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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第46話「局の主は誰か」

 朝の三上商店は、いつもより少しだけ静かだった。


 静か、というより——音が先に逃げている感じ。路面電車のベルも、豆を挽く音も、ひと息置いてから耳に届く。私の中に、昨日の規制線がまだ張ってあるからだと思う。


 カメラバッグの重さが、今日は骨に響く。


「灯子ちゃん、顔が紙みたいだよ」


 三上さんが湯呑を置きながら言った。黒豆茶の香りが立つ。あの香ばしさは、どんな日でも同じ。だから余計に、こちらの揺れが目立つ。


「……紙は、折れるから」


 私が言うと、三上さんはふっと笑った。


「折れた紙はね、折り目がつく。折り目がついた紙は、前より少し強くなることもあるよ」


 強くなる。折り目が。

 それが慰めになるかどうか、まだ分からない。


 店の外を、新聞配達の自転車が走り抜けた。荷台の束が揺れ、白い紙が陽に反射する。


 私は、反射する白を見るのが嫌で、目を逸らした。


 局に戻ると、机の上に新聞が積まれていた。誰かが、わざと見える場所に置いたわけではない。ただ、いつもそこにあるものが、今日は刃物みたいに見える。


 表紙の見出し。

 「貨物駅事故、迅速な対応」

 その下に、写真。


 昨日、私が撮った“額縁の中”の写真だ。傾いた列車。遠景の川。警備の整った線。


 同じ写真なのに、昨日より“安全そう”に見える。編集の魔法で、危険が消える。


「……載ってる」


 花が、呟いた。声が喉に引っかかっている。


 相馬さんは新聞を一瞥し、鼻で笑った。


「そりゃ載るだろ。あいつらが欲しいのは“処理できてます”って顔だ」


 私は新聞の端を押さえた。紙が冷たい。冷たい紙が、誰かの体温を奪って作られている気がした。


 そこへ、九条が編集部帰りの顔で入ってきた。目の下が薄く青い。机の上の新聞を見て、舌打ちした。


「……俺の原稿、写真差し替えられてるじゃねえか」


 九条の指が、掲載面を叩いた。軽い音。けれど、その軽さが悔しさを増幅する。


「記事は?」


 御影さんが静かに問うと、九条は肩をすくめた。


「事故処理の説明の横に、俺のコメントが二行。終わり。昨日現場で見た、線の外の顔なんて一行もない。……載るわけねえけど」


 花が小さく言った。


「あの人たち、わたしたちの“川沿いの人たち”のファイルのほうは……見てないんですよね」


 その言い方は、責めるというより——確認だった。見てない。見ない。見ないから、存在しない。


 言葉を飲み込む前に、局の扉がまた叩かれた。


 礼儀正しい、拒めない叩き方。


 白石が立っていた。無表情のまま、封筒を差し出す。


「本日は、もう一件ございます」


 封筒は厚かった。紙が堅い。言葉が堅い。


 御影さんが受け取り、開封する。中から出てきたのは、今度は“お願い”という形の命令だった。


 ——幻灯局の帝都直轄機関化に関する協議のお願い。


 お願い。

 その二文字が、いちばん怖い。



 会議室の長机は、今日はいつもより長く見えた。


 片側に、幻灯局の面々。私、御影さん、相馬さん、七瀬、花。九条も座った。机の端に原稿用紙の束を置き、指先で角を揃えている。


 反対側に、白石。行政代表の課長。教会側の司祭。軍人はいないが、軍の匂いがする。制服ではなく、言葉の匂い。


 机の中央に、分厚い契約書が置かれた。紙の山が、こちらとあちらの間の溝を埋める。


 行政課長が、まず口を開いた。声は柔らかい。柔らかい声ほど、強い。


「率直に申し上げます。幻灯局の技術と機動性は、もはや一民間団体の域を超えています」


 白石がそれを引き継ぐ。


「そこで、帝都の“公式記録局”として組み込ませていただきたい」


 “組み込む”。

 機械に部品をはめるみたいに言う。


 条件は、甘い砂糖で包んだ針だった。


 局舎・機材・人件費の全面保証。

 帝都の紋章付きの腕章・身分証の支給。

 その代わりに、すべての原版記録は帝都記録監理室の所有。

 公開・非公開の線引きは監理室の判断。


 教会司祭が、祈るような声で言った。


「あなた方が撮った“奇跡”も、帝都全体のために、正しく管理されるべきなのです」


 奇跡。

 その言葉は、いつも“人”ではなく“帝都”のほうへ転がっていく。


 相馬さんが腕を組み、歯を見せずに笑った。


「現場に入る権限が増えるなら悪くない。……いまのままじゃ、規制線の外で指をくわえてるだけだ」


 七瀬は、少しだけ顎を引いた。


「裏社会との調整は確かに楽になる。『直轄』という札は、裏でも効く」


 花が、恐る恐る言葉を挟む。


「でも……街のアルバムは、どうなるの?」


 行政課長は、困ったように眉を上げた。


「アルバムは推奨です。市井の文化として——」


 白石が補足する。


「原本は帝都が保管することが望ましい。そうすれば、散逸しません」


 散逸しない。

 散逸しない代わりに、手に取れなくなる。


 九条が、指先で原稿用紙の角を叩いた。


「“公式”になった瞬間、書けなくなることが山ほど出る。読者が“帝都”になったら、俺は街の声をそのまま載せられない」


 教会司祭が、穏やかに笑った。


「それは、秩序のためです。秩序は、誰かのために必要なのです」


 誰か。

 その“誰か”に、今この机の両側にいる人は含まれているのか。


 私は、机の上に二つの紙を並べた。


 ひとつは、貨物駅の“安全そうな”コピー写真。

 もうひとつは、坂のアルバムのページの複製——階段に座ったおばあちゃんと、洗濯物と、夕焼け。


 同じ紙の上に、違う世界がある。


 私は、二つを交互に見つめ、言った。


「……もし直轄になったら、こういう“線の外側”の写真は、どこに置けばいいんでしょうか」


 白石は、すぐに答えた。答えが用意されていた。


「安心してください。そういう記録も、適切に保管されます」


 相馬さんが、机を軽く叩いた。拳ではない。指先だけ。けれど、その音は硬かった。


「“適切”って言葉が一番信用ならねえんだよ」


 会議室の空気が一瞬、止まった。行政課長が咳払いをする。教会司祭は目を伏せる。白石は、眉ひとつ動かさない。


「持ち帰り検討」


 その言葉で、会議は終わった。終わっていないのに、終わったことにされた。


 私は立ち上がるとき、自分の手が無意識に拳を作っているのに気づいた。机の上には、帝都直轄の紋章入りの腕章がサンプルとして置かれていた。真新しい布の質感。光る金糸の紋章。


 金糸は、きれいだ。

 きれいなものは、怖い。



 夜。局の灯りが落ち、廊下の足音が消えた頃。


 御影さんが、私たちを呼んだ。声が小さい。小さい声は、秘密の入口になる。


「ついて来い」


 倉庫の棚の奥。普段は古い現像液や予備の紙箱が積まれている場所。その隙間に、黒ずんだ鉄の扉があった。


 図面にも載っていない場所。

 鍵穴は古いのに、鍵は新しかった。


 御影さんが鍵を回すと、金属が擦れる音がした。扉が開く。中から、冷えた空気が流れ出た。


 黒ずんだ鉄階段が下へ続いている。戦時中の防空壕を改造したような、狭い階段。下から、かすかな電灯の光が漏れている。


 花が息を吸う音が聞こえた。


「ここ……」


「……幻灯局ができる前から、ここには“誰かの記録”が隠されていたらしい」


 御影さんの声が、階段に吸われる。


 私たちは、ゆっくり降りた。足音が、鉄を叩く。ひとつひとつが、確認みたいだった。自分がそこにいることの確認。


 地下の書庫は、思ったより広かった。棚が並び、古い箱がいくつも積まれている。紙の匂い。埃の匂い。湿った木の匂い。


 箱には手書きのラベルが貼られていた。走り書きの字。


「〇年△月 消失地区」

「未公表」

「回収不能」

「閲覧注意」


 字が揺れている。揺れている字は、人の指で書かれた証拠だ。

 ここに、誰かがいた。誰かが残そうとした。


 私は指先でラベルの端を触れた。紙が少しふやけている。時間がここを通り過ぎた証が、紙の繊維に残っている。


「正式な所有者は、いまだに不明だ」


 御影さんが言った。


 花が小さく問いかける。


「じゃあここは、誰のものなんですか」


 私も同じ質問を口にしたかった。喉の奥で、質問が揺れていた。


 御影さんは、少しだけ肩をすくめた。


「さあな」


 その“さあな”は、逃げではなく——現実だった。現実の中で、私たちは生きている。


「ただ一つ言えるのは——少なくとも“帝都のものだけ”じゃないってことだ」


 御影さんは、棚の一段、空いている場所を指差した。そこだけ、埃が薄い。最近、誰かが掃除したのかもしれない。


「もし直轄になっても、ならなくても。お前たちが本当に残したい記録は、ここに入れればいい」


 相馬さんが鼻で笑った。


「要するに“裏帳簿”かよ」


「言い方は好きにしろ」


 御影さんは淡々と言った。


 花が、震える声で言う。


「でも……ここに入れた写真は、誰がいつ見つけるんですか?」


 私はその問いを受け止め、ゆっくり答えを探した。答えはすぐに出ない。出ない答えほど、口に出すべきだと思った。


「——いつか、誰か“ちゃんと見る人”が現れたときのために、残しておく場所」


 自分の声が、書庫の壁に当たって返ってくる。返ってきた声は、少しだけ確かだった。


 御影さんが、棚の下から新しい空箱を取り出した。新品の段ボールではないが、古い箱に比べればまだ白い。白い箱は、これから汚れるためにある。


 私がペンを握る。ペン先が、紙の上で一瞬止まった。


 “幻灯局”と書くべきか。

 “私”と書くべきか。

 “街”と書くべきか。


 私は、結局、こう書いた。


 幻灯局・私的記録


 字は小さく、でも揺れなかった。揺れない字は、決めた字だ。


 箱を棚に差し込むと、古い箱たちの隙間に新しい影が生まれた。影は、ここに“今”が入り込んだ証だ。


 相馬さんが、ぽつりと言った。


「局の主は誰か、って話だったな」


 私は箱の文字を見つめた。

 帝都の紋章の金糸より、こっちの黒いインクのほうが重い。


「……少なくとも今は」


 言葉が、自然に出た。


「ここにいるわたしたちでありたい」


 誰も「そうだ」とは言わなかった。

 でも、誰も否定しなかった。


 地下書庫の薄暗い灯りが、棚の影を長く伸ばした。遠くで、路面電車の音が聞こえた。地上の生活が、まだ続いている音。


 私は階段を上がる前に、もう一度だけ振り返った。


 新しい箱は、古い箱たちの中で、静かに呼吸しているように見えた。


 封をされたレンズ。

 けれど、封をされたからこそ、残せる場所がある。


 その矛盾を抱えたまま、私は地上へ戻った。


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