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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第39話「見えない定規」

 路面電車の窓に、朝の川面が流れていく。冬でもないのに息が白くなるのは、車内の窓が結露しているからだ。指先で曇りを拭うと、外の景色が一瞬だけはっきりした。


 河畔石畳地区の広告が、吊り革の向こうで揺れていた。

 ――文化景観保存地区指定。

 写真の中のガス灯は、いつもより少しだけ明るく見える。実際のガス灯が明るくなったわけじゃない。ただ、こういう広告用の写真は、灯りの輪郭だけを丁寧に立てる。


 私は、あの場所の夜景を撮ったときのことを思い出していた。川沿いのカフェの灯り。遊覧船のイルミネーション。画面の中でだけ、別の暗がりが重なる感覚。

 同じ川の、どちら側に立つか。

 それだけで“残される”か“消される”かが決まってしまうなら――。


「灯子、聞いてる?」


 向かいの席で花が、紙袋を膝に乗せたままこちらを覗き込んでいた。袋の口から、花の茎の匂いがする。いつもなら柔らかい匂いなのに、今日は少しだけ湿っている。


「ごめん。ぼーっとしてた」


「最近、ぼーっとしてる率が高いよ」


「……線のことを考えてた」


 花は、吊り広告をちらっと見上げて、口元だけで笑った。


「赤い線?」


「赤い線も、青い線も、黄いろい線も」


「色、増えてる」


「うん。増えてる気がする」


 冗談みたいな会話のまま、胸の奥がきしんだ。高架下市場が更地になって、写真冊子を配って、公文書館に薄いファイルを差し込んで――それで少し落ち着くはずだった。

 でも、落ち着かなかった。

 落ち着いてしまったら、あの“きれいな空白”に慣れてしまう気がした。


 電車が揺れ、窓の外で市庁舎の高い建物が遠くに見えた。あの高い場所から見る帝都は、どんな形に見えるのだろう。川も路地も人も、全部、同じ縮尺の上に並べられてしまうのだろうか。


 幻灯局に着くと、御影さんは机の上のフィルム箱を整えていた。相馬さんは、今日は珍しく事務所にいた。帽子を被ったまま、何かを考えている顔。


「何かあったんですか」


 私が尋ねるより先に、扉が小さく叩かれた。


「……入るぞ」


 九条さんだった。手にしている封筒が、妙に分厚い。封の部分が、丁寧に切り取られている。誰かが、誰かに見せることを前提に開けたみたいに。


「今夜、喫茶で集まれないか」


 九条さんは、封筒を机の上に置いた。指先が少しだけ震えている。


「一人で抱えると、ろくな判断ができないって、最近学んだ」


 その言い方が、妙に苦くて、でも助けを求める音がした。



 夜の喫茶は、閉店前の匂いがする。豆の焦げた香りと、床拭きの水の匂い。店の奥の照明は落とされ、手前のテーブルだけが残っていた。シャッターが半分まで降りていて、その隙間から外の街灯の光が細く差し込んでいる。


 私たちは、いつもの席に集まった。

 九条さん、相馬さん、御影さん、花。

 そして、少し遅れて七瀬が入ってきた。肩の線が、いつもより硬い。


「遅れた。……で、何だ」


 七瀬は椅子に腰を下ろし、まず九条さんの封筒を見た。目が細くなる。


「市庁舎内部から来た」


 九条さんが言った。


「匿名だ。差出人はない。けど、封筒の紙は、市の内部書類に使ってるやつに近い」


「近いって何」


 花が眉を寄せる。


「完全に同じじゃないの?」


「完全に同じだったら、逆にわざとらしいだろ」


 九条さんの笑い方は、笑いじゃなかった。

 彼は封筒からコピーの束を取り出し、テーブルの上に広げた。紙の端が、照明の輪にかかって白く光る。


 表紙に、硬い文字。


『都市再編基本方針(内部案)』


 その下に、帝都の地図。

 赤、青、黄の線。

 記号。

 そして、メモの一行。


 ――“間引き”は、もう始まっている。


 私は、その文字を見た瞬間、喉の奥が冷たくなった。“間引き”という言葉は、これまで噂や比喩の形でしか聞かなかった。誰かがそう言うとき、それは恐怖を煽るための言葉にも、諦めを飾るための言葉にもなる。

 でも、ここにあるのは、印刷された文字だ。内部案という名で、紙に固定された意志だ。


「色の意味は?」


 相馬さんが、地図に顔を近づけた。


 九条さんが、資料の凡例を指で叩く。


「赤。整理候補区域。青。重点保存候補区域。黄。再開発優先区域」


 御影さんが、ゆっくり息を吸った。


「……高架下市場」


 赤い線の中に、その名前があった。しかも、あの赤いスプレーで雑に引かれた線よりずっと前から引かれていたことを示す、薄い跡が重なっている。消しかけた鉛筆のような線。何度も引き直された線。


「河畔石畳地区も」


 花が声を落とした。青い太線が、川沿いをなぞっている。保存候補として、迷いなく囲われている。あの式典で九条さんが壇上に立った“保存”は、突然のニュースじゃなかった。ずっと前から、紙の上で決まっていた。


 九条さんが、自分の膝の上で手を握った。


「……高架下市場の記事を出したとき、“危険区域”としての注目を集めるのに使われた。

 河畔地区の記事は、“価値がある”ってお墨付きを与える材料になった。

 どっちも、もう地図の上では決まってたってことかもしれない」


 相馬さんの口元が、わずかに歪んだ。


「つまり俺たちは、すでに引かれた線の上で、せっせと色塗りさせられてたわけだ」


 その言い方が、あまりにも生々しくて、胸が痛んだ。色塗り。

 危険の赤を濃くする。価値の青を濃くする。

 そういう“仕事”に、私たちの記録が組み込まれてしまっていたのなら。


 御影さんは、地図から視線を外さないまま言った。


「この“基本方針”を書いた者たちは、帝都を上から見て、人と暮らしを記号に変えている……」


 私は地図を見つめながら、これまで撮ってきた断片を思い返した。

 線路脇の狭い路地。

 坂の多い住宅街の夕暮れ。

 アーケード商店街の雨の日。

 保存された河畔地区の夜の光。

 それらが、一つの定規の目盛りの上に並べられている感覚。


 定規。見えない定規。


「……誰が、その定規を持っているんですか」


 自分の声が、思ったより硬かった。


 九条さんが、資料の末尾をめくった。署名欄と、ハンコの印影だけが並んでいる。名前はない。組織名だけ。


「都市計画局。軍の警備隊。教会の資産管理部門。経済同盟会……」


 七瀬が、低く息を吐いた。


「顔のない連中だ」


「“誰が”って訊かれると、名前はたくさん出てくる」


 九条さんが続ける。


「でも、“どこまでが誰の責任か”は曖昧にぼかされてる。

 印影だけが並んでるのは、責任を並べてるんじゃなくて、責任を分散してるんだ」


 七瀬が指を組み、顎に当てた。


「こういうとき、一番怖いのは“みんなで決めた”って顔をして、誰も責任取らないことだ」


 その言葉は、裏社会を見てきた者の言葉だった。上の連中のやり口を知っている声だった。

 私は、喫茶の薄暗い照明の中で、七瀬の横顔を盗み見た。怒りというより、諦めに似た疲れがある。怒り切れないくらい、何度も見てきた顔。


 相馬さんが、地図の外側にある小さな欄を見つけた。


「……これ」


 そこには短いメモがあった。


『写真記録:幻灯局(必要に応じて活用)』


 “必要に応じて”。

 軽い言葉。便利な言葉。誰も責任を持たない言葉。


 私の背筋がぞくりとした。


「“必要に応じて”って、どういう意味なんでしょう」


 言いながら、自分でも分かってしまう。

 再開発のパンフレットに良さそうな写真も。

 立ち退き交渉や訴訟に役立つ写真も。

 どちらも“使える”という意味。


 御影さんが、こちらを見ることなく言った。


「おそらく、その通りです。写真は、光学的には誠実です。ですが、扱う者が誠実とは限りません」


 花が、唇を噛んだ。


「つまり、うちらの撮ったものは、どっち側にもいいように使えるってこと……?」


「だからといって、撮るのをやめたら」


 相馬さんが、まっすぐ言った。


「“何も残らない”側に落ちるだけだ」


 その言葉が、重かった。

 撮ることが正しいとも、撮らないことが正しいとも言えない。

 本当に問われているのは、もう二択じゃない。


 どう撮るか。

 どこに置くか。


 高架下市場のとき、私たちは二重に保管した。住民の手元と、公文書館の棚。

 あれは、その場しのぎじゃなかったのかもしれない。

 “独占させない”というやり方は、これからも必要になるのかもしれない。


 九条さんが、紙の束を指で整えながら言った。


「俺は……自分の記事が線の色を濃くするために使われるのを、もう見たくない」


「じゃあ書かないのか」


 七瀬が問う。責める口調ではない。ただ事実を確かめる声。


 九条さんは、首を横に振った。


「書かないと、別の誰かが書く。もっと都合のいい書き方で。

 俺が黙ると、線の上で色を塗る手が減るんじゃなくて、塗り方が雑になるだけだ」


「じゃあ、どうする」


 相馬さんが言った。


 九条さんは、しばらく黙って、喫茶のテーブルの木目を見つめた。

 その沈黙の中に、責任の重さが落ちている。


「……自分が書いたものの“行き場”まで、考える」


 やっと出た言葉は、小さかった。


「記事も、写真も、出したら勝手に使われる。そうやって諦めるのは簡単だ。

 でも、それで高架下が消えた。

 だから、諦めたくない。

 どう使われるかを全部は制御できないけど、せめて“文脈”だけは置いていく」


 御影さんが、ほんの少しだけ頷いた。

 花も、唇を引き結んだまま頷いた。

 相馬さんは、深く息を吐き、七瀬は目を伏せた。


 その時、喫茶の奥の照明が、ふっと暗くなった。閉店の合図みたいに。

 店主が、シャッターをもう少し下ろす音がした。半分だったシャッターが、さらに下がり、隙間から漏れる光が細くなる。


 帝都の夜が、こちらににじみ込んでくる。



 テーブルいっぱいに広がった帝都地図。

 赤、青、黄。

 それを囲む私たちの影。

 光が細くなったぶん、地図の色が濃く見える。


 私は、そっとペンを取った。正確には鉛筆だ。硬い芯の、よく削れた鉛筆。


「何するんだ」


 相馬さんが言う。


「印をつけます」


 私は答えた。自分でも驚くほど、迷いのない声だった。


 赤や青の線の横に、小さな鉛筆の印をつけていく。

 これまでに自分たちが足を踏み入れた場所。

 撮った場所。

 話を聞いた場所。

 声を受け取った場所。


 高架下市場の跡。

 河畔石畳地区の川辺。

 線路脇の路地。

 坂の多い住宅街。

 アーケード商店街。

 小さな喫茶。

 三上商店。


 点は増えていく。地図の上に、細い点線が生まれていく。


 地図は上から見た帝都だ。

 でも、この点線は、上から見た点線じゃない。路地の高さからつけた印だ。暗室の赤い光の高さからつけた印だ。人の目線の高さからつけた印だ。


 鉛筆の芯が、紙に当たる音が、小さく響く。

 その音が、喫茶の静けさの中で妙に生々しい。


「……線を引いた人たちとは違う位置から」


 私は言った。自分の声が、少しだけ震えたのは、怖さじゃなくて、覚悟のせいだった。


「もう一回、帝都を見てみたいです」


 九条さんが、目を細めた。


「“上からの地図”じゃなくて?」


「はい」


 私は鉛筆を持ったまま、地図から顔を上げた。


「路地の高さ。暗室の赤い光の高さ。人の目線の高さから」


 言った瞬間、胸の奥で何かがずれて、収まる音がした。

 “定規”に対抗するための言葉を、ようやく見つけた気がした。

 上からの線に、下からの点線を重ねる。

 それは、線を消すことじゃない。線の外側を作ることだ。


 九条さんが短く頷いた。相馬さんも。御影さんも。七瀬も。花も。


 全員がそれぞれの速度で、同じ方向を向く。


 喫茶のシャッターの隙間から、外の街灯の光が細く差している。

 その光が、地図の上の赤い線と、私の鉛筆の点線を同じ明るさで照らした。


 店の外では、路面電車が遠くでベルを鳴らした。

 いつもの音。

 いつもの夜。


 でも、私たちはもう、“ただのいつも”には戻れない。



 帰り道、私は一度だけ足を止め、市庁舎の方角を見上げた。高層階の窓ガラスに、街の灯りが映っている。

 あの窓の向こうには、デスクがあって、ファイルがあって、印影だけの署名欄があるのだろう。


 見えない定規。

 それは、誰か一人の手の中にあるんじゃない。

 複数の手が、同じ定規を持っているふりをして、責任だけを置き去りにしている。


 私はカメラバッグの肩紐を握り直した。

 撮ることは、線を濃くする手伝いになるかもしれない。

 でも、撮らないことは、点線すら引けなくなる。


 喫茶の前を通り過ぎると、シャッターが完全に降りていた。

 閉店の静けさ。

 そのシャッターの下のほんの小さな隙間から、店内の光がまだ少しだけ漏れていた。


 その細い光は、まるで暗室の赤い光みたいに、夜の中で静かに息をしていた。


 私はその光を見つめながら、帝都の地図の上に引いた点線を思い出した。

 あれは、地図の上の点線じゃない。

 私たちが歩くとき、撮るとき、話を聞くときに、地面に残るはずのない痕跡だ。


 残らないから、残す。

 残せないから、置く。

 置かれ方まで、考える。


 路面電車が角を曲がり、街の灯りが一つずつ流れていく。

 私はその灯りの高さを、目で追った。

 上からの街ではなく、今ここにいる自分の高さから。


 その高さを忘れない限り、見えない定規にだけ、帝都を渡さないで済む気がした。


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