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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第41話「火種の写真」

 朝、幻灯局の扉に貼りついた紙は、夜露を吸ってふやけていた。


 白い紙に、太い墨。雑に引かれた筆圧の跡が、怒りの体温を残している。


「帝都の犬」「裏切り者」


 文字が踊っている。踊っているのに、笑えない。紙の端が風でめくれ、糊の匂いが鼻に刺さった。


「……誰が、こんなの」


 隣で花が呟いた。声がいつもより薄い。花の指先が紙の縁に触れ、すぐ引っ込める。触れたら、火傷しそうだったのだと思う。


「剥がそう」


 私は言って、爪を立てた。湿った紙がちぎれて、糊の残りが木の肌にべったり貼りつく。剥がしても剥がしても、言葉は残る。糊みたいに。


 そこへ、郵便受けの口が鳴った。金具が小さく跳ね、封筒が落ちる音。


 封筒は薄い。差出人なし。中から、紙切れが一枚と、新聞の切り抜きが出てきた。


 紙切れには短い一文だけ。


「お前らが撮ったから、消される」


 花が息を呑む音がした。私は切り抜きを広げる。九条さんの記事だった。駅裏の坂道と階段に挟まれた住宅街――私が確かに撮った写真が、そこに載っている。


 階段の踊り場。手すりに並ぶ植木鉢。斜面に折り重なる木造二階建ての屋根。その向こう、帝都のビル群の影。


 記事の文章は穏やかだった。


 不便だ。けれどそこからしか見えない景色がある――そんな、いつもなら読んで少しだけ胸が温まる種類の言葉。


 なのに今、紙の上の写真が、刃物に見えた。


「灯子……これ、私たちの?」


「そう」


 頷いた瞬間、喉の奥が乾いた。写真は、私が撮った。確かに。だから責められる。責められて当然のような気がして、腹の底が冷える。


 花が、局の中を見回す。机の上、暗室の戸、棚の端。そこにあるものが全部、急に危うく見えたのかもしれない。


「昨日の会議のあと、こうなるって……」


「予感はあった。でも、こんなに早く」


 言いかけて、電話が鳴った。黒電話の鈴の音。昨日まで“仕事”の音だったものが、今日は“責められる音”に聞こえる。


 受話器を取ると、向こうは名乗らない。呼吸だけが聞こえる。


『……裏切り者』


 低い声。男とも女ともつかない。そこまで言って、切れた。


 次も、次も。無言。罵声。息。受話器越しの湿った沈黙。


 花が耳を塞いだ。私は受話器を置いたまま、動けなくなる。


 写真を撮る音は、静かだ。シャッターは小さく鳴る。フラッシュも一瞬だ。


 なのに、撮ったあとの音は大きい。世界が勝手に鳴り出す。


 ――火種みたいに。



「これ、見てください」


 昼過ぎ、九条さんが局に来た。いつもより顔色が悪い。眼鏡の奥の目が、睡眠不足の赤を帯びている。


 彼は紙束を机に広げた。都市計画局の内部資料。見慣れない書式。薄い紙。印影。


 そして、そこに載っている写真。


 私の写真だった。


 記事に載ったものと同じ構図。階段の踊り場の植木鉢。坂道の途中の木造家屋。遠景のビル群の影。


 ただ、キャプションが違う。


「老朽化が進み、地盤災害のリスクも高い危険区域。再開発により安全と利便性を確保する必要がある」


 写真は変わらないのに、意味が反転している。


 紙の上で、私の撮った“暮らし”が、“危険”に変えられている。


「……これ、いつの資料ですか」


「回覧用の内部案。たぶん、説明会用の配布資料の元になってる」


 九条さんは唇を噛んだ。


「俺の記事の言葉も、都合よく抜かれてる。『不便だ』の部分だけ拾って、『見えない景色』の方は捨てられてる」


 花が、資料を見つめたまま呟く。


「同じ写真なのに……同じなのに、違う紙に載った瞬間、別のものになるんだ」


 御影さんが、静かに資料を手に取ってページをめくった。紙の音が、やけに大きい。


「写真は、切り抜かれるためにある。そういう現実の中で、どういう形で残すか――」


 相馬さんが椅子にもたれて、鼻で笑った。


「客観的資料ってやつは便利だな。客観って言葉の方が、よっぽど主観的なのに」


「……説明会が」


 九条さんが言った。


「明後日。あの坂の公民館で。市職員とデベロッパーと、軍の警備が入る」


 軍、という単語が、昨日の会議室の参謀の肩章と繋がる。滑らかな言葉の裏にある硬い金属が、ここではもう剥き出しだ。


「私たち、行く?」


 花が私を見る。目が揺れている。行きたいわけじゃない。でも、行かないともっと怖い。そんな揺れ。


 私は、頷くしかなかった。


「行く。……話を聞かないと。私たちの写真が、どんな火種になったか」


 火種。口に出した瞬間、胸の奥が痛んだ。火をつけたのは私だ、と言ってしまったみたいで。


 でも、火は勝手につく。紙と油と空気が揃えば、誰の意図でもなく燃える。


 それが、今の帝都の怖さだった。



 坂の住宅街は、夕暮れに溶けるような色をしていた。


 駅裏の雑踏を抜け、細い路地に入ると、空気が変わる。坂道は狭く、壁は近い。斜面に家がびっしりと並び、木造二階建ての屋根が折り重なる。階段の途中、手すりの植木鉢が、湿った土の匂いを放っている。


 路地の途中に、公衆浴場があった。古い木の看板。丸い湯気の絵。戸の隙間から、温い蒸気が漏れている。石鹸と薪の匂いが混ざり、胸が少しだけ緩む。


「……ここ、前に撮ったとき」


 花が小声で言う。


「おじさんが『この踊り場の風は気持ちいい』って。洗濯物がよく乾くって」


 そうだった。私は思い出す。踊り場で洗濯物が揺れて、下から子どもの笑い声が上がってきた。写真に写っていない音を、私はその時“写した”気になっていた。


 今は、路地のあちこちに赤い印がある。壁にスプレーで書かれた数字。柱の下に貼られた紙片。小さな標識みたいに。


 線引きは、地図の上だけじゃない。こうして、暮らしの壁にまで降りてくる。


 公民館の前は、人で溢れていた。蛍光灯の白い光が、夕暮れを押し返している。入口の壁に、再開発のパース図が貼られている。きれいな道路。新しいマンション。緑の植え込み。人々の顔は、どれも笑顔で描かれている。


 その横に、赤字で「危険区域」。


 紙の上で、世界は簡単に決まる。


 私たちは、なるべく目立たないように中へ入った。けれど、カメラバッグは目立つ。ここではカメラが、もう“味方”ではない。


 前の席で、市職員が淡々と説明している。デベロッパーの担当者が、丁寧な口調で“利便性”を繰り返す。軍の警備担当が、壁際に立ち、腕を組んでいる。


 そして、ある瞬間――


 前列の住民が立ち上がった。新聞の切り抜きを高く掲げる。


「これ!」


 声が震えていない。怒りが芯になっている。


「ここに載ってる写真、幻灯局が撮ったやつだろ? あんたらが撮ったから、うちは“危ない地区”にされたんだ!」


 ざわめきが波になる。波が一気に押し寄せ、会場の空気が熱くなる。


「“記録”とか言って、高みの見物してるだけじゃねえか!」


「うちのばあちゃんの家、あんたらの写真の横で“取り壊し候補”って判子押されてるんだぞ!」


 怒号。声。泣き声。椅子の軋む音。

 蛍光灯の白が、やけに冷たく見える。


 私は、その場で立ち上がりたくなった。けれど、立ち上がった瞬間に、火に油を注ぐ気もした。


 花の手が、私の袖を掴む。指先が冷たい。震えている。


「灯子……」


 彼女の声が、かすれている。


 私は小さく息を吸って、前へ出た。出るしかない、と思った。ここで出なければ、私たちは本当に“高みの見物”になる。


 前に立った瞬間、視線が一斉に刺さる。針の束みたいに。


「幻灯局の……田中です」


 名乗った瞬間、誰かが舌打ちした。


「写真を撮ったのは、私です。……でも、私たちは、この場所を“危険区域”にするために撮ったわけではありません」


「じゃあ何のためだよ!」


 返ってくるのは真っ直ぐな怒りだ。怒りは正しい。正しいからこそ、受け止めるのが怖い。


「暮らしを、なかったことにしないためです」


 私は言う。昨日、会議室で言った言葉。今日は、違う意味を持つ。

 この言葉が、ここで通じるかどうかは分からない。


「嘘つけ!」


 別の声。


「結果的に、消す側に回ってるじゃねえか!」


 その言葉が胸に刺さった。結果。結果は、私の手から離れている。けれど、離れているからといって無関係にはなれない。


 九条さんが、後ろから小さく動いた。彼は会場の端で、新聞の切り抜きを握りしめている。顔が青い。


 私は、カメラバッグから一枚の紙を取り出した。撮影の時に付けたメモだ。階段の風。浴場の湯気。植木鉢の土。誰がどこで笑ったか。何時に光がどう落ちたか。


「これ、撮ったときのメモです」


 私は掲げる。紙は薄い。蛍光灯に透ける。


「この写真は、説明会のために撮ったものじゃない。記事のために撮ったものでもない。ここで暮らしている人たちに、『ここにあった』って渡すために撮った写真と同じシリーズの一枚です」


 反応はばらばらだった。

 鼻で笑う人。目を逸らす人。

 けれど、前列の年配の女性が、私のメモをじっと見た。目が細くなる。何かを読むというより、何かを確かめている顔。


「……あんた」


 女性が言った。声が低い。


「じゃあ、どうして止められないんだい。あんたが撮ったってことにされて、こうやって『危ないから壊す』って言われてるのに」


 私は、すぐ答えられなかった。


 止められない。

 それが事実だった。写真を取り下げればいい、という話ではない。地図の赤い線は、もっと前から引かれていた。

 それでも、この人たちの前で“前から決まってた”なんて言葉を、盾みたいに出したくなかった。


「……止めることは、簡単じゃないです」


 私は、絞り出すように言った。


「でも、せめて……写真が、どんな風に使われたか、使われているかを、隠さずにここに残します。私たちの手元にも、あなたたちの手元にも。勝手に一つの意味に独占されないように」


「独占?」


 誰かが吐き捨てる。


「結局、言葉遊びじゃねえか」


 火が、また燃え上がりそうになる。

 その時、公衆浴場の方から、ふっと湯気の匂いが流れ込んだ。誰かが扉を開けたのだろう。温い空気が、会場の熱を少しだけ緩めた。


 私は、その匂いを嗅いで、思った。

 湯気は、目に見えないのに、確かにここにある。

 写真も、本当はそうであるべきだった。見えないものを、見えないまま感じられるように残す。それが、私のやりたかったことだった。


 けれど、写真は紙になって、切り抜かれて、キャプションを貼られて、別の意味を持つ。


 火種の写真。

 私は、自分が握っているものの重さを、ようやく理解し始めていた。



 その夜、九条さんは編集部で上司とぶつかった。


 私はその場にいない。けれど、後で九条さんが局に来て、机に突っ伏したまま呟いた言葉が、頭に残る。


「“客観的資料”ってやつは便利だな」


 彼は笑っていた。笑っているのに、目は笑っていない。


「書いた本人の意図なんか、すっぱり切り捨ててくれる。……『公式資料に引用されたのは名誉』だってさ」


「名誉……」


 花が小さく繰り返す。声が震える。


「人が住んでる場所を危険地区ってラベル貼るための名誉なら、いらないですよ」


 九条さんは、そう言ってから、黙った。黙り方が、昨日までと違う。怒りだけじゃない。自分の手の汚れを見た人の黙り方だ。


「取り下げられないの?」


 花が訊く。


「取り下げたって、紙は残る。切り抜きは残る。内部資料にはもう貼られてる。……一度出たものは、どう使われてもおかしくない。そういう世界だ」


 九条さんの言葉は、冷たい。冷たいから、現実だった。


 私はその現実の中で、何ができるのかを考える。

 撮る/撮らない、じゃない。

 どう撮って、どう置くか。どう言葉を添えるか。


 その問いが、今日、血の匂いを帯びた。



 暗室の赤い光の中で、私は同じ写真を二枚並べた。


 一枚は、九条さんの記事の切り抜き。

 もう一枚は、都市計画局の内部資料のコピー。


 同じ階段。同じ植木鉢。

 同じ空。

 同じ遠景のビル群。


 なのに、片方は“暮らしの景色”。片方は“危険区域の証拠”。


 赤い光が、紙の上の赤字を鈍く光らせる。危険区域。赤い文字が、火の色に見えた。


 私はペンを取った。鉛筆じゃない。ペンは消せない。今日、消せないものが増えすぎたから。


 内部資料のコピーの余白に、小さく書き込む。


「この写真は、住民からの依頼で『暮らしの記録』として撮影されたもの。危険区域の証拠として撮影したものではない」


 それだけの文字が、どれだけ意味を持つか分からない。

 でも、何も書かないよりはいい。

 少なくとも、未来の誰かがこの紙を見たとき、“キャプションが唯一の真実ではない”と気づく可能性がある。


 御影さんが、暗室の戸口に立っていた。赤い光に縁取られて、影が長く伸びる。


「火種ですね」


 御影さんが、ぽつりと言った。


「……ええ」


 私は答える。自分で名づけたみたいで、少し苦しい。


「でも、火種を握ったまま、燃えないようにすることはできない。……なら、せめて、火がどこへ飛んだかを見ておかないと」


 御影さんは頷いた。


「飛び火は、止められないことも多い。けれど、どこで燃えたかを記録することはできます。あなたが今日、あの会場で前に出たのも、そのためでしょう」


 私は、指先の汗を布で拭った。赤い光の下では、汗も血も同じ色に見える気がする。


 暗室の外、局の玄関に貼られたビラの文字が脳裏に浮かぶ。裏切り者。帝都の犬。


 写真を撮っただけで、火をつけたと言われる。

 火をつけたわけじゃないのに、火がつく。

 その理不尽が、帝都の仕組みの中に組み込まれている。


 上から見た地図の線。

 下から見た階段の段差。

 どちらも、同じ街の形だ。


 私は暗室の赤い光を見上げて、思った。

 赤い光は、火ではない。

 けれど、火を思い出させる。

 思い出させることで、気をつけさせる。


 記録も、そうであってほしい。



 帰り道、路面電車に揺られながら、私は窓の外を見た。


 坂の住宅街は、夕暮れの影に沈み、屋根の輪郭が重なる。その向こうに、帝都中心部のビル群が黒いシルエットになっている。

 電車の灯りが線を描き、線の先に、見えない定規が伸びていく気がした。


 隣で花が、膝の上で手を握っている。まだ震えが残っている。けれど、目は前を向いている。


「灯子」


 花が、小さく言った。


「撮るの、やめないよね」


 問いじゃない。確認だ。自分が折れないための。


「やめない」


 私は即答した。迷ったら、そこが火種になる。迷いは、燃えやすい。


「ただ……」


 私は続ける。


「撮ったものが、誰かの手で勝手に燃やされるなら。私たちは、その燃やし方まで写す」


 花がゆっくり頷いた。瞳に、路面電車の灯りが線になって映る。


 局の前に着くと、剥がしたはずの糊の跡が、扉にまだ残っていた。紙は剥がせても、痕跡は消えない。


 私はその跡を見つめて、心の中で繰り返す。


 火種の写真。

 火種の言葉。

 火種の街。


 燃える前に、燃えたあとに、そして燃え続ける間に――私たちは撮る。


 それが“第三の記憶”の仕事なら、もう逃げられない。


 逃げない。そう決めたはずだ。

 決めた途端に、世界は牙を剥いた。

 だからこそ、決めたまま立っているしかない。


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