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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第57話「候補都市リストに載った街」

 朝の支度をしていると、湯気の立つ味噌汁の表面に、ふっと細い影が走った。


 私が指先で椀を回すと影はほどけて、ただの油膜になった。気のせいだと言い切れる程度のもの。でも最近、こういう「言い切れないほど小さな違和感」が、暮らしの隙間に入り込んでくる。


 玄関を出ると、朧町の空は澄んでいた。路面電車の鐘が遠くで鳴り、川のほうから湿った匂いが流れてくる。三上商店の前には今日も籠が並び、いつもと同じように、いつもと同じ顔で人が行き交う。


「灯子ちゃん、今日は豆がいいよ」


 三上のおばさんが声をかけてくる。私は立ち止まり、豆の山を見た。莢の産毛が朝日に光っている。こういう当たり前が、いまは妙に眩しい。


「……じゃあ、それ、少しください」


「はいはい。あんた、最近忙しそうだねえ。目の下が……」


「寝てます。たぶん」


 笑って返すと、商店の奥でラジオが鳴っていた。「本日は市内各地で防災訓練を実施します。皆さまのご協力を——」


 訓練、という言葉が空気に落ちた瞬間、豆の緑が一段だけ鈍く見えた。いや、見えた気がしただけだ。私は紙袋を受け取り、幻灯局へ向かった。


 局の作業室は、昼間でも少し暗い。暗室の扉が近いせいで、光が遠慮がちに入ってくる。机の上には昨日までの写真と地図がまだ片付いていない。護岸の石、ずれた線路、混ざった石段。生活の端がほつれた証拠。


 御影が窓際で腕を組み、九条が椅子を逆向きにして座っている。相馬は机に肘をつき、七瀬は壁際で書類の束をめくっていた。皆、言葉の起点が同じ場所にある顔をしている。


「来たか」


 御影が視線だけで招く。九条は、わざと軽く言った。


「今朝は“訓練”の放送、聞いた?」


「聞いた。やけに丁寧だった」


「丁寧すぎるのは、だいたい隠したいときよね」


 九条はそう言って、机の端に置かれた封筒を指で弾いた。白い封筒ではなく、薄い灰色の、どこか湿った紙質の封筒だ。封の部分だけ、黒いテープが重ね貼りされている。


「それが、今日の“おみやげ”。行政ルートじゃない。裏ルートから」


 御影が封筒を開ける。中から出てきたのは、薄い紙束と、小さなフィルムのような記録媒体だった。件名が印字されている。


 内部参照用——という、誰かがわざわざ“これは外に出すな”と書いたみたいな文字。


 御影は無言で媒体を机上の端末に差し込んだ。画面が暗転し、次の瞬間、世界地図が浮かび上がった。


 海沿いに点々と赤いマーカーが灯る。古い湖の跡地だという内陸の街にも、赤がいくつかある。そこまでは、まだ分かる。


 けれど、内陸部の真ん中に、ぽつんと赤く光る点があった。


 帝都。


 私は思わず息を飲んだ。地図の上で見る帝都は、小さすぎる。けれどその赤は、他のどの都市よりも鮮やかに見えた。


「……載ったな」


 相馬の声が、乾いた。


 御影が紙束を開き、淡々と読んだ。


「“L-Depth対策/候補都市暫定リスト(機密)”。そして……ここだ」


 彼の指が一行をなぞる。


「“L層への移送候補”。そう書いてある」


「移送……?」


 花はいない。今日は店の都合で来られないと言っていた。代わりに、私たちの間に、花が言いそうな問いが落ちる。


 移送って、何。運ぶの。どこへ。どうやって。


 九条が鼻で笑った。


「便利な言葉よね。“消す”って言わない。“落とす”とも言わない。“ずらす”とも書かない。ただ“移送”。誰も責任を引き受けなくていい言葉」


 七瀬が壁際の書類を指で叩いた。


「こっちもだ。上から降りてきた“訓練”の文書。……消し損ねてる」


 七瀬は紙の端をこちらに見せた。削った跡の下から、まだ読める一文が顔を出している。


 連動事案。優先候補区域と重複。


 私は喉の奥が冷たくなるのを感じた。訓練と、候補。紙の上の線が、別々の机で引かれているはずなのに、同じ場所をなぞっている。


「連動ってことは……」


 七瀬が低く呟き、言葉を飲み込んだ。飲み込んでも残る苦味が、彼の目に出る。


「上の連中はもう、何かしら“決めてる”ってことかよ」


 御影は地図を切り替え、帝都の拡大図を出した。そこに薄いラインが重ねられる。深度ライン。あの“断面ライン”と同じ形をした線。


「候補都市リストの赤いマーカーは、線の上に並んでいる。海底プレート沿い、断層沿い、古い湖の跡……地質学の言葉で説明できそうな場所と、できない場所が混ざっている」


「できない場所って?」


 私が聞くと、御影は帝都を指した。


「ここだ。内陸の人工都市。——人工、という言葉がここでは重要なのかもしれない」


 九条が椅子を軋ませて立ち上がる。


「人工都市って、言い方がもう嫌。最初から“自然じゃない”って言ってるみたい」


 相馬が机に肘をついたまま、ぼそりと言った。


「自然じゃないから切り取っていい、って理屈が通る世の中だもんな」


 その言葉が、昨日までの“線の話”を、今日の“選別の話”に引きずり出した。線は、災害じゃない。ただの現象でもない。誰かの頭の中で、いつの間にか「切り取り線」になっている。


 御影が息を整え、言った。


「今、この情報を外に出せば、街は混乱する。出さなければ、私たちだけが知っている状態で、訓練が進む。……どちらも、正しくない」


 九条が眉を上げる。


「正しくない、じゃなくて。どっちも汚い、でしょ」


 沈黙が落ちた。机の上の地図だけが明るい。赤い点が、私たちの顔に反射する。


 そのとき、電話が鳴った。


 受話器を取った御影の表情が、さらに硬くなる。


「……はい。幻灯局。……ええ、記録班として。……はい、分かりました」


 受話器を置く音が、部屋に響いた。


「軍からの依頼だ。“防災訓練の様子を記録してほしい”。避難誘導の課題を洗い出したい——という建前で」


「建前ね」


 九条が吐き捨てるように言い、でもすぐに声を落とした。


「じゃあ、私たちは“訓練”を撮るの?」


 私は自分のカメラバッグに手を置いた。訓練の撮影なら、いくらでもやってきた。並ぶ人、誘導する人、拡声器の声、配られるパンフレット。全部、生活の延長として撮れる。


 でも今日の訓練は、違う匂いがする。


「訓練にしちゃ、ルートの切り方が露骨すぎないか?」


 相馬が私の代わりに口にした。


 私は頷く。


「“残す線”と“切り捨てる線”を、先に試しているみたいな……」


 七瀬が目を細めた。


「そう言うな。……言うなよ」


 言うな、と言われても、言葉は一度、形を持ってしまった。私は口を閉じ、代わりに心の中で何度も繰り返す。残す線。切り捨てる線。


 御影が淡々と手配を始める。


「灯子くんと相馬、訓練当日は路面電車が集中する地区を中心に。七瀬は会議室側の動きを追え。九条は外向けの記事の動きも見ておけ。——そして、できれば」


 御影はそこで言葉を切り、少しだけ視線を落とした。


「できれば、候補都市リストの情報は、今はこの部屋から出さない」


 私たちは頷いた。頷くしかない。


 どこか遠くで、また路面電車の鐘が鳴った。いつもの音が、今日は少しだけ不穏な合図に聞こえる。



 訓練の日は、朝から人が多かった。駅前に黄色い腕章の職員が立ち、拡声器で「訓練です、落ち着いて行動してください」と繰り返す。落ち着いて行動してください、という言葉が、落ち着いていない人間のために作られたことがよく分かる。


 私は相馬と一緒に、路面電車の車内に乗った。車内アナウンスが、いつもより硬い声で流れる。


「本日は防災訓練のため、一部区間で運行を変更します。皆さまのご協力を——」


 “訓練”という単語が、乗客の間に沈んでいく。主婦が手提げを握り直し、学生がイヤホンを外し、老人が窓の外を見た。誰も騒がない。それが、逆に怖い。


 窓の外では、人々が誘導されている。普段なら車に乗る人が歩いている。普段なら歩かない道を、普段なら歩かない人数で。


 私はカメラを構え、車内から撮った。窓枠の中に、誘導の列と案内板が収まる。ラッシュのざわめきと、不穏が混ざる。レンズ越しに見ると、訓練の列は一つの川みたいだ。人の川が、決められた方向へ流れていく。


「……ねえ」


 隣の席の若い母親が、私のカメラに気づき、小声で言った。


「撮影……何のためなんですか」


 私は一瞬、言葉に詰まった。訓練の記録です、と言えばいい。建前は簡単。でもその建前の裏に、赤い点と、候補という文字が浮かぶ。


「記録です」


 私は結局、そう答えた。嘘ではない。でも、全部でもない。


「何か、起きるんですか」


 母親は子どもの手を強く握っている。子どもはまだ訓練の意味が分からず、窓の外の列を面白がっている。


「起きないようにするための訓練です」


 そう言いながら、私は自分の声が少しだけ揺れたのを感じた。起きないようにする。……起きることが前提の言葉。


 相馬が窓の外を睨んだ。


「なあ、灯子。見ろ」


 相馬が指差した先に、案内板があった。避難ルートの矢印。路面電車が集中する地区から、川沿いの集合ポイントへ。矢印はきれいに整列している。露骨なくらい、一本の線をなぞっている。


 その矢印の形が、御影が見せた地図の線と重なって見えた。


 車内の振動が、胃の底を揺らす。私はシャッターを切った。切った瞬間、窓ガラスに薄い反射が走った。昨日の“もう一本の線路”の残り香みたいに。


「訓練にしちゃ、露骨だろ」


 相馬が低く言う。


「うん」


「……露骨でも、誰も文句言わねえんだな」


 相馬の言葉は、怒りというより、絶望に近かった。人は案内板に従う。案内板が正しいと信じる。信じるように育てられている。


 私はカメラを下ろし、母親の手元を見た。子どもの小さな指が、母親の指に絡んでいる。逃げる者と残る者の話は、私たちだけの抽象じゃない。誰かの指先の具体だ。



 川沿いの集合ポイントは、広い空き地だった。対岸には普通の日常が続いている。こちら側には集められた人々と、案内板と、腕章の職員。風が吹くと川の匂いが濃くなる。


 私は少し離れた場所から全体を撮った。群衆と案内板の対比。対岸の普通の風景。こちら側の不自然な集中。


 写真を撮る私のシルエットが、誰かの視界に入るのが分かる。視線が刺さる。刺さっても、私は撮る。撮らないほうが暴力になることがある。


 相馬が小さく呟いた。


「これ、訓練の形してるけど……切り取り線の確認だよな」


 私は答えなかった。答えたら、訓練は訓練じゃなくなる。今この場にいる人たちの足元が、さらに揺れる。


 職員が紙を配っている。避難経路の紙地図。紙を受け取る手が、老若男女の手で伸びていく。その紙の上の線は、きれいで、冷たくて、優しい顔をしている。


 私は紙地図を一枚、遠くから撮った。レンズ越しに見ると、紙の線が少しだけ赤く見えた気がした。気のせいだ。気のせいだと、何度も心の中で繰り返す。


 それでも、御影の声が頭の奥で響く。


 赤い線は、世界の側が引いた、帝都の切り取り線かもしれない。


 私はシャッターを切った。群衆。案内板。川の匂い。対岸の普通。


 そして、その全部の上に、見えない線が走っている気がする。



 夕方、局へ戻ると、御影が会議室の紙地図を机に広げていた。紙の匂いがする。人の手が触れた紙の匂い。九条がその横で、世界地図の画面を出している。赤い点がまだ灯っている。


 私は撮った写真を机に並べた。路面電車内からのカット。誘導される人々。川沿いの集合ポイント。案内板。紙地図。


 御影が紙地図のルートを指でなぞり、九条が画面上の線を拡大する。線と線が近づく。紙の線と、世界地図の線が。


 そして、ぴたり、と重なった。


 その瞬間、部屋の空気が一段だけ冷えた気がした。誰も喋らない。喋ったら、重なったことが確定してしまうから。


「……一致、してるわね」


 九条が、かすれた声で言った。


 御影が静かに息を吸い、吐く。


「訓練の避難ルートは、偶然には見えない。少なくとも、どこかで“参照”されている」


「参照って、誰が」


 相馬が言う。


 御影は首を振った。


「分からない。だが……候補都市リストの文書は、“移送候補”を選ぶ側がいることを示している。帝都の内部でも、訓練という名目で同じ線を引いている人間がいる。——二つの側が、どこかで連動している可能性は高い」


 七瀬が壁にもたれ、目を閉じた。


「上はもう決めてる、ってことか」


 九条が笑う。笑いというより、歯を見せる癖に近い。


「決めてるのは、上だけじゃないかもしれないわよ。海の底のほうの“研究者”たちも、決めてる。だって、リストを作ってるんだもの」


 私は机の上の写真を見た。紙地図の線と、画面の線が重なる。線は、線として存在している。存在しているだけで、人を動かす。


「……じゃあ私たちは」


 私は口を開いた。自分でも驚くくらい、声が小さかった。


「その線の内側にいる人たちを撮るのか。線そのものを撮るのか。……どっちなんでしょう」


 相馬がこちらを見る。七瀬が目を開く。九条が黙る。御影だけが、いつもの静かな目で私を見た。


「両方だ」


 御影は言った。


「線だけ撮れば、人は抽象になる。人だけ撮れば、線は裏で動く。——灯子くんのカメラは、その両方を同じ画面に入れられる。だから、君がここにいる」


 私は喉の奥が熱くなるのを感じた。嬉しいとか、誇らしいとか、そういう単純な感情じゃない。重い。引き受ける、という言葉が、肩の筋肉に乗ってくる。


 九条が視線を逸らしながら言った。


「……でも、撮ったものがどう利用されるか、考えなきゃね。線を撮るってことは、線を欲しがる人に餌をやるってことでもある」


「だから、出す線と出さない線を決める必要がある」


 御影が紙束を手で押さえた。候補都市リストの紙が、そこで息を止める。


 私は自分のフィルムケースを握った。撮る。残す。だけど、残したものはいつか誰かに見られる。見られた瞬間に、別の武器になるかもしれない。


 その葛藤が、私の指先を鈍くする。


 それでも、私はカメラを置かなかった。置いたら、線だけが残る。線だけが、誰かの都合で走る。


「……撮る」


 私は、結局そう言った。自分に言い聞かせるように。


「撮ります。人と、線と。両方」


 相馬が小さく頷いた。七瀬は何も言わない。でも、目が少しだけ柔らかくなった気がした。



 夜、局を出ると、帝都の灯りが遠くに見えた。ビルの窓の光。路面電車のライト。川に反射する街の色。


 街はいつも通りに見える。訓練の案内板は片付けられ、人は家に帰り、夕餉の匂いが路地に流れる。いつもの顔をしている。


 私は三上商店の前を通った。昼間の豆の紙袋はもうない。代わりに、店先に小さな黒板が出ている。「明日は大根入荷」の文字。


 その黒板の下に、今日の雨でできた水たまりがあった。水たまりに映るネオンが揺れている。その揺れの中に、ほんの一瞬だけ、赤い点が見えた気がした。


 もちろん、気のせいだ。


 気のせいだと言いながら、私は立ち止まり、水たまりを一枚撮った。こんな写真、何の役に立つのか分からない。分からないけれど、分からないものほど、後で意味を持つことがある。


 シャッター音が、小さく夜に溶けた。


 私はカメラを下ろし、遠くの帝都を見た。世界地図の上では、帝都は赤い点にすぎない。けれど、この街には豆の産毛の光があり、子どもの指があり、紙地図を握る手がある。


 赤い点の中には、生活が詰まっている。


 切り取り線がどこから来ようと、誰が引こうと——その線の内側の息遣いを、私は撮る。


 そう決めたはずなのに、胸の奥ではまだ、決めきれない何かがざわついていた。


 逃げるのか、残るのか。


 外から書くのか、中にとどまるのか。


 そして、私のカメラは、誰のために残すのか。


 答えはまだ出ない。


 ただ、今夜も路面電車の鐘が鳴った。いつもの音が、儀式みたいに街をなぞる。


 その音に背中を押されるように、私は歩き出した。


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