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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第5話「新聞の片隅の、消えた名前」

 夜明け前の帝都は、いつもより少し冷たく感じた。


 始発に近い時間の路面電車は、まだ半分も座席が埋まっていない。窓の外を流れていく川面には、ネオンの残り火が細い線になって揺れていた。高架下の市場はまだシャッターが閉まったままだけれど、どこかの店先からはもう、揚げ油の匂いがかすかに漂ってくる。


 膝の上には、いつものカメラバッグ。金属の重みが、眠気の残る身体の中でだけ、はっきりとした輪郭を持っていた。


 ポケットの中のスマホが震える。画面には、御影さんからの短いメッセージ。


『駅前で拾う』


 要件だけ。相変わらずだ。



 印刷工場は、市役所とは反対側の、川沿いの倉庫街にあった。


 高い天井と、むき出しの鉄骨。大きな高窓から、夜明け前の青白い光が差し込んでいる。その下で、巨大な輪転機が金属のうなりを上げながら動き始めていた。紙が、滝のように流れていく。インクの匂いと、わずかな油と蒸気の混じった空気が、肌にまとわりつく。


「……すごい」


 思わず、声が漏れた。


「帝都の“心臓”みたいなもんだな」


 隣で腕を組んでいる御影さんが、ぼそりと言う。


「血を流す代わりに、活字を街にばらまいてる」


 輪転機の脇の通路を、ヘルメット姿の作業員たちが忙しなく行き来していた。積み上がっていく朝刊の束が、ベルトコンベアの上を運ばれていくたび、紙同士がこすれ合う音が連なって聞こえる。


「こっちだ」


 少し離れたスペースから、手をひらひらと振る人物がいた。九条さんだ。いつものラフなシャツにジャケット。ヘルメットだけが妙に似合っていない。


「早起きは苦手なんじゃなかったんですか」


「苦手だよ。だから今から二度寝したい」


 そう言いながらも、目はもうすっかり冴えているようだった。輪転機の方を一瞥してから、私たちに向き直る。


「見たいものがあるんだろ?」


 九条さんは、印刷途中の紙面を一枚、手元に引き寄せた。まだ完全に切り離される前の、連なった新聞だ。


「ほら、ここ」


 指が示したのは、一面でも社会面でもない。ページの端のほうにある、小さな欄だった。


 行方不明・死亡欄。


 細かい文字がいくつも並ぶ中で、ひとつだけ、九条さんの指先が止まる。


「三十代男性、行方不明。最終確認日は一か月前。発見されず、捜索終了、だとさ」


 そこには、名前と年齢、それから短い状況説明のほかに、小さく住所が書かれていた。


 私は、その住所を読んだ瞬間、喉の奥がひゅっと縮むのを感じた。


「……この番地、知ってます」


「だろうな」


 九条さんは、目だけで笑った。


「この前、お前たちが“更地”として撮ってきた地区だ」


 再開発で、商店街ごと消えた場所。更地と、レンズ越しに重なって見えた、半透明のアーケード。そこに「住んでいた」ことになっている人。


 紙面の中の文字は、妙にかすれて見えた。


「街が消えたあとで、人も消える」


 輪転機の音に負けないよう、九条さんは少し声を張った。


「この街では、順番が逆になることがあるんだ」


 御影さんが、横で小さく鼻を鳴らす。


「またお前はそうやって、いいコピーみたいなことを」


「気づいてるくせに」


 軽口を交わしながらも、二人の目の底には同じ種類の苛立ちが沈んでいるように見えた。


「単なる失踪じゃない、ってことですか?」


 私は、紙面から目を離せずに問いかける。


「直感だけどな」


 九条さんは、肩をすくめる。


「で、その直感を裏付けにするのが、記者の仕事だ」



 新聞社の資料室は、印刷工場の喧騒とは別世界のように静かだった。


 蛍光灯の光の下で、古い紙面が詰まったファイルが、金属棚にぎっしりと並んでいる。紙の匂いと、インクの匂い。さっきまで“未来の紙面”を見ていたのに、今は“過去の紙面”に囲まれている。


「この地区のキーワードで検索かけて……っと」


 九条さんは、端末でデータベースを操作しながら、手慣れた動きでファイルを引き出していく。机の上に、何冊もの分厚いファイルが積み上がった。


「灯子はこっち。紙面の方をめくっていってくれ」


「はい」


 ページをめくるたびに、「あの地区」の写真が、時代ごとに姿を変えて現れる。


 まだ舗装されていない頃の路地。八百屋の店先に山と積まれた野菜。文房具屋の前に並んだランドセル。小さな映画館の入口に貼られた手書きのポスター。お祭りの日のスナップ写真には、笑っている子どもたちの顔がいくつも並んでいた。


 そこに、件の失踪者の名前が、何度か出てきた。


 祭の準備に奔走する若い店主として。再開発反対の署名活動の中心人物として。広報用のパンフレットの端に、偶然映り込んだ通行人として。


「ここにもいる」


 私はページを指で押さえる。


 モノクロ写真の片隅に、小さく、その人の横顔があった。笑っているのかどうか、判別できないくらい小さな顔。それでも、名札やキャプションが、そこにいたことを証明してくれている。


「昔は、ちゃんと“名前”があったんだよな」


 九条さんが、別の紙面を指差した。


 数年前の行方不明欄には、同じ地区から出ている別の失踪者の名前があった。今朝の紙面よりは、まだ少し大きな文字で。


「ほら、だんだん小さくなっていく」


 つぶやきは、冗談でも誇張でもなかった。


 過去の紙面を遡るほど、記事のスペースは小さく、短くなっていく。扱いも、だんだんと片隅に追いやられていく。最初は「行方不明」として写真付きで出ていたものが、次第に簡略化され、ついには単なる「所在不明者リスト」の一行に紛れ込んでいく。


 名前が薄くなっていく。


 インク自体がかすれているわけじゃないのに、そう感じた。


「警察としては、“事件性なし”で片付けたい案件なんだろうな」


 九条さんは、苦々しげに笑う。


「行き違い、家出、生活苦。そういうレッテルを貼っとけば、統計上はきれいに処理できる」


「でも、実際には……」


「あの地区ごと、地図から消えてる」


 言葉が、紙の上ではなく、空中で重なった。


 街が消え、人も消え、記録も薄くなる。


「……全部、繋げて記事にできないんですか?」


 思わず口に出ていた。


 九条さんは、少しだけ目を伏せる。


「そうしたいよ。記者だからな」


 端末の画面に映る今日の紙面案を見ながら、苦笑する。


「でも、再開発絡みは特にさ。妙にデスクのチェックが厳しいんだ」


「厳しい、って?」


「言葉尻まで気にされたり、行数を減らされたり。“不安を煽る表現は避けろ”“正確な情報源がないものは載せるな”」


 指でエアクオートを作ってみせる。


「どこからか“空気”が降りてる。そんな感じ」


 空気。名前のない圧力。誰が決めているのかわからないのに、みんな従ってしまう流れ。


 私は、自分の持っているカメラの重さを、もう一度確かめるように肩にかけ直した。


「でもさ」


 九条さんは、急に口調を軽くした。


「紙面に乗る“事実”と、人が生きてた“事実”は、必ずしも同じじゃない」


 さっきまでの資料ではなく、どこか別のところを見ているような目だった。


「載せられない分は、別ルートで残しておく」


「別ルート……?」


「ほら、これ」


 ポケットから取り出されたのは、小さな手帳だった。表紙は使い込まれて角が丸くなっている。


「俺の“もう一冊の新聞”。載せられない方が、面白い記事もあるんだ」


 ページの端には、細かい字でびっしりとメモが書き込まれていた。見出しの案のような言葉。住所。日付。名前。矢印のように連なった線。


 そこに、朝の紙面に載っていた失踪者の名前も、すでに書き込まれている。


「でだ」


 九条さんは、ペン先を軽く鳴らしながら私の方を見る。


「記事にできないなら、せめて撮っときたい。現場ぐらい押さえときたい。だから――」


 言葉の先は、すでにわかっていた。



 帝都の別の一角。夕暮れ時の路地には、もう一種類の静けさが漂っていた。


 再開発の地区からは外れているはずの、古い長屋が並ぶ通り。昼間は洗濯物と子どもの声で賑やかだったのだろうけれど、今はほとんどの窓が閉じている。


「ここだ」


 九条さんが、ひとつの家の前で足を止めた。


 外観だけがそのまま残った、半分空き家のような長屋。壁の塗装はところどころ剥がれ、雨の跡が縦に筋を作っている。玄関の横には、古いポストがついていた。


 ポストからは、新聞が溢れていた。


 昨日、一昨日、その前。そのさらに前の朝刊が、雨に濡れてふやけ、端が茶色くなっている。その上に、ちょうど今朝配達されたばかりの新しい紙面が、一枚だけきれいな白さを残して乗っていた。


「……止められてないんですね、配達」


「止める人がいないと、こうなる」


 九条さんは、ポストの縁を指で軽く叩いた。


「近所の人に聞いたら、しばらく姿を見てないらしい。警察にも相談したけど、“しばらく様子を見ましょう”で終わったってさ」


 私は、ポストのすぐ下にある小さなプレートに目をやった。


 金属製のプレートには、黒い文字で名字が刻まれている。朝、紙面で見たのと同じ名字。……に、見えた。


「撮っておこう」


 私はカメラを構えた。


 玄関とポストと、積もった新聞。プレートの文字も入るよう、角度を調整する。


 ファインダー越しに見ると、現実の風景が、少しだけ平面的になる。線と面と光に分解されていく。


 シャッターを切った瞬間、ほんの一瞬だけ、プレートの文字が滲んだように見えた。


 たまたまピントがずれただけかもしれない。夕暮れで光量が足りないせいかもしれない。


 それでも、胸の奥に、小さな違和感が刺さったまま抜けなかった。



 夜。自分の部屋。


 テーブルの上にノートパソコンを広げ、さっき撮ったデータを取り込む。外はすっかり暗くなっていて、窓の外には高架を走る電車のライトが時々横切るだけだ。


 画面に表示されたサムネイルを、ひとつずつ開いていく。


 印刷工場の輪転機。紙が滝のように流れていく様子。インクで黒く染まったローラー。青白い光が差し込む高窓。そこに立つ御影さんと九条さんの背中。


 行方不明欄の極端なクローズアップ。紙面が画面いっぱいに映り、カメラが一つの名前へズームインしている。その文字だけが、わずかに紙の繊維に引っかかったみたいに、かすれて見えた。


 そして、長屋の前。


 ポストから溢れた古い新聞の山。その上に落ちた一枚の新しい朝刊。夕暮れの斜光が、紙の山に長い影を落としている。


 最後に、玄関先のプレートのカットを開いた。


 画面の中で、銀色のプレートが、暗い壁から浮かび上がっている。黒い文字が、そこに刻まれている。


 ――違う名字。


 私は、息を飲んだ。


 朝の紙面に載っていた名字とは、別の名字。漢字の形も、画数も、全然違う。


 撮影時に見たとき、そこに何が書かれていたと認識していたのか、自信がなくなる。あのときも、本当はこの名字だったのか。それとも――。


 まばたきをしても、画面の文字は変わらない。


「本当の名前は、どっちなんだろ」


 呟きは、狭い部屋の中で自分に跳ね返ってきた。


 紙面に載った名前。ポストに刻まれた名前。私の目が覚えていた名前。どれが「その人」なのか。もしかしたら、その全部がそうで、全部が違うのかもしれない。


 ノートパソコンの横には、御影さんに渡されたメモ用紙が置いてあった。そこには、今日の取材の目的が簡単に書かれている。


 ――公式記録に残らない分を、拾うこと。


 御影さんは、印刷工場を出る前に、こんなことを言っていた。


『紙面に乗る“事実”と、人が生きてた“事実”は、必ずしも同じじゃない』


『うちは、九条みたいなのが取りこぼした分を拾う部署だよ』


 そのときは、半分冗談みたいに聞こえた言葉が、今は重くのしかかってくる。


 拾う、って何だろう。


 名前が薄くなっていく人たちを、写真にだけは残すこと? 地図から消えた場所を、ファイル名として保存しておくこと?


 ――その写真を、誰が見るのか。


 さっきから何度も頭をよぎっている問いに、まだ答えはない。



 同じころ。


 新聞社の一角では、蛍光灯の下で、まだ一人だけ机に向かっている男がいた。


 九条は、自分のデスクではなく、資料室に近い片隅のテーブルに手帳を広げていた。周囲の騒がしさが届きにくい場所。壁際の古いスタンドライトが、手元だけを柔らかく照らしている。


 印刷用の原稿ではない。社の端末にも打ち込めない。だからこそ、ペンで紙に書いている。


 行方不明者の名前の列。その横に、住所、年齢、職業。さらに別のページには、「再開発地区との重なり」「商店街跡地」「幻灯局の調査協力者」というメモ書きが、細い矢印で結びつけられていた。


 ページの端には、小さく「帝都・消えた名前特集(載せない版)」と書かれている。


「……ほんと、載せられない方が面白い記事ばっかだな」


 誰に聞かせるでもなく、苦笑まじりに呟く。


 デスクの方からは、輪転機の音とは違う、キーボードを叩く音や電話のベルが遠くに聞こえてくる。明日の紙面を整えている“公式の現場”は、そちらだ。


 ここは、その外側。


 九条はペンを止めると、手帳をぱたんと閉じた。一呼吸置いてから、表紙に指を滑らせる。


「もう一冊の新聞、か」


 自分でそう名付けたものに、苦笑しながらも、どこか誇らしげな目をしていた。


 その光景を直接見ていたわけではない。けれど、私はなぜか、その姿をはっきりと想像できた。


 輪転機が流す“公式な帝都”の裏側で、小さな手帳が、別の帝都を記録している。


 そのどちらにも、私はこれから関わっていく。


 窓の外の暗さを、もう一度確かめてから、私はパソコンを閉じた。


 インクと紙と、金属の匂い。今日一日で身体に染み付いたそれらが、布団に潜り込んでも、しばらく取れそうになかった。


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