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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第49話「地図の端で、同じ街が消える」

 路面電車の窓に、朝の帝都が流れていく。


 薄い霧が川面に張りついて、橋脚の足元だけがぼやけて見えた。鋼の輪がレールを噛む音はいつもと同じなのに、私の耳は別のものを探してしまう。——欠けるときは、音がない。気づいたら、そこから先がなくなる。


 だから、今朝の私は、いつもより窓の外をよく見ていた。


 電車が朧町の角を曲がる。いつもの三上商店。いつもの看板。いつもの湯気。何も変わらない日常の中に、変わりはじめた気配だけが混ざる。


 降り際、花が私の袖を小さく引いた。


「灯子さん。昨日の夜、手帳……ちゃんと戻しました?」


「戻したよ。黒い表紙のまま、机の引き出しに」


 空白だらけの、焦げた端のページ。『この街を、見ていた者たちへ』と書かれた一行。


 花は、それを聞いて少しだけ安心した顔をする。でも、次の瞬間、口元がきゅっと固くなる。


「……空白、埋めたくなりますよね」


「うん。勝手に埋めたら怒られそうなのにね」


 冗談めかして言ったのに、笑いはうまく出なかった。花も笑わない。


 局舎の戸を開けると、冷えた紙の匂いがした。コーヒーの匂いではなく、インクと糊の匂い。誰かが新聞を広げている。


 九条だった。


 机の上に分厚い束を積み上げ、端から端まで紙片を並べている。切り抜きの角は揃っていないのに、並べ方だけは几帳面だ。徹夜明けの目で、紙面の見出しをなぞっていた。


「おはようございます……って言っていい空気ですか、それ」


 私が言うと、九条は顔だけ上げた。


「言っていい。今のうちに言っとけ。今日は、朝が軽いほうがいい日だ」


 相馬が奥から出てきて、九条の積み上げた束を見て眉をひそめた。


「何だよそれ。引っ越しでもすんのか」


「地方紙と海外通信社の切り抜き」


 九条は短く答え、指で一枚を叩いた。


「ここ一、二年で“街ごと消えた”ケースを片っ端から集めてみた」


 花が覗き込む。紙面に並ぶ見出しは、どれも私たちが聞き慣れた言葉でできていた。


「沿岸都市○○、未曾有の地震と津波で壊滅」

「鉱山都市△△、突発的な陥没事故により全域封鎖」

「港湾区□□、ガス爆発による大規模火災」


 原因は、よくある災害の顔をしている。帝都の掲示板に貼られた灯河区の“安全な未来”のポスターと、同じ顔。


 でも、九条が紙面の隅を押さえて、写真をこちらに向けた。


「見ろ。これ、瓦礫が少ない」


 たしかに、壊滅と書かれているわりに、がれきの山がない。火災のはずなのに、黒い焦げの跡も薄い。道路や線路が、途中でぶつりと途切れている。その先だけが白く飛んで、何も写っていない。


 白い。——空白。


 私は喉の奥が冷たくなるのを感じた。手のひらが勝手にカメラの形を思い出す。


「……これ、どこかで見たことがあります」


 言った瞬間、相馬の視線が私に刺さる。七瀬が黙って頷いた。御影は、いつものように表情を崩さないまま、切り抜きに手を伸ばす。


 九条が続けた。


「証言も妙だ。ほら」


 小さな活字。引用符の中に、同じ言い回しが何度も出てくる。


『音もなく、気づいたら街が途切れていた』

『最初から、そこに何もなかったようだった』

『地図から抜け落ちている』


 最初から、なかった。

 その言葉は、灯河区の市場の常連がぼそっと言っていたのと同じだった。


 花が、紙面の端を指で押さえながら言う。


「ここ……前に市場の常連さんが言ってました。仕事で寄港するはずの港が、“気づいたら、最初からなかったみたいだった”って」


「最初から……なかった?」


 私は、言葉を反芻する。欠けたのに、欠けたことに気づけない。気づこうとすると、最初からなかったことになる。


 それは、記録の敵だ。私たちが“見なかったことにしない”と決めた、その正反対。


 そのとき、局舎の郵便受けが鳴った。硬い封筒の落ちる音。御影が取りに行き、戻ってきたときには、すでに封が切られていた。


「監理室経由だ」


 御影の声が低い。嫌な予感が、紙の匂いと一緒に立ちのぼる。


 読み上げられた文書は、丁寧な言葉でできていた。


「他国の調査機関より、貴局が記録した“空白区域”に関する資料提供要請がありました」


 相馬が鼻で笑う。


「他国の調査機関? 名前も出せないようなところからか」


 文書には、ぼかした表現が並んでいた。

「海上観測隊」「外洋調査プロジェクト」「航路安全確認」「長期観測計画」。


 海の向こうからの問い合わせ。直接名指しされない組織の気配が、紙の隙間から覗いている。


 ——外側の視線。


 私の背中に、見られている感覚が薄く張りついた。振り向いても、そこにはいつもの壁しかない。それでも、覗き穴のようなものがどこかにある気がする。


 御影は紙を机に置き、九条の切り抜きの束と並べた。


「来たな」


 誰に言ったのか、わからなかった。



 会議室の机いっぱいに、世界地図が広げられた。


 九条が持ち込んだのは、折り目のついた古い地図だった。紙が少し黄ばんでいて、端が擦れている。帝都の地図とは縮尺が違う。海が広い。


「これ、昔の版だな」


 相馬が言う。七瀬は無言でピンケースを出した。花は糸の束を持ってきて、テープで端を留めようとしている。


 妙に、手つきが慣れている。——私たちはいつから、こういう“作戦会議”の形に慣れてしまったんだろう。


 九条が、新聞の“消えた街”を次々とマークしていく。赤いピン。青いピン。色が違うのは、地域か、発生年か。細い糸が、ピンとピンを結んでいく。


 御影が、これまでの帝都案件の発生地点を重ねていく。帝都近郊の消えた集落。外縁部の工場地帯の欠落。灯河区の広域写真に残った、白い帯。


 ピンが増えるたび、地図は刺さり跡だらけになる。刺す音が、小さく乾いて響く。


 そして、糸がある形を作りはじめた。


 帝都を中心に、斜めに伸びる帯状のライン。海をまたぎ、沿岸の都市へ、港湾区へ、鉱山の街へ。偶然の散らばりではない。意図のある並び。


 相馬が、地図の上を指でなぞった。


「偶然にしては、出来すぎてますね」


 七瀬が、珍しく言葉を選ばずに言った。


「地震でも、戦でもねえ。“同じ手”で抜かれてるように見える」


 “抜かれる”。


 その言葉が、胸に針みたいに刺さった。消えるのではなく、抜かれる。街が、地図から。


 花が、糸の交差点を覗き込む。


「ここ……帝都の外洋行きの航路と、消えた港湾都市が重なってる」


 九条が、もう一枚の切り抜きを出した。小さな港の写真。桟橋が途中で途切れている。その先が白い。空白が、海の上にもあるみたいに見える。


 私は、その白さに目を凝らす。白はただの飛びではない。光の“曲がり”のような違和感が、縁に残っている。


 灯河区の広域写真で見た、境目の曲線。

 貨物駅の規制線の向こうで見た、遠景の不自然さ。

 坂のアルバムのページの端に、写らなかった何か。


 黒い手帳の言葉が、頭の底から浮かぶ。


『“公式の帝都”ではなく、“ここにいた誰か”のために撮れ』


 ここにいた誰か。

 帝都だけの話じゃないなら、“ここ”は世界に広がる。


 私は、震える指先を握りしめて、深呼吸をした。


「……これ、帝都の外でも起きてるんだ」


 言った瞬間、部屋の空気が一段重くなる。誰も否定しない。否定できない。



 地下書庫に降りたとき、いつもの湿った匂いがした。けれど今日は、それが少し違って感じた。帝都の地下ではなく、世界の底に降りていくみたいな感覚。


 私は棚から、過去の原版をいくつか引っぱり出した。箱のラベルは手書きで、滲んでいる。指先がインクに触れる。


 ライトボックスの上に、写真を並べる。白い光が下から照らして、画像が浮かび上がる。


 帝都近郊の“消えた集落”。

 外縁部の工場地帯の欠落。

 灯河区の広域写真。白い帯。

 そして九条が持ってきた、海外の“消えた港”の記事写真。


 私は、それらを重ねて、光に透かした。


 境目が——同じ曲線で抜けている。


 建物の輪郭の切れ方。光の曲がり方。白飛びの“白”の質。

 バラバラの場所。バラバラのカメラ。バラバラのフィルム。なのに、欠け方だけが同じ。


 背筋が寒くなった。怖い、というより、間違いが確定していく感じがした。これまでの“帝都だけの異常”という前提が、ゆっくり音を立てて崩れていく。


 相馬が、ライトボックスの光から目を逸らさずに言う。


「レンズのクセでも、フィルムの不良でもない。撮ったカメラも場所もバラバラなのに、だ」


 七瀬が、写真の境目に指を近づける。でも触れない。触れたら、そこが本当に抜け落ちてしまいそうだから。


 花が小さく呟いた。


「同じ“欠け方”。……まるで、型紙みたい」


 型紙。

 誰かが同じ型で、世界の街を抜いている。


 私は、ライトボックスの白の上で、目を細めた。境目の曲線は、美しいくらい滑らかだった。刃物で切ったみたいに。


 その美しさが、いちばん気持ち悪い。


 御影が、静かに言った。


「外からの問い合わせに、こちらも一つだけ条件を付けて返しましょう」


「条件?」


 私が聞くと、御影は黒い手帳の話をするときみたいに、少しだけ言葉を慎重に選んだ。


「“帝都の外で起きた同種の現象の原版写真を、一枚でいいから見せてほしい”——そう書き添えておきます」


 九条が口の端を上げる。


「交渉ってやつだな。向こうも欲しい。こっちも欲しい。——で、名前を出せない相手が、何を差し出すか」


 相馬が息を吐いた。


「一枚でいい、ってのがリアルだな。全部寄越せとは言えねえ」


 私はライトボックスの上の写真を見つめる。欠けた境目の曲線。その先の白。白の向こうに、何があるのか。


 撮っても救えないかもしれない。

 でも、撮らなければ、最初からなかったことになる。


 私は、カメラバッグの中の重さを確かめるように指で触れた。革の感触。金属の冷たさ。シャッターの抵抗。


 “記録するかどうかの葛藤”は、もう「撮るべきか」ではない。


 「撮っても足りない」と知った上で、それでも撮るかどうか。


 私は小さく言った。


「……一枚、見たいです。向こうの“欠け方”を」


 花が頷く。


「同じだったら……怖いけど、安心するかもしれません。私たちだけじゃないって」


 その言葉が、怖かった。

 私たちだけじゃない。

 それは救いにもなるし、絶望にもなる。


 御影が原版をそっと箱に戻した。蓋が閉まる音が、短く響く。


「返事が来るまで、地図は広げたままにしておけ」


 私は頷いた。地図は、もうただの紙ではない。世界の傷口の地図だ。



 夜、喫茶店の窓から帝都を見下ろした。


 高所から見える灯りは、点ではなく、呼吸みたいに明滅している。路面電車のライトがゆっくり横切り、光の筋となって街を切っていく。


 その光の筋を見ていると、地図の上の糸のラインが重なる。帝都から斜めに伸びる帯。海の向こうへ続く線。


 ——線。


 窓の外の闇の中に、かすかに細い光の帯が走った気がした。目の錯覚かもしれない。遠くの工場の煙突の反射かもしれない。


 でも、私は瞬きをするのをやめた。


 誰かが、こちらを見ている。

 海の向こうの、名前のない観測の目。

 あるいは、もっと外側の——。


 テーブルの上に、黒い手帳は置かなかった。今日は、別のものを置いた。


 世界地図の切れ端みたいに、九条が置いていった小さな切り抜き。白く飛んだ港の写真。

 その上に、私は帝都の欠落写真の小さなプリントを重ねた。


 境目が、同じ曲線で抜けている。


 相馬がコーヒーを啜りながら言った。


「地図の端で、同じ街が消えるってのは……趣味が悪いな」


 花が小さく笑った。笑いの中に、緊張が混ざっている。


「でも、地図の真ん中にいるのが帝都なら……私たち、逃げ場ないですよね」


 九条が肩をすくめた。


「逃げる気があるなら、とっくにこの仕事やめてる」


 私は窓の外の路面電車の光を追う。光の筋が、闇の中で少しだけ揺れる。


 “この街だけじゃないかもしれない”。


 その疑念が、今日、形になった。地図の上に刺したピンと糸の形で。ライトボックスの上の、同じ欠け方の曲線で。名前を出せない文書の言葉で。


 私はカップの縁に指を置いた。熱が、指先に伝わる。ここにいる。私は今、ここにいる。


 そして、ここが欠ける前に——撮らなければならない。


 窓の外で、路面電車がゆっくりと街を横切った。

 光の筋が帝都を切り、闇に溶けていく。


 その筋が、地図の上の斜めの帯と重なって見えた。


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