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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第51話「川べりに、別の港が重なる」

 夕方の三上商店は、いつもよりも静かだった。


 豆を煮る音も、銭湯帰りの子どもが瓶のラムネを振る音も、遠くで路面電車が軋む音も、ちゃんとそこにあるのに、どれも薄い膜を一枚挟んだように届く。空気が乾いているから、ではない。こちらが勝手に耳を澄ませすぎて、逆に街の音を取り逃がしている感じがする。


「灯子ちゃん、これ。今日の分」


 花が紙袋を差し出す。中身はフィルムと、パンと、あとは——私の好みを知っている人間が無言で押しつけてくるような飴玉が二つ。


「ありがとう。……花、最近ちゃんと寝てる?」


「寝てますよ。灯子さんよりは」


 強がりの笑い。けれど、笑い声の下に、薄いひびがある。


 九条は店の外、掲示板の前で新聞を眺めていた。見出しの字面だけ追っているようで、目が紙の上を滑っている。前に比べると、九条は「怒り」を溜めるようになった。すぐ噛みつく代わりに、飲み込んで、あとで記事に混ぜる。


「川向こうが変わって見えるって噂、ここでも立ってるぞ」


 九条が顔も上げずに言った。


「港の夜勤連中が、話してる。『向こう岸の灯りが知らん街になってた』って」


 その語尾に、ほんの少しだけ、笑えない冗談を言う人間の照れが混じる。


 私は紙袋を抱え直した。三上のおばちゃんが鍋の蓋を開け、甘い蒸気がふわっと漏れる。人の暮らしの匂い。消えないでほしい匂い。


 そのとき、店先に見知らぬ男が立った。帽子を目深にかぶり、背中を丸めた、港の人間の姿勢。手は、汚れが落ち切らない指先で、何度もズボンの縫い目を撫でている。


「……幻灯局さん、って、ここで……」


 言いかけて、男は口を閉じた。周りの人に聞かれたくない声だ。


 花が一歩前に出た。


「はい。どうしました?」


 男は胸ポケットから、名刺を出した。前回の灯河区のとき、配ったやつだ。角が少し折れて、汗で柔らかくなっている。


「……夜勤中に、変なもの見まして」


 男は私を見た。視線が迷う。誰が責任者かを決められない人の目だ。


「向こう岸の倉庫が……こっちと、ズレて見えるんです。輪郭が。おれ、酒飲んでないし、寝てないわけでもない。けど、あれは……」


 言葉が、喉で詰まる。


 花が、私の腕を軽く叩く。行こう、という合図。


 相馬と七瀬は局にいる。九条はもう噂を嗅ぎつけている。私のカメラは、今日も重い。


 私は男に頷いた。


「……夜に、案内してもらえますか」


 男は、ほっとしたような顔をした。救われた顔ではない。もっと小さな、ただ「自分だけが変じゃない」と確認できた顔。


「はい……お願いします。ほんと、気味が悪くて……この辺一帯が、まるごと消えるんじゃないかって」


 その言葉が、私の背中を冷たく撫でた。



 夜の川べりは、風が湿っていた。


 帝都を流れる大河の中流域。古い倉庫街と、貨物用の小さな埠頭が並ぶエリア。昼間は木箱の匂いと油の匂いが混ざっているが、夜は灯りの匂いがする。電灯の熱。濡れた鉄の冷たさ。川面の黒。


「ここです」


 港湾労働者——名を山崎と言った——が、小さな事務室の窓を指さした。事務室の中では、同僚らしい男が机に肘をつき、眠気をごまかすように煙草を吸っている。窓の外、川面に灯りが揺れる。


「向こう岸、いつもは、あの町並みなんですよ。工場の煙突があって、あの看板があって……」


 山崎の指の先。向こう岸には、確かに帝都郊外の町並みがある。倉庫の影。クレーンの骨格。遠くの工場の赤い点滅灯。


 ——何もおかしくない。


 相馬が肩をすくめる。


「普通に見えるな」


「だから、余計に」


 山崎が呻くように言う。


「普通に見えるのに、ふとした瞬間に、ズレるんです。知らない輪郭が、うっすら重なるみたいに……」


 七瀬が、川面を睨んだ。


「出るなら、こっちからは見えねえ角度か。灯子、撮ってみろ」


 私はカメラを構えた。夜の撮影は、いつもより呼吸が深くなる。シャッター速度を落とし、レンズを開く。光を集める。集めすぎれば、見たくないものまで拾う。


 ファインダー越しに、向こう岸の倉庫群が見える。クレーンの骨。桟橋の角。灯り。


 そして——


 シャッターを切った瞬間、像の端に、見覚えのない輪郭が滑り込んだ。


 それは、倉庫の屋根の線が、一部だけ別の角度で折れているような。クレーンの高さが、微妙に違うような。桟橋の先が、ありえない方向へ伸びているような。


 目で見ているときは、そこに「無い」。だが、カメラは「ある」と言ってくる。


 私は背筋を伸ばした。相馬が私の肩越しにファインダーを覗こうとするが、暗くて見えない。


「どうだ?」


「……写ってる。変なのが」


 山崎が喉を鳴らした。


「やっぱり……」


 私は、胸の奥で一つの影を掴んだ。


「これ……」


 言葉にすると、確定してしまう気がして、少し間が空く。


「49話で見た、海外の“消えた港”の記事写真に、シルエットが似てます」


 七瀬が、低く笑った。笑いというより、唾を吐く前の音。


「笑えねえな」


 相馬が、腕を組んだまま言った。


「つまり今、“消えた港”が川の向こうにうっすら重なって見えてるってことか」


 山崎が、青ざめた。


「消えた……港……?」


 私は答えられなかった。答えれば、山崎の恐怖に形を与える。形ができれば、恐怖は増える。


 それでも、私は撮った。もう一枚。もう一枚。角度を変えて。埠頭の鉄柵越しに。事務室の窓枠を入れて。川面の反射を意識して。


 写真は、冷たい。撮った瞬間から、こちらの体温を奪っていく。



 局に戻ると、会議室はすぐに「作業場」になった。


 ライトボックスの上に、帝都の川べりの写真を並べる。49〜50話で受け取った海外の港の写真も出す。海図と世界地図、そして帝都の詳細図。三枚の地図をライトボックスに重ねると、赤い線が浮かび上がる。


 九条が、指で帝都の川べりを指し示した。


「ここだ。倉庫街。……そして、ここを空白ラインが横切ってる」


 赤線は、まるで最初から狙っていたみたいに、帝都の地表をかすめている。


「線が、いよいよ“街の内側”に入ってきてるわけだ」


 九条の声が、乾いている。記事にするには早すぎる。けれど、飲み込むには苦すぎる。そういう声。


 七瀬が椅子を蹴るように座った。


「川の向こうに、他所の“死んだ港”が貼り付いてるなんてよ」


 相馬は、ライトボックスの上で写真を重ねた。帝都の倉庫群の写真と、海外の欠けた港の写真。桟橋の角度。クレーンの高さ。倉庫の並び。


 ほとんど一致している。


 私は、背中の皮膚が薄くなる感覚を覚えた。世界のどこかで欠けた街が、こちらに寄りかかっている。寄りかかる場所として、帝都を選んだ。——選んだ、という言い方がもう、怖い。


 九条が私を見る。


「灯子、依頼者にどう言う」


 会議室の隅のソファで、山崎が背を丸めていた。帽子を膝の上で握りしめ、何度も名刺を見つめている。窓の外には、遠くの川面が見えるはずなのに、彼は見ない。見たくないのだ。


「……写真を見せれば、納得する。でも」


 私は言葉を探す。


「映っているのがどこの街か、よりも、この辺一帯がまるごと消えるんじゃないかっていう恐怖のほうが大きい。そこに、港が消えた写真を見せたら……」


 花が、小さく頷いた。花も、灯河区で「笑顔だけ」を撮らされたとき、写真の使われ方の怖さを知った。


 真実は、薬にも毒にもなる。


 相馬が、私の迷いを切るように言った。


「見せるかどうかじゃなくて、何のために撮ったかをちゃんと自分で決めろってことだろ」


 その言葉が、胸の中の黒い手帳に触れた気がした。『誰か一人のために』。その「一人」が、目の前の山崎なのか、未来の誰かなのか。あるいは、私自身なのか。


 私は一度、深呼吸した。


 そして、山崎の前に座った。


「山崎さん。今日は、あなたが見た“ズレ”は確認できました」


 山崎の目が、こちらを見た。救いを求める目ではない。答えを知ってしまう覚悟を決める目。


「でも、今の時点で——すぐに危険が迫っている兆候は、まだありません」


 嘘ではない。言葉の選び方で、事実の角度を変える。


 山崎の肩が、少しだけ落ちる。


「……じゃあ、俺が見たのは」


「見間違いじゃない。だからこそ、私たちが見ておきます」


 私は続けた。


「あなたが眠れないほど怖いなら、また来てください。どんな小さな違和感でも。——それが、ここで起きていることの形を教えてくれる」


 山崎は、唇を噛んだ。涙が出そうで、出ない。男の顔。


「……“見えたまま”じゃなくていい」


 山崎が、ぽつりと言った。


「あんたらが見ててくれるなら、それで」


 その言葉は、軽い頼みごとみたいに言われたのに、重かった。人が一人、夜の恐怖を生き延びるために、誰かに預ける重さ。


 私は小さく息をのんだ。胸の奥の火が、熱くなりすぎて痛い。


「……はい。見てます」


 山崎は、帽子を被り直し、何度も頭を下げた。帰り際、事務室の窓の外を一瞬だけ見た。川面の灯りが揺れている。その揺れが、彼にとって今は「消える予兆」ではなく、「まだある」の証拠であってほしい。



 次の夜。


 私は一人で川べりに立っていた。


 局には、相馬も七瀬もいる。止められなかったわけじゃない。むしろ、相馬は「一人で行くな」と言った。七瀬は「馬鹿」と言った。御影は黙って鍵を渡した。花は、何も言わずに飴玉をもう二つ私のポケットに入れた。


 私は、どうしても自分の目で確かめたかった。


 手前:帝都の倉庫街の灯。


 奥:向こう岸に、ちょっとだけズレた港町のシルエット。


 ズレは、ほんの一コマ分。人が瞬きをする間に、世界の輪郭が入れ替わる程度。その程度の異常が、いちばん厄介だ。誰にも信じてもらえないまま、当たり前になっていく。


 私はカメラを構えた。


 川面に映る灯り。鉄柵の冷たさ。遠くで鳴る貨物の音。夜風が、髪を揺らす。


 ファインダーの中で、二つの港が重なる。


 帝都の倉庫の影の上に、別の港の影が薄く貼り付く。クレーンの骨が二重になる。桟橋の角度が、二つの方向へ伸びる。


 私はシャッターに指を置いた。


 ——撮るべきか。


 撮った写真は、局の書庫に回される。私たちの地図に、線が一本増える。世界の異常が、もう一歩「街の内側」に入ったことが確定する。


 けれど、撮っても救えない。灯河区のときもそうだった。写真は、街の運命を変えなかった。変えたのは、誰がそれを持ち、どう使ったかだ。


 それでも。


 私は指に力を込めた。


 シャッターが落ちる瞬間、川面のリフレクションが不自然に静かになった気がした。波が止まったのではない。私の目の中だけで、時間が一拍遅れた。


 そして、二つの港の輪郭が、一瞬だけ完全に重なって見えた。


 帝都の倉庫街の灯と、見たこともない港の暗い影。どちらが本物かではない。どちらも本物で、どちらも脆い。


 川面の下に、もう一つの暗い世界があるように見えた。


 ほんの一瞬だけ。


 私は、ファインダーから目を離さなかった。離したら、今見えたものが「見なかったこと」になってしまうから。


 世界のどこかで欠けた街が、ひっそりとここに寄りかかっている。


 その寄りかかり方ごと、私は撮ってしまうんだろうか。


 答えは、もう出ていた。私はもう撮っている。撮ってしまう。撮らずにいられない。それが私の業であり、幻灯局の仕事であり、——この街にいる理由だ。


 帰り道、ポケットの中の飴玉が指に当たった。小さな甘さ。日常の証拠。


 局の書庫に写真を回す。山崎には、「異常は確認されたが、すぐに危険が迫っている兆候ではない」とだけ伝える。


 どこまでを見せるか。どこまでを隠すか。線引きは、いつも正しくない。けれど、線がなければ人は壊れる。


 私は局舎の屋根を見上げた。暗い空。遠くの官庁街の灯り。路面電車のライトの筋。


 見えにくい街の中で、それでも見ている者がいる。


 その「者」に、今夜の私も入っている。


 そう思うと、寒さが少しだけ和らいだ気がした。


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