表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

40/57

第40話「第三のレンズ」

 朝の三上商店は、湿った紙の匂いがした。新聞束の角が少しだけ波打っていて、インクの黒がいつもより濃く見える。店先の庇から垂れた雫が、石畳に落ちて小さな輪を作った。


「今日は寒いねえ」


 帳場の三上のおばさんが、湯呑みを差し出してくれる。熱い番茶の湯気が、指先の冷えをほどいた。


「雨が近いのかも」


 私は答えながら、新聞の見出しを追った。保存地区の式典の記事は小さく、代わりに再開発関連の文字が増えている。人の暮らしの話が、いつの間にか“方針”とか“整備”とか、“全体の利益”という箱に詰め替えられていく。


 昨夜、喫茶で見た地図が頭から離れない。赤い線、青い線、黄色い線。その上に私が引いた鉛筆の点線。上からの線に、下からの点線を重ねる――そう思ったはずなのに、眠りが浅かった。


「灯子ちゃん」


 花が、店の戸を押して入ってきた。雨よけの薄いコートの肩に、雫が散っている。花屋の帰りらしく、袖口が少し湿っていて、花の茎の青い匂いがする。


「これ、局に置いとく。ちっちゃいやつ」


 花は小さな瓶に挿した白い花を差し出した。名も知らない花だ。派手ではない。でも、光が当たると花びらの縁が透ける。


「ありがとう。今日……何かあるかも」


「うん。顔がそう言ってる」


 花は笑ったが、目は笑っていない。


 局に戻ると、御影さんが暗室の薬品棚を整えていた。棚の一番上、赤いランプの予備が並ぶ場所が、妙に整然としている。相馬さんは椅子に深く座って、帽子のつばを指で弾いていた。七瀬はまだ来ていない。


「昨夜の地図のことで、どこかから反応が来るかもしれませんね」


 御影さんが、まるで天気の話みたいに言う。私は喉の奥が乾くのを感じた。


 その時、電話が鳴った。古い黒電話の鈴の音は、心臓の鼓動に似ている。


 受話器を取ったのは私だった。名乗る前に、向こうの声が滑らかに名を呼んだ。


『三上灯子さんですね。都市計画局です。』


 都市計画局。昨夜の資料の印影にあった名前。


『本日、会議室にお越しいただけますか。幻灯局の代表として。――あなた方の協力のあり方について話し合いたい』


 話し合い、という言葉が丁寧すぎて、逆に逃げ場がない。断れば、次はもっと硬い言葉になる気がした。


「……時間は」


『こちらで指定します。十七時。行政庁舎上層階。受付でお名前を』


 通話はそれだけで切れた。質問を挟む余地はなかった。


 受話器を置いたとき、指先に薄く汗が滲んでいた。


「来たか」


 相馬さんが、短く言った。


 御影さんは、静かに頷いた。


「召喚、ですね」


 その言い方が嫌に的確で、私は苦笑するしかなかった。


「私と御影さんと相馬さんが行きます」


 言いながら、私は花の方を見た。


「花は……局に残って。もし何かあったら、すぐ動けるように。七瀬には外で待機してもらおう」


 花は唇を引き結んで頷いた。


「任せて。……ねえ灯子。変なこと言うけど、今日、負けないでね」


「負けないって、何に」


「空気に。笑顔に。『全体のため』って言葉に」


 花の言葉は、小さな棘みたいに刺さった。優しさの棘。刺さることで、眠気が醒める。



 行政庁舎のエレベーターは、動きが滑らかすぎて怖かった。床が地面から剥がれていく感覚が、ゆっくりと胃の底を持ち上げる。数字が増えるたび、帝都の音が遠ざかる。


 上層階の廊下は、匂いが薄い。人の生活の匂いが消されて、紙と磨かれた木と、わずかな金属の匂いだけが残っている。


 受付の職員は笑顔だった。丁寧で、隙がない。私たちの名前を確認すると、案内係が現れ、長い廊下を歩かせた。廊下の窓から見える帝都は、夕暮れの手前で、建物の輪郭が青く沈み始めている。


 会議室の扉が開いた瞬間、最初に目に飛び込んだのはガラス張りの窓だった。壁一面が窓で、夜の街が一望できる。路面電車の線路が細い光の筋になって、川の反射が銀色に揺れている。遠く、保存地区の灯りが規則正しく並び、工業地帯の煙突の赤い点滅が、まるで心臓の鼓動みたいに明滅していた。


 その窓の手前に、長いテーブル。磨かれた木の表面が、灯りを跳ね返す。テーブルの向こう側に、四人が座っていた。


 都市計画局の局長。

 軍警備隊の参謀。

 教会の資産管理担当の司祭。

 経済同盟会の事務局長。


 肩書きだけで、帝都の“上”が揃っている感じがした。全員が「一応、丁寧な笑顔」を作っている。その笑顔は、こちらの緊張を和らげるためじゃない。こちらが緊張していることを確認するための笑顔だ。


「ようこそ。お忙しいところを」


 局長が立ち上がり、握手を求めるように手を差し出した。私は一瞬迷ってから、その手を握った。温度は普通なのに、皮膚の感触が薄い。


「幻灯局の三上灯子です」


 名乗りながら、私は自分の声がいつもより硬いのを自覚した。御影さんと相馬さんも名乗る。相馬さんは警戒を隠さない顔をしている。御影さんは、静かすぎて逆に怖い顔だ。


 テーブルの端、少し離れた椅子に、九条さんが座っていた。ノートを開き、ペンを構えている。目が合うと、彼はほんのわずかに頷いた。ここに呼ばれたのは私たちだけじゃない。記者も、観測者として置かれている。


 そしてもう一つ、私の意識の端に引っかかったのは、会議室の外の廊下の気配だった。扉の向こうに、七瀬がいる。彼は中には入らない。入れない。あるいは、入らない。彼の“立ち位置”は、いつも境界だ。


「率直に申し上げて」


 局長が口を開いた。言葉の始まりから、すでに結論が用意されている喋り方。


「幻灯局には大きな期待をしています。街の整理も保存も、正しい“記録”がなくては進められない」


 参謀が頷く。制服の肩章が、照明を鋭く反射した。


「“感情的な噂”ではなく、写真という“客観的な証拠”があることで、余計な混乱を防げるでしょう」


 司祭が柔らかい声で続ける。


「人々にとっても、神にとっても、記録は大切なものですから」


 事務局長が、最後に言葉を飾った。笑顔の角度が完璧だ。


「あなた方には、帝都の“第三の眼”になってほしい。行政と市民をつなぐ、公正なレンズとしてね」


 第三の眼。第三のレンズ。聞こえの良い称号。

 でも、その言葉が出た瞬間、私の背中のどこかが冷えた。第三の眼というのは、誰の眼でもないという意味にもなる。誰の責任でもないという意味にもなる。


 局長は、テーブルの上に資料を並べた。撤去前の記録。保存地区の記録。再開発のビフォー・アフター。私たちが撮ってきたものが、きれいに分類されている。

 分類、という言葉が嫌だった。分類されると、そこに“意図”が生まれる。


「もちろん、正式な形で協力いただくことになります。公的記録機関として」


 公的記録機関。

 その響きは、私たちが“どこかの駒”になる音に似ていた。


 会議室の窓の外で、路面電車の灯りが一つ、線を描いた。街はいつも通り動いているのに、この部屋の中だけ時間が別の速度で流れている。


 沈黙が一拍落ちた。

 私はその沈黙を、逃げ道にしないと決めた。


「もし、幻灯局が“第三の眼”だとしたら」


 自分の声が、驚くほど落ち着いて聞こえた。心臓はうるさいのに。


「それは、どちら側の眼ですか?」


 空気が、ほんの少しだけ張り詰めた。笑顔の薄い膜が一瞬だけ剥がれて、下にある疲れと苛立ちが覗く。


 局長が、咳払いのように息を整える。


「もちろん、帝都全体の利益のための――」


「“帝都全体”の中に」


 私は言葉を重ねた。重ねることが、怖かった。でも、重ねないと飲み込まれる気がした。


「立ち退かされる市場の人たちも、保存地区で家賃が上がる喫茶店の人も、入っていますか?」


 参謀の眉がわずかに動いた。司祭の指が十字を切りそうになって、やめた。事務局長の笑顔が、一瞬だけ固まった。


 局長は、机の端を指先で叩いた。硬い音。


「……当然、入っていますとも。だからこそ、整備が必要なのです。危険区域を放置するわけには」


「危険って」


 相馬さんが、低い声で言った。


「誰が決める。どんな定規で測る」


 局長の目が相馬さんを捉える。参謀が少しだけ身を乗り出した。空気の圧が増す。


 私は、息を吸った。言葉を探る余裕はない。探りながらでも言わなければ、ここで私たちは“第三の眼”という飾りにされる。


「私たちは……」


 私は自分の手が、膝の上で強く握られているのに気づいた。指先が白くなっている。


「何かを“決めるための証拠”として、写真を撮っているわけではありません」


 参謀が口を開きかける。その前に、私は続けた。


「何かを“なかったことにしないための証拠”として、撮りたいんです」


 言い切った瞬間、胸の奥が痛んだ。痛むのは、きれいな言葉にしてしまったからだ。言葉にすると、責任になる。責任は重い。でも、重いまま抱えていくしかない。


「しかし、それでは――」


 参謀が言いかけた。


 相馬さんが、参謀を真っ直ぐ見て遮った。


「“決める”のはあんたらの仕事だろ。俺たちは、決める前と後、どっちの姿も持っておく。都合よく切り貼りされたくないからな」


 参謀の口角が引きつった。局長は笑顔を戻そうとして戻せない。司祭は困ったように眉を寄せ、事務局長は、まるで面白い戯れでも聞いているように肩をすくめた。


 御影さんが、ゆっくりと言葉を落とした。落ちるというより、置く、という感じで。


「写真は、どこに置くかで意味が変わります。だからこそ、置き場所を一箇所に絞るつもりはありません」


「一箇所に絞らない、とは」


 局長が訊いた。声が少しだけ低くなる。質問の形をした牽制。


 御影さんは視線を逸らさない。


「行政に渡す分。住民側に渡す分。幻灯局自身が保管する分。必要であれば、別の保管も。

 それぞれに、別々のキャプションをつけます。――この写真が、誰の依頼で、何のために撮られたものか」


 キャプション。

 写真の下に添える言葉。

 それは小さな文字だ。でも、文字があるだけで写真は“物語”になる。逆に言えば、キャプションを剥がされた写真は、どんな物語にも貼り付けられる。


 私は頷いた。


「帝都のため、という言葉に反対するつもりはありません」


 自分の言葉が、会議室の広さに吸われていく。吸われる前に、私は続けた。


「ただ、“帝都のため”の中に、名前のない人たちの暮らしも含まれていてほしいんです。

 数字でもグラフでもなく、生活の温度として」


 事務局長が、指で机を軽く叩いた。拍手の代わりみたいに。


「面白い。つまりあなた方は、中立ではないと言う?」


 その問いは、刃物のように軽かった。中立という言葉を、こちらの首にかけるロープみたいに扱っている。


 私は一瞬、呼吸が浅くなった。中立。第三の眼。公正。

 どれも“良い”言葉だ。良い言葉ほど、人を縛る。


「中立でいることが、誰にも痛みを与えないなら」


 私は言った。


「それはたぶん、すでに誰かの痛みを見落としています。

 だから私たちは、“中立”じゃなくて――」


 言葉を探す。第三の眼じゃない何か。

 昨夜、九条さんが言った“文脈”。

 高架下市場で作った写真冊子の裏表紙の一文。

 「ここにあったことを、あなたと私たちが覚えている」


「……覚えている側でいたいです」


 私は言った。


「裁くためじゃなく、整えるためだけでもなく。覚えておくために」


 その瞬間、窓の外の川面が、かすかに反射を強めた。保存地区の灯りが、まるでこちらを見返すみたいに揺れる。

 街が、上から見られることに慣れてしまったような錯覚がした。誰かの目線に、街全体が合わせてしまっているような。

 その“誰か”の正体を、私は口にしない。口にした途端、現実が崩れてしまいそうだった。


 局長が、少しだけ黙った。黙ってから、窓の外を見やる。夜の帝都が、そこにある。路面電車の灯りが線を描き、川の反射が揺れ、遠くの工業地帯が点滅する。


「……あなた方がそういう立場を取ること自体は、否定しません」


 局長の声は、最初より少し疲れていた。


「ただ、覚えておいてください。“どこに置くか”を決める者もまた、権力を持つのだということを」


 権力。

 その言葉は、こちらに渡された刃物みたいだった。使い方を間違えれば、人を傷つける。使わなければ、守れない。


 御影さんが、小さく頷いた。


「その権力が、裁くためではなく、覚えておくために使われることを願っています」


 参謀が何か言いかけたが、結局言葉を飲み込んだ。司祭は祈るように目を伏せ、事務局長は笑顔を取り戻した。笑顔の下に、計算が透ける。


 会議は、形の上では穏やかに終わった。握手、名刺、丁寧な挨拶。

 でも私は、会議室を出るとき、自分の足が少しだけ震えているのを感じた。怖かったのは怒鳴り声じゃない。丁寧な言葉で囲われることだ。


 廊下に出ると、七瀬が壁にもたれて待っていた。目が合った瞬間、彼は何も言わずに、ただ顎を引いた。

 その仕草だけで、外の空気が肺に入ってきた気がした。


 エレベーターに向かう途中、九条さんが追いついてきた。会議室の端でずっとメモを取っていた手が、まだインクの匂いを持っている。


「……さっきの」


 九条さんは、言葉を選ぶみたいに一拍置いた。


「“帝都には、上からの二つの目とは別に、もう一つのレンズがある”――そう書いても、いいですか」


 私は足を止めた。窓の外に、帝都の灯り。上からの景色。


「ええ」


 頷いてから、私は少しだけ笑った。笑うと決めた。怖さに飲まれないために。


「ただ、“第三の目”じゃなくて……“第三の記憶”って言ってくれたほうが、うれしいです」


 九条さんの目が、わずかに丸くなった。それから、彼は静かに頷いた。


「わかった。……そう書く」


 その言葉が、私の背中を少しだけ押した。



 夜、局に戻ると、花が机の上の小さな瓶の花を見守るように座っていた。私たちの顔を見た瞬間、彼女は立ち上がり、何も言わずに手を握ってきた。握る力が強い。言葉より先に、体温が伝わる。


「どうだった」


 花が訊いた。声が震えていないのが、逆に震える。


「……宣言してきた」


 私は答えた。


「どちら側のためでもなく、“帝都の記憶”のために撮るって」


 花は息を吐いて、少しだけ笑った。泣きそうな笑い方。


「そっか。じゃあ、負けなかったね」


 相馬さんは帽子を脱ぎ、机の端に置いた。御影さんは暗室の赤いランプを点けて、薬品の瓶を一本だけ手に取った。いつもの作業。いつもの儀式。


 私はカメラバッグを開け、レンズを取り出した。今日、会議室で窓の外を撮ろうとしたとき、レンズのガラスに帝都地図が映り込んだ気がした。地図の線と、窓の外の路面電車の線が重なる。二重露光みたいに。


 それは偶然の反射だったのか。

 それとも、街そのものが、もうそういう風に見える段階に入ってしまったのか。


 暗室の赤い光が点り、部屋の中の影が柔らかくなる。

 赤い光は、今日の会議室の白い光とは違う。ここには、生活の匂いがある。人の手の跡がある。


 私はフィルムを現像タンクに入れ、蓋を閉めた。カチリ、と小さな音。

 その音が、なぜだか“置いた”という感覚に近かった。どこに置くか。誰の棚に置くか。どんなキャプションを添えるか。


 窓の外で、路面電車のベルが鳴った。

 光が線を描き、その線の上に、かつての市場の場所と保存地区の灯りが、同じ視界に収まる。


 私はその景色を、今度は上からじゃなく、自分の目線の高さから見た。

 一枚の写真には収まらない街。

 だからこそ、撮り続けるしかない。


 どちら側のためでもなく。

 覚えておくために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ