第4話「夜の路地と、七瀬の筋」
夕方前の局は、いつもより少しだけざわざわしていた。
庁舎からこぼれてくる人の流れや、コピー機の音、電話のベル。そういう「役所の音」が薄い壁越しににじんでくる中で、幻灯局の一角だけが、妙に空気が濃い。
私は、午前中に撮った書類のコピーをクリアファイルにまとめて、机の端に整えたところだった。コーヒーの紙コップは、さっきからほとんど減っていない。
「――なあ、御影。この言い方、どう見ても臭くないか?」
隣のデスクから、九条さんの声がする。
顔を上げると、新聞の切り抜きが数枚、彼の机の上に広げられていた。見出しの太い文字が、こちら側まで飛び込んでくる。
『老朽化した飲食店街、一帯再開発へ』
『地域の安全性向上を目的とした浄化作戦』
そんな言葉が、いかにもなフォントで並んでいた。
「“浄化”ねえ」
御影さんは、煙草代わりの飴を舐めながら、記事をひったくるように手に取った。
「ここ、どこですか?」
私は身を乗り出して、小さく印刷された地図を覗き込む。帝都の中心部から少し外れた場所に、ぐにゃりとした形のエリアがハイライトされていた。
「古い飲み屋街だよ。あの辺りは、昔から“手が入らなかった”エリアだ」
御影さんの声は、記事よりもずっと低いトーンになる。
「治安が悪いとか、そういう理由ですか?」
「悪いっちゃ悪いが、それだけじゃない。警察も行政も、あそこは妙に及び腰だったんだ。なのに――」
指先で、記事の一行をとんとんと叩く。
「“一体的な再開発”。誰が、どのタイミングで、こんな一気に動かした?」
私はもう一度記事を読み返す。
記者名は見覚えのない名前だ。写真には、すでに取り壊しが始まっているような建物の外観が写っている。けれど、その写真の切り取り方には、何かを「見せないようにしている」気配があった。
「うちにも回ってきたぞ」
御影さんは、別の紙を引き出しから取り出した。役所の決裁印がいくつか押された文書だ。
「“対象地区の取り壊し前に、最低限の記録を残すこと”」
そこだけ読み上げて、鼻で笑う。
「誰からの依頼なんですか、それ」
「そこがな」
差出人欄には、局の上位組織らしい部署名が書かれているものの、どの課なのか、よくわからないぼかし方になっている。担当者の欄は空欄のままだ。
「上から、としか言いようがない。こういうときの“上”ってのは、だいたい誰も責任を取らないやつだ」
御影さんは、文書を机に放り出す。
「……それで、誰が行くんですか?」
聞くまでもない、と自分で思いながら、口が勝手に動いていた。
「決まってんだろ」
御影さんの視線が、まっすぐこっちに向く。
「新人。夜の街デビューだ」
「……やっぱり」
ため息は、飲み込んだ。ここ数話――じゃない、この数日、私はずっと「初めて」の連続だ。地図にない路地、半分消えかけの商店街。そして今度は、夜の飲み屋街。
「一人で、ですか?」
「人手が足りねえ。相馬も今日は別件で手一杯らしいしな」
九条さんが、新聞を折りたたみながら口を挟む。
「飲み屋街か。いいな、写真映えしそうだ」
「他人事みたいに言わないでください」
「だって俺は、“記事にしていいやつ”しか撮らないからさ」
九条さんは冗談めかして肩をすくめる。
「お前は“載せちゃいけないもの”も撮る係。役割分担、大事だろ?」
「その言い方、やめてくれないかな……」
胃のあたりが、少し冷たくなる。
それでも、カメラバッグに手を伸ばしたとき、自分の指が迷っていないことに気づいた。怖いけれど、行きたくないわけじゃない。むしろ――何が起きているのか、見ずにいられない。
「行ってきます」
私はストラップを肩にかけ、深く一礼した。
「おう」
御影さんが、飴の包み紙を丸めながら言った。
「“記録だけだ”って顔で撮っとけ。誰に見られてるかは、後で考えりゃいい」
その言い方が、妙に引っかかった。
◇
夕方が夜に変わる境目の時間帯、帝都の飲み屋街は、昼間とは別の顔を見せ始める。
駅から少し外れた路地に足を踏み入れると、空気がじっとりとまとわりついてきた。雨上がりの石畳に、赤ちょうちんの光が長く伸びている。排気ガスと揚げ物の匂いと、湿った煙草の煙が、胸の奥に重くたまる。
細い路地の両側には、昭和から時間が止まったようなスナックや小料理屋が、雑多に並んでいた。手書きのメニュー板。色の褪せた暖簾。どの店の前にも、誰かが立っている。客引きだったり、酔いざましに一服するサラリーマンだったり。
カメラを取り出すと、何人かの視線が、じろりとこちらに向いた。
それでも、私は構図を決めて、ファインダーを覗く。石畳に反射する光と影。提灯越しに漏れる店内の暖かい色。人の輪郭はできるだけシルエットにして、顔は潰すように。
シャッターを切るたびに、路地の奥へ奥へと吸い込まれていく。
「――撮らないでくれる?」
ふいに、低い声がして、私は指を止めた。
振り向くと、一軒のスナックの前に、男が立っていた。
店のドアは半分開いていて、中から漏れる暖色の光が、男の背中を縁取っている。逆光で顔の半分は影になっているのに、その輪郭だけで、ただの酔客じゃないことがわかる。
きっちりとしたシャツに、少し着崩したジャケット。胸ポケットには折り畳んだ手帳のような膨らみ。指には銀色のリング。指先で弄んでいるライターが、カチ、と音を立てた瞬間だけ、火花が彼の横顔を照らした。
年齢は、私よりずっと上だけれど、御影さんほどではない。二十代後半か三十代前半くらい。目だけが妙に冷静で、こちらを値踏みしている。
「うちは、もう閉めるからさ」
彼は、スナックの看板を顎で指した。この界隈では珍しいくらい新しい看板だ。けれど、その上に貼られた「テナント募集中」の紙が、風に揺れていた。
「すみません。通り全体を、記録しておくようにと言われていて――」
「記録ねえ」
男は、口の端だけで笑った。
「どこ所属?」
「えっと……市役所の、帝都幻灯局です」
名刺を差し出すと、彼はちらりとだけ目を落とし、すぐにポケットに突っ込んだ。
「聞いたことあるよ。お宅の部署」
「……本当ですか?」
「“なくなる前の街を撮って回ってる連中がいる”ってさ」
その言い方は、不思議と非難めいていなかった。
「でも、“残る”ってのはさ」
ライターに火をつけながら、男はゆっくりと煙を吐き出した。
「誰にとって都合がいいかで決まるんだよ。写真も記事も、再開発のパンフレットも、全部な」
煙の向こう側で、彼の目だけが笑っていない。
「……それでも、撮らないと、何も残らないから」
自分でも驚くくらい、言葉がすぐに出てきた。
「誰かが覚えてることを、形にしておかないと。そういう仕事だって、上からは」
「上からは、ね」
男は、その単語を反芻するように繰り返した。
「ま、いいや」
煙草を指に挟んだまま、彼は路地の奥を指さす。
「全部撮られるのは困るけど、一本ぐらいなら、案内してやるよ」
「案内?」
「条件付きだ」
指を二本、立ててみせる。
「一つ。うちの古い事務所が映り込まないこと。二つ。人の顔が特定できないようにすること。やれるか?」
「……努力はします」
完璧に守れる保証はない。でも、少なくとも意識はできる。
「よし。じゃあ、ついてきな」
男は店のドアに鍵をかけると、ポケットに鍵束を放り込み、歩き出した。
「七瀬だ」
「え?」
「名前。七瀬宗一。ここら辺の、いわゆる“まとめ役”だ」
軽い口調なのに、その肩書きの重さは十分に伝わってきた。
「三上灯子です」
「灯子ね。ふうん」
七瀬は、私のストラップにかかったカメラをちらりと見た。
「噂通りだ。いいカメラ持ってるじゃねえか」
「噂……?」
「警察の方でさ。“変な写真”を撮らされてる部署があるって話」
相馬さんの顔が頭の中に浮かんで、胸のどこかがひやりとする。
「お宅の部署、たまに“線”を越えそうになるんだよ」
七瀬は、あくまで雑談の延長みたいな調子で言った。
「線?」
「こっち側の都合とか、あっち側のメンツとか、いろいろあるだろ」
彼は足元の石畳をつま先で軽く蹴った。
「この街にはさ、昔から“いじっちゃいけない場所”ってのがあるんだよ。俺らも、警察も、役所も、なんとなく避けてきたとこが」
「……そういうところも、撮りに行ってた、ってことですか?」
「さあね」
七瀬は肩をすくめた。
「ただ、最近は、そういう“暗黙の了解”を知らない奴らが増えてきてる」
路地が一本曲がるたびに、いくつもの看板が視界から消え、新しい看板が現れる。その中に、さっき新聞で見た再開発会社のロゴと似たマークが、仮看板として貼られているのがちらちらと目に入った。
「再開発の連中、ですか」
「……あいつらは、まだ分かりやすい方だ」
七瀬の声が、少しだけ低くなる。
「最近、“違うやつら”が街を間引いてる」
「違う、やつら」
「再開発利権目当てとも違う。昔から裏社会が守ってきた“線”を、平気で踏み越えてくる」
七瀬は、赤ちょうちんの下をくぐりながら言った。
「あいつらは、街を“きれいにする”んじゃなく、“なかったことにする”んだよ。街ごと、人ごと、まとめてな」
その言葉に、背筋がぞくりとした。
私はこれまで、「地図から消えた路地」や「半透明の商店街」を見てきた。でも、それはどこか、自然現象のような、世界が勝手にずれていくような感覚だった。
今、七瀬の言う「違うやつら」は、もっと意図的で、人為的な何かの匂いがする。
「超常現象、っていう感じでは……」
「そこまでは言わねえよ」
七瀬は苦笑した。
「ただ、説明のつかない“消え方”が増えてるのは確かだ。俺らの縄張りからも、警察の台帳からも、役所の書類からも、きれいさっぱり消えてる。そういうとき、だいたい、お宅らのカメラが、どっかで動いてる」
それは、責めているわけではなく、観測結果を述べているだけの口調だった。
「だから気になるんだよ。お前らが、どこを見て、何を残してるのか」
“誰が見てるか、だけは間違えんな”
御影さんの言葉が、頭の中で重なる。
私たちは、誰に見られるために、撮っているんだろう。
◇
路地は、いつの間にか、行き止まりに近づいていた。
人通りが少なくなり、店の数も減り、代わりに電線の本数が増えていく。頭上を見上げると、黒い線が蜘蛛の巣のように張り巡らされていて、その向こうに小さく切り取られた夜空が見えた。
「着いた」
七瀬が足を止めた先は、本当に袋小路だった。
両側の壁には、古い看板がいくつも打ち付けられている。色の褪せた飲料メーカーのロゴ。読めなくなった店名。上から重ねて貼られたポスターの破れた残骸。落書きの上にまた別の落書きが重ねられて、誰にも読めない模様だけが残っている。
足元には、バケツがいくつか置かれていて、その中には空き瓶や缶が適当に突っ込まれていた。どれが何年前のものなのか、見当もつかない。
「ここは、地図には載ってねえ」
七瀬が、ポケットから煙草を取り出す。
「昔からそうだ。誰も、ここに住所を振ろうとしない」
「どうして……?」
「どうしてだと思う?」
問い返されて、私は答えに詰まる。
ただ、足元の湿った空気と、壁に染み付いた酒と煙草と雨の匂いが、ここだけ時間の流れが違うことを物語っていた。
「撮るなら、今のうちだ」
七瀬は、私に背を向けて、壁にもたれかかった。ライターの火が、短く瞬く。
「……撮って、いいんですか?」
「さっき言った条件、守れるならな」
煙草に火をつけたまま、彼は視線を路地の入口の方に向けた。カメラに背中を預ける形になるように。
「お前らの仕事は嫌いじゃねえよ」
吐き出された煙の向こうで、彼の横顔だけが少しだけ柔らかくなった。
「ただ、“誰が見てるか”だけは間違えんな」
その言葉は、警告というよりは、祈りに近い響きを持っていた。
私は、息を一度整えてから、ファインダーを覗いた。
袋小路全体を入れる構図。壁の看板と、落書きと、電線と、空。七瀬の背中は、できるだけ端に、シルエットになるように。
シャッターを切る。
別の角度から。バケツの空き瓶を前景にして、奥の壁をぼかす。電線を手前に入れて、視線が袋小路の奥に吸い込まれていくように。
そして、壁を舐めるように、少しずつカメラを振っていく。古い看板と看板の隙間。剥がれかけのポスターの影。黒ずんだコンクリートの染み。
そのとき、視界の端に、妙な違和感がひっかかった。
何かのマーク――としか言いようのない形が、そこにあった。
円とも、三角ともつかない。けれど、目が勝手に、そこを「図形」として認識してしまう。看板の影と重なり合っているから、よく見ないと気づかないくらい薄い。けれど、一度見えてしまうと、そこだけがくっきりと浮かび上がってくる。
私は、指先に汗が滲むのを感じながら、その部分を中心に据えて、もう一枚シャッターを切った。
――七瀬は、知らない。
そんな確信が、撮った瞬間に胃の底に落ちた。
彼の視線は、路地の入口の方に向いている。ここに描かれている何かに気づいているなら、こんな位置取りはしないはずだ。
じゃあ、この印を、誰が、いつ、どうやって。
問いがいくつも浮かんでは消えていく中で、私は黙って撮り続けた。
◇
局に戻る時間はなかったので、その夜は自分のアパートでデータを確認することにした。
狭いワンルームのテーブルの上にノートパソコンを置き、メモリーカードを差し込む。窓の外からは、遠くの高架を走る電車の音がかすかに聞こえる。
昼間まで喫茶店で見ていた、紙のプリントとは違う。画面上で拡大された画像は、細部まで容赦なく見せてくる。
飲み屋街の全景。赤ちょうちんの列。石畳の反射。人の顔が判別できないように、意識して撮った構図。
次に、袋小路のカットを開く。
画面の中央に、さっきの壁がある。古い看板と落書きと、剥がれたポスター。黒い染み。
拡大をかける。粒子が荒くなっていく。けれど、例のマークは、むしろくっきりしてきた。
円とも三角とも言えない形の中に、さらに細い線がいくつか走っている。何かのロゴか、宗教的な印か、あるいはどこかの部署のシンボルなのか。
少なくとも、私は見覚えがない。
「……何、これ」
思わず声が漏れた。
指先が、少し震える。マウスを持つ手に力が入らない。
念のため、撮影時刻を確認する。ファイル名に記録されたタイムスタンプは、さっきメモしていた時間と一致している。写真を撮ったのは、七瀬が煙草に火をつけた、あの瞬間の直後だ。
肉眼では、見えなかった。
少なくとも、私は気づかなかった。七瀬も、おそらく。
じゃあ、このマークは、いつからそこにあったことになっているんだろう。
最初から? シャッターを切った瞬間に? それとも、写真が保存される間のどこかで?
考えれば考えるほど、頭の中の時間軸がぐちゃぐちゃになっていく。
でも、ひとつだけはっきりしていることがあった。
私のカメラは、単に「街の姿」を写しているだけじゃない。
――誰かの「線引き」そのものを、拾ってしまうことがある。
あの飲み屋街を、再開発する者たち。昔から守ってきた者たち。そして、街ごと人ごと「なかったことにする」何か。
その全部の、「目印」のようなものが、そこにある気がした。
私は、画面を閉じることができずに、しばらく椅子の上で固まっていた。
窓の外で、遠くを走る電車の音が、またひとつ通り過ぎていく。
この街のどこかで、今日も誰かが何かを消し、誰かが何かを覚えている。
私の手元には、そのどちらにも少しずつかかわってしまう「証拠」が、静かに蓄積されていく。
――お前らの仕事は嫌いじゃねえよ。ただ、“誰が見てるか”だけは間違えんな。
七瀬の声と、御影さんの声が、重なって響いた。
私は、そっとカメラに手を伸ばし、レンズキャップをつけた。
「……明日、御影さんに見せよう」
今は、それ以上でもそれ以下でもない。
そう決めて、電気を消す。暗闇の中で、パソコンの電源ランプだけが小さく点滅していた。
帝都の夜は、厚い雲に覆われていて、星は一つも見えない。
――それでも、ここにあったものを、なかったことにはさせない。
布団に潜り込みながら、まだ言葉にならない決意のようなものが、胸の奥でゆっくり形を取り始めているのを、私はぼんやりと自覚していた。




