第59話「二重露光の帝都」
朝の路地は、いつもより少しだけ冷たかった。
昨夜の雨が石畳の目地に残っていて、靴底がそこを踏むたび、薄い水の膜がずれる音を立てる。朧町の端から川沿いに抜けるこの細道は、私の身体が勝手に歩き方を覚えている。角を曲がれば、藍染屋の裏口があって、その先の小さな階段を降りると川の匂いが増す。
いつもの道。
だから、私はその角で、ふっと足が止まった。
角を曲がった先に見えたのは、川沿いの薄い空ではなかった。坂の上の住宅街。白い塀、低い門、朝の光を跳ね返す瓦。高台にあるはずの景色が、なぜかこの路地の先に繋がって見えた。
目が追いつかない。視界の中で、二つの道が同じ場所を取り合っている。
私は瞬きをした。
次の瞬間、そこには川沿いの空が戻っていた。いつもの薄い青、護岸の灰色、遠くの路面電車の鈴。路地の先は、何事もなかったように“正しい”場所へ戻っている。
でも、さっきの坂の景色は消えなかった。消えたのは視界からだけで、頭の中には残像が貼りついている。写真の二重露光みたいに、川沿いの空の上に、白い塀が薄く重なる。
私は喉の奥で息をひとつ飲み込んだ。
「……気のせい」
言ってみても、足の裏がまだ“違う場所”の感触を覚えていた。石畳の冷たさの下に、坂道の砂利のざらつきが、ほんの少しだけ混ざっている気がする。
私はそのまま川沿いへ出た。川は今日も流れている。流れているのに、さっきの角のことが頭から離れない。誰かに言えば笑われるだろうか。笑われると分かっていても、言わずにいられないだろうか。
幻灯局へ向かう途中、路面電車の停留所に人が溜まっていた。いつもよりざわめきが強い。車内アナウンスの声が、何度も同じ文句を繰り返している。
「ただいま一部区間において——」
言葉の途中が、雑音にかき消される。乗客が首を傾げる。駅員が困った顔で帽子を押さえる。けれど、電車は動いている。動いていることが逆に不安を呼ぶ。動いているのに、どこかがずれている気配。
私が車窓を眺めていると、窓の外が、数秒だけ変わった。
ビルの列の向こうに、木造の商店街が見えた。低い屋根、軒先の提灯、魚の匂いが漂ってきそうな市場の通り。——数年前に取り壊されたはずの場所だ。
窓ガラスに反射する自分の顔が、そこに重なって見える。まるで私は、現在と過去の間に挟まれているみたいだった。
次の瞬間、景色は戻る。ビルと舗装路と、整えられた歩道。車内の誰かが「あれ?」と小さく声を漏らしたが、すぐに周囲のざわめきに飲まれて消えた。
私は握りしめていた鞄の取っ手を、もう一度強く握り直した。
気のせいじゃない。
そして、私だけじゃない。
◇
幻灯局の扉を開けると、いつもより人の気配が濃かった。作業室の方から、紙をめくる音と、短い会話が飛び交う。
「……高台の神社の階段、数えた?」
「一段多いって言う人と、少ないって言う人がいる」
「川沿いの遊歩道で、一本内側の道路に出たって証言、同時刻で三件」
私が靴を脱ぐ前に、御影がこちらを見た。目の下に薄い影がある。徹夜ではないが、眠りが浅かった顔。
「灯子くん。今朝、何かありましたか」
私が一瞬躊躇すると、御影は頷いた。
「……同じことを言う人が増えています」
私は鞄を下ろしながら、路地の角の話をした。坂の上の住宅街が繋がって見えたこと。瞬きをしたら戻ったこと。頭の中に二重露光の残像が残ったこと。
言葉にすると、ますます現実味が増していく。御影はメモを取りながら、眉をひそめた。
「路地の接続が変わった。視覚的には一瞬。……それは“実際に変わった”のか、“見えてしまった”のか」
「分かりません。でも、足が……」
私は自分の足元を見た。靴底に付いた水の膜。川沿いの湿り気。坂道の乾いた砂は、今はない。
「足が、そっちを踏んだ気がしたんです」
相馬が壁にもたれて腕を組んでいた。彼は私の話を聞き終えると、短く笑った。笑いというより、歯を見せる癖のようなものだ。
「街ごと揺れてるってことかよ」
「揺れ、というより——」
御影は、机の上に広げられた紙束を指で押さえた。そこには、昨夜届いたというデータの抜粋が並んでいる。海外の観測ネットワーク。数字と線と、意味の分からない記号。深度、と書かれた欄に、いくつかのレンジがあり、そこから外れた値が点になって飛び出している。
「帝都全体の“深度”が、いくつかの層の間を行き来している……そんな観測結果が出ています」
言葉は落ち着いているのに、内容が落ち着かない。深度、と言うと、海底のことを思い出す。けれどこれは、海の話ではない。街の話だ。
「行き来って」
相馬が眉を上げる。
「つまり、ここが“ここ”じゃなくなる瞬間があるってことだろ。笑えねえな」
九条が机の端に腰をかけ、指で煙草をいじる仕草だけして、吸わないまま言った。
「市役所は『一時的な通信障害』『インフラ工事』で片付けるつもりみたいね。——都合がいい」
七瀬は窓際に立っていた。彼女はいつものように無表情に近い顔をしているが、目だけが落ち着きなく動いている。
「上は、何か知ってる」
低い声。彼女の言葉は断定だった。
「知ってるのに、『知らない』って顔をしてる。昨日までの“訓練”と同じだ」
その言い方に、私の胸の奥が小さく痛んだ。訓練。守ろうとしたアリバイ。昨日の広報担当の言葉が蘇る。
御影は立ち上がり、机の上の地図に指を滑らせた。
「今日は、ズレが多発した地点を拾っていきましょう。報告が多いのは、路面電車の線、川沿い、そして高台です」
「俺は橋の方を回る」
相馬が言う。軍の指定区域に近い場所だ。彼の顔が一瞬だけ固くなる。橋の向こう側には、補給基地がある。
「私は路面電車のターミナル」
七瀬が短く言った。彼女はその場を離れる前に、机の隅に置かれた紙を指で弾いた。そこには、小さな封筒があった。見慣れない書式のメールの印刷。上部組織からのものだろう。七瀬は何も言わずにそれをポケットへしまう。
九条は肩をすくめた。
「私は本社と市役所の両方に顔出してくる。あっちも、こっちも、縮む話が増えそうだから」
縮む話。帝都支局の縮小。地方転勤。言葉だけで分かる逃げ道。逃げ道、というより、散らされる場所。
花は今日はここにいない。けれど昨夜、店から電話があった。商店街組合が、郊外のショッピングモールへの出店を持ちかけてきたという。守れる生活。甘い誘い。——固執しなければ、守れるものがある。
御影の机の上にも、似た匂いの紙があった。中央研究所からの招聘。専任研究員。帝都の外で、深度を研究する立場。彼はまだそれを手に取っていない。取っていないのに、そこに置いてあることが、すでに選択の芽だった。
そして私は——何も来ない。
何も来ないことが、こんなに重いとは思わなかった。
◇
路面電車の車内で、私は窓際に立った。人が多く、座る気になれない。窓の外を眺めながら、いつ現象が起きるか分からない緊張で、目が乾く。
次の停留所を過ぎたとき、窓外の景色が、ふっと別のものに差し替わった。
駅名標が見えた。
見たことのない、いや、見たことがある。記憶の奥で、紙の上で、あるいは写真の端で見たことがある。古い書体。レトロなホーム。人影は薄い。駅名標の文字は、はっきり読めるほど長く映らない。
けれど、確かにそこには“存在しない駅”があった。
私は反射的にカメラを構えた。車内の揺れ。窓ガラスの反射。シャッターを切る。
次の瞬間、駅は消えた。ホームも、駅名標も、何もない。ただの街並みと、いつもの停留所の看板。
私は背面の小さな画面で確認した。写真には、駅名標が写っている。写っているのに、現場には存在しない。
私は息を止めた。
これが、二重露光。
現実が二重に写るんじゃない。現実が一つなのか、二つなのか分からないのに、写真だけが“両方”を持ってしまう。
電車を降り、川沿いへ向かった。遊歩道のガードレールは、いつも通り、ただの金属の線だった。そこに避難案内板などない。昨日の訓練の案内は紙だったし、看板を新設する時間もない。
でも、私のカメラの画面には、矢印と「避難ルート」と書かれた板が、はっきり写っていた。
私はその場所に立ち、同じ角度からもう一度撮った。——写らない。
少しだけ位置をずらす。——写る。
私が肉眼で見る風景と、カメラが拾う風景が、食い違う。食い違うたび、私は自分がどちら側にいるのか分からなくなる。撮っている私は、現実に立っているのか、それとも、二つの層の境目に立っているのか。
高台へ回ると、神社の階段が見えた。段数は、いつも通りに見える。私は心の中で数えながら上った。最後の一段で、ほんの一瞬だけ、足が空を踏んだ気がした。踏み外しそうな浮遊感。階段が一段多いのか少ないのか、私には確信が持てない。
私は立ち止まり、振り返った。階段の下に、いつもの住宅街がある。いつもの屋根、いつもの塀。——なのに、その上に薄く、古い木造商店街の影が重なる気がした。
私はカメラを構えた。二重露光の交差点。現在のビル群の向こうに、古い木造の通りが薄く重なる場所。シャッターを切る。
背面画面に映った写真には、古い屋根が確かに写っていた。写っているのに、そこにはもうない。
「もしかして」
私は小さく呟いた。声が空に吸われる。
「帝都の“別のあり方”が、ちょっとだけ混ざって見えてるだけなんでしょうか」
答える人は当然いない。私は幻灯局へ戻る道すがら、幾つも写真を撮った。二重に見える交差点。存在しない駅名標。写真の中にだけある避難案内板。俯瞰に重なる取り壊された団地の影。
撮るほどに、街は“選択肢”を持っているように見えた。
かつてそうだった帝都。
これからそうなるかもしれない帝都。
そして、今ここにある帝都。
それらが一瞬だけ重なる。重なってしまう。
◇
夕方、幻灯局の暗室は、紙の匂いと薬品の匂いが濃かった。壁一面に、今日撮った写真が貼られている。少しずつ位置の違う街の輪郭。少しずつ違う駅。少しずつ違う避難矢印。
それらが並ぶと、差異が見えてくる。差異が見えるということは、街に“揺れ”があるということだ。
御影は暗室の隅で、モニターを点けた。暗室の闇に、青い光が浮かぶ。画面には、深度グラフが表示されている。数字と線。帝都のラインが、安定していたレンジから外れて、大きく振れている軌跡。
「帝都全体が」
御影が低く言う。
「“別の層に踏み外しかけている”ように見えます」
相馬が椅子に座り、指で眉間を押さえた。彼の足元には、封筒が落ちている。県警本部からの打診。昇進。本部勤務。帝都から距離を置く選択肢。
「タイミング良すぎるだろ」
相馬は吐き捨てるように言った。
「俺が“ここ”から離れた方がいいって、誰かが思ってるみたいだ」
七瀬は壁の写真を見ながら、ポケットの中の紙を握っている。別都市へのシマ移転。固執するな。退避命令に近い匂い。
九条は腕を組み、淡々と笑った。
「本社は『支局の縮小』って言うわよ。——つまり、書けることが減る。残れる椅子が減る」
花のいない暗室で、花の顔が浮かぶ。郊外のモール。守れる生活。ここに固執しなければ、守れるものがある。彼女はそれを選べる人だ。選ぶ資格がある人だ。
御影はモニターの横に置いてあったメールの印刷を、ついに手に取った。中央研究所の招聘。専任研究員。外側で深度を研究する役目。
彼は紙を見つめたまま言った。
「こういう“逃げ道”が出てくるのは、偶然ではないでしょうね」
「守るためか?」
相馬が訊いた。
「散らすためか」
七瀬が続けた。
九条が言葉を継いだ。
「証人を散らすため、かもしれない」
私は壁の写真を見た。二重露光の帝都が、静かに浮かび上がっている。写真の中の帝都は、どれも似ているのに、どれも違う。違うのに、どれも“あり得た”顔をしている。
私のところには、まだ具体的な打診は来ない。
来ないことが、まるで命令みたいだった。
残れ。
撮れ。
ここに立て。
誰かがそう言っている気がして、私は喉の奥が熱くなった。怒りではなく、怖さで。
「みんなのところには」
私は自分でも驚くほど静かな声で言った。
「“逃げ道”みたいな話が少しずつ来ていて。でも、私のところにはまだ何も来ない」
暗室の中の誰もが、私を見た。暗い中で、目だけが光る。
「それって」
私は続けた。言葉が、勝手に形になってしまう。
「“ここに残って撮りなさい”って言われてるのと、同じなのかな」
御影が何か言いかけて、口を閉じた。慰める言葉は、この段階では嘘になる。相馬は視線を逸らした。七瀬は顔の筋肉を少しだけ動かし、笑うでもなく、歯を噛みしめるでもなく、ただ息を吐いた。
九条が、ようやく軽く言った。
「まだ、あんたのところに“逃げ道”が来てないだけ。——来たら、選べるってことでもある」
「選べる……」
私は自分の言葉を反芻した。選べることは救いなのか。選べることは、責任を増やすだけなのか。
暗室の壁の写真が、少しずつ重なっていく。別の帝都の輪郭が、今の帝都の上に薄く乗る。最後にそれが、一枚の二重露光になる。
私はその中心に、確かに“切り取り線”の気配を見た。線はまだ紙の上の赤ではない。けれど、写真の中では、すでに街を分ける準備をしている。
撮るべきなのか。残すべきなのか。
もしこれが、移送の準備段階だとしたら。
私が撮る写真は、守ろうとしたアリバイにもなり得るし、守られなかった現実の証明にもなり得る。どちらにも加担してしまう。
それでも——撮らないという選択が、いちばん簡単で、いちばん卑怯だと、私は知っている。
「灯子くん」
御影が静かに言った。
「今日は、よく撮れています。——よく“拾えて”いる」
拾えている。落ちてくるものを拾うみたいに。街が踏み外しそうになって落とす欠片を。
私は頷いた。頷くしかなかった。
◇
暗室を出ると、廊下の窓から帝都の夜が見えた。路面電車の光が、川沿いの黒に線を引く。人の声が遠くにある。いつもの夜。いつもの顔。
私は三上商店の方へ戻る道を選んだ。日常に帰るために。帰れるうちに帰るために。
路地を曲がると、朝の角が見えた。ここだ。ここで坂の上の住宅街が繋がって見えた。
私は立ち止まり、同じ位置から先を覗いた。
川沿いの空がある。いつも通りの薄い青が、夜の気配に沈みかけている。
私は瞬きをした。
何も変わらない。
私はもう一度瞬きをした。
変わらない。
変わらないことに、少しだけ安心して、そして同じだけ怖くなる。変わらないのに、変わってしまう瞬間があると知ってしまったから。
私はカメラを構えた。路地の角を撮る。何も起きない角を、何も起きないうちに撮る。
シャッター音が、夜に小さく響いた。
撮ってしまった。
撮ってしまったことが、今日の私の答えだった。
私は歩き出した。石畳の上を、確かな足取りで。足取りだけは確かであってほしい、と祈りながら。
路面電車の音が遠くで鳴った。いつもの音。いつもの顔。
そして、その背後で、私にだけ聞こえる気がした。低い、遠い、海の底の合図音みたいなものが。
帝都は今夜も、二重露光のまま、静かに呼吸している。




