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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第52話「階段の途中で、道が途切れる」

 朝の路面電車は、まだ眠そうな顔をしていた。


 窓ガラスの内側に結露が薄く残り、車内の吊り革が小さく揺れている。私は膝の上にカメラ鞄を置き、指先で留め具を確かめた。外の景色は、いつもの帝都——広告の看板、角の煙草屋、角張った官庁街の影。その全部が、今日も「ちゃんとある」ことを証明するように並んでいる。


 けれど、昨日の川べりの二重写りが、目の奥に残っている。


 見えないものが、見えるときがある。見えるものが、急に見えなくなるときがある。私はどちらにも慣れたつもりで、結局どちらにも慣れきれないまま、毎日シャッターを切っている。


「灯子さん、今日も出ます?」


 向かいの座席で花がコートの襟を正しながら言った。小さな声。電車の揺れと同じくらい慎重な声。


「うん。相談が来た。……階段が、途中で途切れるって」


「階段?」


「外縁の住宅地。坂が多いところだって」


 花は一瞬だけ眉を寄せ、それから「そっか」と頷いた。川べりの噂は、もう帝都の中で形を変えながら広がっている。港の話が、いつのまにか「河童が出る」に化けたり、「灯りが増えた」に変わったりするように。


 誰も「道が消えた」なんて口にしたくない。変人扱いされるのが目に見えているからだ。だから、相談はいつも静かな場所へ落ちてくる。幻灯局——街の声が届く、最後の隙間みたいなところへ。



 現場は、帝都の外縁にある坂の多い住宅地だった。


 斜面に沿って階段と細い路地が入り組み、下りきるとバス通りと小さな商店街に繋がる。昼間でも影が多い。夕方になると、斜光が階段の縁を刃物みたいに際立たせる。


「ここです」


 依頼に来た中年女性——名を佐伯と名乗った——は、階段の中ほどの家に住んでいると言った。買い物袋を持つ手が、わずかに震えている。目の下に、眠れていない影。


「いつも通り降りてたんです。洗剤と……あと豆腐を買いに、商店街まで。そしたら、踊り場の先が……」


 言葉が途切れる。


「……白くて。何もなくて。落ちるとかじゃなくて、道が、そこで終わってるみたいで」


 私は階段を見上げた。


 斜面に沿って伸びる段。古いコンクリート。ところどころ欠けて、土が見えている。手すりは錆び、苔が付いている。日常の道具として擦り減った階段。


 踊り場——階段の途中にある、少し広い平坦な場所——は、確かに「やけに広く」見えた。白いペンキを塗ったわけでもないのに、そこだけ光が抜けるような空白感がある。


 何も起きていない時の「何も起きていない」を、私は信じ切れない。


「今日は……普通に見えますね」


 花が小声で言った。花も、足元を確かめるように階段の縁を見ている。


「振り返ると、戻ってたんです」


 佐伯が続ける。


「だから、私の頭がおかしくなったのかと思って。でも……そんなに怖いなら、もう出なきゃいいって自分で思うんですけど、出ないと、生きていけないじゃないですか」


 その言い方が、胸に刺さった。


 相馬が少し遅れて到着し、私たちに軽く顎をしゃくった。


「撮るんだろ。連続で」


「うん」


 私は階段の上に立ち、下まで見通すようにカメラを構えた。斜面に沿った階段は、視線が一段ごとに落ちていく。世界が、段差で区切られている。


 一枚目。


 シャッターが落ちる。像は普通の住宅街の階段。影と光。手すり。軒先の植木鉢。郵便受け。


 二枚目。


 踊り場付近を中心にして撮る。——シャッター。


 ファインダー越しに、何かが「抜けた」。


 踊り場の先が、真っ白な断面になっている。空間が、絵の具で塗りつぶされたみたいに白い。そこには道も、家も、手すりの続きもない。「ここから先は描かれていません」と言われているような白。


 私は息を止めたまま、三枚目を撮った。


 三枚目。


 さらに進んだ視点——踊り場を越えたはずの角度。そこには何事もなかったように、いつものバス通りと小さな商店街が繋がっていた。バス停の標識。魚屋の暖簾。新聞を抱えた老人。


 世界が、平然と「戻る」。


 佐伯が私の手元を覗こうとして、躊躇した。見たい。でも、見たら、もう戻れなくなるかもしれない。


「……写ってるんですか」


 声が、子どもみたいに震えている。


 私は写真をすぐには見せなかった。これは、ただの証拠ではない。恐怖に形を与えるものだ。


 けれど、放っておけば彼女は「自分がおかしい」と思い続ける。それもまた、恐怖の形だ。


「……“世界の途中経過”を見てしまったみたいな感じがします」


 私はそう言って、カメラを下ろした。相馬が眉を寄せる。


「途中経過?」


「描きかけの絵みたいに。ここまで描いたけど、その先はまだ塗られてない、みたいな」


 花が唇を噛んだ。花は「展示」や「人に見せる」側の痛みを知っている。見せることは、いつも優しさじゃない。


 佐伯は踊り場を見つめたまま、小さく首を振った。


「そんなの……そんなの、どうしたらいいんですか」


 答えはない。だから、私たちは撮る。撮ることでしか「ここにあった」を繋ぎとめられないから。



 局に戻ると、御影が会議室で地図を広げていた。


 世界地図。海図。帝都の詳細図。前回までのピンと糸の配置。その上に、今日の住宅地の位置が追加される。


 赤い線——空白ライン——が、帝都の川べりをかすめ、そして斜面の住宅地を通っている。


 御影が短く言った。


「川べりだけじゃない。ここも線上だ」


 九条が椅子に腰かけ、指で紙の端を叩く。


「世界の線が、いよいよ“人の生活の階段”を直に削り始めてる……ってことね」


 七瀬が壁にもたれて腕を組み、鼻で笑った。


「生活の階段、ね。洒落になってねえ」


 私はライトボックスに二枚目の写真——踊り場の先が白い断面になっているもの——を置いた。光に透かすと、白はさらに白く、断面の輪郭が鋭くなる。世界が紙の上で切り取られている。


「これ、足を踏み出す瞬間に“まだ描かれてなかった世界”なのかもしれない……」


 私の呟きが、会議室に落ちる。


 相馬が、苦い顔で笑った。


「描かれてるかどうかに関わらず、俺たちは足を出さなきゃならないってのが、いちばんタチ悪いよな」


 その言葉が、佐伯の顔を思い出させた。


 出ないと生きていけない。怖いからといって、生活を止められない。世界の異常は、いつも生活の方に牙を立てる。


 私は写真から目を離せないまま、ふと考えた。


 ——誰に、どこまで見せる?


 港の二重写りのときもそうだった。真実を渡すことが、必ずしも救いにならない。でも、渡さなければ、その人は「ないことにされる」恐怖に飲み込まれる。


 幻灯局は、異常を撮る局である前に、生活者の一歩を支える局であるべきなのかもしれない。


 それは、綺麗事だろうか。けれど、綺麗事を捨てると、私たちはただの覗き見になる。



 夕方。佐伯ともう一度、階段の上に立った。


 斜光が階段の縁を照らし、家々の影が長く伸びる。坂だらけの住宅街は、夕方になると迷路のように見える。路地の曲がり角ごとに、違う匂いがする。味噌汁。洗濯洗剤。古い木材。犬の毛。


 佐伯は買い物袋を持っていない。今日は、降りるだけだ。


「……本当に、付き合ってもらっていいんですか」


「はい。私も確認したいんです」


 私は先に数枚、踊り場を中心に撮った。断面は写っていない。普通の階段。普通の踊り場。普通の手すり。


 それでも、佐伯の足は動かない。怖さは、写真の中の白よりも、身体の中に残る。


「佐伯さん。……一段ずつでいいです」


 私はカメラを構える。シャッターを切る。現像する時間はない。けれど、今日の目的は「白を撮る」ことではない。


 私はポラロイドではない。それでも、いまこの瞬間の「証拠」を、彼女の手に渡すようにしたい。


 私は小さなプリントをあらかじめ用意してきていた。局で簡易に焼いたものだ。今日の階段が「ちゃんとある」写真。段の縁、手すりの錆、植木鉢の位置。現実と重なるように。


 一段。


 佐伯が足を出す。私はシャッターを切り、手元の写真を差し出す。


「ほら、ここにもちゃんと写ってます。次の一段も、一緒に撮らせてください」


 佐伯は写真を受け取る指先が震え、けれど、写真の中の階段と、背後の階段がきれいに重なるのを見て、息を吐いた。


「……写ってる。ちゃんと、あるんですね」


 もう一段。


 もう一段。


 私は一段ごとにシャッターを切り、写真を渡す。佐伯は写真を胸に抱えるように持ち、少しずつ足を出す。


 踊り場が近づく。


 そこだけ、空気が薄い気がした。白く飛びそうな場所。世界が塗り忘れそうな場所。


 佐伯の呼吸が浅くなる。


「……ここが」


「はい。——一緒に」


 私は踊り場を撮った。断面は写っていない。普通の踊り場。けれど、私の視界の端で、ほんの一瞬だけ、踊り場の先が「白く」なった気がした。瞬きをする間。影が動いたような。


 私は何も言わなかった。言えば、白が確定する。


 佐伯は踊り場に足を乗せた。写真を見た。背後の階段を見た。前を見た。


 そして、また一段、降りた。


 私たちは最後まで降り切り、バス通りに出た。バス停の前で、佐伯がふっと笑った。泣き笑いだった。


「……何が怖かったのか、自分でもうまく言えないんですけど……」


 言いながら、彼女は写真の束を見つめる。


「“ないことにされる”のが怖かったのかも」


 その言葉は、階段の白い断面よりも怖かった。


 ないことにされる。最初からなかったみたいにされる。自分の恐怖も、自分の生活も、自分自身も。


 私は胸の奥で、何かが静かに固まるのを感じた。これは、異常の話である前に、人が「自分の足元」を守る話だ。



 帰り際、私は階段を振り返って一枚だけ撮った。


 夕方の斜光。誰もいない踊り場。階段と路地が迷路のように連なる住宅街。


 写真の端を確認して、私は目を細めた。


 肉眼では見えなかった、ごく薄い白い線が、踊り場を斜めに走っている。


 白い断面ほど派手ではない。線香の煙のように細く、すぐ消えてしまいそうな線。でも、それは確かに「線」だった。世界のどこかを削っている線が、ここにも触れている。


 私はその写真を、佐伯には見せなかった。


 見せる必要がないからではない。見せれば彼女の心に、また白が立ち上がるからだ。今日の彼女に必要なのは、「階段がある」証拠であって、「世界が削られている」証拠ではない。


 私は局へ戻り、写真を書庫に回した。白い線の写った一枚は、他の原版とは別に封筒に入れ、黒い手帳の隣に置いた。


 誰のために撮るのか。


 今日の私は、佐伯のために撮った。彼女が一段降りるための写真。彼女が「ないことにされない」ための証拠。


 そして、もう一つの写真は——未来の、まだ見ぬ誰かのためのものだ。


 夜の路面電車のライトが、窓の外で細い筋になって流れた。帝都の灯りは、今日もひとつずつ点いていく。


 見えにくい街の中で、生活は続く。続いてしまう。


 私はカメラ鞄の留め具を確かめ、息を吐いた。


 足元が揺らぐなら、なおさら撮る。異常だけじゃなく、そこを歩く人の一歩ごと。そう決めたから。


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