第50話「見えない街の航路図」
朝、三上商店の前を通ると、煮豆の甘い匂いがいつもより強く感じられた。
それは、匂いが濃かったというより、私の感覚が敏くなっていたせいだと思う。ここ数日、私たちは地図を広げたまま暮らしている。糸で結ばれたピンの赤い線が、目を閉じてもまぶたの裏に残る。世界のどこかで街が欠け、帝都がその線の上にある——そんな考えを抱えたまま、豆の匂いを嗅ぐと、日常が急に頼りなくなる。
「灯子ちゃん、今日は顔色が薄いよ」
店先で三上のおばちゃんが言った。いつものように、湯気の上がる鍋をかき混ぜながら。
「寝不足かい?」
「……ちょっと、紙を読みすぎました」
「紙はね、食べられないからねぇ」
花が横で笑った。笑い声は軽いのに、その後ろに緊張がついてくる。
路面電車の停留所には、通勤の人たちが並んでいた。帽子のつばで目元を隠した男が新聞を読んでいる。学生らしい女の子が、手袋のまま硬いパンをかじる。誰も、街が見えなくなるなんて思っていない顔。
それが、いちばん怖い。
局舎に着くと、玄関の床に小さな荷物が置かれていた。木箱ではない。紙箱でもない。布と油紙で幾重にも包まれた、湿った匂いのする包みだった。
宛名は「帝都幻灯局」。差出人は空欄。差出国名の欄には、墨で薄く塗りつぶされた痕がある。わざとだ。消されているのではなく、最初から「見せない」ようにしてある。
「来たな」
御影が言った。声の調子は淡々としているのに、指先が少しだけ早い。
相馬が包みの周りを一周して、口を尖らせる。
「これ、監理室経由?」
「いや。郵便の印が違う。……遠回りして来てる」
七瀬が扉の鍵を確かめた。花は息を飲んだまま、私の袖を握る。九条は、椅子に腰かけて腕を組み、目だけで包みを追っている。
「開けるぞ」
御影が刃物を出した。布の結び目がほどけ、油紙が裂ける。中から現れたのは、濡れて滲んだ紙束だった。
雨で滲んだ航海日誌のコピー。古ぼけた海図。薄い紙に刷られた、どこかの港の写真。
写真の端が白く飛んでいる。桟橋の先が、途中でぶつりと途切れている。欠け方は——私たちの写真と同じ曲線だった。
喉の奥が、冷たい。
同封されていた短い手紙。封筒には、これも差出人がない。紙は薄く、触ると指が汚れそうな古さがある。
九条が、目の前に引き寄せた。
「読むぞ」
声に出すとき、九条は妙に丁寧になる。取材で、誰かの人生を扱うときの読み方だ。
『あなた方の記録に、我々の“観測結果”と同じ歪みを見つけました。これは偶然でしょうか』
『この現象は、ある特定の“線”に沿って現れるようです』
“観測結果”。
その言葉が、胸の奥で引っかかった。観測。測るのではなく、見て、記すこと。私たちと同じ動詞。
相馬が鼻で笑おうとして、うまく笑えなかった。
「偶然でしょうか、って……おいおい。こっちが聞きたい」
七瀬が海図を広げた。紙は少し透ける。赤い線が引かれている箇所がある。そこには小さな文字で、「危険区域」と書かれていた。
「……これ、航路図か」
花が指で赤い線を追う。線は海の上を斜めに走り、ところどころに小さな印が付いている。座標のような数字。押し花のような薄い影。書き込みがある。
御影が世界地図を持ってきた。前回、ピンと糸で傷だらけにした地図だ。
私たちは会議室の机いっぱいに紙を広げた。世界地図の上に、半透明の海図を重ねる。ずれないように四隅を押さえる。紙と紙が擦れる音が、妙に大きい。
そして。
赤い危険ラインが、ピンのラインと——ぴたりと重なった。
思わず息が止まった。花が小さく「わ」と言った。相馬が舌打ちした。七瀬は、目を細めたまま動かない。
「……来た場所が違うのに、同じ線」
九条が呟く。
御影は、静かに頷いた。
「向こうは、地図で先に知っていた。こちらは、写真で後から気づいた。——順序が違うだけだ」
七瀬が赤線の端を指で叩く。
「これ……帝都の外に出る船が、いつもギリギリ避けてる線じゃねえか」
「最初から“そういう航路”だったんじゃないか?」
相馬が言う。言った自分で気味悪そうに眉を寄せた。
「誰かが、ずっと前から知ってたみたいに……いや、知ってないと、こんな避け方はしねえ」
花が、声を抑えて言った。
「“そこを通ると、何かが起こる”って……誰かが、ずっと前から」
私の背中に、薄い皮膜のような寒気が張りついた。帝都の人たちが霧の向こうを怖がりながらも、当たり前のように航路を守ってきた。その守り方が、偶然じゃないなら。
私たちが暮らしている街は、最初から「見えづらい」場所に置かれていたことになる。
手紙の文面には、感情がない。恐怖も、驚きも、喜びも。淡々と、確認するように書かれている。
観測者。潜航者。深い場所を前提にした人間の呼吸。
——名前を出さないだけで、“外側”はすぐそこにいる。
御影が、航海日誌のコピーを一枚取り上げた。インクが滲んで、ところどころ読みにくい。紙の端に、小さな押し花が影だけ残っている。押し花そのものは、もうない。
御影が、そこにある文章を読み上げた。
『霧の向こうに街の灯が見えた。だが翌日、同じ位置に来てもそこには海しかなかった』
花が息を飲む音がした。
『海図のこのあたりには、古い言い伝えで“観測すると消える街”があると書かれている』
私は、喉の奥で何かが鳴るのを感じた。
観測すると消える街。
見たら、消える。
撮ったら、残るはずだったのに。
その矛盾が、私の中で火花を散らす。
「……じゃあ、私たちは」
言いかけて、言葉が続かなかった。私たちはずっと見てきた。撮ってきた。記録してきた。その行為が、街を消す側に触れていたのだとしたら。
相馬が、私の沈黙を拾ったように言った。
「灯子、まず落ち着け。今の時点で、因果は確定してない。観測すると消える、ってのは言い伝えだ」
「でも、同じ歪みがある」
私が言うと、相馬は苦笑した。
「ある。……だから、厄介だ」
御影が海図と世界地図を軽く押さえ、線をなぞるように指を滑らせた。
「帝都は、この線の“節”みたいな場所にある」
「節?」
花が聞き返す。
御影は、少しだけ言葉を探した。
「結び目だ。世界のあちこちで街が抜けているとして——その結び目の一つが、ここだということです」
結び目。
糸で繋いだピンが、机の上で絡まり合うのを思い出す。あれは地図の上の糸だった。でも今、御影が言っているのは、世界そのものの糸だ。
◇
夕方、私は外壁近くの高台に立っていた。
帝都の屋根が規則正しく並び、煙突から細い煙が立ち上る。夕暮れの空は、赤から群青へ溶けていく。街の灯りが一つずつともり、呼吸を始める。
その向こう——海の方向は、もやのような靄に包まれていた。
いつも、あそこだけが不自然にぼやけている。今日初めて気づいたわけじゃない。昔から、そうだった。帝都の端に立つと、海の地平線は「輪郭がない」。
私はカメラを構えた。ファインダーを覗く。
街の灯りは写る。屋根も、煙も、人の気配も。
でも、海の方角の靄は、写そうとするとさらに薄くなる。まるで、目で見ているときよりも「そこに何もない」ように。
私はファインダーから目を離した。
「もしかしてこの街、昔から“見える人”にしか見えてなかったのかも……」
呟きは風にさらわれる。隣で相馬が柵にもたれていた。煙草は吸わないくせに、指先だけが喫煙者みたいに落ち着きなく動く。
相馬が、苦笑する。
「それでも今こうして、俺たちはここに立ってる」
私は相馬を見た。彼の目は、笑っていない。でも、怯えてもいない。
「だったら——見てるやつが一人でもいれば十分だろ」
その言葉が、胸の奥で温かく灯った。ちいさくて、頼りない火。でも、それがないと寒さに負ける。
私はカメラを下ろし、深く息を吸った。夕方の空気は冷たい。海の匂いが、かすかに混ざる。
見えにくい街。
それでも、ここにいる。
それでも、見る。
その決意は、以前の「街のため」より、もっと小さくて、もっと個人的だ。誰かのため。たった一人のため。あるいは、自分が消えないため。
◇
局に戻ると、会議室の机には、紙と紙が重なった新しい地図が広げられていた。
世界地図に、海図を重ね、ピンと糸を足し、帝都から外洋へ伸びる航路を描き足す。消えた街の位置。危険区域の線。帝都と外洋を結ぶルート。
誰も「完成」とは言わない。地図は、完成した瞬間に嘘になる。世界が動いているなら、地図も動く。
それでも、線を引く。点を打つ。見えないものを、せめて紙の上では見える形にする。
御影が机の端を押さえながら言った。
「これが、幻灯局版の航路図だ」
九条が、わざとらしくため息をつく。
「新聞社でやったら怒られるな。『地図に感情を入れるな』って」
「感情じゃない。傷だ」
七瀬が短く言った。珍しく、九条が黙る。
花が、帝都の位置に小さな黒い点を打った。いつもの赤ではなく、黒。見えづらい街。黒点。
「……帝都って、黒い点なんですね」
「黒いって言うなよ」
相馬が言うと、花が困ったように笑った。
「ごめんなさい。でも……見えにくい、って、黒い感じがするから」
私は、その黒点を見つめた。黒い手帳の表紙を思い出す。焦げたページの端。空白。
私はポケットの中の手帳の重さを確かめた。今日は持ってきていた。持ってきてしまった。
書くべきかどうか。撮るべきかどうか。残すべきかどうか。
第3巻になって、迷い方が変わった。
正しいかどうかではない。
残したことで、何が起きるかが怖い。
でも、私は手帳を取り出した。黒い表紙が、机の上の灯りを吸い込む。
最後のページを開く。そこには、以前の一文がある。
『“公式の帝都”ではなく、“ここにいた誰か”のために撮れ』
私はペンを握った。指先が少し震える。インクが出るかどうか、試すように紙に触れた。
——ここに書いた文字も、いつか“観測”される。
観測されれば、何かが動く。
それでも。
私は一行だけ、そっと書き足した。
『帝都は、見えにくい街だ。それでも、見ている者がいる』
書き終えた瞬間、胸の中の火が少しだけ強くなった気がした。
相馬が、手帳を覗き込んで言う。
「……いいじゃん。短いのに、腹にくる」
「腹にくるって、褒めてます?」
「褒めてる」
花が笑って、コーヒーを淹れに立った。九条が航海日誌のコピーを指で弾き、呟く。
「向こうの“観測者”が、この一行を見たらどう思うかな」
御影が答えた。
「見たなら、返事が来るだろう。——返事が来るうちは、まだ繋がっている」
窓の外で、路面電車のライトがゆっくりと街を横切った。光の筋が、机の上の航路図の線と重なって見える。
航路図の端——画面の端に、名前のない小さな印がある。観測拠点らしき点。そこへ向かう線の上に、かすかに揺らめく光の粒が点々と並んでいるように見えた。
もちろん、紙の上のただのインクだ。そう思いたい。
私は黒い手帳を閉じた。表紙は冷たい。けれど、冷たいままでいい。冷たいものの上に、あたたかい火を置いていくのが、私たちの仕事だ。
見えにくい街を、それでも見続ける。
その理由を、今日やっと言葉にできた気がした。




