安心だね」と笑う映像の裏側にある、言葉にならない沈黙を。


 シャッターを切るたび、私は自分が記録者なのか、それとも、何かの証拠を作る係なのか分からなくなる。



 幻灯局に戻ると、机の上に一通の封書が置かれていた。御影がそれを指で押さえ、私に向けて滑らせる。


「灯子くん。あなた宛です」


 封筒には、帝都庁の印と、見慣れない記号が並んでいた。世界側の連絡窓口、と言われても私は納得できない。だって、世界側なんて本来、机の上に出てこないはずだ。


 私は封を切った。紙の匂いがする。硬い文章。柔らかい言葉。


『候補都市における記録組織の設立について』


『中核メンバーとして、貴殿の参加を要請する』


 つまり、帝都以外の街にも、幻灯局のようなものを作りたい。私に来てほしい。


 帝都が沈む側だとしても、別の街で記録を続ける未来はある。あなたの仕事の価値は帝都に縛られない。そう書いてある。


 担当者と名乗る男が、電話で言った声も思い出す。柔らかい声だった。優しく、丁寧で、こちらの罪悪感を先回りして撫でる声。


『あなたは“街”ではなく、“記憶”の側に立てる人だと思います』


 その言い方に、私は一瞬だけ救われそうになった。街ではなく記憶。記憶の側に立てる。美しい言葉だ。だけど、私は知っている。記憶は街から生まれる。街の石畳、路面電車の音、川の匂い、花屋の店先の色。それらがあって初めて、私の写真は生きる。


「でも私が撮ってきたのは、この帝都の人たちで——」


 私は封書の文面に向かって言ってしまった。相手はいないのに。


 御影が静かに続けた。


「だからこそ、他の街でも、その役割を果たせる。……そう言われたんですね」


 私は頷いた。喉が少し痛かった。


 相馬が、椅子の背に手を置いたまま言う。


「外に出ろってことは、守りたいものがあるなら、外から守れって話にも聞こえる」


「優しい言葉は、たいてい二通りに聞こえる」


 九条が言った。


「評価してるのか、都合よく使うのか」


 七瀬は壁の写真を見ていた。二重露光の帝都。存在しない駅。写真の中にだけ写る避難案内板。彼女の横顔には、決断の影がまだ形になりきらないまま貼りついている。


 私は封書を握りしめた。紙は軽いのに、手が重い。ここに残る=帝都と一緒に沈むリスク。出る=ここを見捨てる罪悪感。その二つが、初めて真正面からぶつかってきた。


 私は、今まで保留にしてきた。撮ることだけを選んで、残るか出るかは、いつか後で決めるつもりだった。


 でも、“いつか”が近づいている。


 私はカメラを見た。黒いボディ。私の手の大きさに馴染んだ形。これが私の立ち位置を決めてきた。でも、カメラは答えをくれない。ただ、どこに立ってもシャッターは切れる。


 だからこそ、怖い。



 夜、高台の神社へ向かった。階段を上るたび、昨日の“空を踏んだ感覚”が足の裏に蘇る。今日は現象は起きていない。起きていないのに、「いつまたズレるかわからない」という緊張が、石段の間に染みている。


 相馬が先に来ていた。神社の欄干にもたれ、帝都の灯りを見下ろしている。下から見るとただの街だ。上から見ると、街はひとつの面になる。面の上に、人の暮らしが点のように散らばる。


 私は相馬の隣に立った。冷たい風が髪を揺らす。


「……もし」


 相馬が言った。声がいつもより低い。


「本当にこの街が“沈む”側だってわかったら、あんたはどうする」


 私は息を吸って、吐いた。答えを用意していなかった。用意できない。


「まだ、わかりません」


 それでも、言葉は続いた。


「でも——“沈むから撮らない”っていう選択だけは、したくないです」


 相馬は少しだけ笑った。笑いというより、息が漏れた。


「沈むってわかってて、ここに残るやつのほうが少ないだろうな」


 私は帝都の灯りを見た。ひとつひとつは小さい。小さいのに、集まると面になる。面になると、切り取られそうに見える。


「残るかどうかと、撮るかどうかって、同じ話なんでしょうか」


 自分の声が、夜の空に溶けていく。答えが返ってこない静けさが、逆に怖い。もし同じなら、私は“残る”を選ばないと撮れないのか。もし違うなら、私は“出る”を選んでも撮れるのか。


 そのとき、階段の下の暗がりに、火がひとつ灯った。煙草の火。七瀬がそこにいた。彼女は上を見上げるでもなく、ただ煙を吐いていた。私たちの会話を、聞こうとして聞いている距離。聞いてしまったことを、責めない距離。


 別の路地の向こうで、花が店のシャッターを閉める音がした気がした。実際に聞こえたのか、頭が勝手に重ねたのか分からない。九条は今ごろ、締切前に迷ったように画面を睨んでいるだろう。御影は、中央タワーのメールをまだ開けずに、深度の線を見つめているだろう。


 誰も、まだ口に出せない。


 逃げる。残る。


 口に出した瞬間、どちらかが裏切りになるような気がして、みんな喉の奥にしまっている。


 相馬が欄干から手を離して言った。


「俺はさ、警察の人間だ。守るって仕事をしてる。……でも、守れないものがあるって知ってる」


 その言葉に、私は相馬の“守れなかった事件”の影を感じた。具体はまだ聞かない。聞けない。けれど、彼の肩の硬さが、何かを抱え続けているのを示している。


「守れないと分かってても、目を逸らすのは違う。……撮るってのは、そういうことかもな」


 私は頷いた。頷いた瞬間、涙は出なかった。代わりに、胸の奥が固くなる。覚悟の形が、少しだけできる。


 私はカメラを構えた。帝都の夜景。光の面。路面電車の線。川の黒。遠くの闇。


 シャッターを切る。


 何も起きない夜。何も起きないことが、今夜の異常だ。


 私はもう一枚、撮った。


 その写真の中で、帝都は普通の夜景だった。普通の闇。普通の灯り。——ただ、画面のごく隅に、見慣れない塔の輪郭がうっすらと写り込んでいた。


 塔。


 街のどこにも、あんな形の塔はない。帝都の建築は、もっと人の手の癖が出る。あれは無機質すぎる。まるで、街の外側から差し込んだ影みたいに、闇に立っている。


 私は背面画面を凝視した。目をこらすと、塔の線は確かにそこにある。でも、見ようとするほど、ノイズに溶ける。二重露光のときと同じだ。存在するのに、確信できない境界。


 私はカメラを下ろした。


「……写ってる」


 小さく呟くと、相馬が横から覗き込んだ。


「何だそれ」


「わかりません。帝都の塔じゃない」


 相馬は眉を寄せた。七瀬の煙草の火が、下で一瞬だけ強く光った気がした。


 私たちは、何も言わなかった。言葉にした瞬間、塔は“現実”になってしまう。現実になれば、また誰かが「誤作動」で片付けるかもしれないし、誰かが「機密」で消すかもしれない。


 だから私は、黙ってカメラの中に残した。残すことしかできない。


 帰り道、石段を下りながら、私は自分に問いかけた。


 逃げることは裏切りなのか。別の場所から守るための選択になり得るのか。


 世界側が提案する“他都市への展開”は、評価なのか、次の実験場への準備なのか。


 沈む街に残ることと、沈む街を撮り続けることは、同じ覚悟なのか。


 答えは出ない。出ないまま、足は石畳を踏む。いつもの帰り道。いつもの街灯。いつもの路面電車の音。


 だけど私はもう、知ってしまった。


 いつもの夜景の隅に、まだ名前のない塔が立つことを。


 そして、私はそれを撮ってしまった。


 撮ってしまった以上、私はもう、“見なかったこと”にはできない。


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