第42話「幻灯局はいらない?」
朝の三上商店は、いつも通りに味噌と乾物の匂いがした。
棚の奥から聞こえる瓶の擦れる音。豆を量る小さな計りの針。路面電車の鈴の音が、遠くで一度だけ鳴って、すぐ街のざわめきに溶ける。
「灯子ちゃん、今日は卵あるよ。坂の方から来た人が、朝いちで全部さらっていくかと思ったけどねえ」
おかみさんが笑いながら言った。その笑い方が、いつもより控えめだった。
「坂の方、そんなに……」
「うん。なんかね、“あそこは危ないんだって”って。みんな口々に言ってたよ。危ないって、何が?」
おかみさんの指が、卵の殻を撫でるみたいに箱の縁を叩く。私は卵を受け取りながら、言葉が詰まった。
危ない。便利な言葉だ。何かを片付けるのに、いちばん手軽なラベル。
「……坂の住宅街、再開発の話が出てて」
「へえ。じゃあ、あんたらの仕事も増えるんじゃない?」
世間話の口調だった。けれど“あんたら”のところで、おかみさんの視線が一瞬だけ泳いだ。私のカメラバッグに気づいている。気づいた上で、気づかないふりをしてくれている。
私は卵を包んでもらう間、余計なことを考えないように、紙袋の手触りだけに集中した。紙は乾いていて、ざらざらしている。いま欲しいのは、こういう確かな感触だ。
外に出ると、掲示板の角に新しい紙が貼られていた。町内会のお知らせの隣に、誰かが勝手に貼ったもの。
「幻灯局に気をつけろ」
短い字で、書き捨てられている。紙の端がめくれて、風に揺れていた。揺れ方が、昨夜の扉のビラと同じだ。
胸の奥に、薄い火種が落ちる。火種は小さいほど、気づかないうちに燃える。
◇
局に戻ると、花がいつものように湯を沸かしていた。やかんの蒸気が、窓ガラスを曇らせる。曇ったガラス越しに、路面電車の線路がぼんやり見える。
「おかえり。卵、買えた?」
「うん。……掲示板にまた貼られてた」
私がそう言うと、花の肩が僅かに跳ねた。花は返事をしない。返事をしたら、何かが崩れるみたいに。
九条さんからの手紙が、机の上に置かれていた。封筒の角が折れている。急いで持ってきた跡。
中には、切り抜きのコピーが数枚と、走り書きのメモ。
「噂が回ってる。今日は外、静かじゃない。気をつけろ」
静かじゃない、という言い方が、妙に怖かった。騒がしいなら分かる。静かじゃない、はもっと広い。街全体が少しずつ硬くなっていく感じ。
その日、電話は鳴らなかった。
鳴らないことが、逆に不気味だった。昨夜までの無言電話が、ここに“いる”ことを教えてくれていたのに。今日は何もない。何もないまま、誰かが外で決め事を進めている気がする。
昼過ぎ、御影さんが帰ってきた。書類の束を抱えている。顔がいつもより白い。
「市の議会に、幻灯局の予算削減の動きが出ています」
机に紙束を置く音が、乾いて響いた。
「……そんなに早く?」
花が小さく言う。
「早い方が都合が良いのでしょう。世論が荒れている今なら、“無駄遣い”という言葉が通りやすい」
御影さんは淡々と言った。淡々としているのに、言葉の下に怒りがある。
「それと、教会からも。資産管理部門ではなく、説教の方から……」
「説教?」
相馬さんが鼻で笑った。彼は壁にもたれて腕を組んでいる。いつもなら冗談を言う場面で、今日は冗談が出ない。
「“神の選別を曇らせる余計な記録”だそうです。噂は、あらゆる経路で補強され始めています。匿名掲示板、路地裏の噂話、裏社会の情報網……」
御影さんは最後の言葉だけ少し声を落とした。裏社会。七瀬さんの顔が浮かぶ。けれど七瀬さんは今、局にはいない。外で待機している。外の空気を読む役を引き受けている。
私は、カメラバッグの上に手を置いた。革の冷たさが掌に伝わる。
まだ、撮影依頼のメモが机に残っている。市場の後始末。保存地区の公式写真。都市計画局の会議室での“第三のレンズ”。そして坂の住宅街の火種。
仕事は続いているのに、足元が抜けそうだった。
◇
夕方、九条さんが来た。上着の襟が立っている。目の下の影が濃い。記者としての影というより、人としての影。
「俺のところにも来たよ。“幻灯局が街を消す”って話」
九条さんは椅子に座るなり、机の上に二枚の紙を重ねた。新聞の切り抜きと、都市計画局の資料コピー。
同じ写真。キャプションだけ違う。
私の写真が、二つの意味を持ったまま、紙の上で並んでいる。
「こういうのが、いちばん燃えるんだ」
九条さんが苦く笑った。
「燃える……」
花が繰り返す。喉の奥が詰まったみたいに。
「議会も動き出してる。教会の過激派も言い始めた。裏の連中は、もっと雑だ。“あいつらが来た街は消される”って」
相馬さんが低く唸った。
「自分たちの手を汚したくねえから、ちょうどいい標的を見つけたって顔だな」
「九条さん」
私は言った。訊かなければならないことがある。
「あなたは……これを書きますか。“幻灯局不要論”って」
九条さんは一瞬、目を閉じた。閉じたまま、息を吐く。
「書かなきゃ、なかったことになる」
そして、目を開けて、紙を見た。
「書いたら、また誰かの首をしめるかもしれない。……どっちを選んでも、きれい事じゃ済まないな」
その言葉が、室内に沈んだ。沈んだまま浮かない。水に沈めた石みたいに。
御影さんが、指先で紙の端を揃えながら言った。
「だからこそ、我々は一度、立ち止まるべきだと思っています」
臨時会議は、自然に始まっていた。
◇
夜、局の会議室――といっても、机を寄せた小さな部屋で、私たちは向かい合った。窓の外に、帝都の屋根が黒い波みたいに広がっている。
御影さんは背筋を伸ばしたまま、言葉を選んでいる。選んだ言葉を、確実に置いていく人だ。
「我々の写真が、誰かの“原本”を塗りつぶす材料になっているなら、一度、撮影を中断すべきです。少なくとも、今のままでは“協力”という名目で、どこかの手足になりかねない」
“原本”という言葉が、胸に刺さった。暮らしが原本なら、私たちの写真は複写だ。複写が原本を塗りつぶす。そんなことがあるのか、と昨日まで思っていた。あるのだ。
相馬さんが椅子を鳴らして身を起こす。
「止めたところで何も変わらねえよ。俺たちが撮らなくなったら、次はどこの“公式カメラマン”が使われる? 行政の広報か、軍の記録係か。あんたは、そっちの方がマシだと言えるのか」
「マシだとは言っていません。ただ――」
「ただ、何だよ。俺たちが撮ると燃える。じゃあ燃えないように見えないふりをするのか?」
相馬さんの声は荒い。荒いけれど、矛先が誰に向いているのか分からない。御影さんに向いているようでいて、自分自身にも向いている。
花は黙っていた。黙ったまま、両手を膝の上で握りしめている。握りしめる指が白い。
「花?」
私が名前を呼ぶと、花はゆっくり顔を上げた。目が赤い。泣いたのか、眠れなかったのか、どちらもか。
「……でも」
花の声は、薄い紙みたいに震えた。
「“幻灯局のせいだ”って泣いてる声を、知ってしまったら……何もなかった顔して、撮りに行けないよ」
言い終わると、花は唇を噛んだ。噛んだ跡が白くなる。言ってはいけないことを言った人の顔じゃない。言わなければ壊れる人の顔だ。
私は、言葉が出なかった。
否定できない。慰める言葉も見つからない。
“撮ってくれてありがとう”と言われた場所と、同じカメラで撮って、同じ写真が“危険”に変わる。
私自身も、胃の奥が冷えるたびに思っていた。
もし、カメラを置いたらどうなるのか。
置いたら、私は軽くなるのか。
それとも、もっと重くなるのか。
窓の外の屋根に目を落とす。帝都の屋根は、ひとつひとつが誰かの暮らしの蓋だ。蓋の上を、線引きの定規が滑っていく。
御影さんが静かに言った。
「灯子さん。あなたはどう思いますか」
全員の視線が私に集まる。
会議室の空気が薄くなる。
私は、喉が鳴るのを感じた。言葉を出す前の、身体の準備。
けれど、言葉は出なかった。
出せば、どちらかを切り捨てる。
出さなければ、全員を宙ぶらりんにする。
私は、宙ぶらりんの方を選んでしまった。選んだというより、落ちた。
「……まだ」
かろうじて出たのは、それだけだった。
「まだ、答えが出ません」
相馬さんが舌打ちしそうになって、やめた。御影さんは目を伏せた。花は、肩を小さくすくめた。
会議は終わらなかった。終われなかった。
終われないまま、夜だけが進んでいった。
◇
外では、別の会議が進んでいる。
九条さんから聞いた話は、私の頭の中で映像になった。
市議会の簡素な会議室。プロジェクターに映される予算表。業務内容の説明資料。「削減」「廃止」という文字がちらつく。議員の声は、街の声より冷たく、整っている。
「市の予算の無駄遣いです。記録は行政が行えば足ります」
誰かがそう言う。
その“足ります”の中に、誰の暮らしが入っているのか分からない。
教会では、ステンドグラス越しの光の中で司祭が語る。
「神の選別を曇らせる余計な記録が、街に混乱をもたらしている」
足元に置かれた新聞に「幻灯局に批判」の見出し。光は美しいのに、言葉は刃物みたいだ。
裏社会では、もっと短い。
「あいつらが来た街は、近いうちに消される」
短い言葉は、噂になり、護身になり、拒絶になる。協力を拒む者が増える。依頼が減る。記録が減る。減った分だけ、公式の記録が増える。
そういう循環が、どこかで笑っている気がした。
◇
夜更け、局には私と花だけが残った。
相馬さんは外へ出た。七瀬さんと何か話すと言って。御影さんは書類の整理をすると言って別室に籠もった。九条さんは編集部へ戻った。戻る背中が、少しだけ小さく見えた。
暗室の扉を開けると、赤い光がふわりと顔を撫でた。赤い光は、いつもなら落ち着く色だった。現像液の匂いと混ざって、世界が静かになる。
今日は、その赤が火の色に見える。
花が写真を並べ始めた。坂の住宅街の写真。洗濯物。階段の踊り場。路地で遊ぶ子どもたち。階段に座るおばあちゃん。夕焼けに染まる屋根。
きれいだ。
それは嘘じゃない。
きれいだと思ったから撮った。
花は一枚一枚を置くたびに、指先を少し震わせた。写真の端が、かすかに揺れる。
「わたし、あの時」
花が言った。赤い光の中で、頬の輪郭だけが浮かび上がる。
「すごくきれいだなって思って撮った。階段に座ってるおばあちゃんも、洗濯物も、夕焼けも……“このまま残りますように”って」
花の声は、祈りみたいだった。祈りなのに、誰にも届かない感じがした。
「それがさ」
花は、机の隅に置かれたコピー用紙を手に取った。都市計画局の資料のコピー。赤ペンで“危険”“整理候補”と書かれたもの。
「“危険だから壊します”って紙の上で、赤いマルで囲まれてるの見たら……もう二度と、誰かの家を撮りたくないって思っちゃった」
花の指が、写真の上で止まる。おばあちゃんの顔が写っている写真。笑っているようにも、疲れているようにも見える。
私は、その言葉を否定できなかった。
否定したら、花の“きれいだな”を壊すことになる。
でも肯定したら、私たちの仕事が壊れる。
赤い光が、私たちの沈黙を濃くする。
「……わたしも」
口が勝手に動いた。言うつもりじゃなかったのに。
「ちょっとだけ、カメラを置いてみたいって思った」
花が顔を上げた。驚いたような、救われたような、怖がったような目。
「灯子も?」
「うん。……ほんの少しだけ」
その“ほんの少し”が、どれだけ重いか分かっている。カメラを置くということは、見ないふりをすることではない。見てしまったものを、抱えたまま黙ることだ。
暗室の外から、遠くの路面電車の音がした。金属が走る音。鈴の音は聞こえない。ただ、車輪の低い響きだけが、壁越しに伝わる。
花が小さく言った。
「でも、置いたら……何が残るのかな」
私は答えられなかった。答えられないまま、写真を見つめる。赤い光の中で、洗濯物の白が少しだけ灰色に見える。夕焼けの橙が、くすむ。
赤い光は、現像のための光だ。
現像は、見えないものを浮かび上がらせるための作業だ。
なのに今、赤い光が、見たくないものまで浮かび上がらせる。
写真の上に、見えない赤い線が引かれている気がした。
“危険”“整理候補”。
私の胸にも、同じ線が引かれていく。
――幻灯局はいらない?
誰かが言う前に、自分の中で問いが立ち上がってしまう。立ち上がった問いは、座らない。
◇
夜の幻灯局は、外から見ると静かな箱だった。
窓から漏れる暗室の赤い光が、薄い血の色みたいに路地を染める。路地は誰も歩いていない。けれど、誰かの視線だけがある気がする。
私は窓辺に立って、外を見た。花は暗室の中で写真を片付けている。紙の擦れる音が、遠くに聞こえる。
その時、路面電車が一瞬だけ通り過ぎた。
光の線が、画面を横切るみたいに走る。
細い線。きれいな線。
線は、街を繋ぐためにも、分けるためにも使える。
私はその線を目で追いながら、心の中で呟いた。
どこまで責任を負うべきなのか。
このまま続けるべきなのか。
それでも撮り続ける理由は、どこから見つけてくるのか。
答えはまだない。
ただ、赤い光だけが窓から漏れている。
その赤が、火なのか、灯なのか。
私はまだ、見分けられないまま立っていた。




