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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第47話「消される街、並べられる笑顔」

 路面電車の終点は、街の端ではなく、時間の端みたいな場所だと思う。


 線路がそこで途切れているだけなのに、そこから先は“行けない”と決まっている。砂利の間に雑草が伸び、車止めの赤い塗料が剥げている。終点に立つと、胸の奥に小さな音がする。キィ、とどこかで車輪が止まる音に似た。


「灯河区、久しぶりだな」


 相馬さんが、終点ホームの錆びた柵に手を置いた。指先に黒い粉がつく。それを払う動作が、妙に丁寧だった。


 川沿いに赤レンガの倉庫が並び、その隙間に木造の長屋が挟まっている。煙突から薄い煙が立ち、夕方の空はオレンジと灰色が混ざる。工業地区の空は、いつも何かを燃やした匂いがする。けれど、今日はそれが“最後の匂い”に思えてしまう。


 七瀬も、少し先を歩いていた。背中がいつもより硬い。花は、カメラバッグの肩紐を何度も直している。九条は、手帳を開いたまま無意識にページをめくっていた。


 局の地下で見た箱のラベルが、頭の隅に残っている。


 消失地区。未公表。閲覧注意。


 今日の灯河区は、ラベルを貼られる前の街だ。



 公会堂は、古い木の匂いと、インクと、汗の匂いが混ざっていた。床板が軋み、椅子がずらりと並べられている。前方の壇上には、垂れ幕。


 ――安全な未来へ。

 ――明るい新街区へ。


 言葉が明るいほど、光が眩しくて目を細めてしまう。


 後方には、引っ越し先の間取り図が貼られたパネル。二DK、三LDK。新しい壁紙。新しい水回り。そこだけ切り取れば、幸福の見本市みたいだ。


 その間を、書類と印鑑を持った職員たちが行き交う。紙束の音が、波みたいに押し寄せる。


 行政課長が壇上に立ち、にこやかに声を張った。


「灯河区の皆様。今回の再整備は、老朽化対策および地盤沈下リスクへの対応として、避けて通れない措置です。ですが、これは“撤去”ではありません。未来への移行です」


 “撤去”という言葉は、誰も使わない。使わないことが、撤去の証拠みたいだった。


 そして、課長の視線が私たちに向いた。


「幻灯局の皆さんには、新しい街に向かう笑顔を撮っていただきたい」


 笑顔。


 その単語が、会場の空気の上を滑っていった。受け止められずに、どこかに落ちた音がした気がする。


 花が小さく聞き返す。


「……笑顔、だけ?」


 白石が、壇上の横に立っていた。どこにも属さない制服。銀色のバッジ。無表情のまま、事務的に頷く。


「不安な顔や混乱は、公式記録として残す必要はありません。住民の方々の“前向きな姿勢”を伝えられれば十分です」


 私はカメラを抱えたまま、喉の奥が乾いていくのを感じた。


 記録とは、残すことだと思っていた。

 でも、彼らの言う記録は、選ぶことだ。切り捨てることだ。


 壇上の言葉に拍手が起きる。起きる拍手は、どこかで“終わり”を確定させるための音に似ている。


 その拍手の中で、ひとりのおばあさんが席を立った。背中が小さく、けれど声はよく通った。


「ねえ」


 職員が近づき、課長が微笑みを向ける。


「はい、おばあさま。何かご不安が?」


 おばあさんは、課長ではなく、私のほうを見た。目が、驚くほど真っ直ぐだった。


「ここ、わたしが子ども産んだ家なのよ。あそこの長屋。出産のとき、川の風が冷たくてねえ。——その写真も撮っておいてくれる?」


 笑顔を撮れ、という命令の中に、家を撮ってくれ、という願いが混ざる。


 私は、カメラの革の匂いを吸い込んでから答えた。


「……もちろんです」


 白石が一瞬だけこちらを見る。眉も動かない。けれど、その視線は線を引く。線の内側にいる者の目だ。



 公会堂の前に、住民たちが横一列に並べられた。


 垂れ幕の下。

 課長が中央に立つ。

 その隣に職員。

 その端に、目を伏せるおばあさん。


 ぎこちない笑顔が、いくつも並ぶ。笑顔は、並べるものではないはずなのに。


 配られる小さな記念バッジが、胸元で鈍く光る。金属の光が、未来の光の代わりみたいだった。


「はい、皆さん。もう少し顎を上げて。そうそう、笑って。新しい街へ向かうんですから」


 課長の声は明るい。明るい声で命じられる笑顔は、顔の筋肉を疲れさせる。


 私は指定された位置に立ち、指定された角度で構える。

 指定された“額縁”の中で、シャッターを切る。


 カシャ。カシャ。

 音だけが、軽い。


 花が隣で、同じようにシャッターを切っている。彼女の指先が少し震えているのが見えた。


 相馬さんが、唇の端だけで笑った。


「撤去記念だとよ。笑顔で撤去。……冗談みてえだ」


 冗談ではない。冗談じゃないから、胸が痛い。


 公式の撮影が一区切りつくと、職員が次の説明に人々を誘導した。印鑑。署名。荷物の申告。引っ越しの手配。


 紙が人を動かす。


 その隙間で、私はおばあさんに近づいた。


「さっきの……長屋、案内してもらえますか」


 おばあさんは、笑顔を作るのをやめて、しわの深い口元で小さく笑った。


「あんた、さっき“もちろん”って言ったね。言ったなら、ちゃんと撮ってよ」


「はい」


 その“はい”が、今日いちばん自分のものの言葉だった気がした。



 路地裏は、公会堂の明るさから一歩離れただけで、別の街みたいに静かだった。


 木造長屋の壁には、古い番号札が打たれている。洗濯物がはためき、川風が布を揺らす。風の音は、いつも通りなのに、今日は“名残惜しそう”に聞こえる。


 相馬さんと私は、川沿いへ回った。公式の指示の外側。けれど、今この街では、線の内側と外側が溶けている。


 取り壊し予定の銭湯。入口の暖簾は外されていたが、中にはまだ湯気の匂いが残っていた。タイル張りの浴場。白い壁に、薄く青い模様。脱衣所の木札が、いくつか残っている。


 誰かの名前。

 誰かの体温。

 誰かの昨日。


 私はカメラを構えた。レンズ越しに見る浴場は、空っぽなのに、満ちていた。


「公式の依頼は“笑顔”だけだ」


 相馬さんが、浴場の床に落ちた木札を拾い上げながら言った。


「でも、本当はこういう顔こそ撮るべきなんだろうな」


「顔じゃないけど」


 私が言うと、相馬さんは木札をひっくり返し、裏の湿った木目を見つめた。


「顔だよ。街の顔。人の顔。……俺たちが見てるのは、そういうやつだ」


 川に面した木造二階建ての窓から、斜光が差し込む。窓辺に吊るされた洗濯物が、光を透かして淡く揺れる。影が壁に踊る。


 私はその影を撮った。

 影は、触れないのに残る。


 終点ホームに戻ると、子どもたちが写真を撮り合っていた。小さな箱型カメラを覗き込み、笑い合う。誰かが「もう一回!」と叫ぶ。


 笑顔はここにある。命じられなくても、自然にある。


 私は、その笑い声のほうが胸に刺さった。



 七瀬が合流したのは、赤レンガ倉庫の裏手だった。煙突の影が伸び、川の水面が鈍く光る場所。


 七瀬は、いつもの冷静な顔のまま、声だけを低くした。


「地盤沈下なんて半分口実だ」


 相馬さんが目を細める。


「……何か掴んだのか」


「川の下に埋まってる軍の旧施設を再利用したいらしい。戦時中の。今は封鎖されてるけど、入口がこの区画にある」


 私の背中が冷える。地下書庫の冷気と似ている。


 九条も、手帳を開いたまま眉を寄せた。


「“危険区域指定”にしとけば、誰も中身を確かめられないからな」


 危険。安全。

 その言葉は、便利だ。人を動かせる。街を消せる。


 灯河区は、安全のためではなく、軍事利用と再開発のために“消される街”に選ばれた——そんな疑惑が、夕方の空みたいにじわじわ広がる。


 私は、赤レンガの壁に手を当てた。冷たい。けれど、その冷たさは生きている冷たさだ。ここにあった時間が、手のひらに返ってくる。


「消される、って……」


 花が呟いた。声が小さい。小さい声ほど、真実に近い。


 相馬さんが、彼女に向けて言った。


「だから撮る。……俺たちは、そういう役だろ」


 役。

 役割の中に閉じ込められるのが嫌で、私は“街のため”を選び直したのに。


 それでも、今はその言葉に縋りたくなる。



 局に戻ったのは夜だった。暗室の赤い灯りが恋しくなる時間。けれど今日は、赤い灯りが警報みたいに見える。


 私たちは、撮ったフィルムを現像し、プリントを乾かした。公式の“笑顔”のカット。路地裏の影。銭湯の木札。川沿いの洗濯物。終点ホームの子どもたち。


 印画紙が水から上がるたびに、街の顔が浮かび上がる。

 浮かび上がるものは、消せないはずだと思いたくなる。


 天井裏の換気口に紐を張り、洗濯物みたいに印画紙をクリップで留めた。風が通るたびに、紙が小さく揺れる。


 その揺れが、呼吸みたいだった。


 ——コンコン。


 扉が叩かれた。


 礼儀正しい、拒めない叩き方。


 白石だった。背後に監理室の職員が二人。手には書類箱。


「本日の灯河区に関する記録、一式提出をお願いします」


 御影さんが前に出る。声は落ち着いているが、指先が僅かに硬い。


「……“公式用”のほうなら、すでにまとめてあります」


 白石は頷かない。視線だけで“足りない”と言う。


「いえ。念のため、未公開のものも含めてすべて。フィルムも、現像済みのプリントも」


 胸の奥が、きしむ。


 地下書庫の存在を嗅ぎつけられたわけではない。

 でも、彼らは“すべて”と言う。すべてと言えば、こちらが勝手に恐れると知っている。


 相馬さんが私の横で、小声で言った。


「……灯子、どうする」


 私は白石を見た。白石は、こちらを見ていない。書類の上に視線を落とし、淡々と待っている。待つことで、支配する。


 私は、言葉を探しながら口を開いた。


「“記録はすべて提出しろ”ですよね。私たちの“全部”って、どこまでなんでしょう」


 白石の目が、初めて私に合った。透明な目。濁りがないのに、底が見えない。


「幻灯局が本日灯河区で撮影したものは、すべてです」


 “幻灯局が”。

 言葉の中に線がある。公式の線。組織の線。人ではなく、名前を括る線。


 花が息を呑む音がした。


 御影さんが一歩、白石に近づく。


「提出は義務ですか」


「条例に基づく調査です」


 条例。

 紙が、人の手を縛る。


 私は、机の上にある“笑顔”の公式アルバムの箱を見た。白石の職員が、それを丁寧に持ち上げる。まるで宝物を扱うみたいに。


 箱が閉じられ、紐が掛けられ、白い札が貼られる。


 “灯河区 広報用”


 その箱が、持ち去られていく。


 扉が閉まる瞬間、風が通った。


 天井裏の換気口から吹き込んだ夜風が、印画紙を揺らした。クリップ一つで留められた紙が、はためく。街の子どもたちの笑い顔。川沿いを歩く老夫婦。銭湯の木札。洗濯物の影。


 白石たちが持ち去る箱の中には、並べられた笑顔がある。

 今、私たちの頭上で揺れているのは、並べられない顔だ。


 私は、揺れる印画紙を見上げた。紙が光を受けて、白く透ける。そこに写っているのは、確かに“ここにあった”ものだ。


 胸の奥に、終点の音がする。キィ、と。


 公式記録として残る街と、誰にも見せられないまま消えてしまう街。

 どちらも、たしかにここにあった。


 私は、カメラバッグの口を閉じる手を止めた。閉じたら、封をすることになる気がしたから。


 そのまま、ただ立っていた。印画紙が揺れる音を、聞いていた。


 揺れる紙が、いつか誰かの目に触れることを祈るみたいに。


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