第48話「それでも、この街を撮る」
朝、三上商店の前を通ると、いつもよりシャッターの音が遠くに聞こえた。
——違う。シャッターは、私の頭の中で鳴っているだけだ。
カシャ、と軽い音。
昨日の夜、局舎の天井裏で揺れていた印画紙の白さが、瞬きをするたびに瞼の裏に戻ってくる。
店先で、瓶牛乳を冷やす氷が溶けていた。水滴が瓶の側面を伝い、ラベルの文字を滲ませる。三上さんが布巾でそれを拭きながら、私に言った。
「今朝の新聞、見たかい」
カウンターの上に、折り畳まれた紙束が置かれていた。インクの匂いが生々しい。まだ乾き切っていない黒さ。
私は手を伸ばすのを一瞬ためらい、それでも受け取った。紙は、思ったより重い。重いのに、簡単に人の心を動かす。
開いた瞬間、そこにあったのは——灯河区の笑顔だった。
公会堂の前。横一列に並べられた住民たち。
「危険区域から安全な新街区へ」という大きな見出し。
中央で微笑む課長。端で目を伏せるおばあさん。
写真は、私が切ったシャッターの一枚だった。構図も角度も、指示された通りの“適切”なやつ。
喉の奥が、また乾いた。
「……大々的ですね」
私が言うと、三上さんは顔をしかめた。
「お祝い事みたいに載せるんだな。立ち退きってやつは、もっと静かなもんだと思ってたよ」
新聞の端に、小さく別の記事があった。貨物駅の事故の続報。市場の再整備計画。どれも“安全”“改善”“未来”。言葉が揃いすぎている。
店の隅で、花がパンをかじっていた。口元にパンくずがついているのに、拭うのを忘れている。目だけが新聞に吸い寄せられていた。
「……あの人たち、あの記事しか見なかったら」
花がぽつりと呟く。
「どんな街だったか、わからないままですよね」
九条が、ドアベルを鳴らして入ってきた。髪が少し乱れている。徹夜明けの匂いがした。原稿用紙の紙粉みたいな匂い。
「わかってるさ」
九条は新聞を奪うように手に取り、見出しを睨んだ。
「これじゃあ……“立ち退き”じゃなくて“お引っ越し祝い”だな」
言葉が、喉を通る前に刺さる。
私は、新聞の写真の中の自分のカメラを見た。写っていないはずなのに、そこに“私の手”がある気がした。
そのとき、局からの使いの少年が、封筒を持って店に駆け込んできた。
「幻灯局の方、こちら……監理室から」
封筒の紙は厚く、角が揃っていた。開ける前から、線が引かれているのがわかる。
◇
局に戻ると、御影さんがすでに封を切っていた。机の上に置かれた通達の紙は、白すぎて目が痛い。
「今後、幻灯局の外部発信はすべて帝都記録監理室の承認を経ること」
御影さんが淡々と読み上げる。その声は落ち着いているのに、室内の空気が一段冷える。
「事実上の検閲だな」
相馬さんが吐き捨てるように言った。
七瀬は腕を組み、目だけで紙面を追う。
「これ、九条の連載も対象になる」
九条が笑った。笑っているのに、目が笑っていない。
「“外部発信”って括りは便利だな。書いた瞬間に首輪を付けられる」
花がカメラバッグの口を握りしめた。
「……アルバム展示も?」
「もちろんだろう」
相馬さんが言う。誰かが“もちろん”と言うたびに、私は灯河区のおばあさんの目を思い出す。
もちろん。もちろん。
その言葉は、誓いになる。
誓いは、奪われやすい。
私たちはしばらく黙っていた。沈黙の中で、時計の針だけが進む。秒針の音が、規制線の向こうで鳴っていた軍靴の音に重なる。
御影さんが、ふいに机の引き出しを閉めた。
「……今夜、下へ降りる」
その“下”が何を指すか、全員がわかった。
地下書庫。
図面に載らない階段。
古い箱。
“帝都のものだけじゃない”場所。
私は頷くしかなかった。
◇
夜。局舎の窓に映る街灯の光が、いつもより薄く見えた。
御影さんが鍵束を鳴らし、倉庫の棚をずらす。奥に黒ずんだ鉄階段が現れる。下から漏れるかすかな電灯の光が、呼吸みたいに揺れている。
階段を降りると、空気が変わる。湿った紙の匂い。古い薬品の残り香。金属の錆。時間そのものの匂い。
棚には箱が並び、手書きのラベルが貼られている。
「〇年△月 消失地区」
「未公表」
「閲覧注意」
その文字は、誰かが震える手で書いたみたいに歪んでいる。
御影さんが、一段上の棚の奥から、ひとつのノートを取り出した。
表紙は真っ黒で、角が擦り切れていた。布のような手触り。指先にざらりとした感触が残る。
「これ、最近見つけたんだが……表紙は真っ黒で、中身はほとんど空白だ」
私の胸が小さく鳴る。
黒い手帳。
——まだ名前のない任命。
御影さんがノートを開く。ページの端が、少しだけ焼け焦げている。紙の繊維が毛羽立ち、焦げた匂いがほんの僅かにする。
一ページ目。かすれた字で一行だけ。
『この街を、見ていた者たちへ』
その一行は、誰かがこちらを見ているみたいだった。
いや、見ていた。
見ていた者たちへ、だ。
相馬さんが小さく舌打ちした。
「……手帳の持ち主は?」
「不明だ」
御影さんはページをめくる。ほとんど空白。白が続く。白は、何も書かれていないのに、圧がある。書け、と迫ってくる。
最後のページだけ、ほんの少しだけ文字があった。
『“公式の帝都”ではなく、“ここにいた誰か”のために撮れ』
私は息を止めた。
胸の奥で、何かが、終点の赤い車止めにぶつかったみたいに止まる。
相馬さんが低く笑う。
「ずいぶん面倒な注文だな」
七瀬が、珍しく言葉を挟んだ。
「……でも、筋は通ってる。公式は公式で残る。残らないものを残すのが、こっちの仕事だ」
九条が、黒いノートの文字をじっと見た。
「誰が書いたにせよ、俺の首に縄をかけるのが上手い」
花が手を伸ばし、ページの端の焦げをそっと触る。
「これ、火にあったんですか」
「たぶん。燃やされかけたか、逃げる途中で焦げたか」
御影さんの声が、急に柔らかくなる。
「……だから残った」
残った。
燃やされても、残った。
なら、私たちの写真も——
私は自分の掌を見た。カメラを持つ手。シャッターを切る指。インクの匂いのする新聞の上で、笑顔を並べた指。
「……じゃあ、わたしたちは誰のために、今まで撮ってきたんでしょうね」
自分の声が、思ったより小さかった。
相馬さんが私の横で、肩をすくめた。
「帝都のため、って言ってれば楽だった。正義っぽいし。仕事っぽいし」
「でも、坂のアルバムのとき——」
花が言いかけて、言葉を飲み込む。
私は頷いた。
坂では、住民のために撮った。
市場では、通る人全部のために置いた。
灯河区では、笑顔のために撮らされ、泣き崩れる背中を撮ってしまった。
誰のため。
多数のため。
それとも、誰か一人のため。
黒い手帳は答えをくれない。
ただ、空白で待っている。
御影さんが、棚の一段を指差した。空の箱が置かれている。まだ何も入っていない、新しい空白。
「ここに入れるかどうかは、まだ決めなくていい」
御影さんの声が、いつもの局長の声ではなく、ただの“記録を隠す人”の声だった。
「でも、覚えておけ。上が全部を持っていくなら、下に残す」
その言葉は、命令じゃなく、避難経路の説明みたいだった。
◇
その夜、私たちは喫茶店に集まった。
表の看板灯が小さく揺れ、窓ガラスに街灯の光が反射する。マスターはいつも通り静かにカップを磨いている。花がカウンターの内側に入り、コーヒー豆を挽く音がする。豆の香りが、地下書庫の湿った匂いを薄めてくれる。
奥のテーブルに、私たちはこっそり残した灯河区のプリントを並べた。
木目のテーブルいっぱいに広がるスナップ。
コーヒーカップから立ちのぼる湯気が写真にかかって、少しだけ滲む。
滲んだ部分が、現像液の中で浮かび上がる顔に似ている。
九条が、椅子に深く座り、写真を見下ろした。
「見せてもらおうか。帝都が捨てたほうの灯河区を」
その言葉は、冗談じゃない。
捨てた。
捨てられた。
最初の一枚。川べりで井戸端会議をする主婦たち。エプロンの端が風に揺れ、笑い声が聞こえてきそうだ。
二枚目。仕事帰りに缶ビールを飲む作業員。赤レンガの壁にもたれ、肩の力を抜いている。
三枚目。終点駅のベンチで眠りこける青年。帽子が顔にかかり、足元に工具箱。
「……あ」
花が指で写真の端を押さえた。
「この人、前に市場でも見かけました」
相馬さんが鼻で笑った。
「ほらな。線の内側・外側なんて、見る人にとっては関係ないんだよな」
関係ない。
関係ないのに、帝都は線を引く。
線を引いて、笑顔だけを選ぶ。
私は、次の一枚をテーブルの上に出すのを躊躇した。紙が指にくっつく。汗なのか、コーヒーの湯気なのか、わからない。
公会堂の裏口で、説明会の後に泣き崩れる女性の背中。
手前に、捨てられないと抱きしめている古いアルバム。
アルバムの角が、彼女の腕に食い込んでいる。
私はそれを、九条の前に滑らせた。
「——これだけ、あなたに預けてもいいですか」
九条が目を細めた。写真に写る背中を、記事の文字に変換するような目。
「記事には載せられないかもしれない。途中で切られるかもしれない」
九条の声が、少しだけ低くなる。
「……それでも?」
私は喉の奥の乾きを、コーヒーで誤魔化した。苦い。苦いのに、落ち着く。
「どこかで、誰か一人でもいいから」
声が震えそうで、指先に力を入れる。
「“本当はこうだった”って、知る人がいてくれたら」
九条は黙った。沈黙の間に、カウンターでマスターがスプーンを落とす小さな音がした。
九条はその音に戻ってきたみたいに、ふっと息を吐き、写真を受け取った。
「じゃあこれは、帝都のためじゃなくて」
九条の指が、写真の角を軽く叩く。
「まだ見ぬ“誰か一人”のための記事にしよう」
花が、ゆっくり頷いた。
「……多数のためじゃなくても、成立するんですね」
私は黒い手帳の一行を思い出す。
“ここにいた誰か”のために撮れ。
その“誰か”は、今ここにいる私たちじゃないかもしれない。
だからこそ、残す。
◇
翌日。監理室との協議の場は、空気が乾いていた。
会議室の長机。中央に分厚い契約書。
一方に幻灯局のメンバー。
反対側に行政・軍・教会・監理室。
窓の外には官庁街。屋根が規則正しく並び、帝都の“正しい形”が見える。
白石の前に、ペンが置かれている。行政課長の前にも。司祭の前にも。ペンは、武器みたいに静かだ。
御影さんが口を開いた。
「直轄化の件ですが——財政支援と現場へのアクセスについては、前向きに検討します」
行政課長が微笑む。
「それは結構。では——」
「ただし」
御影さんの声が、そこで空気を切った。
「原版記録の所有権と、何を撮るかを決める権利は、幻灯局に残します」
一瞬、会議室の音が消える。
ペン先の乾いた金属音だけが、遠くで鳴る。
白石が、ほんの僅かに眉を動かした気がした。
「……それでは、帝都の一部局としての意味が薄れてしまう」
御影さんは、目を逸らさない。
「“帝都のため”だけの記録なら、ほかにもいくらでも撮る人間はいる」
御影さんの言葉が、喫茶店のコーヒーの苦さと同じ温度で胸に落ちる。
「わたしたちは、この街にいた“誰か”のために撮る局でありたいんです」
司祭が口元を引き締めた。
「“奇跡”もまた、帝都全体のために正しく管理されるべき——」
「奇跡を撮ってるつもりはない」
相馬さんが、机の上に拳を置いた。拳は握られていない。ただ置かれている。それが逆に怖い。
「俺たちが撮ってるのは、泣く背中とか、寝ぼけた終点のベンチとか、そういうのだ。管理しづらいだろ。だから管理したがるんだろ」
白石が、わずかにため息をついた。
「非常に、扱いづらい立場をお選びになるのですね」
御影さんが頷く。
「ええ。でもそれが——幻灯局の存在意義ということで」
結論は出なかった。直轄化の話は完全には消えない。条件は保留。
半分内側、半分外側。
危うい独立。
それでも、机の上でペンを握らなかった手がある。
それだけで、今日は勝ちに近い気がした。
◇
夜。喫茶店の窓から、私たちは帝都を見下ろした。
高い位置から見える街は、光の点でできている。路面電車のライトがゆっくり横切り、光の筋となって夜の中を進んでいく。
テーブルの上に、黒い表紙の手帳を置いた。
その上に、灯河区の一枚の写真を重ねる。
川沿いを歩く老夫婦。手を繋いでいないのに、距離が近い。
私は手帳を開いた。空白。白。
一ページ目の手書きの文字が、薄暗い照明の下で浮かぶ。
『この街を、見ていた者たちへ』
「まだ、ほとんど空白ですね」
私が言うと、相馬さんがコーヒーを啜った。
「これから埋めればいいさ」
花が、小さく笑った。昨日までの笑い方とは違う、少しだけ息を吐く笑い方。
「“帝都のため”じゃなくて、“誰か一人”のためのページで、ですね」
九条が、手帳の空白を見て言った。
「空白ってのは、怖いけどな。好きに埋められるから。——でも、上に埋められるよりはいい」
窓の外で、路面電車のライトがゆっくりと街を横切る。
終点へ向かう光の筋。
終点があるから、線路は線路として存在する。
私は黒い手帳のページの端に指を置いた。紙が少し焦げている。触れると、ざらりとする。
誰かが見ていた。
私たちも見ている。
そして、まだ見ぬ誰かが、いつか見る。
その“いつか”のために、私はシャッターを切る。
空白の上に、未来のインクの重さを想像しながら。




