第56話「残す者と、逃げる者の予告線」
翌日の帝都は、驚くほどよく晴れていた。
あれほど「水の中の光」を被った夜が嘘みたいに、朝の日差しは乾いている。路面電車の鐘も、いつもの調子で角を曲がる。三上商店の前には野菜籠が並び、豆腐屋の湯気が白く立つ。人はやっぱり、平気な顔で生活を続ける。
それでも私は、息を吸い込むたびに思い出してしまう。あの低い合図音。骨に触れるノック。街の下に、もう一枚の街が重なった感触。
「灯子ちゃん、卵あるよ。今日は特別に安い」
三上のおばさんが声を張る。私は反射で頷きかけて、足元に視線を落とした。店先の石畳の隙間に、昨日までなかった細い砂が入っている。砂の色が、少し違う。
「……卵、二つください」
言いながら、私は砂の色を覚える。あれは川沿いの護岸で見た石の色に似ている。全然関係ない場所のはずなのに、同じ“混ざり方”をしている。
卵を紙袋に入れてもらい、私は幻灯局へ急いだ。今日は後始末の日だ。後始末は、派手な事件よりもずっと街に近い。派手なものはニュースになるが、後始末は生活の陰に潜る。だから、私たちが拾わないと、誰にも拾われない。
局の作業室には、昨日の疲れがまだ残っていた。薬品の匂い。乾きかけたプリントの紙。机の上に積まれた深度ログの写し。御影は窓際で、フィルムを透かして見ている。九条はコーヒーを淹れながら、わざと明るい声を出した。
「おはよう、観測者たち。生きてる?」
相馬が椅子に体を投げて、片手を上げる。
「なんとか。……味噌汁が異様にうまかった」
「それ、体が塩分を求めてるだけじゃない?」
花が笑って、でも笑いきれないまま口を閉じた。彼女の指先が、エプロンの端をぎゅっと掴んでいる。花屋の店に戻れば、今日も花を切り分け、水を替えて、誰かの生活に差し出す。その“いつも”が、今は妙に頼りない。
御影がフィルムを机に置いた。
「街のほうから、報告が上がってきている。小さなズレだ」
「小さな、ってどのくらい?」
私が聞くと、御影は淡々と答える。
「路面電車の線路が、一晩で数センチずれていた。川沿いの護岸ブロックの一部が、微妙に色の違う石に置き換わっている。高台の住宅街の神社で、古い石段の一段分だけ、別の時代の石材が混ざったように見える」
相馬が舌打ちしそうになって、抑えた。
「それ、誰が言ってきた?」
「線路は車庫の整備員。護岸は河川管理の現場から。神社は……近所の老夫婦だ。『変なことを言ってると思われたくないが』と前置きしてきた」
九条がコーヒーを置く。湯気が立つのを見ていると、昨日の“水の膜”が一瞬だけ頭をよぎる。
「つまり、余震ね。大きな揺れの後に来る、生活のほうの揺れ」
花が小さく頷いた。
「花屋の仕入れ先の人がね、今日、川沿いの道を通りたくないって言ってた。理由ははっきり言わないけど……『なんか匂いが濃い』って」
川の匂い。私は卵の紙袋を机に置いた。紙袋から、ほんのりと三上商店の匂いがする。人間の生活の匂い。
「分担しよう」
御影が地図を広げる。昨日の深度ラインの写しが重なっている。線は薄いのに、存在感だけが濃い。
「七瀬は路面電車。相馬は護岸。花は神社の聞き取り。灯子くんは……全部に顔を出せるだけ出して、最後に局へ戻れ。写真は絶対に残す」
私は頷く。カメラバッグを肩にかけると、昨日よりも重く感じた。重いのは機材じゃない。写るものが増えたからだ。
◇
路面電車の車庫は、油と鉄の匂いがした。午前の光が差し込む中、整備員がレールの継ぎ目を覗き込んでいる。
「ほら、ここ」
七瀬が顎で示す。私はしゃがみ、レールに沿って視線を滑らせた。ほんの数センチ。定規で測れば誤差と言われそうなずれ。でも、日々レールを見ている人は分かる。生活が覚えている。
「昨日の夜、最後の便を入庫してから、今朝見たら……微妙に合わねえんだよ」
整備員は帽子を取り、額の汗を拭った。
「俺らが寝てる間に、誰が動かしたってんだ。……冗談みたいだけど、冗談じゃない。車輪が削れる」
七瀬は腕を組んだまま、低く言う。
「削れるのは車輪だけじゃねえ。おまえらの“いつも”もな」
整備員は苦笑して、笑いを引っ込めた。
私はレールと石畳の境目を撮った。いつもなら、ただの金属と石の写真だ。今日は違う。ファインダーの端に、薄い影が走ったように見えた。視線を固定すると消える。瞬間だけのズレ。
「灯子」
七瀬が私の肩越しに覗く。
「写ったか」
「……写りかけた。みたい」
「はっきり言え」
「はっきり言ったら、余計に怖くなる」
七瀬は鼻で笑った。でもその笑いは、どこか苦い。
「怖くなる前に、覚えるんだよ。覚えたら、怖さに名前がつく」
私はもう一枚シャッターを切った。名前はまだつかない。でも、写真の中のレールは、確かに“微妙に別の線路”を重ねていた。
◇
川沿いの護岸は、陽の光を浴びて乾いていた。水面は穏やかで、釣り人が糸を垂れている。昨日の残響はもうない。水は水の顔をしている。
相馬が護岸ブロックの列を指で叩く。
「これだ。色、違うの分かるか」
私は近づいて目を凝らす。確かに、石の色が違う。微妙に青みがかった灰色。周囲の石よりも、少しだけ粒が粗い。
「交換したの?」
「河川の人いわく、してない。記録もない」
相馬は煙草を咥えようとして、やめた。禁煙の標識を見たのではなく、気分が煙を拒んだのだと思う。
「こういうのが一番、厄介だ。誰も『被害』って言えない。言えないうちに、街が別物になる」
近くの釣り人が、こちらをちらりと見た。気にしていないふりをしながら、耳はこっちに向いている。モブの生活感が、こんなにも薄い緊張を纏っている。
私は護岸のブロックを撮った。色の違いが、写真の中ではもっと露骨になる。違う石だけが、ほんのわずかに“新しい”光を反射する。そこだけ、時間が別の面から当たっている。
「なあ、灯子」
相馬が低い声で言う。
「昨日のやつ……もし、あれで街が本当に“断面ごと”削られるならさ。俺ら、どうすりゃいい」
唐突だった。でも唐突じゃない。余震は、こういう問いを運んでくる。
「……どうしたいの?」
私が聞くと、相馬は少しだけ目を細めた。
「逃げるなら、今のうちだ。荷物まとめて、別の街へ行けばいい。そうすりゃ、少なくとも“削られる瞬間”には巻き込まれない」
「でも」
「でも、最後まで残れば……最後の記録者になれる。誰かが『ここにあった』って言える」
相馬の声は、いつもの軽さを失っていた。冗談にできないのだ。
私は護岸の向こうの水面を見た。水は何も知らないふりをしている。でも、昨日は確かに、深さの影を街に投げた。
「相馬は、どっちがいいの」
「分かんねえよ」
相馬は短く笑い、でも笑いがすぐに消えた。
「逃げるのは卑怯じゃねえ。残るのは正義でもねえ。……ただ、俺は“守れなかった”ことがあるから、次も逃げるって決めるのが怖い」
“守れなかった事件”。彼が時々、言葉の端にだけ乗せる過去。私は踏み込まない。踏み込むのは、まだ早い。
「私も、決めきれてない」
代わりに、私はそう言った。
「どこから見てるのか。どこに立つのか。昨日の写真の中で、私は丘の上にいたけど……それだけじゃ足りない気がする」
相馬は護岸ブロックをもう一度叩き、低く言った。
「なら、せめて“戻ってくる場所”を決めとこうぜ」
その言葉が、胸の奥で鈍い音を立てた。
◇
高台の神社は、昼下がりの光の中で静かだった。鳥居の朱が少し剥げ、木の匂いが濃い。参道の石段を上ると、花が老夫婦と話しているところだった。
「……だからね、見間違いじゃないと思うのよ。毎日ここを上るから。ここだけ、足の裏の感触が違ったの」
老婦人が石段を指した。確かに、一段だけ石の質感が違う。角が少し丸い。表面の粒が細かい。色も、僅かに黄みを帯びている。
「昔の石材みたい」
花が言うと、老夫は喉を鳴らした。
「昔の、って言うとね。私はね、子どもの頃、この石段に似たのを見たことがあるんだ。もっと古い神社のほうで」
「それが、ここに混ざった?」
花の声が震える。花は震えているのに、逃げない。その姿が、妙に頼もしい。
「混ざった、って言葉はね、変だよ。……だって、こいつは最初からここにいたみたいな顔をしている」
老夫の言い方が、胸に刺さる。最初から。最初からここにいたみたいな顔で、違うものが混ざる。
私は石段を撮った。一段だけ違う質感が、写真の中ではさらに目立つ。そこだけが、少しだけ“別の時代の光”を吸っている。
花が私の横に立ち、息を吐いた。
「ねえ、灯子。もし、本当にこの街が……」
花は言葉を探す。探している間に、風鈴が鳴った。神社の風鈴。夏の気配。
「……花屋、畳むこと、考えちゃった。考えただけ。まだ、決めてない。でも……考えちゃった」
花が自分で自分を叱るように笑う。
「お花ってさ、移動できるじゃない。仕入れ先も変えられる。店も、別の街に出せる。……でも、この神社の石段は、持っていけない」
私は頷いた。
「持っていけないものを、残すのが私たちの仕事なのかも」
花は少しだけ目を細めた。
「残したら、救えるの?」
私は答えられなかった。救えない。撮っても救えない。昨日の私が、もう知ってしまったこと。
それでも、花が“考えちゃった”と言えたのは、日常がまだ残っているからだ。日常が残っているうちに、選択は芽を出す。
芽を、折らないでおく。
◇
夕方、局へ戻ると、九条が机に新聞を広げていた。彼女はペンで何かを書き込みながら、こちらを見ずに言った。
「外の新聞社がね、妙に動いてる。『線路がずれた』とか『護岸が変わった』とか、そういう話を拾い始めた。まだ小さな欄だけど」
「書くの?」
花が尋ねる。
九条は笑った。
「書かない。今は。……でも書かないってことは、外から書く道も、閉じるってこと」
「外から書く?」
相馬が眉をひそめる。
「帝都の外に出て、外から記事を書く。安全な場所で、最後の経緯をまとめる。そうすれば、少なくとも私は生き延びる」
九条はコーヒーを飲み、続けた。
「でも、帝都の中にとどまって、最後の記録者になる道もある。危険だけど、記録の密度は段違い。——どっちが正しいかは分からない。分からないから、今はまだ“芽”のままにしてる」
七瀬が窓の外を睨む。
「俺は命令が出たら撤退だ。組織としては、な」
言い切ってから、七瀬は一瞬だけ言葉を噛んだ。
「……でも、個人としては分かんねえ。命令に従うのが正しいって決めつけるのも、怖え」
御影が机の上に写真を並べる。線路、護岸、石段。どれも、微妙なズレ。微妙すぎて、笑い話にもできないズレ。
「今日の記録は、ここまで。……そして、これが問題の一枚だ」
御影は、昨日の多重露光のプリントを一枚、机の中央に置いた。帝都俯瞰。薄い断面ライン。そして——
手前に、私のシルエット。
足元の近くに、黒い長方形の影。
私は息が止まるのを感じた。黒い影は、あまりにも不自然にそこにある。地面に落ちる影の形ではない。誰かが置いた物の影に見える。でも、私は何も置いていない。
「このとき、灯子くん、何か手に持ってたっけ?」
御影が、真剣な目で問う。
「カメラと……予備のフィルムだけです。手帳なんて、持ってません」
私は答えながら、背中が冷たくなる。持っていないのに、写っている。写っているのに、次のコマでは消える。
九条が半ば冗談めかして、でも冗談にしきれない声で言った。
「未来の誰かに、あんたが何か渡されるのかもね。まだ、今じゃないだけで」
私は、思わずその言葉を反芻した。
「……今じゃない、ですか」
御影が、机の端の資料束を指で叩く。
「“任命”という言葉が、報告書にも何度か出てきていました。深度L層の観測者を“任命する”と」
任命。観測者。黒い手帳。言葉同士が、まだ繋がりきらないまま、概念の端で触れた。
私は写真の黒い影を見つめた。拡大鏡を当てると、ノイズが増え、判別できるかできないかの境界で、表紙らしきものに微かな文字の刻みが見えるような気がした。でも読めない。読めないことが、かえって怖い。
相馬が低く言った。
「それ、誰のための任命なんだよ」
九条が肩をすくめる。
「誰のため、って。——“図”を作る人のため」
御影が続ける。
「そして、その図を利用する人のため」
私は口を開いた。
「……その図に、塗りつぶされる人のためじゃない」
部屋が静かになった。静かになったからこそ、外の路面電車の音がはっきり聞こえた。いつもの音。いつもの生活。
それが、今は儀式みたいに遠い。
◇
夜、花の店の帰り道。
雨上がりの路地は、石畳が濡れてネオンを映していた。遠くで路面電車が橋を渡る。川の匂いが少し強い。昨日より、ほんの少しだけ。
私は卵の紙袋ではなく、花屋の紙袋を持っていた。白い紙の角が、雨の湿気で柔らかくなっている。こういう小さな柔らかさが、街の“いつも”だ。
相馬が隣を歩く。彼は今日は煙草を吸わない。
「万が一のときの話だ」
相馬が、ささやくように言った。
「この路地抜けた先の高台と、川沿いの橋のたもと。どっちかには必ず誰かがいるようにしようぜ」
私は笑いかけて、笑えなかった。
「避難訓練、ですか?」
「ああ」
相馬は濡れた石畳を踏みしめる。足音が、いつもより深く響く。
「“逃げるため”ってより、“ここに戻ってくるため”の、な」
戻ってくるため。逃げ道を確認するのに、戻る場所を決める。
その矛盾が、今の私たちそのものだった。
私は路地の先を見た。高台への坂。川沿いの橋。どちらも、街の中のただの道だ。だけど今は、線引きのための道に見える。逃げる者と、残す者の予告線。
灯子(胸の奥で)
(この街がもし断面ごと欠けても、どこかで誰かが“戻ってくる場所”を決めている。それだけで、今はまだ、撮り続けていていい気がした)
橋の上を、路面電車がゆっくり横切った。ライトが濡れた石畳に反射し、光の線が一瞬、路地の奥まで伸びる。
その光の線の上に、視聴者にだけ見えるような薄い断面ラインが、ほんの一瞬だけ重なった気がした。
私は立ち止まって、帝都の夜景の方角を見上げた。
どこかの高い場所で、私はまたシャッターを切るだろう。黒い手帳の影が、いつか本当に手元に落ちる日が来るのかもしれない。任命という言葉が、写真の中から現実に滲み出る日が来るのかもしれない。
まだ今じゃない。
でも、予告線だけは、もう引かれている。
私は、濡れた石畳の上でカメラを握り直した。




