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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第45話「封をされたレンズ」

 朝、三上商店の引き戸を開けると、豆の匂いが湯気と一緒に逃げていった。


 この匂いは、街がまだ眠っていることを教えてくれる。路面電車の最初のベルが鳴る前。露店の魚が運び込まれる前。誰かの怒鳴り声が、紙の上の赤い丸に変わる前。


「はい、灯子ちゃん。今日は黒豆茶、濃いめにしといたよ」


 三上さんが湯呑を差し出す。私の指先は、湯呑の熱さより先に、紙の熱を思い出してしまう。市場のベンチに置いたアルバムの、やわらかい灯り。あの札の字。


 ご自由にご覧ください。


 “ご自由に”という言葉は、やさしいようで怖い。自由は、持っていかれる自由でもある。


「……昨日、市場の人たち、見てくれてました」


 私が言うと、三上さんは少し笑った。


「そりゃ見るさ。自分たちが写ってるならね」


「……壊されたり、しないでしょうか」


「壊す人もいるかもしれないね」


 三上さんは、あっさり言った。嘘で慰めない。


「でもさ、壊されないように棚にしまったら、誰も見ない。見ないなら、最初から無かったのと同じだよ」


 私は湯呑を持ち上げ、黒豆茶を一口飲んだ。香ばしくて、少しだけ苦い。飲み込むと、腹の底に落ちていく。


 それが“落ち着き”になる。


 そこへ、局の方角から足音がした。花だった。息が少し上がっている。


「灯子さん……」


 花は私の顔を見る前に、手に持っている封筒を見た。白い、堅い紙。角が揃いすぎている封筒。


 嫌な予感は、たいてい当たる。


「局に……来てました。正式な……」


 花の声は、湯気より薄かった。


 私は湯呑を置き、封筒を受け取った。触れただけで分かる。これは人が書いた手紙じゃない。組織が吐いた言葉だ。


 封を切る音が、静かな朝に響いた。


 ——帝都記録管理条例に基づき、幻灯局の活動内容および保有記録の調査を実施する。


 文字は整っている。整っているから、冷たい。


 送り主は「帝都記録監理室」。


 行政・軍・教会・新聞社の代表が持ち回りで入る“調整窓口”。


 どこにも属さないのに、どこにでも繋がっている名前。


 私は息を吐いた。


「……来るか」


 花が小さく尋ねる。


「来る」


 それが答えだった。



 昼前、局の扉が叩かれた。叩き方が、礼儀正しい。礼儀正しいほど、拒めない。


 扉を開けると、男が立っていた。


 無表情で、事務的な男。


 スーツではない。軍服でもない。どこにも属さない制服。布の色は灰色に近い。襟元が妙に高く、喉仏を隠すような形をしている。


 胸元に、銀色のバッジが光った。


 「監理室」


「幻灯局の宵宮灯子さんで?」


「……はい」


「白石と申します。帝都記録監理室から参りました」


 名刺はない。名前は口頭だけ。手続きの順序が、逆だ。名刺を渡すより先に“所属”を渡してくる。


 白石は、局の中に入ると、靴の泥を払う仕草さえ省略した。泥が付かない場所から来たみたいに。


 御影さんが、いつもより少しだけ硬い声で迎えた。


「監査……ですか」


「調査です」


 白石は言い直した。言い直すことに意味がある、とでも言うように。


「ここ最近、幻灯局が独自に“街のアルバム”なるものを作っているとの報告がありまして」


 花が小さく身をすくめる。相馬さんは椅子に座ったまま、足を組んだ。


 御影さんが、淡々と返す。


「それが、条例違反にでも?」


「いえいえ」


 白石は笑わない。笑わないまま、“歓迎”を言う。


「帝都としてはむしろ歓迎していますよ。——ただ、“適切な角度”で記録していただけるなら」


 机の上に、厚い書類が置かれた。紙の束は、机の木目を隠した。私たちの生活の机を、条例の紙が覆っていく。


 表紙には太い字で「撮影指針(改訂案)」とあった。


 白石の指が、項目をなぞる。


「危険物・事故・暴動に類するものは、必ず監理室の指示に従って撮影。再開発・軍事関連施設の写真は、現像前にすべて提出。市井のアルバム化は“推奨”ですが、原本は帝都が保管することが望ましい——」


 望ましい、という言葉は優しい形をしている。けれど、拒んだときに何が起きるかを含んだ言葉だ。


 相馬さんの喉が鳴った。言葉が出る前に、心の中の声が見えた気がする。


 要するに、“見せたい帝都”だけ撮れってことだろ。


 私も同じことを思った。


 白石は書類を閉じ、こちらを見た。


「もちろん、皆さんが街のためにアルバムを作ること自体は否定しません。むしろ、帝都としては“整備”の一環として——」


 御影さんの視線が微かに鋭くなる。


「整備、ですか」


「街の記録は、整っているほど価値がある。散らばっている記録は、誤解を生みますから」


 誤解。混乱。危険。整理。


 この数週間で、何度聞いた言葉だろう。


 白石は淡々と続けた。


「本日中に、監理室からの出動命令が入る可能性があります。現場対応の手順も、こちらに従っていただければ」


 その言い方は、予告だった。


 そして、予告は外れない。



 午後、局の電話が鳴った。


 受話器を取った御影さんの顔が、紙より白くなる。


「……貨物駅構内で事故」


 相馬さんが立ち上がる。


「脱線か」


「積荷の一部が川に転落。軍と警察が封鎖。——幻灯局には“事故の記録”として出動命令」


 花が唇を噛んだ。私はカメラバッグを握りしめた。握る手に、汗が滲んだ。


 白石が、もう局の廊下に立っていた。最初からここまでセットだったみたいに。


「こちらへ」


 白石は言う。道案内ではなく、指示だ。


 記録監理室の廊下は、白かった。


 白いタイル。延々と続く扉。書類を抱えて行き交う職員たち。足音だけが均一に響く。


 窓の外には帝都の屋根が規則正しく並ぶ。規則正しい屋根は、規則正しい暮らしを意味しない。規則は、上から降る。


 廊下の途中で、白石が一度立ち止まり、こちらに向き直った。


「このラインからあちらは撮影禁止。正面からの全景を三枚、転落箇所の遠景を二枚。職員が指示しますので、その通りに」


 “職員”。誰の職員なのか、言わない。


 言わなくても分かるように作られている。



 貨物駅構内は、鉄と油の匂いがした。


 脱線した貨物列車が、斜めに傾いている。コンテナがずれて、レールがぐしゃりと曲がっている。川沿いの柵に、黄色い規制テープが翻っていた。風に煽られて、テープがひゅうひゅうと鳴る。


 遠くに軍用トラックが並び、兵士たちが封鎖線を守っている。警察の帽子が、陽光に黒く光る。


 私たちの前に、白石が立つ。白石の手元にはクリップボード。そこに“公式”が書かれている。


「ここから先は立入禁止です」


 軍人が言った。声は硬い。硬い声ほど、こちらの足首を掴む。


 私は規制線の前でカメラを構えた。手前にぼやけたロープ。ピントの合う先に、川べりで不安そうに立つ人々が見えた。


 駅員がうなだれている。制服の肩が落ちている。川の手すりに寄りかかり、荷物の心配をする商人たち。木箱が川面に浮かび、濡れた板が陽に光る。


 カメラは、それを全部写せる。写せるのに、写してはいけない。


「正面から、全景」


 白石が言う。


 私は言われた通り、傾いた貨物列車を撮った。三枚。シャッター音が、規制線の内側で乾いた。


「転落箇所、遠景」


 二枚。川に落ちた木箱が、遠くの点になる。川沿いの人々は、さらに小さくなる。小さくなって、意味が薄くなる。


 それが“適切な角度”なのだろうか。


 私は、規制線を一歩踏み出しかけた。


 靴の先が、黄色いテープの影に触れる。


「そこから先は、幻灯局といえど立入禁止だ」


 軍人の声が、私の足首を止めた。目は、私の目を見ていない。規則を見ている。


 私は、カメラを下ろした。


 シャッターは切れる。

 でもそれは、“本当の現場”ではなく、指定された額縁の中だけ。


 喉の奥が、熱くなる。


「……これ、記録って言えるんでしょうか」


 自分でも驚くほど、小さな声だった。


 相馬さんが、低く答えた。


「今のままだと、ただの“事故は適切に処理されました”って宣伝写真だな」


 白石はその会話を聞いていないふりをして、メモを取っている。あるいは、聞いた上で無視している。


 どちらでも同じだ。


 撮影を終え、撤収指示がかかった。白石がこちらを振り返る。


「これで、帝都としての“公式な記録”は揃いました」


 その言い方は、仕事の完了報告だった。

 人の不安の完了報告。


 私は、振り返った。


 規制線の外側にいる人たちが、まだそこにいる。駅員はまだうなだれている。商人たちはまだ川を見ている。誰も“処理”されていない。


「……“帝都としての”、ですか」


 白石の目が、ほんの少しだけ動いた。


「ええ」


 白石は静かに言う。


「それ以外の記録は、今後もご自由に。ただし——公に出るのは、こちら側の写真だけです」


 “ご自由に”。

 またその言葉だ。


 自由は、規制線の外側にしかない。けれど、その自由は公には出ない。公に出ない自由は、誰の自由だろう。


 私の背中に、電車の音が響いた。高架を走る音。街の上を走る音。規制線の上を走る音。


 その音は、いま私の背中を押していた。


 押す方向が、二つある。


 線の内側に従う方向。

 線の外側を見てしまう方向。


 私は、どちらも捨てられない。



 夜、局の机の上に、二冊のファイルが並んだ。


 スタンドライトだけが灯る。暗室の赤い光ではなく、白い光。白い光は、現実の色だ。逃げられない。


 一冊目の表紙には、御影さんが整った字でラベルを貼った。


 「帝都提出用・事故ファイル」


 二冊目は、同じ紙質のファイルなのに、どこか柔らかく見えた。ラベルは、私が書いた。字が少し揺れている。


 「局内保管・川沿いの人たち」


 花が、机の角に手を置き、言った。


「……二つに分けるの、ずるいみたいです」


 私は首を振った。


「ずるい、のかもしれない。でも……」


 言葉が続かない。


 花が続けた。


「でも、どっちかを捨てたら、もっとずるいですよね」


 相馬さんが、椅子にどさっと座る。


「捨てるな。どっちも持て。持てるだけ持て」


 御影さんは黙っていた。黙って、二冊のファイルを見ている。視線が、どちらにも同じ重さで乗っている。


 私は二冊目を開き、最後のページの端に、小さく書き込んだ。


 線の内側:帝都の記録

 線の外側:街の記憶


 ペン先が紙を掠れる音が、夜の局に響く。


 書き終えた瞬間、私は気づいた。


 “どちらも撮る”と、決めてしまったのだ。


 決めた瞬間は、勝利でも敗北でもない。

 ただ、引き受けたということだ。


 花が、机の上の二冊を見て、そっと言った。


「……封をされたレンズ、ってこういうことなんですね」


 私は答えなかった。答えられなかった。


 レンズは封をされる。額縁を指定される。

 それでも、私の目は封じられない。


 窓の外を、路面電車の灯りが横切った。光の線が一瞬だけ局の壁を走り、消えた。


 線の内側と外側を分ける線。

 でも、光は線を知らない。


 私はカメラバッグに手を伸ばし、ファスナーを閉める音を確かめるように聞いた。


 明日もまた、線の前に立つだろう。

 そのとき、私はどちらを撮るのか。


 ——たぶん、どちらも。


 その答えが、静かに喉の奥に残っていた。


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