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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第43話「それでも、撮る側に立つ」

 路面電車の始発が走るより早く、私は目が覚めてしまった。


 冬の朝の空気は、布団の中まで冷たい。台所で湯を沸かす音を立てる気力もなくて、私は枕元の手帳を開いた。昨日のページに、赤い光の匂いがまだ残っている気がした。


 暗室の赤。現像液の酸っぱい匂い。花の震える声。


「カメラを置いてみたい」


 自分で言った言葉が、紙に滲んでいるように見える。私は鉛筆を持ち、何かを書き足そうとして、結局何も書けなかった。


 局に行くと、玄関の前に一枚の紙切れが落ちていた。誰かが踏んだのか、泥がついている。


「裏切り者」


 昨日まで貼られていたビラの切れ端だ。拾って捨てる手が、少しだけ震えた。


 中は静かだった。静かすぎる。機械の時計の音だけが、壁の中で規則正しく鳴っている。


 花はまだ来ていない。相馬さんはソファに寝転んで、上着をかけたまま天井を見ていた。御影さんは机に向かっているが、書類を開いたまま、視線がどこにもない。


「おはようございます」


 声が、変に明るく響いた。誰も返事をしなかったわけではない。返事の形にならなかっただけだ。


 私たちの仕事は半ば止まっていた。


 依頼は来る。電話も、手紙も、口伝えも。けれど、誰も「行こう」と言い出せない。言い出した瞬間、その言葉が誰かを刺すと分かっているから。


 私も、外へ出る準備をしては、結局レンズを外せないまま戻ってくる。カメラバッグは重いのに、持っているだけで何もしていない。


 正午を少し過ぎた頃、郵便受けの口が、かすかに鳴った。


 何かが落ちた音。


 私は反射的に立ち上がっていた。心臓が先に動く。玄関へ行き、郵便受けを開ける。封筒が一通だけ入っている。白い封筒。差出人の欄は、丁寧な字で書かれていた。知らない名前。


 封を切ると、中から二つのものが出てきた。


 くしゃくしゃになった新聞の切り抜き。九条さんの、あの穏やかな文章が載っている。角が破れて、何度も握りしめられた跡がある。


 それから、短い手紙。


『あの写真、もう一度だけ見せてくれませんか。壊される前に、ちゃんと覚えておきたいんです』


 紙の上の言葉は、乱暴ではなかった。怒りも、脅しもない。けれど、そこにある切実さが、別の種類の刃物だった。


 私は息を吸って、吐いた。手紙の最後に、小さく付け加えられている。


『説明会で声を荒げた者の家族です。おばあちゃんの孫です』


 胸の奥に落ちていた火種が、形を変える。燃え上がる火ではない。灯りに近い火。


 私が手紙を握りしめたまま部屋に戻ると、相馬さんが起き上がり、御影さんがこちらを見た。花は、いつの間にか局に入っていて、玄関の方を気にしていた。目がまだ腫れている。


「……来たの?」


 花が小さく訊く。


 私は頷いて、手紙を差し出した。花は受け取らず、読む前にその場で固まった。怖いのだ。自分の撮った写真の続きを知るのが。


 御影さんが先に手紙を読み、静かに紙を戻した。


「差出人は、坂の住宅街の……」


「怒鳴ってた人の?」


 花の声が掠れる。


「その祖母の孫娘だそうです。……『なかったことにされるのはもっと嫌だ』と」


 相馬さんが、しばらく黙ってから言った。


「……行くか」


 その一言は、重かった。決断ではなく、祈りに近い。


 花が目を伏せた。私も頷いた。頷いた瞬間、怖さが消えたわけではない。ただ、怖いまま立つ場所が決まっただけだった。



 坂の住宅街は、夕方の光に沈んでいた。


 斜面にびっしりと並ぶ木造二階建ての屋根は、どれも少しずつ角度が違う。路地は細く、階段は急で、手すりは錆びている。踊り場には植木鉢が並び、冬でも小さな緑を守っている。


 その“暮らしの細部”の上に、別の色が乗っていた。


 壁にスプレーで書かれた管理番号。柱に貼られた紙。「調査済」「危険」。赤い印。黄色いテープ。


 それでも、洗濯物が干されている。白いシャツが風に揺れて、夕陽を受けて少しだけ金色に見える。その金色が、泣きたくなるほど綺麗だった。


「……こんなに、書かれちゃうんだね」


 花が呟いた。声が小さい。坂の空気に飲まれそうだ。


 階段を上がる途中、古い公衆浴場の煙突が見えた。看板の文字は少し剥げている。入口の暖簾の色が褪せている。けれど、人の出入りの気配はある。


 路地の角で、孫娘が待っていた。


 年は、私より少し下くらいだろう。髪を後ろでまとめ、手に布の袋を提げている。目の下に影がある。何日も眠っていない人の影だ。


「……来てくれて、ありがとうございます」


 頭を下げる。その動作が、申し訳なさと意地と、いろんなものを混ぜた形だった。


「こちらこそ」


 私がそう言うと、孫娘は少しだけ顔を上げた。


「おばあちゃん、あの説明会のあと……ずっと怒ってました。『あいつらのせいだ』って。わたしも、そう思ってた」


 花が小さく息を飲む。相馬さんは表情を変えない。変えないまま、聞いている。


「でもね」


 孫娘は、手の中の紙を見せた。九条さんの記事の切り抜き。くしゃくしゃのそれ。


「これ、捨てようとしたんです。腹立つから。そしたらおばあちゃんが言ったんです。『捨てるな』って」


 孫娘の声が、少し震えた。


「『腹立つのは腹立つ。でも、あそこに居たことまで、消えたことにされるのはもっと嫌だ』って。……だから、お願いしようと思った」


 私たちは、頷くしかなかった。頷くことが許される行為に思えた。


「写真、持ってきました」


 私はカメラバッグから、封筒を取り出した。坂で撮った写真のプリント数枚。まだ“危険区域”の赤い丸で汚されていない、私たちの写真。


 孫娘は、紙を受け取る手を一瞬ためらった。触れたら痛むものに触るみたいに。それでも受け取り、そっと見た。


 彼女の目が、写真の中の階段を辿る。踊り場の植木鉢。干された洗濯物。夕焼けの空。おばあちゃんが座っていた場所。


「……ここ」


 孫娘が指を差した。


「おばあちゃん、いつもこの踊り場に座ってる。買い物の帰りに。息切れすると、ここで休むの」


 写真の中のおばあちゃんは、ほんの少し笑っているように見えた。私はその笑いが、撮影のときの私の目線の高さと同じだと気づく。私はあの日、階段の下からではなく、同じ踊り場の高さで撮っていた。


「ねえ」


 孫娘が顔を上げる。


「これ、……残せるんですよね。どこかに」


 “どこかに”という言葉が、昨日までの議会や行政の棚を思い出させる。公文書館の無機質な棚。ファイルの背表紙。そこに差し込まれる薄い紙。


 私は、息を吸って言った。


「まず、あなたたちのところに残します」


 相馬さんが横で頷いた。花も、ゆっくりと頷く。


「それから……」


 私は続けた。


「これから撮る写真は、まず“この街の人たちのため”に残したいです。行政や軍に渡すかどうかは、勝手に決めません。ここに住んでる人たちが、どうしたいかを聞いて、それから」


 孫娘は、目を見開いた。


「そんなこと、できるんですか」


「簡単じゃないと思います」


 相馬さんが言った。現実の人の声で。


「でも、やる。俺たちが“帝都のため”って言葉に全部飲まれたら、また同じになる」


 花が、震える声で口を開いた。


「……原本を、渡したいです。プリントも。ネガも。全部じゃなくても、街の手帳みたいに」


 “街の手帳”。その言い方が、妙にしっくりきた。


 孫娘が、小さく笑った。泣きそうな笑い方。


「おばあちゃん、喜ぶと思う」


 そして、言った。


「今日、もしよかったら……もう一回、撮ってもらえませんか。壊される前に、“最後の一枚”みたいな」


 最後の一枚。


 その言葉が、胸に刺さった。最後、と言われた瞬間、写真が墓標に変わる。墓標は、必要だ。でも、墓標だけにしたくない。


 私は自分のカメラを見た。レンズを付けたままのカメラ。昨日まで、そのレンズを外せずにいた。


 今日は、外さない。


「……はい」


 私は答えた。


「でも、私だけが撮るんじゃなくて。もしよかったら、あなたたちも一緒に。見せてください。“帰ってきたくなる景色”を」



 夕暮れの坂で、撮影会は始まった。


 大げさなものじゃない。けれど、坂の空気が少しだけ変わった。階段の踊り場に人が集まり、いつもは通り過ぎるだけの場所で立ち止まる。


 町内会の人が声をかけてくれて、何人かが出てきた。洗濯物を取り込んでいた人も、子どもを叱っていた母親も、浴場帰りの男性も。


「……写真? 今さら?」


 最初は渋い顔の人もいた。確かに、今さらだ。壊される前に撮っても、壊されることは変わらない。


 けれど、渋い顔の人が、ふと空を見上げて言った。


「でもな……ここで暮らしてきたことまで、消えたことにされるのは、もっと腹立つんだよ」


 その言葉で、空気が決まった。腹立ちが、方向を持つ。私たちに向くのではなく、“なかったこと”に向く。


 花がカメラを取り出した。バッグから、そっと。まるで長い眠りから起こすみたいに。


「……もう一回だけ、坂を撮りたい」


 昨日の暗室の声と同じ声だった。違うのは、今は震えが少しだけ少ないこと。


 私はカメラを構え、階段の途中から見上げた。


 斜面に屋根が折り重なり、その向こうに帝都のビル群のシルエット。夕陽が、ビルの角を赤く染める。坂の上の方で、誰かが窓を閉める音がした。生活の音。


 その景色の中に、人が座る。


「階段に、ずらっと座ってください」


 相馬さんが、声を張った。相馬さんがこういう場で声を張るのは珍しい。けれど今日は、必要だった。


 子どもが階段に座り、母親が隣に座り、浴場帰りの男性が照れながら座る。町内会長が咳払いをして腰を下ろす。


 孫娘が、おばあちゃんの手を引いてきた。


 おばあちゃんは小柄で、背中が少し丸い。けれど目はしっかりしている。私たちを見ると、一瞬眉をひそめた。


「来たのかい」


 声は、説明会で怒鳴っていた声より低い。怒りが沈殿した声。


「……はい」


 私は頭を下げた。謝罪でも懇願でもない。今ここに立つ者としての礼。


 おばあちゃんは、鼻を鳴らした。


「写真なんて、嫌いだよ」


 花が硬直する。孫娘が慌てて口を挟もうとする。


 でもおばあちゃんは続けた。


「嫌いだけどね。……あそこに居たことまで、消えたことにされるのは、もっと嫌だ」


 同じ言葉が、本人の口から出た。噂ではなく、生活の声として。


 孫娘が目を潤ませる。


「おばあちゃん、どの角度がいちばん“うちらの坂”っぽい?」


 おばあちゃんは、少しだけ考えてから言った。


「あんたが、一番“帰ってきたくなる”景色にしておきな」


 その言葉で、孫娘の背中が伸びた。彼女は私のカメラを覗き込んで、画角を見た。


「もうちょっと、こっち……うん。ここだ」


 私は、彼女の指示に従って、ほんの少しだけ位置をずらした。階段の手すりが画面の端に入る。植木鉢が一つ、手前に入る。夕陽が、屋根の角に当たる。


 花が隣で、別の角度から撮っている。花のレンズは、さっきより迷いが少ない。


 相馬さんが、子どもに声をかけた。


「おい、そっちの坊主。覗いてみるか」


「いいの?」


「いい」


 子どもがカメラを覗き込み、目を丸くした。


「うわ、逆さだ!」


「逆さに見えるのを、ちゃんと戻すのがレンズだ」


 相馬さんが笑った。久しぶりに見た、仕事の笑い方。


 私はシャッターを切る。


 音は小さい。けれど、坂の空気に確かな点が打たれる。ここに居た、という点。消されないための点。


 シャッターを切るのは、私だけではなかった。


 花も切る。

 孫娘も、私たちの予備の小さなカメラを借りて切る。

 町内会長も、照れながら切る。

 子どもも、押すタイミングを教えてもらって切る。


 “記録”が、誰か一人の権力ではなく、共同の作業になる瞬間だった。


 その時、遠くで路面電車の灯りが線を描いた。坂の下の通りを走り、光の線が、少しだけ坂の輪郭を浮かび上がらせる。


 私は思った。


 帝都の線引きが上から引かれるなら、

 私たちの線は、人の高さから引き直せるのかもしれない。



 撮影が終わったあと、私たちは路地裏に回った。


 孫娘が用意してくれたバケツ。赤い布。古い木箱。浴場の裏手の小さな物置を借りて、簡易の暗室を作る。


 入口に赤い布をかけると、外の夕暮れが消え、赤い光だけが残る。


 赤い光は、昨日の暗室と同じ色だった。

 けれど、昨日とは違う匂いがした。今日は、周りに人の気配がある。外で誰かが笑う声がする。バケツの水が揺れる音がする。


 現像液に印画紙を浸す。ゆらゆらと紙が揺れる。


 花が息を止めて見ている。孫娘も、身を乗り出して見ている。おばあちゃんは腕を組んで、じっと見ている。


 白い紙の上に、少しずつ像が浮かび上がる。


 階段。人。屋根。夕陽。


「……出てきた」


 孫娘が囁いた。


 花の目から、涙が一粒落ちた。落ちた涙は、赤い光の中で黒く見えた。


 私はプリントを水で洗い、タオルの上に並べた。湿った紙の匂いが、妙に生々しい。生々しいことが、ありがたい。


 町内会長が来て、古い木の机の上に厚紙のスクラップブックを置いた。背表紙には手書きで「坂の記録」とある。


「これに貼っていけばいいんだな」


 町内会長の声は、責任を引き受ける人の声だった。受け取った瞬間、記録は“誰かの棚”ではなく、“この街の手帳”になる。


 私たちは、数枚のプリントを町内会長に渡した。孫娘にも渡した。おばあちゃんにも渡した。おばあちゃんは受け取る手を少しだけ躊躇して、でも受け取った。


 指先が写真の端を撫でる。撫で方が、卵の殻を撫でるおかみさんの手と似ていた。壊れやすいものを壊さないように触る手。


「……悪くない」


 おばあちゃんがぼそりと言った。


 それだけで、花の肩が少しだけ下がった。



 帰り道、坂を下りながら、私は手帳を開いた。


 街灯が点き始めている。階段の手すりに掛かった影が長い。洗濯物が取り込まれ、窓が一つずつ閉じられていく。


 私は手帳の端に、小さく書き込んだ。


 帝都のためではなく、

 ここに住んでいた人たちのために。


 書いた文字は、思ったより小さかった。小さいけれど、確かに私の字だった。


 花が隣で言った。


「……灯子」


「うん」


「怖いのは、まだ怖い」


「うん」


「でも、今日……ちょっとだけ、戻ってきた気がする」


 戻ってきた、という言葉が、胸に沁みた。私たちは、坂の人たちの“帰ってきたくなる景色”を撮った。撮ったことで、私たち自身も少しだけ戻ってきたのかもしれない。


 相馬さんが前を歩きながら言う。


「“帝都のカメラマン”じゃなくて、“街のカメラマン”だ。鞍替えって言うと軽いが……まあ、今はそれでいい」


 その言葉に、私は頷いた。

 軽い言葉じゃない。

 “どこへ向けるか”を決めるのは、怖い。

 怖いけれど、決めないと、また誰かの定規に塗られる。


 坂を下りきったところで、路面電車が通った。光の線が、私たちの横を走り去る。


 私はその線を見送りながら、思う。


 同じ一枚の写真でも、

 誰のために撮ったかで、意味は変わる。


 変わるなら、

 最初に向ける先だけは、間違えたくない。


 局へ戻る道の途中、街の灯りが少しずつ増えていく。増えていく灯りの中で、私はカメラバッグの重さを確かめた。


 重い。

 でも、今日は持てる重さだった。


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