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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第53話「線を、盾か矛か」

 朝の三上商店は、いつもより少しだけ静かだった。


 棚に並ぶ瓶のガラスが、曇り空を映して鈍く光っている。私は小銭入れを握り、いつものように飴玉を一つだけ買った。舌の上で溶ける甘さは、どこか遠いところに置いてきた気持ちを呼び戻すみたいで、最近はあえて買っている。


「灯子、目、寝てない顔だな」


 店先に腰かけていた相馬が言った。手には缶コーヒー。私の顔を見た瞬間に決めつけるのが、相馬の悪い癖だ。


「寝たよ。……階段の件、あとで書庫に回したから」


「見た。薄い線、写ってたな」


 私は頷く。あの住宅地の踊り場に走っていた白い線は、写真の中だけでなく、私の頭の中にも残っている。見えない線が、街の中を歩いている。


 花が奥から顔を出し、帳簿を抱えたまま言った。


「今日、局に電話、何本も来てます。……“あの噂”の件で」


「あの噂?」


「川べりとか、住宅街とか。『地図が間違ってるんじゃないか』って。冗談みたいに言う人もいるけど……本気で怯えてる声もありました」


 私は飴の甘さを飲み込むみたいに、喉を動かした。


 怯えはいつも、先に声にならない。まず息が浅くなって、眠れなくなって、それから、誰かに「気のせいだ」と言われる前に、こちらに届く。


 相馬が立ち上がり、私の鞄を軽く叩いた。


「で? 今日はどこだ」


 私は答える前に、店の外を見た。路面電車が角を曲がっていく。いつも通りの音。いつも通りの速度。


「軍の補給基地」


 花が目を丸くする。


「軍……?」


「基地の近辺で地形がズレるって相談。後方支援部隊から」


 相馬が低く口笛を吹いた。


「上まで届いたか。……そりゃそうか。生活の階段が削られるなら、軍の倉庫も削られる」


 その言い方が、嫌に現実的だった。誰の生活だって、同じ地面の上にある。軍も、商店街も、住宅地も。


 私は鞄の留め具を確かめた。


「御影さんと行く。今日は」


「おう。気ぃつけろよ。相手は“相談”の顔して、別のもの見てることもある」


 相馬の言葉を、私は胸の奥に落とした。線を見ているのは私たちだけじゃない。見た瞬間に、利用の形を思いつく人もいる。



 帝都郊外の軍用補給基地は、街の喧騒から少しだけ外れた場所にあった。


 道路の脇に立つ監視塔。鉄条網。規則正しく並ぶ倉庫群。門をくぐると、空気が変わる。人の声が少なくて、物の音が多い。金属が擦れる音、荷台の軋む音、靴底が地面を叩く音。


 案内に出てきた担当将校は、三十代半ばくらいの、疲れの見える顔をしていた。階級章はきれいに磨かれているのに、目の下の影は消えない。


「幻灯局の方ですな。……来ていただいて助かります」


 将校は、最初から「助かる」と言った。こちらを試す余裕がない。つまり、本当に困っている。


「測量班に再確認させても、誤差の範囲内だと言うんです。だが、兵が……」


 言いかけて、将校は口を噤んだ。基地の中では、言葉が壁に反射する。


「足が止まっている」


 御影が静かに続けた。将校は頷く。


「ええ。物資搬入口のあたりで、倉庫の位置が“日によって微妙に違う”気がすると。気のせいで片付けるには、止まりすぎている。……写真なら、何か写るかもしれないと聞きました」


 “聞いた”。


 誰が、どこから。私はその言葉の向きを感じ取ろうとした。噂が、基地の中にも入り込んでいる。軍は情報が遅いようで、早い。遅いようで、速い。


 御影が軽く帽子のつばに触れ、礼をした。


「試します。ただし、わたしたちが写すのは“事実”です。利用のための資料にはなりません」


 将校は苦笑した。


「……それは、わたしの範疇ではないな。だが、わたしはまず、ここで働く人間が安心して歩けるようにしたい」


 その言葉に嘘はなかった。生活の階段と同じだ。軍の倉庫も、誰かの「仕事の階段」だ。



 物資搬入口のあたりは、人の動線が集中している。


 車両の出入り。荷物の受け渡し。倉庫の扉の開閉。いつもなら流れるように回る場所なのに、今日は動きがぎこちない。兵士たちが、足元を確かめるように歩いている。


 私はカメラを構えた。目で見る限り、異常はない。倉庫は倉庫で、壁は壁で、地面は地面だ。


 けれど、私はもう知っている。


 目で見えるものは、いつも遅い。


 一枚目。倉庫群を広く写す。


 二枚目。搬入口周辺の壁面を中心に。


 三枚目。角度を変えて、同じ壁を寄せて撮る。


 シャッターの音が、基地の空気を切る。兵士たちの視線が一瞬だけ集まり、すぐに逸れる。見てはいけないものを見ている人間を見るときの目だ。


「どうだ」


 将校が問う。私はまだ答えない。答えを言葉にする前に、写真の中で確かめたい。


 現像はできない。けれど、カメラの背面で確認するだけでも、違和感は写るときがある。私は画面を覗き、息を止めた。


 倉庫の壁面——コンクリートの継ぎ目のあたりに、微細な“縫い目”のような歪みが写っていた。


 ただの継ぎ目ではない。継ぎ目の向こう側が、ほんのわずかにズレている。空間が、糸で縫い合わせられた布みたいに引きつれている。


「……縫い目」


 私の声は小さかったのに、御影がすぐに反応した。


「もう一度。連続で。日を変えても同じ場所が写るか確認する」


 将校が眉をひそめた。


「日を変える?」


「今日だけの錯覚かもしれませんから」


 御影の言葉は丁寧だったが、その丁寧さの裏には確信があった。これは“その場の気分”ではない。線は、気まぐれではない。気まぐれに見えるほど、規則が見えないだけだ。


 私は壁面を何度も撮った。角度を変え、距離を変え、光の向きを変えた。縫い目の歪みは、写ったり写らなかったりした。写るときは、空気が薄くなる。写らないときでも、私は「そこにある気配」を感じた。


 将校は黙って見ていた。兵士たちも、作業の手を止めて遠巻きにしている。その目には、恐怖と、怒りと、期待が混じっていた。


 恐怖——足元が崩れるかもしれない。


 怒り——自分たちの努力が、無意味になるかもしれない。


 期待——誰かが「気のせいじゃない」と言ってくれるかもしれない。


 御影が地図を広げ、基地の配置図を上に重ねた。そこに、私たちのピンと糸の記録——川べり、住宅街、港——を重ねていく。


 そして御影は、低く言った。


「これ……49話から追っている“線”が、基地の敷地ギリギリをかすめてる」


 私は喉の奥が冷たくなった。線が、生活の階段を削り始めたのと同じように、軍用地もなぞっている。偶然にしては出来すぎている。


 将校は短く息を吐いた。


「……やはり、気のせいではないか」


 その時だった。


 廊下側から、制服の色が少し違う男が近づいてきた。将校が一瞬だけ姿勢を正す。基地の中で、誰が“上”かは、態度で分かる。


 男は丁寧に名刺を差し出した。肩書きはぼかされている。軍の内部でも、名乗り方に線がある。


「情報部——とだけ言っておきましょう」


 男は微笑んだ。笑顔なのに、目が笑っていない。


「興味深いですな。仮にこの“線”が、望ましくない街や施設を優先的に“削ってくれる”性質を持っているなら……」


 “削ってくれる”。


 その言い方に、私はぞっとした。災害を、好意のように言う。


「……事前にどこを通るか把握しておく必要がありますな」


 私は思わず口を開いた。


「“削ってくれる”って、そんな……人の住んでる場所も、生活も——」


 男は私の言葉を遮らない。ただ、最後まで聞いた上で、軽く首を傾けた。


「災害は避けるものです。しかし、災害の発生地点が予測できるなら……人は、そこから利益を引き出そうとする。そういうものです」


 御影が、柔らかい声で割って入った。


「予測できるほどの精度は、ありません。わたしたちの記録は、現象の確認に留まります」


「確認。ええ、結構。確認だけでも価値はあります」


 男は笑ったまま、少し近づく。


「線を“災害”と見るか、“防波堤”と見るか。上の人間は、その両方で考えるものでしょう」


 防波堤。


 災害を止める壁。あるいは、災害そのものを盾にする壁。


 私は言葉が出なかった。線を盾にする発想が、あまりに早い。まだ誰も線の正体を知らないのに、もう使い道を考えている。


 御影は笑顔を崩さず、しかし目だけは冷えた。


「わたしたちは、線を“盾”にも“矛”にもする気はありません。撮るのは、ここにいた人たちの事実です」


「事実は、使い方次第で武器にも盾にもなりますよ」


 男はそう言い、名刺のない胸ポケットを軽く叩いて去っていった。音も立てずに。


 廊下で二人きりになったとき、御影が小さく息を吐いた。


「……来たわね」


「上が、動き始めてる」


「ええ。上はいつも“早い”。早く動いて、遅く責任を取る」


 御影の皮肉は薄く、でも鋭かった。


 私は胸の奥の飴の甘さが、急に苦くなるのを感じた。



 局に戻ると、今度は行政からの文書が届いていた。


 建設庁——都市計画の観点から、線の位置に関する資料のコピー要請。


 内務省——危機管理の観点から、線の観測情報の共有要請。


 どちらも丁寧な文体で、しかし断れない圧がある。「ご協力をお願い申し上げます」と書かれた紙は、いつだって命令だ。


 九条が机に肘をつき、紙を指で弾いた。


「“どこが消えるか”を先に知っていたい人たち、ってわけね」


 花が不安そうに言う。


「……渡したら、どうなるんですか」


 御影はすぐには答えず、ライトボックスの上に基地の写真を並べた。倉庫の壁の縫い目。微細な歪み。基地の鳥瞰。夕方の詰所。


「渡したら、彼らは“地図”にするわ。線をトレースして、予測と計画の道具にする。避けるためにも、利用するためにも」


 私はその言葉の中の「利用する」を聞き逃せなかった。避けるためなら、まだ分かる。けれど、利用する——誰かを削るために?


 御影が続ける。


「渡さなければ、彼らは別のルートで情報を集める。もっと乱暴なやり方で。だから……線引きが必要」


 九条が笑う。


「線引き、ね。今、私たちがいちばん苦手なこと」


 笑いの中に疲れがあった。九条は記事を書く人間だ。線引きはいつだって、書く側を苦しめる。


 私は写真を見つめた。倉庫の壁の縫い目は、現象としては小さい。でも、意味は大きい。線が軍用地をなぞった瞬間に、“利用”の匂いが立ち上がった。


 私は自分の手が冷たいことに気づいた。誰のために撮るのか。誰のために残すのか。これまでの答えが、今ほど試されたことはない。


「灯子」


 御影が私を呼んだ。


「あなたは、どうしたい」


 私は答えようとして、言葉が喉で止まった。私の「したい」は、誰かに利用される危険と隣り合わせだ。だからこそ、今は軽く言えない。


 九条が代わりに、少しだけ肩をすくめた。


「全部は渡さない。渡すとしても“現象確認”の範囲。座標の精度は落とす。原版は出さない。——そんなところかしら」


 御影が頷く。


「現場の人たちを守るための共有はする。でも、誰かを削るための地図にはしない」


 花が小さく息を吐いた。


「……それが、幻灯局の線引き」


 私はその言葉を胸に置いた。線引き。私たちは、線に追われながら、線を引く側にもなる。



 夕方。基地のはずれにある小さな詰所へ、もう一度戻った。


 詰所は、基地の端にぽつんと立っていた。図面上では、ちょうど空白ラインの上に建っている場所。けれど現実には、そこは何十年も人が出入りし、煙草の煙が染みつき、机の角が擦り減り、湯飲みの底が丸くなった場所だ。


 詰所の前で、兵士が煙草を吸っていた。夕焼けが背中を赤く染める。彼は私たちを見ると、煙を吐いて短く頭を下げた。


「……あんたらが噂の」


「幻灯局です」


 彼は笑った。


「写真屋さんか。いいな。俺らの仕事は、残らねえ」


 その言葉が妙に胸に残った。仕事は残らない。生活も、残らない。残るのは、紙と、数字と、誰かの都合のいい記録だけ。


 依頼してきた将校が詰所の中から出てきて、夕焼けを見上げた。


「ここで勤務してる連中は、毎日ここで茶を飲んで、煙草吸って、愚痴を言って……それでまた持ち場に戻る。それだけだ」


 将校は少し笑った。笑い方が、疲れていた。


「もし“線”が本当にここを通ってるなら——君らの写真の中でだけでも、この詰所をちゃんと残しておいてくれないか」


 それは命令ではなかった。お願いだった。生活の階段で、佐伯が「ないことにされるのが怖い」と言ったのと同じ種類の願い。


 私はカメラを構えた。詰所。夕焼け。煙草を吸う兵士のシルエット。扉の軋み。窓から漏れる電球の光。基地の規則正しさの中で、ここだけが少しだけ「人の居場所」だった。


「……はい」


 私はシャッターを切りながら言った。


「たとえどんな風に使おうとする人がいても、ここで働いている人たちがいたってことは、ちゃんと残します」


 将校は何も言わず、ただ頷いた。その頷きは、上に向けるものではなく、目の前の現実に向けるものだった。


 私は最後にもう一枚、詰所を撮った。


 その写真の上にだけ、ほのかに浮かぶ線のような影が重なっていた。空白の断面ほど派手じゃない。縫い目ほど細かくもない。影が、地面をなぞるように走っている。


 線は、盾にも矛にもならない。ただ、通る。通って、削る。


 削られる前に、残す。



 夜。喫茶店の窓際で、私は冷めかけたコーヒーを見つめていた。表面に、電灯の光が揺れている。外を路面電車が通り、ライトが窓を横切る。いつもの帝都の夜景。


 けれど、私はいつも通りの夜景の中に、見えない線を探してしまう。


 御影が向かいに座り、封筒を机に置いた。行政への返答案。軍への報告書。どれも「共有する」「伏せる」の間に線を引いた紙だ。


「正解はないわ」


 御影が言う。


「でも、引かないと、全部持っていかれる」


 九条が砂糖をかき混ぜながら笑った。


「線を追ってるうちに、こっちも線を引く側になった。皮肉ね」


 私は詰所の写真を、封筒の中で指先で撫でた。紙のざらつき。インクの匂い。そこに写る夕焼けの色は、いつか褪せる。でも、写っていたという事実は、褪せない。


 誰のために撮るのか。


 上のためではない。利用のためでもない。


 詰所の前で煙草を吸う兵士のため。階段を降りた佐伯のため。川べりで眠れなかった港湾労働者のため。


 そして、まだ見ぬ誰か一人のため。


 窓の外で、路面電車のライトが細い筋になって流れた。帝都は今日も灯っている。見えにくい街の中で、見ている者がいる限り。


 私はカメラ鞄の留め具を確かめ、静かに息を吐いた。


 線が盾か矛か、そんな問いの前に——私はまず、線の上で暮らしていた人たちのことを撮る。そう決めた。


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