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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第55話「世界断面図、帝都を通過する」

 路面電車の鐘が、いつもより遠く聞こえた。


 朝の帝都は、薄い霧をまとっていることが多い。けれどその日の霧は、目に見える白じゃない。空気そのものが、どこか“水”っぽい。息を吸い込むたび、肺の奥がひやりとして、私は自分の胸骨が水槽のガラスになったみたいな感覚に襲われた。


 幻灯局の玄関で靴を脱ぎながら、相馬が鼻で笑った。


「おまえ、今日は妙に静かだな」


「静かっていうか……耳が、変」


「耳?」


 私は頷く。街の音の端っこに、薄い残響が混ざっている。川の方角から来る水音が、一拍遅れて自分の背中を叩くみたいに返ってくる。まだ何も起きていないのに、すでに“遅延”がある。


 作業室の扉を開けると、九条が既に机の上を片付けていた。紙束の角を揃え、フィルムケースを並べ、壁のコラージュの前に小さな椅子を置いている。彼女がこういう準備をするときは、だいたい良くない。


「来たわね。……これ、読む?」


 九条が差し出したのは、薄い封筒だった。海外の通信社を経由した印。中身は短い通達と、いくつかの添付資料。文字の整い方が、観測を仕事にしている人のそれだ。


『L層深度に対する全地球同時観測“SYNC-DEPTH”を、指定日時に実施予定。沿岸都市・内陸都市の観測者は、同時刻の異常記録を共有されたし。』


 私は紙を持つ指が、ほんの少し冷たくなるのを感じた。全地球同時。深度。協力観測者。


「帝都も、巻き込まれたってこと?」


 花が壁際から覗き込む。彼女は今日、いつもより髪をまとめている。動きやすいように、気持ちを固めるように。


「巻き込まれた、というより……こちらが、見つけられたのよ」


 九条が肩をすくめる。


「前に出した沿岸都市の記事と、あなたたちの写真。向こうの“研究者コミュニティ”で噂になった。異常地形の記録を集めてるらしいって」


 御影が地図を引き寄せた。深度マップの断片と帝都の地図を重ねたまま、赤い線をペンでなぞる。線は、川べりをかすめ、住宅街の階段を横切り、軍用地の端を撫でていた。


「観測ポイントを設定する。川べり、高台の住宅街、路面電車の交差地点、補給基地周辺」


 淡々とした声なのに、言葉の先が刃みたいに鋭い。


「世界の別々の場所で、同じ深さを一斉に“叩く”。そのとき、この街の欠け方にも何か出るかもしれない」


 相馬が机に肘をつき、私の方を見た。


「で、おまえはどこだ」


「丘の上。……俯瞰で撮れって」


「俺は補給基地か。……七瀬は?」


 背後で扉が鳴った。七瀬が入ってくる。乱暴に見えるけど、靴を揃えるところは妙に丁寧だ。


「呼んだ?」


「おまえは路面電車の交差地点」


 御影が紙を渡す。七瀬は目を走らせ、舌打ちを飲み込んだ。


「路面電車のガラスに“余計な線路”が映るとか、そういうやつだろ。……ここんとこ、ずっと余計だらけだな」


 九条がペンを回しながら、私を見た。


「灯子。今回、写真は局に直送。現像は私がやる。あなたは撮ることに集中して」


「……共有は?」


「共有しない。少なくとも、今夜は」


 言葉の“線引き”が、机の上に見えない形で引かれた。


 私はカメラバッグを抱え直した。シャッターを切る、という行為が、何かの協力になってしまう。それでも、切らないと“雑な図”が出来上がる。雑な図は、誰かに都合よく塗りつぶされる。


 私たちは、どちらの怖さと付き合うかを選ばされている。



 観測時刻まで、まだ少し時間があった。


 局の前の路地で、私は三上商店のシャッターの前を通る。いつもなら、三上のおばさんが声をかけてくる。今日は店が閉まっている。おかしいわけじゃない。でも、“いつも”がないことが、最近は妙に引っかかる。


 路面電車の停留所へ向かう途中、二人連れの学生がすれ違った。


「ねえ、今日さ、変な噂知ってる? 空が一瞬、水の色になるって」


「は? 何それ」


「わかんないけど、川のほうでさ、音が遅れて聞こえたって」


 笑いながら言っている。笑えるうちに言っておく、という速度。私はその背中を見送りながら、喉の奥が乾くのを感じた。噂は、もう下だけのものじゃない。街の表面を這い上がってきている。


 丘へ向かう坂道は、石畳の端が湿っていた。朝露にしては冷たい。私は手袋の中で指を動かし、カメラのダイヤルを確かめる。フィルムの残り枚数。露出。焦点。


 丘の上の小さな公園に着くと、帝都が見下ろせた。川が銀色にうねり、倉庫街の屋根が整然と並び、遠くに軍用地のフェンスが薄く光る。路面電車の線路が、街を縫うように走る。


 私はここで、ただ待つ。


 不意に、無線の受話器が鳴った。九条の声。


「各地点、準備は?」


 私は口元を押さえ、答える。


「丘、準備できてます」


 遠くで相馬が短く返事をした気配がする。七瀬も、ぶっきらぼうに何か言った。御影の声は作業室から、落ち着き過ぎるほど落ち着いている。


「開始まで、二分。……灯子、街を“普通”に見ておけ」


「普通に?」


「異常が出た時、普通との差分が必要になる」


 私は息を吐いた。普通。帝都はいつから普通じゃなくなったのか。いや、帝都はずっと普通で、普通の下に別の層があるだけだったのかもしれない。


 私はファインダー越しに街を覗く。川面の反射。倉庫の影。煙突の白い煙。人々の小ささ。生活の粒。


 そして、時刻が来た。



 帝都の上空が、すっと一段暗くなった。


 雲が増えたわけではない。太陽が隠れたわけでもない。なのに、光の“質”が変わる。緑がかるわけでも青がかるわけでもないのに、確かに水の中の光だ。薄い膜が街全体に張られ、私の眼球にだけ水が入ったみたいな違和感が走った。


 川の方角から、音が来る。


 水面のさざめきが、遅れて届く。ひとつの音が二回鳴る。鳴っていないのに鳴る。


 無線が小さく雑音を含んだ。


「……来たな」


 相馬の声だった。補給基地の方から。


 私はシャッターを切った。


 最初の一枚目は、いつもの帝都だった。倉庫街も、屋根も、煙突も、街角も。


 二枚目。


 街並みの下に、薄い輪郭が写り込む。まるで、古い写真を上から重ねて焼き付けたみたいな多重露光。モノクロのレイヤーが、現実の色の下でうごめいた。


 消えた階段。


 消えた市場。


 過去に撮った、あの“境界”のある街角。


 どれも、私の記憶の中にしかないはずの断面が、レンズの中で“ただの輪郭”として浮かび上がる。


 私は喉の奥が、思わず鳴るのを止めた。


 シャッター。もう一枚。


 三枚目では、輪郭が少し濃くなる。街の底に、別の街が“寄りかかって”いるのが見える。写真という媒体だけが、層の境目を掬い上げる。


 私は、息を吸うのを忘れた。


 灯子(胸の奥で)

(この街は、今ここに立っている層だけじゃなくて、切り取られた断面ごと、幾重にも重なっていたんだ……)


 無線が、急に低いノイズを吐いた。


「……倉庫の縫い目、濃くなってる」


 相馬の声。普段なら笑って誤魔化すのに、今日は誤魔化せない。


「壁の向こう、何か見えた。岩肌……いや、海底みたいな」


 海底。あの言葉を聞いた瞬間、私の背筋が凍った。昨日まで壁に投影されていた深度マップが、今、現実の壁の向こうに“顔を出した”。


 七瀬の声が割り込む。


「路面電車だ。窓ガラスに……線路が二本映ってる。走ってねえ方の線路が、街の下に潜ってる」


「潜ってる?」


 九条が作業室から問う。緊張が声に滲んでいる。


「潜ってるっていうか……窓に反射してるくせに、奥行きがある。水槽の底みてえに」


 私は撮り続けた。指が震えない。震える前に、身体が機械になってしまった。


 帝都の俯瞰が、写真の中で“切片”になる。街が一枚の皮ではなく、幾層にも重なった断面であることが、レンズの中で証明されていく。


 不意に、空の色がさらに深くなった。


 青黒い。深海の、光の届かない手前の色。


 遠くで、低い合図音がした。ソナー音のような、腹の底に響く低い“ノック”。耳ではなく骨で聞く音。


 相馬が唸る。


「これは……向こうからの“ノック”かよ」


 その言葉に、私の喉がやっと動いた。


「……ノックに、返事をしちゃってるのかな」


 無線の向こうで、一瞬だけ静寂が落ちた。


 九条が、乾いた声で言う。


「返事をしないで観測はできない。……でも、返事の仕方は選べる」


 御影の声が続く。


「灯子、写真を。最短で。今の断面が、消える前に」


 私はファインダーを覗いたまま、帝都の全体を捉える。川、倉庫街、住宅地、電車の線路、軍用地。すべてが、薄い水の膜の下にある。


 そして、シャッターを切った。


 その瞬間——


 写真の中で、街全体に一本の線が走った。


 白でも赤でもない。光の欠損としての線。深度マップの溝のような線。街の断面を結ぶ“世界断面ライン”。


 私は、思わず声を漏らした。


「……線が、残った」


「残った?」


 九条が息を飲む。作業室のモニターでは、世界地図が開かれているはずだ。参加している各都市に異常マーカーが点る。沿岸都市。内陸の古い湖の跡地。人工的に整地された都市。点と点が、一本の図形で結ばれていく。


 九条が言う。


「この線、海底の溝と、消えかけてる街と、ぜんぶまとめて一枚の図形にしようとしてない?」


 御影が低く答える。


「“世界断面図”。深さで見た地球の切り身、みたいなものだとしたら——帝都は、その切片のひとつにすぎない」


 私は、写真の中の帝都を見た。俯瞰の街が、世界地図の上にオーバーレイされる想像が、頭の中で勝手に再生される。帝都が小さな点になる。切片になる。断面の一部になる。


 なのに。


 私はここで、シャッターを切っている。


 この断面を、誰よりも近くで、誰よりも細かく。


 私は無線に向かって、言葉を吐き出した。


「……この街の断面を、私たちが撮り続けなかったら、世界の図はもっと雑なままなんでしょうか」


 九条が笑うような息を吐いた。


「雑なまま、都合のいいように塗りつぶされるかもね」


 相馬が、どこか遠い声で言う。


「塗りつぶす前に、削ってくるやつもいる」


 七瀬が吐き捨てる。


「だから、撮っとけ。雑でも、塗られても、消されるよりはマシだろ」


 胸の奥が、痛む。正しさじゃない。優しさでもない。生存のための線引き。


 その時、空がふっと軽くなった。


 水の膜が剥がれたみたいに、光が元に戻る。川の音の遅延が消える。街の色が戻る。深海の青黒さが引いていく。


 SYNC-DEPTHが終わった。


 何事もなかったように、帝都は帝都の顔をする。


 けれど、私のカメラの中には、残った。


 写真の中にだけ、一本の断面ラインが残り続ける。



 局に戻ると、作業室は暗室の匂いがした。薬品と紙と、熱を持った機械の匂い。九条がすでに現像の準備をしていて、御影がモニターのログを睨んでいる。花は壁のコラージュの前に立ち、指先で糸を押さえていた。糸が揺れる。世界が揺れる。


 私はフィルムケースを九条に手渡した。手が震えていないのが、怖かった。


「……見せないの?」


 私が聞くと、九条は目を上げずに答えた。


「誰に?」


「向こうに。海洋研究機関に」


 九条の手が一瞬止まった。それから、ゆっくり動き出す。


「今日撮れたものを、今日返したら。向こうは“次”を決める。次は、もっと強く叩く。もっと深い層を。——だから、返すなら線引きをする」


「線引き」


 御影が、ようやくこちらを見た。


「幻灯局が決める。……いや、灯子。最終的には、あなたの写真が決める。あなたが何を写し、何を写さなかったかが」


 私は息を飲んだ。カメラは私の手にある。責任もそこに乗る。


 相馬が椅子に座り込み、首の後ろを掻いた。


「今日のは、災害でも資源でもないな。……単純に、ノックだ」


「ノックに返事をしたら、扉が開く」


 花が、ぽつりと言う。


「扉の向こうが、海の底みたいな場所だったら……」


 言葉が途中で消える。誰も続きを言わない。言ってしまえば、現実になる気がした。


 九条が現像液の温度を確かめながら、唇を薄くした。


「ねえ、灯子。あなた、今日の写真を見て……怖かった?」


 私は考えた。怖かった。怖い。けれど、それだけじゃない。


「……怖かった。でも、それ以上に——」


 私は、自分の声が少しだけ掠れるのを感じた。


「“ここにあった”っていう層が、こんなにたくさんあるのに、誰かの都合で一枚にまとめられるのが嫌だった」


 九条が、ほんの少しだけ笑った。頷いた、とも言える。


「それが、あなたの軸よ」


 暗室の赤い灯りの下で、フィルムが静かに水の中を滑る。像が浮かぶまで、まだ少し時間がある。けれど、私は分かっていた。像は浮かぶ。断面ラインは残る。


 私は黒い手帳を取り出し、最後のページを開いた。インクの匂いが、鼻の奥に刺さる。


『世界は、切り身みたいに切られている。』


 書きかけて、私は止めた。言葉にしすぎると、世界が固まってしまう。私たちは、まだ“だいたい分かる”ところで止めなければならない。言葉は、利用される。


 そのとき、現像槽の中で、フィルムの像が立ち上がり始めた。


 帝都の俯瞰。


 その上を走る、一本の線。


 私は息を止め、目を細める。


 灯子(胸の奥で)

(……この断面を撮っているのは、私たちしかいない)


 小さく、路面電車の鐘が鳴った。窓の外の帝都は、何事もない顔で夜を迎えている。


 けれど私は知ってしまった。


 夜の下に、深さがある。


 その深さが、こちらを叩いた。


 そして私たちは——返事をした。


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