第5話「新聞の片隅の、消えた名前」
夜明け前の帝都は、いつもより少し冷たく感じた。
始発に近い時間の路面電車は、まだ半分も座席が埋まっていない。窓の外を流れていく川面には、ネオンの残り火が細い線になって揺れていた。高架下の市場はまだシャッターが閉まったままだけれど、どこかの店先からはもう、揚げ油の匂いがかすかに漂ってくる。
膝の上には、いつものカメラバッグ。金属の重みが、眠気の残る身体の中でだけ、はっきりとした輪郭を持っていた。
ポケットの中のスマホが震える。画面には、御影さんからの短いメッセージ。
『駅前で拾う』
要件だけ。相変わらずだ。
◇
印刷工場は、市役所とは反対側の、川沿いの倉庫街にあった。
高い天井と、むき出しの鉄骨。大きな高窓から、夜明け前の青白い光が差し込んでいる。その下で、巨大な輪転機が金属のうなりを上げながら動き始めていた。紙が、滝のように流れていく。インクの匂いと、わずかな油と蒸気の混じった空気が、肌にまとわりつく。
「……すごい」
思わず、声が漏れた。
「帝都の“心臓”みたいなもんだな」
隣で腕を組んでいる御影さんが、ぼそりと言う。
「血を流す代わりに、活字を街にばらまいてる」
輪転機の脇の通路を、ヘルメット姿の作業員たちが忙しなく行き来していた。積み上がっていく朝刊の束が、ベルトコンベアの上を運ばれていくたび、紙同士がこすれ合う音が連なって聞こえる。
「こっちだ」
少し離れたスペースから、手をひらひらと振る人物がいた。九条さんだ。いつものラフなシャツにジャケット。ヘルメットだけが妙に似合っていない。
「早起きは苦手なんじゃなかったんですか」
「苦手だよ。だから今から二度寝したい」
そう言いながらも、目はもうすっかり冴えているようだった。輪転機の方を一瞥してから、私たちに向き直る。
「見たいものがあるんだろ?」
九条さんは、印刷途中の紙面を一枚、手元に引き寄せた。まだ完全に切り離される前の、連なった新聞だ。
「ほら、ここ」
指が示したのは、一面でも社会面でもない。ページの端のほうにある、小さな欄だった。
行方不明・死亡欄。
細かい文字がいくつも並ぶ中で、ひとつだけ、九条さんの指先が止まる。
「三十代男性、行方不明。最終確認日は一か月前。発見されず、捜索終了、だとさ」
そこには、名前と年齢、それから短い状況説明のほかに、小さく住所が書かれていた。
私は、その住所を読んだ瞬間、喉の奥がひゅっと縮むのを感じた。
「……この番地、知ってます」
「だろうな」
九条さんは、目だけで笑った。
「この前、お前たちが“更地”として撮ってきた地区だ」
再開発で、商店街ごと消えた場所。更地と、レンズ越しに重なって見えた、半透明のアーケード。そこに「住んでいた」ことになっている人。
紙面の中の文字は、妙にかすれて見えた。
「街が消えたあとで、人も消える」
輪転機の音に負けないよう、九条さんは少し声を張った。
「この街では、順番が逆になることがあるんだ」
御影さんが、横で小さく鼻を鳴らす。
「またお前はそうやって、いいコピーみたいなことを」
「気づいてるくせに」
軽口を交わしながらも、二人の目の底には同じ種類の苛立ちが沈んでいるように見えた。
「単なる失踪じゃない、ってことですか?」
私は、紙面から目を離せずに問いかける。
「直感だけどな」
九条さんは、肩をすくめる。
「で、その直感を裏付けにするのが、記者の仕事だ」
◇
新聞社の資料室は、印刷工場の喧騒とは別世界のように静かだった。
蛍光灯の光の下で、古い紙面が詰まったファイルが、金属棚にぎっしりと並んでいる。紙の匂いと、インクの匂い。さっきまで“未来の紙面”を見ていたのに、今は“過去の紙面”に囲まれている。
「この地区のキーワードで検索かけて……っと」
九条さんは、端末でデータベースを操作しながら、手慣れた動きでファイルを引き出していく。机の上に、何冊もの分厚いファイルが積み上がった。
「灯子はこっち。紙面の方をめくっていってくれ」
「はい」
ページをめくるたびに、「あの地区」の写真が、時代ごとに姿を変えて現れる。
まだ舗装されていない頃の路地。八百屋の店先に山と積まれた野菜。文房具屋の前に並んだランドセル。小さな映画館の入口に貼られた手書きのポスター。お祭りの日のスナップ写真には、笑っている子どもたちの顔がいくつも並んでいた。
そこに、件の失踪者の名前が、何度か出てきた。
祭の準備に奔走する若い店主として。再開発反対の署名活動の中心人物として。広報用のパンフレットの端に、偶然映り込んだ通行人として。
「ここにもいる」
私はページを指で押さえる。
モノクロ写真の片隅に、小さく、その人の横顔があった。笑っているのかどうか、判別できないくらい小さな顔。それでも、名札やキャプションが、そこにいたことを証明してくれている。
「昔は、ちゃんと“名前”があったんだよな」
九条さんが、別の紙面を指差した。
数年前の行方不明欄には、同じ地区から出ている別の失踪者の名前があった。今朝の紙面よりは、まだ少し大きな文字で。
「ほら、だんだん小さくなっていく」
つぶやきは、冗談でも誇張でもなかった。
過去の紙面を遡るほど、記事のスペースは小さく、短くなっていく。扱いも、だんだんと片隅に追いやられていく。最初は「行方不明」として写真付きで出ていたものが、次第に簡略化され、ついには単なる「所在不明者リスト」の一行に紛れ込んでいく。
名前が薄くなっていく。
インク自体がかすれているわけじゃないのに、そう感じた。
「警察としては、“事件性なし”で片付けたい案件なんだろうな」
九条さんは、苦々しげに笑う。
「行き違い、家出、生活苦。そういうレッテルを貼っとけば、統計上はきれいに処理できる」
「でも、実際には……」
「あの地区ごと、地図から消えてる」
言葉が、紙の上ではなく、空中で重なった。
街が消え、人も消え、記録も薄くなる。
「……全部、繋げて記事にできないんですか?」
思わず口に出ていた。
九条さんは、少しだけ目を伏せる。
「そうしたいよ。記者だからな」
端末の画面に映る今日の紙面案を見ながら、苦笑する。
「でも、再開発絡みは特にさ。妙にデスクのチェックが厳しいんだ」
「厳しい、って?」
「言葉尻まで気にされたり、行数を減らされたり。“不安を煽る表現は避けろ”“正確な情報源がないものは載せるな”」
指でエアクオートを作ってみせる。
「どこからか“空気”が降りてる。そんな感じ」
空気。名前のない圧力。誰が決めているのかわからないのに、みんな従ってしまう流れ。
私は、自分の持っているカメラの重さを、もう一度確かめるように肩にかけ直した。
「でもさ」
九条さんは、急に口調を軽くした。
「紙面に乗る“事実”と、人が生きてた“事実”は、必ずしも同じじゃない」
さっきまでの資料ではなく、どこか別のところを見ているような目だった。
「載せられない分は、別ルートで残しておく」
「別ルート……?」
「ほら、これ」
ポケットから取り出されたのは、小さな手帳だった。表紙は使い込まれて角が丸くなっている。
「俺の“もう一冊の新聞”。載せられない方が、面白い記事もあるんだ」
ページの端には、細かい字でびっしりとメモが書き込まれていた。見出しの案のような言葉。住所。日付。名前。矢印のように連なった線。
そこに、朝の紙面に載っていた失踪者の名前も、すでに書き込まれている。
「でだ」
九条さんは、ペン先を軽く鳴らしながら私の方を見る。
「記事にできないなら、せめて撮っときたい。現場ぐらい押さえときたい。だから――」
言葉の先は、すでにわかっていた。
◇
帝都の別の一角。夕暮れ時の路地には、もう一種類の静けさが漂っていた。
再開発の地区からは外れているはずの、古い長屋が並ぶ通り。昼間は洗濯物と子どもの声で賑やかだったのだろうけれど、今はほとんどの窓が閉じている。
「ここだ」
九条さんが、ひとつの家の前で足を止めた。
外観だけがそのまま残った、半分空き家のような長屋。壁の塗装はところどころ剥がれ、雨の跡が縦に筋を作っている。玄関の横には、古いポストがついていた。
ポストからは、新聞が溢れていた。
昨日、一昨日、その前。そのさらに前の朝刊が、雨に濡れてふやけ、端が茶色くなっている。その上に、ちょうど今朝配達されたばかりの新しい紙面が、一枚だけきれいな白さを残して乗っていた。
「……止められてないんですね、配達」
「止める人がいないと、こうなる」
九条さんは、ポストの縁を指で軽く叩いた。
「近所の人に聞いたら、しばらく姿を見てないらしい。警察にも相談したけど、“しばらく様子を見ましょう”で終わったってさ」
私は、ポストのすぐ下にある小さなプレートに目をやった。
金属製のプレートには、黒い文字で名字が刻まれている。朝、紙面で見たのと同じ名字。……に、見えた。
「撮っておこう」
私はカメラを構えた。
玄関とポストと、積もった新聞。プレートの文字も入るよう、角度を調整する。
ファインダー越しに見ると、現実の風景が、少しだけ平面的になる。線と面と光に分解されていく。
シャッターを切った瞬間、ほんの一瞬だけ、プレートの文字が滲んだように見えた。
たまたまピントがずれただけかもしれない。夕暮れで光量が足りないせいかもしれない。
それでも、胸の奥に、小さな違和感が刺さったまま抜けなかった。
◇
夜。自分の部屋。
テーブルの上にノートパソコンを広げ、さっき撮ったデータを取り込む。外はすっかり暗くなっていて、窓の外には高架を走る電車のライトが時々横切るだけだ。
画面に表示されたサムネイルを、ひとつずつ開いていく。
印刷工場の輪転機。紙が滝のように流れていく様子。インクで黒く染まったローラー。青白い光が差し込む高窓。そこに立つ御影さんと九条さんの背中。
行方不明欄の極端なクローズアップ。紙面が画面いっぱいに映り、カメラが一つの名前へズームインしている。その文字だけが、わずかに紙の繊維に引っかかったみたいに、かすれて見えた。
そして、長屋の前。
ポストから溢れた古い新聞の山。その上に落ちた一枚の新しい朝刊。夕暮れの斜光が、紙の山に長い影を落としている。
最後に、玄関先のプレートのカットを開いた。
画面の中で、銀色のプレートが、暗い壁から浮かび上がっている。黒い文字が、そこに刻まれている。
――違う名字。
私は、息を飲んだ。
朝の紙面に載っていた名字とは、別の名字。漢字の形も、画数も、全然違う。
撮影時に見たとき、そこに何が書かれていたと認識していたのか、自信がなくなる。あのときも、本当はこの名字だったのか。それとも――。
まばたきをしても、画面の文字は変わらない。
「本当の名前は、どっちなんだろ」
呟きは、狭い部屋の中で自分に跳ね返ってきた。
紙面に載った名前。ポストに刻まれた名前。私の目が覚えていた名前。どれが「その人」なのか。もしかしたら、その全部がそうで、全部が違うのかもしれない。
ノートパソコンの横には、御影さんに渡されたメモ用紙が置いてあった。そこには、今日の取材の目的が簡単に書かれている。
――公式記録に残らない分を、拾うこと。
御影さんは、印刷工場を出る前に、こんなことを言っていた。
『紙面に乗る“事実”と、人が生きてた“事実”は、必ずしも同じじゃない』
『うちは、九条みたいなのが取りこぼした分を拾う部署だよ』
そのときは、半分冗談みたいに聞こえた言葉が、今は重くのしかかってくる。
拾う、って何だろう。
名前が薄くなっていく人たちを、写真にだけは残すこと? 地図から消えた場所を、ファイル名として保存しておくこと?
――その写真を、誰が見るのか。
さっきから何度も頭をよぎっている問いに、まだ答えはない。
◇
同じころ。
新聞社の一角では、蛍光灯の下で、まだ一人だけ机に向かっている男がいた。
九条は、自分のデスクではなく、資料室に近い片隅のテーブルに手帳を広げていた。周囲の騒がしさが届きにくい場所。壁際の古いスタンドライトが、手元だけを柔らかく照らしている。
印刷用の原稿ではない。社の端末にも打ち込めない。だからこそ、ペンで紙に書いている。
行方不明者の名前の列。その横に、住所、年齢、職業。さらに別のページには、「再開発地区との重なり」「商店街跡地」「幻灯局の調査協力者」というメモ書きが、細い矢印で結びつけられていた。
ページの端には、小さく「帝都・消えた名前特集(載せない版)」と書かれている。
「……ほんと、載せられない方が面白い記事ばっかだな」
誰に聞かせるでもなく、苦笑まじりに呟く。
デスクの方からは、輪転機の音とは違う、キーボードを叩く音や電話のベルが遠くに聞こえてくる。明日の紙面を整えている“公式の現場”は、そちらだ。
ここは、その外側。
九条はペンを止めると、手帳をぱたんと閉じた。一呼吸置いてから、表紙に指を滑らせる。
「もう一冊の新聞、か」
自分でそう名付けたものに、苦笑しながらも、どこか誇らしげな目をしていた。
その光景を直接見ていたわけではない。けれど、私はなぜか、その姿をはっきりと想像できた。
輪転機が流す“公式な帝都”の裏側で、小さな手帳が、別の帝都を記録している。
そのどちらにも、私はこれから関わっていく。
窓の外の暗さを、もう一度確かめてから、私はパソコンを閉じた。
インクと紙と、金属の匂い。今日一日で身体に染み付いたそれらが、布団に潜り込んでも、しばらく取れそうになかった。




