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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第54話「深度マップと、街の断面」

 朝の台所で、湯気がひと筋、窓の曇りに吸い込まれていった。


 やかんの口から立つ白が、ふと、あの階段の踊り場を思い出させる。白く飛んだ断面。そこが“途切れている”というより、“まだ描かれていない”みたいだった感触。私は湯呑みに茶を注ぎ、手帳を開く。黒い表紙の角が、いつもより硬い。


『線は、生活の階段を削った。』


 昨夜、書き足した一行は、乾いたインクのまま私を見返していた。


 戸を叩く音がした。軽い。迷いのない叩き方。


「入るぞ」


 相馬だった。返事をする前に、彼は勝手に扉を開け、紙袋を掲げた。


「三上のとこで、余りもんのパン。朝から顔色悪い局員がいたらしくてな」


「私?」


「おまえ以外に誰がいる」


 相馬は台所の椅子に腰を下ろし、紙袋を置いた。パンの匂いが、家の冷えた空気を少しだけ柔らかくする。日常はこんなふうに、匂いで戻ってくる。


「今日は局で作業だっけ」


「……そう。九条さんから、また何か来るって」


「“返事”の次は、何が来るんだろうな」


 相馬の声に、軽さはない。軽く言おうとして、できない感じだけが残る。


 私はパンをちぎり、口に運んだ。噛む音が、いつもの部屋に馴染む。だけど、飲み込んだ後の喉の奥が、少し冷たい。


 何かが、深いところから来る気がする。


 外では路面電車が走った。窓ガラスが微かに震える。帝都の朝はいつも、音の層が薄い霧みたいに重なっている。その下に、見えないもう一枚の層があるような気がしてならない。



 幻灯局の作業室は、昼でも薄暗い。


 窓にかけた厚いカーテンが光を遮り、代わりに机の上のライトが局所的に世界を照らす。紙の端、フィルムの縁、地図の赤線。明るい場所は、必要な分だけでいい。


 九条が来たのは、遅い午前だった。珍しく手ぶらに見えたが、それは錯覚だった。彼女の腕には小さな箱と、封筒が二つ。さらに、革のケースが一つぶら下がっている。


「おはよう。……今日は、ちょっと嫌な荷物よ」


 九条はそう言って、箱を机の上に置いた。紙が擦れる音が、静かな部屋に響く。


 御影もすでに居た。軍基地の件で眠れなかったのか、目元が少しだけ固い。花は奥の書類棚の前で、指先にインクをつけたまま立っている。相馬は、壁にもたれて缶コーヒーを揺らしていた。


「国外から?」


 御影が箱のラベルを見て言う。


「ええ。差出国名はぼかされてる。いつもの“そこそこ丁寧な匿名”ってやつ」


 九条が封筒を切り、紙束を取り出した。中身は写真でも新聞でもない。薄い紙に印刷された、数字と線の羅列。見慣れない記号。注釈の多い図。


「……“都市の断面”じゃなくて、今度は“海の底の断面”ってわけね」


 九条が息を吐く。冗談にしたいのにできない時の声だった。


 封筒の底から、もう一枚、手紙が落ちた。短い文。整った筆跡。言葉の温度が低い。


『異常地形の記録を集めていると聞いた。あなた方の写真に見られる歪みと、我々の観測結果の一部が一致する。偶然か?』


『この現象は、一定の“ライン”に沿って現れる。』


 私は紙を読むだけで、背中が少し冷えた。観測者の言葉だ。見ていることに慣れた人の書き方。


 相馬が唇を歪める。


「……海の底まで、線が通ってるって話か」


「まだ、話よ」


 御影が落ち着いて言い、九条に目を向けた。


「中身を見ましょう。九条、プロジェクターは」


「用意してある。……というか、向こうが“見てほしい形”で送ってきてる」


 九条が箱を開けると、そこには小さなフィルムの束と、折り畳まれた紙の地図が入っていた。海図ではない。等高線のような細い線が無数に走っている。


「深度マップ……?」


 花が小さく呟く。彼女は地図を見る時、まるで布の柄を読むみたいに目を動かす。


「海底地形の等高線。あと磁場と重力の観測結果。……説明書きがついてる」


 九条は紙束をぱらぱらとめくった。ところどころ、黒塗り。伏せ字。切り取られたように空白の段落。


『ある深度以降のデータは機密。』


『一部の観測点では、記録そのものが欠損。』


 欠損。海の底でも、記録は“欠ける”。


 御影が机の端を指先で叩いた。


「投影しましょう。全体を見ないと、話にならない」


 九条がスイッチを入れる。機械の唸り。小さな風の音。やがて、壁に青白い光が灯った。


 海底の谷や尾根が、網の目のように広がる。深さの線が、幾重にも重なって、まるで巨大な掌の皺みたいだった。私は目を凝らす。地図の読み方を知らなくても、一本だけ、違う線があるのが分かる。ほかの等高線とは違う、妙に滑らかで、しかし強引な線。


「……あれ」


 花が、指先で空をなぞる。


「一本だけ、変。谷でも尾根でもないのに、境界みたいに走ってる」


 御影がうなずき、こちらを見た。


「帝都の地図、出して」


 私は棚から、帝都の地図を引っ張り出した。49話から、壁に貼り、ピンで止め、糸で結び続けた世界地図。赤いライン。消えた街の印。川べり、住宅地、基地——。


 御影はそれをライトボックスの上に置き、深度マップの一部を透かすように重ねた。紙が重なる音。重ねるたびに、世界が薄い膜を増やす。


 そして——。


「……一致してる」


 相馬が低く言った。私も息を止める。


 海底の“妙な線”が、帝都を通過する空白ラインと、ほぼ同じ図形をなぞっていた。角度も、曲がり方も、わずかな揺らぎまで似ている。


 御影が、ほとんど独り言みたいに呟く。


「地上の“線”と、海の底の“溝”が、同じ図形をなぞっている……?」


 相馬が肩をすくめた。


「世界の表面だけじゃなくて、底のほうでも何かが削れてるってことか」


 削る。あの言葉がまた、胸の奥で痛む。


 九条が手紙を軽く叩いた。


「送ってきた人たち、これを“溝”って呼んでるみたいね。深度の段差。磁場と重力の異常。……でも肝心なところは黒塗り」


「機密?」


「そう。あと、“欠損”。観測点そのものが、抜け落ちてる」


 私は壁に映る等高線を見つめた。深さの線は、地図の上でしか見えない。けれど、そこに描かれるのは、海の底の“形”だ。形が削られている。なら、削られるのは海だけじゃない。地上の街も、同じまな板の上にある。


 ふと、九条が笑った。


「もし“削る手”が一つなら、海も街も、同じまな板の上に乗ってるみたいなもんね」


 笑い方は軽いのに、言葉は重い。まな板。削る手。包丁。あの情報部員が言った“削ってくれる”が、嫌な形で繋がる。


 御影が目を細め、黒塗りの部分を指でなぞった。


「……ここ。深度の表記がコードになっている。『L層』『L級断面』……」


 相馬が眉をひそめる。


「なんだそれ」


「向こうの世界の呼び方でしょう。深度を“層”で扱っている。軍の階層みたいに」


 九条が紙束をめくり、あるページを示した。端に、小さな文字列。数字とアルファベットの組み合わせ。見慣れない地点コード。


「この観測点。……ここだけ黒塗りじゃない。残ってる」


 御影が覗き込み、何も言わずに息を吸った。その沈黙が、わずかな確信の匂いを持っていた。


「……将来、何かに繋がる印でしょうね」


 九条が小さく肩をすくめる。


「視聴者だけが気づくやつ。画面端に映るだけで、意味が分かる人には分かるっていう」


「九条、今それ言うの」


 花が苦笑する。けれど、苦笑の奥に緊張がある。笑いでしか逃げられない時の空気。


 私は壁の投影を見つめ続けた。深い青黒い線。谷のようで谷でない溝。そこに重なる帝都の輪郭。街の形が、海の底の形の上に置かれているみたいで、頭が眩む。


 この街は、地面の上に立っていると思っていた。けれど、もし本当は“深さ”の上に立っているのなら——。


 私たちが撮っているのは、街だけじゃない。街の下にある影だ。



 作業室の壁は、午後になるにつれて“作品”みたいになっていった。


 プリントアウトした写真。地図の切れ端。海底の深度マップの小さな断片。軍基地の倉庫の縫い目。川べりの二重港。階段の白い踊り場。消えた街の断面。


 それらが、ピンとテープで貼られ、糸で結ばれ、互いに視線を交わすみたいに並ぶ。


 私は自分の写真を一枚ずつ壁に足しながら、ふと気づいた。どの写真も、“なめらか”じゃない。欠け方が、妙に均されている。削った後で整えたみたいに。


「海の底の“溝”と、街の“欠け方”が似てる気がします」


 私は口に出してしまった。言葉にすると、怖さが増すのに。


「どっちも、なめらかじゃなくて……一回ガリッと削ってから、残りを整えてるみたいな」


 九条が私を見て、少しだけ笑った。


「いい比喩。ガリッとね。……それ、記事にしたら読者が寒気を覚えるやつ」


「記事にするの?」


 相馬が即座に突っ込む。九条が肩を上げる。


「しないわよ。今は。……今書いたら、軍も行政も“まな板”を欲しがる」


 御影が頷いた。


「情報を出せば人が動く。動く人には、守ろうとする人もいれば、利用しようとする人もいる。——線引きは、ここでも必要」


 線引き。私たちは、線を追い、線を撮り、線を引かされる。


 私は壁の写真の間を見た。糸の影が、壁に細い線を作っている。投影された深度マップの線と重なって、一瞬、どれがどの線か分からなくなる。


 その混ざり方が、怖い。線はいつも、混ざって、境目を曖昧にする。



 夕方、御影が言った。


「実験をしましょう。帝都の立体地形図に、深度マップを投影する」


 九条が眉を上げる。


「上空からの“深度投影”。……アニメ映えするやつね」


 花が机の上に、帝都の等高線データの資料を並べた。相馬が椅子を引いて、パソコンの画面を覗き込む。私はカメラを手にしたまま、息を整えた。


 画面に、帝都の俯瞰図が映る。街区の輪郭。河川。丘陵。そこへ、海底の深度ラインを透明レイヤーとして重ねる。線がずれて、またずれて、重なりかけては離れる。


「パラメータ、少し変える」


 御影がキーボードを叩く。相馬が缶コーヒーを置き、画面に身を寄せた。


 線が、ずれる。ずれる。ずれる。


 そして——。


 ある瞬間、帝都の街区と海の谷が、ぴたりと噛み合った。


 私の背中に、鳥肌が立った。


 街の輪郭に、海底の溝がぴったり沿う。河川が、深度の谷と重なる。丘陵が、尾根の影と一致する。まるで帝都が、海底の型に押し付けられて作られたみたいに。


 御影が、低い声で言った。


「もしこの仮説が正しければ、帝都は“海底マップ”の上に梱包されてるみたいなものだ」


 梱包。包まれる。箱に入れられる。


 私は画面から目が離せなかった。帝都が、どこかの深さの上に置かれている。置かれている、というより——載せられている。


 相馬が唇を噛む。


「じゃあ、海の底で何かが動いたら、帝都のどこかが連動して欠ける可能性があるってことか?」


 御影はすぐには答えなかった。答えは、まだ言葉にならない。けれど、沈黙が答えみたいに重い。


 九条が笑いかけて、笑えずに言う。


「……帝都って、昔から“見えにくい街”って話だったけど。今度は“深い街”ってこと?」


「深い、というより」


 花が小さく言う。


「……“深さに触れてる街”」


 その言い方が、胸の奥を撫でた。触れている。帝都は、深さに触れている。だからこそ、見えにくい。だからこそ、欠ける。


 私はカメラのファインダーを覗いた。モニターに映る“まな板”の図。帝都と深度ラインが重なった図形。ファインダーの中で、それが一枚の写真になる。


 シャッターを切る音だけが、静かに響いた。


 その音は、海の底まで届くような気がした。届いてほしくないのに、届いてしまう気がした。


 私はモニターを見つめながら、心の中で言葉を並べた。


 この街は、“海の深さ”の上に立っていたのかもしれない。


 なら、私たちが撮っているのは、街と一緒に、その深さの影までなのだろうか。



 夜、作業室のプロジェクターを落とすと、壁の海底は消えた。


 だが、消えたからといって、無かったことにはならない。暗い壁に残るのは、ピンの跡と、テープの剥がれたところと、糸の影の記憶。目を閉じれば、青黒い線はまだ見える。


「今日は、ここまで」


 御影が言う。声は落ち着いているのに、背中に少しだけ疲れがある。


 九条が封筒をまとめながら、ぽつりと呟いた。


「向こうの研究者コミュニティで噂になったって言ってたでしょ。……私たちの“街の断面”が、外に漏れてるってこと」


「漏れてる、というか」


 相馬が言いかけて、言葉を選んだ。


「見つけられたんだろ。見られたくないものほど、見つかる」


 私は黒い手帳を閉じた。ページの端に、指先の温度が残る。


 外では、帝都の夜が灯っている。路面電車の音。遠くの喧騒。誰かの笑い声。台所から漏れる包丁の音。生活の音。


 その全部が、“深さ”の上にある。


 私は局を出て、三上商店の前を通った。店は閉まっているのに、硝子の向こうに瓶の輪郭が薄く見える。私は立ち止まり、息を吸った。夜の空気は冷たい。


 ふと、海の匂いがした気がした。


 帝都は内陸の街じゃない。河があり、外洋へ繋がる航路がある。海の匂いがするのは当たり前だ。


 だけど、今夜の匂いは、海面の匂いじゃなかった。もっと深いところの、冷えた石と水の匂い。見たことのない深さの匂い。


 私は立ち尽くし、耳を澄ませた。


 何も聞こえない。


 それでも、深いところで、何かが動いた気がした。


 私はカメラ鞄の留め具を確かめ、歩き出す。見えないものを見てしまったら、戻れない。戻れないのに、歩かなきゃならない。


 路面電車が遠くで鐘を鳴らした。


 その音が、海底の線の上を滑っていくみたいに響いた。


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