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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第44話「誰のアルバムか」

 高架を走る電車の音は、空の上から落ちてくる雷に似ている。


 早朝の朧町で、それを聞くとき私はいつも、背中の奥が少しだけ落ち着く。どんなに眠れない夜が続いても、電車は走る。街は、動く。


 今日も、走った。


 局の流しで手を洗いながら、私は爪の先についた薬品の匂いを嗅いだ。昨日の簡易暗室の匂いが、まだ指に残っている。現像液の酸っぱさと、濡れた紙の甘い匂い。あれは嫌いじゃない。嫌いじゃないのに、胸の奥がちくりとする。


 花が遅れて入ってきた。いつものように「おはよう」と言いかけて、言葉の途中で止まる。まるで、その挨拶が誰かの気持ちを踏むみたいに。


「……おはよう」


 最後まで言ったのは、意地だったのかもしれない。


「おはよう」


 私は返した。返しただけで、少しだけ息が楽になる。


 御影さんが机の上に紙束を置いた。いつもは角が揃っているのに、今日は一枚だけ斜めにずれている。御影さん自身が、まだ綺麗に整えきれていない証拠だ。


「坂の件で決めたことを、他の場所にも試したいと思います」


 淡々とした声。淡々としているからこそ、重い。


「“街の手帳”を、ここだけじゃなく、他の場所にも——」


 相馬さんが椅子の背にもたれたまま鼻で笑った。


「実験ってやつだな」


「実験というより……確認です」


 御影さんが言い直す。


「我々が、どこに向けて写真を置くのか。置いた先で、どう扱われるのか。——そして、置くことで何が変わるのか」


 机の上には、次の現場の簡単な地図が載っていた。高架下市場。古いアーケード。錆びたシャッターと、新しいLED看板が混在する場所。


 そこは、前に一度だけ撮ったことがある。揚げ物の音と、魚の匂いと、人の声が重なって、いつも夕暮れに膨らむ場所。


 そして、数年以内に再整備計画があると噂されている場所でもある。


 胸の奥で、あの言葉が動いた。


 「お前らが撮ったから、消されるんだ」


 私は手帳を閉じて、カメラバッグを肩に掛けた。重い。けれど、前より持てる重さだった。


 花も、カメラを持っている。持つ指先がまだ少し硬い。でも、昨日よりは柔らかい。


「行こう」


 相馬さんが短く言った。



 高架下市場は、昼前からもう賑やかだった。


 鉄骨むき出しの高架の下に、光の帯みたいにアーケードの蛍光灯が続いている。電車が通るたび、天井の灯りがかすかに揺れる。揺れる光が、魚の銀色を瞬かせ、八百屋のミカンを照らし、豆腐屋の白を少しだけ柔らかくする。


 夕方が近づくと、この場所は匂いで満ちる。今日はまだ昼なのに、もうその予告編みたいな匂いが漂っている。揚げ物の油が熱くなる音。魚を捌く包丁の乾いた音。店主の声。


 市場の入口で、私たちは一度立ち止まった。


 ここは、坂とは違う。坂は生活の奥だった。市場は生活の表だ。表だからこそ、誰の目にも触れやすい。触れやすいぶん、勝手に使われやすい。


 その場の空気を確かめるみたいに、私は深く息を吸った。


「今日は最初から、条件を言いましょう」


 御影さんが言う。私の隣で、花が小さく頷いた。


 市場の事務所は、入口の脇にある小さな部屋だった。古い机。棚に積まれた帳簿。壁に貼られたシフト表。油で少し黄ばんだカレンダー。


 事務員の女性がこちらを見て、訝しげに眉を上げた。


「……幻灯局さん?」


 名前が口から出た瞬間、少しだけ空気が固くなる。坂の件の噂は、この市場にも届いている。届いていないわけがない。


 私は一歩前に出て、頭を下げた。


「こんにちは。今日は、“帝都の資料”を作りに来たんじゃありません」


 自分の声が、自分のものじゃないみたいに聞こえる。緊張している。けれど、言わなきゃいけない。


「皆さんの“アルバム”を作りに来ました。写真はここに一冊、必ず置いていきます」


 事務員さんの目が少しだけ動いた。


「……アルバム?」


 後ろから相馬さんが口を挟む。


「勝手に持って帰らねぇ。勝手に渡さねぇ。まず、ここに置く。——そういう話だ」


 言い方は乱暴だけど、内容は誠実だ。


 事務員さんが迷う顔をした。そのとき、廊下の方から声が飛んできた。


「写真? また?」


 八百屋の店主が、手を拭きながら顔を出した。四十代くらい。腕が太い。声が大きい。


 魚屋の若い兄ちゃんが、ひょいと後ろから覗く。


「坂のとこ、あんたらが揉めたって聞いたぞ」


 花の肩がきゅっと上がった。私は、胸の中にある言葉を探して、見つけた。


「揉めました」


 隠しても意味がない。


「私たちの写真が、勝手に別の意味に使われました。……だから、今日は最初に言います。写真は、まずここに残します。皆さんが望まない使い方は、しません」


 八百屋の店主が鼻を鳴らした。


「望まない使い方、って言ったってよ。出ちまったもんは止まらねぇだろ」


 九条さんが、その場にいた。今日は編集部ではなく市場に来ている。帽子を目深に被って、メモ帳を持っている。


 九条さんが、静かに言った。


「だから、“出す先”を変えます」


 八百屋の店主が九条さんを見る。九条さんは目を逸らさず続けた。


「この記事は、明日の再開発会議の資料にされるためじゃない。ここで働く人たちが、いつか読み返して笑えるために書く」


 空気が少しだけ動いた。笑えるため。資料じゃない。数字じゃない。生活の言葉。


 魚屋の兄ちゃんが、肩をすくめる。


「笑えるって……そりゃ理想だな」


 その瞬間、奥の通路から小さな声がした。


「ねえ、カメラって、触っていいの?」


 子どもが一人、豆腐屋の前に立っていた。小学生くらい。制服の帽子を被っている。


 豆腐屋の奥さんが慌てて子どもの頭を撫でる。


「こら、失礼でしょ」


 子どもは引かない。


「だって、父ちゃんの働いてるとこ、撮ってみたい」


 その言葉が、予想外に真っ直ぐだった。


 花が、ふっと笑った。笑ってしまったことに驚いて、自分の口元を押さえる。


 私は、バッグの中から小さな予備のカメラを出した。相馬さんが買ってきた、手頃な簡易機。


「これなら」


 私は子どもに差し出した。


「落とさないように持てる?」


「持てる!」


 子どもは両手で抱えるように受け取った。レンズの向こうを覗き込んで、目を丸くする。


「うわ、なんか……ここ、光ってる」


 魚屋の兄ちゃんが、興味を持った顔で近づく。


「それ、俺も撮っていい?」


 八百屋の店主が鼻で笑いながら言った。


「魚屋、撮ってやれよ。今日も魚臭ぇ顔してるぞ」


「うるせぇ!」


 笑い声がひとつ起きた。大きな笑いじゃない。けれど、それだけで市場の硬さが少しだけ解けた。



 撮影は、“撮り合い”になった。


 魚屋の兄ちゃんが八百屋の店主を撮る。八百屋の店主が豆腐屋の奥さんを撮る。豆腐屋の奥さんが、揚げ物屋の手元を撮る。揚げ物屋が、魚屋の兄ちゃんを撮る。


 レンズが回る。視線が回る。


 撮られる側から撮る側へ。役割が変わると、表情が変わる。


「なんだよ、俺こんな顔してんのか」


 魚屋の兄ちゃんが笑う。


「そりゃそうだろ。毎日魚と喧嘩してんだから」


 八百屋の店主が言う。


 子どもは、親の背中を撮った。豆腐を運ぶ父親の背中。手のひら。白い豆腐を崩さないように運ぶ指の力。


 花が、揚げ物屋の前で立ち止まった。コロッケを揚げる手元。油が跳ねる音。衣の色が変わる瞬間。花の目がそれを追う。


「花ちゃん、撮る?」


 揚げ物屋のおばさんが笑って訊いた。


 花は少しだけ赤くなって、首を振りかけて——でも、言った。


「……写ってみたいです」


 その言葉が、花自身を驚かせたみたいだった。花は“撮る側”でいるとき、いつも少しだけ身を引く。今日は、引かない。


 おばさんが大げさに手を止める。


「じゃあ、これ持って。熱いから気をつけてね」


 花はトングを受け取り、油の前に立つ。照れながら、でも真剣に。魚屋の兄ちゃんがその姿を撮った。


「おお、いいじゃん。幻灯局の嬢ちゃん、ちゃんと働いてるみたいだな」


「みたいじゃなくて、働いてます……!」


 花が小さく反論して、周りが笑う。笑いが、油の匂いに混ざる。市場の匂いになる。


 私はその光景を撮りながら、胸の奥で考える。


 “所有”って、何だろう。


 ネガを持っているのは私たちだ。プリントを作るのも私たちだ。けれど、写っているのは彼らの生活だ。彼らの手だ。彼らの声だ。


 誰のものでもない、と言うのは綺麗すぎる。

 誰のものか、と言い切るのは乱暴すぎる。


 きっと、街のものだ。

 ただし、“街”という言葉は大きすぎる。


 だから、いま私の目の前にいる、この人たちのもの。

 この通路を通る誰かのもの。

 今日、この匂いを嗅いだ人のもの。


 それを、どう形にすればいいのか。


 その答えの一つが、アルバムなのだと思った。



 同じ日、九条さんは市場の隅でメモを取り続けていた。


 いつもなら、九条さんの目は“帝都全体の読者”を見ている。大きな紙面。大きな視線。けれど今日は違う。九条さんの目は、目の前の声を拾っている。


 夕方、撮影が一段落した頃。九条さんが八百屋の店主の前に立ち、問いかけた。


「値段って、どうやって決めてるんですか」


 八百屋の店主は、少しだけ笑って言った。


「どうやってって……そりゃ、相場もあるし、天気もあるし」


「それだけですか」


 九条さんが食い下がる。いや、食い下がるというより、言葉を掬い上げようとしている。


 店主は少し考えてから、肩をすくめた。


「うちはね、“誰も倒れないように”値段決めてんの」


 九条さんのペンが止まった。


「客も、うちも。ちゃんと暮らせるようにさ」


 その一言は、売上の数字より市場の本質を語っていた。私は少しだけ、胸が熱くなるのを感じた。


 九条さんが、店主に向かって小さく頭を下げる。


「それ、書いてもいいですか」


「好きにしろよ。ただし、変な格好つけんなよ」


「格好つけません」


 九条さんが笑った。その笑い方が、少しだけ楽そうだった。



 撮影が終わる頃には、市場の灯りが少しずつ夕方の色に染まっていた。


 通路の奥で、電車が通るたび、蛍光灯が揺れる。揺れるたび、アルバム用のプリントが棚の上で薄く震える。


 私たちは市場の事務所に集まり、アルバムを作った。厚紙のスクラップブック。糊の匂い。紙を押さえる指の熱。


 花が表紙に字を書いた。


「高架下市場アルバム 1冊目」


 花の字は少しだけ丸い。坂のアルバムを書いたときより、少しだけ強い線になっている。


「……事務所の棚にしまっておきましょうか」


 事務員さんが言った。彼女の言葉は合理的だった。棚にしまえば、汚れない。盗まれない。破れない。


 私は、少し迷った。


 迷ったのは、怖いからだ。

 誰でも手に取れる場所に置いたら、誰かが勝手に持っていくかもしれない。破るかもしれない。落書きするかもしれない。

 でも、棚にしまったら、存在しないのと同じになるかもしれない。


 私は坂の踊り場を思い出した。あの場所の写真が、誰かの机の上の赤い丸で囲まれたことを思い出した。


 “置き場所”が意味を変える。


「できれば……」


 私は言った。声が少しだけ震える。


「誰でも手に取れる場所に置いてほしいです」


 事務員さんが困った顔をする。店主たちも顔を見合わせる。魚屋の兄ちゃんが言った。


「盗まれたらどうすんだ」


「破られたらどうすんだ」


 豆腐屋の奥さんが言う。


 私は答えを探して、見つけたのは綺麗な正解ではなかった。


「……それでも」


 私は言った。


「これは、“誰か一人のもの”じゃなくて、ここを通る人みんなのものにしたいんです。持ち主を一人にすると、また——」


 また、“使う側”と“使われる側”に分かれてしまう。


 相馬さんが、頭を掻きながら言った。


「だったら、真ん中に置け。ここを通るやつ全員が目にする場所」


 魚屋の兄ちゃんが口笛を吹く。


「真ん中って……あのベンチか」


 市場の通路の真ん中に、小さなベンチがある。買い物帰りの人が休む場所。子どもが座ってアイスを食べる場所。誰かが会話をする場所。


 事務員さんが溜息をついた。


「……じゃあ、あそこに置くなら札つけましょう。“ご自由にご覧ください”って」


「それがいいです」


 私は頷いた。


 花が札の字を書いた。丁寧な字。どこか少し照れている字。


 相馬さんが、アルバムの端を指で叩いた。


「その端っこにでも、小さく“幻灯局”って入れさせてくれ。仕事した証拠がないと怒られんだよ」


「え、そこ大事?」


 魚屋の兄ちゃんが笑う。


「大事なんだよ。世の中ってのはな」


 相馬さんが肩をすくめて、店主たちも笑った。


 笑いの中で、私はふと気づく。


 “証拠”は、裁くためだけのものじゃない。

 仕事した証拠。生きていた証拠。ここにいた証拠。

 証拠の種類を、私たちは取り戻したいのかもしれない。



 夜、市場の照明が順に落ちていく。


 一つ、また一つ。シャッターが閉まる音。店主が戸締まりする音。床を掃く音。


 最後の方まで残っていたベンチの上に、アルバムが置かれている。


「ご自由にご覧ください」


 札の字が、柔らかい灯りに照らされている。アルバムのページの隙間に、ほんの小さく「撮影協力:幻灯局」と手書きされた文字が見える。


 誰かが通りすがりに足を止める。買い物袋を持ったおばさんが、ページを一枚めくる。そこには、揚げ物屋のおばさんの手元。豆腐屋の父親の背中。魚屋の兄ちゃんの笑い顔。花の真剣な横顔。


 おばさんが、ふっと笑った。


 その笑いは、会議室の笑いとは違う。

 記事の見出しの笑いとも違う。

 生活が自分自身を見返して、少し照れる笑いだ。


 私はその場から少し離れたところで、灯りの落ちた市場を見上げた。高架の鉄骨が黒く伸び、その下のアーケードが細い光の帯になっている。電車が通る。天井の灯りが揺れる。揺れる光が、アルバムの表紙に一瞬だけ反射する。


 街が、開いている。


 たぶん、これが私たちの今の答えだ。


 帝都全体に向けた“正しい記録”じゃなくて、

 小さな場所に向けた“戻ってこられる記憶”。


 帰り道、私は手帳を開き、短く書いた。


 このアルバムの持ち主は、

 ここを通る人全部。


 書いた文字の上を、電車の音が通り過ぎていった。


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