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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第58話「街ごと避難訓練、誰のための安全か」

 サイレンは、朝の味噌汁より先に鳴った。


 湯気の向こうで、窓ガラスがわずかに震える。音は高くない。街を裂くというより、街の骨の中を撫でるような、遠い金属の擦過音に近い。帝都全域で同時に鳴っている、と頭では理解しても、耳はいつもの生活の延長として受け取ろうとしてしまう。


 でも、玄関を出た瞬間、私はそれが“延長”ではないことを悟った。


 朧町の朝は、普段なら豆腐屋の木桶の音と、路面電車の鐘で始まる。今日はそこに、同じ高さの視線が一斉に空へ向く気配が混ざっている。商店街の看板の下、路地の角、住宅街の門扉の前。人々が顔を上げる。何かを探すわけでもなく、ただ「今鳴ったもの」に対して身体が反応している。


 防災訓練。


 言葉は知っている。放送も回っていた。紙も配られた。なのに、胸の奥に小さな穴が開いたみたいに冷える。サイレンが鳴るたび、街が一度ずつ“別の用途”に切り替わる感じがする。


 三上商店の前を通ると、おばさんが野菜籠に布をかけながらこちらを見た。


「灯子ちゃん、今日は早いねえ。訓練だっけ?」


「はい。……写真、撮ってきます」


「気をつけなさいよ。人が動く日は、道も機嫌悪いから」


 道も機嫌が悪い。言い回しが、今の帝都に妙に合ってしまう。私は小さく頷き、坂道を上り始めた。今日は私の担当が高台の住宅街。小さな神社のある集合場所へ行き、誘導の様子と、住民の表情を記録する。


 花の店の前を通ると、扉が半分だけ開いていた。花が顔を出す。いつもなら笑って「寄ってく?」と言うのに、今日は笑いが薄い。


「灯子」


 呼び止められて、足が止まる。


「常連さんたち、みんな、行くの。……それぞれ指定の集合場所に」


「花も?」


「もちろん。『もしものとき』のためって言われたら、行かないわけにいかないけど……」


 花は店の中を振り返った。花瓶の水面に揺れる光が、いつもより薄い。


「なんだかさ。“この街から出る練習”を、させられてるみたい」


 その言葉が私の背中に貼りついたまま、私は高台へ向かった。坂道の途中で見下ろすと、路面電車の線路がいつも通りに光っている。いつも通りに見えることが、怖い。


 神社は、住宅街の端にひっそりとあった。鳥居の朱が、曇りがちな空の下でやけに鮮やかだ。境内の隅に、小さな広場がある。そこが集合場所になっていた。


 すでに人が集まり始めていた。腕章を付けた誘導員が、広場の端に立ち、名簿を確認している。近所の顔が多い。朝に犬を散歩させている老人、商店街でいつもパンを買う母親、学校へ行くはずの学生。彼らは訓練だと分かっているはずなのに、足元の土を確かめるように歩いている。


 私はカメラを構えた。ファインダーの中に、鳥居と人の列が入る。シャッターを切る。切った瞬間、誰かの目がこちらに向いた。撮られていることに対する、軽い抵抗と、期待と、諦めが混ざった目。


「これが本番だったら、ってさ」


 すぐ近くで、若い男が言った。声の主を探すと、ワイシャツ姿の会社員が、腕を組んで広場を見渡している。


「本当に何かあったら、今度は“戻ってきちゃダメ”って言われるのかね」


 隣の中年女性が、唇を尖らせた。


「さあねえ。訓練だから、終わったら帰れるけど」


 彼女の言い方は、帰れることを確認しているようだった。帰れる、と口に出すことで、帰れる未来を押し込めようとしている。


 もう一人が、声を落とす。


「この街ごとどっかに移す実験なんじゃないか、ってさ。ほら、最近、変な噂……」


 噂話の形で言われる言葉が、私の胸を締め付ける。


 移送。


 昨日、紙の上に書かれていた単語が、今、生活の口の端から零れる。人の噂はいつも大げさだ。けれど、大げさな噂ほど、根っこに真実の欠片を含んでいる。


 私はシャッターを切り続けた。列の先頭、名簿を覗き込む誘導員の指。子どもの手を握る母親の手。老人の杖が土を叩く音。鳥居の影が広場に落ちる角度。そのどれもが、いつか“何か”の説明になってしまうかもしれない。


 説明、という言葉が頭をよぎった瞬間、私はファインダーから目を離した。


 私は、説明のために撮っているのか。


 それとも、ただ、ここにいたという事実のために。



 昼前、私は一度市役所前へ移動することになった。高台の集合場所の誘導は一段落し、広場の人数が減った。訓練は全域で同時進行だ。全体の流れを押さえるために、私は九条のいる市役所前へ向かった。


 市役所前広場は、音が多かった。スピーカーから流れる指示、旗を振るスタッフの呼び声、子どもの泣き声、紙を配る音。建物の正面に掲げられた横断幕には、「大規模防災訓練」と大きく書かれている。


 九条は、取材者の顔をしていた。カメラマンというより、街の外へ持ち出す言葉の選び手。手帳を片手に、広場の端で職員と話している。


「灯子」


 九条が私に気づき、手招きした。私は彼女の隣に立ち、広場を見渡した。人が動かされる“体感”がここにはある。人の波が、誘導の旗に従って曲がる。曲がるたび、広場の空気が少しずつ“整列”していく。


 そのとき、背後から声をかけられた。


「失礼。幻灯局の方ですか」


 振り返ると、広報担当らしい男が立っていた。服装が整っている。腕章も、紙の束も、手元の無線機も、すべてが“段取り”の匂いをさせている。


「はい」


 私が答えると、男は私のカメラを見た。


「その写真、ありがたいですね。安全対策がきちんと行われたっていう証拠にもなるんですよ」


 証拠。


 単語が、舌の上で冷たかった。私は反射的に聞き返した。


「証拠、ですか」


「ええ。“ちゃんと住民を守ろうとしていた”って、後から示すための」


 男は悪気なく言った。むしろ誇らしげだった。守ろうとしていた、と言うとき、彼の目はすでに未来の誰かを見ている。今ここにいる住民ではなく、今ここにいない責任の所在を。


 私はうまく言葉が出なかった。守れたかどうかじゃなくて、“守ろうとしていた”って形だけ残すための写真なら——私が撮る意味って、何なんだろう。


 九条が横から、笑って受け流した。


「証拠って言い方、物騒ですね。写真って、そんなに便利じゃないですよ」


 広報担当は肩をすくめた。


「便利ですよ。——いざというとき、必要ですから」


 必要。いざというとき。必要。


 言葉が、私の中で互いに手を繋いで鎖になっていく。鎖の先にあるのは、赤い点と、候補という文字と、移送という曖昧な単語。


 広報担当が去ったあと、九条が小さく舌打ちした。


「ね。こうなる」


「……どうなる?」


「記録が“アリバイ”に化ける」


 九条は私のレンズを見た。まっすぐこちらを見ない。レンズ越しに、私の立ち位置を測っている。


「灯子、あんたが撮るのは、アリバイのためじゃない。って言い切れる?」


 私は答えられなかった。言い切れない。言い切れないけれど、撮らないことも、別の加担になる。


 私が沈黙すると、九条は肩を落とした。


「ごめん。責めたいわけじゃないの。……ただ、怖いのよ。写真がちゃんと撮れてしまうことが」


 私はカメラを握り直した。金属の冷たさが、手のひらに現実を戻す。


「私も、怖い」


 口にすると、それは少しだけ楽になった。怖い、と言える相手がいることが、まだこの街が“街”である証拠みたいだった。



 訓練の終盤、私は再び高台へ戻った。神社の広場は、さっきまでのざわめきが嘘みたいに静かになっていた。さっきまで人でいっぱいだった場所が、空になる。その空白は、拍子抜けするほど簡単にできてしまう。


 鳥居の下を風が通り抜ける。境内の砂利が、誰も踏まない音を立てない。遠くで路面電車が走る音がする。いつものダイヤに戻っているはずだ。


 訓練は終わったのだと、街は言っている。


 私は境内の端に立ち、帝都を見下ろした。川沿いの橋は普段の交通量に戻っている。路面電車は線路をなぞり、商店街の看板は日常の顔をしている。訓練が終わったら、何事もなかったみたいに街は元に戻る。


 でも、もし“本番”が来たら——。


 ここには何も残らないのかもしれない。


 私はカメラを構えた。街全体を俯瞰で撮る。高台から見える範囲だけでも、帝都は十分に大きい。光の点がいくつも集まって、呼吸しているみたいだ。


 シャッターを切った。


 切った瞬間、ファインダーの端が、一瞬だけ薄く曇った気がした。眩しさのせいだと思った。撮影後、念のために背面の小さな画面で確認する。


 帝都の写真。


 街区の輪郭が、いつもよりくっきりしている。……いや、くっきりしている部分と、そうでない部分がある。


 画面の一角。川沿いの低地の辺りだろうか。そこだけが、うっすらと灰色に覆われているように見える。ノイズが乗ったみたいに、粒が増えている。光が弱いだけかもしれない。圧縮の癖かもしれない。私は目を凝らした。


 灰色は、線を持っていた。


 区画をなぞるように、薄いグレーが境界を作っている。


 私は思わず画面を指で擦った。指先に何も引っかからない。もちろんだ。これは画像だ。触れない。


「……気のせい」


 声に出しても、胸の奥の冷えは引かない。


 私はもう一枚撮った。二枚目。確認する。灰色は、ない。


 ……ない。


 私は息を吐いた。やっぱり気のせいだ。そう思った瞬間、背中に視線を感じた。振り返ると、神社の社務所の影から、老人がこちらを見ていた。訓練のとき、杖をついていた人だ。


「お嬢さん」


 老人はゆっくり近づいてきて、境内から街を見下ろした。


「終わったねえ」


「はい。……終わりました」


「終わったら、戻れるんだ。そういうふうに、今日は戻れた」


 老人の言葉は、慰めでも確認でもなく、ただの事実だった。私はその事実が、急に貴重なものに思えた。


「でもね」


 老人は私のカメラを見た。


「写真ってのは、不思議だ。目で見たものより、あとから怖くなる」


 私は返す言葉を探したが、見つからなかった。老人はそれ以上言わず、杖をついて去っていった。


 私はもう一度だけ、帝都を撮った。今度は、街の中心ではなく、川と橋と、路面電車の線路が同時に入るように。矢印と列と、不安の表情が、きちんと並んで保存されるように。


 私のカメラの中には、今日の帝都が入っている。動かされた街。動かされた人。動かされた心。


 これが、誰のための安全なのか。


 守ろうとしたアリバイと、守られなかった現実の間で、私の記録はどちらに傾くのか。


 分からない。分からないけれど、分からないまま、私はシャッターを切るしかない。


「“もしものとき”に」


 私は小さく呟いた。


「私はどこにいて、何を撮ってるんだろう」


 答えは出ない。


 ただ、夕方の光が帝都の上に落ちる。街は今日も呼吸している。呼吸している間に、撮る。残す。残してしまう。


 神社の石段を降りると、路面電車の音が近づいてきた。いつもの音。いつもの顔。


 それが、いちばん怖い。


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