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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第38話「片付けたあとに残るもの」

 朝、三上商店の前を通ると、いつものように豆腐の木箱が店先に並んでいた。白い湯気が立つ鍋の匂いと、乾いた新聞紙の匂いが混じる。路面電車が角を曲がるたび、店の軒先の風鈴が小さく鳴った。


 その「いつも」の中に、最近、妙な隙間が増えている。


 たとえば、壁に貼られていたはずの映画のポスターが、翌日には跡形もなく剥がされている。貼り替えた人もいないのに。紙の痕も残っていない。

 たとえば、通い慣れた道の角にあった鋳物の郵便受けが、ある朝、何もなかったみたいに消えている。


 消える、という言葉が、生活の中で少しずつ軽く使われ始めているのが怖かった。


「灯子、持ってく?」


 三上のおばさんが、紙袋を差し出した。中身はパンの耳と、今日の惣菜の切れ端。幻灯局に寄付してくれる、ありがたい“生活の延長”だ。


「ありがとうございます。花さんに渡します」


「最近、花屋のほうも忙しそうねえ。あの市場の人たち、こっちまで来てるんでしょ」


 私は、言葉を選びながら頷いた。


「仮設の商店街ができたって。……もう、工事がだいぶ進んだみたいで」


「そう」


 三上のおばさんは、顔をしかめるような笑いを浮かべた。


「工事ってねえ、いつも“始まったら早い”のよ。決まるまでが長くて、決まったら、あっという間」


 その“あっという間”の中に、人の暮らしが丸ごと入っていることを、この街は知っている。知っているから、笑い方が苦い。


 紙袋を抱え直し、私は路面電車に乗った。吊り広告はいつも通り、映画と美容院と、河畔石畳地区の保存を祝う観光キャンペーン。

 その下で、誰かがぽつりと「高架下、もう何もないらしいよ」と言った。


 誰に向けた言葉でもないのに、耳に刺さった。



 幻灯局の事務所では、御影さんが窓際でフィルムの箱を整理していた。相変わらず、手元の動きが静かで、無駄がない。


「来ました。三上商店から」


「ありがとうございます」


 御影さんは紙袋を受け取り、棚の端に置いた。


「……今日は、高架下へ」


「はい」


 短い返事だけで、胸の奥が固くなるのが分かった。


 あれから数週間。撤去予定の告示が出て、説明会があって、赤い線が引かれて、写真が“証拠”になりそうだと話して――その間にも、工事は淡々と進んでいった。

 行政の言葉は、いつも「段階的に」だ。段階的に撤去、段階的に支援、段階的に再開発。段階的という言葉の中に、誰かの段取りと、誰かの都合が隠れている。


「最後の確認撮影です」


 御影さんが言う。


「現場がどう変わったか。残っている痕跡が何か。……“残ってしまうもの”も」


 “残ってしまうもの”という言い方が、妙に引っかかった。残すのではなく、残ってしまう。意志ではなく、余り。


 相馬さんが遅れて入ってきた。いつもより帽子を深くかぶっている。手には、折り畳んだ地図のようなもの。


「現場、もう中に入れない区画が増えてる。安全管理の札が出てるからな」


「入れるところだけでも」


 御影さんが淡々と言った。


 相馬さんは頷いたが、目が笑っていなかった。


「“入れるところだけ”……便利な言葉だ。線のこちら側だけ、ってな」


 その言い方は、ただの皮肉ではなかった。自分に言い聞かせるみたいに聞こえた。


 そして、花からの伝言がメモで机に置かれていた。


『仮設商店街の花屋に寄ります。市場の人、今日も何人か来るって。時間あれば顔出して』


 私はそのメモをポケットに入れ、カメラバッグの肩紐を握り直した。



 高架下市場に着くと、風がまず変だった。


 あの場所の風は、いつも油と魚と、濡れた段ボールの匂いを運んできた。人の声と、包丁の音と、呼び込みの声が混ざっていた。

 今は、土埃の匂いがする。コンクリートの乾いた粉の匂い。鉄の切り口の匂い。


 高架の下に立った瞬間、私は自分が音を探していることに気づいた。

 シャッターを上げる“ガラガラ”という音。子どもの笑い声。ビニール袋の擦れる音。

 どれもない。代わりに、遠くで重機のエンジンが低く唸り、金属が擦れる高い音が時折響く。


 かつて通路だった場所は、ただの広い空間になっていた。

 屋台の密度はなく、天井の蛍光灯は外され、配線だけがむき出しで垂れている。コンクリートの床には、どこを歩けばいいのか分からないほど線が増え、しかしどれも「道」ではない。


 柱に近づくと、赤いスプレーの跡だけが残っていた。

 撤去予定区画を示していた、あの線の断片。塗料がコンクリートのざらつきに染み込み、乾いた血の痕みたいに見える。


「……市場の“あと”って、意外と何も残らないんですね」


 思わず口から出た。


 御影さんは、赤い跡を見つめたまま言う。


「残らないようにするのです」


「え」


「撤去というより、片付けです。片付けてから壊す。片付けることで、痕跡が薄くなる。……薄くなった痕跡は、反論しにくい」


 相馬さんが、地面にしゃがみ込み、コンクリートの割れ目を指でなぞった。


「本当は、もっとぐちゃぐちゃにいろんなものが残るはずなんだ」


 土埃が指に付く。


「昔はこういう現場、片付ける余裕なんてなくて、生活の破片がそのまま出てきた。鍋とか、椅子とか、子どもの靴とか……。

 でも最近は、きれいにする。きれいにして、何もなかったみたいにする。……技術だよ。痕跡を消す技術が洗練されてる」


 私はシャッターを切った。広い空間、むき出しの配線、柱の赤い跡。

 ファインダー越しに見ると、そこは“工事現場”として成立してしまう。生活の温度がない。


(写真は、温度を写せるって、御影さんは言った。じゃあ今、この温度のなさは、写せるのだろうか)


 私は、赤い跡に近づき、できるだけ画面いっぱいに収めた。

 線は途中で途切れている。途切れているのに、線の役割だけがまだ残っている。こちら側と、あちら側を分ける感覚だけが残っている。


 そのとき、相馬さんが顔を上げた。


「見てみろ」


 彼の指差す先、コンクリートの壁に、四角い“空白”があった。


「看板の跡だ。外した跡だけ残ってる」


 そこは、以前、古い看板がかかっていた場所だ。私は、あの看板が“写真の中だけ残っている”のを見た。

 今、現実は当然のように空白で、空白の輪郭だけがきれいに整っている。


 空白のきれいさが、妙に不気味だった。



 次に向かったのは、仮設商店街だった。


 高架下から少し離れた場所に、プレハブの店舗がずらりと並んでいる。

 上に簡素な看板が掲げられていて、太い文字で「仮設商店街」。

 その下に、かつての市場の常連だった人たちが、小さな人混みを作っている。


 “きれいな場所を用意しました”という行政の言葉は、外見としては確かに正しい。

 プレハブは新しく、床は水平で、雨漏りはしない。通路は広い。消防の点検済みの札が貼られている。


 けれど、音が違う。匂いが違う。

 声が、どこか遠慮がちだ。屋台の距離感が、生活というより規格に合わせて並べられている。


 花が、小さな花屋の前で元市場の人たちと話し込んでいた。

 花束ではなく、仏花に近いものが多いのが、胸に刺さる。ここでは、祝いより弔いの需要が先に立っているのかもしれない。


「灯子」


 花が気づいて手を振った。


「こっち、元魚屋のおじさん。前に八百屋の隣だった人」


 元魚屋の男は、荒れた手で頭を掻きながら笑った。


「写真の人だろ。あんた、あの日、ずっと通路歩いてた」


「……はい」


 私は少しだけ頭を下げた。


「“前よりきれいな場所を用意しました”って言うけどなあ」


 男は、プレハブの白い壁を軽く叩いた。


「あそこには、雨漏りごと、ゴミ溜まりごと、いろんなもんがあったんだよ。

 きれいにすると、息ができるのは楽だけど……」


 言い淀み、男は笑い方を変えた。


「なんて言うか。“本当にあったのか”分からなくなる。そういう気持ちになるんだ」


 花が、ゆっくり頷いた。


「……全部きれいにすると、空気もきれいになるけど、思い出まで薄くなるね」


 私はカメラバッグから、何枚かプリントした写真を取り出した。御影さんと一緒に現像して選んだものだ。

 シャッターを上げる手。子どもの落書き。古い看板。通路の光と影。


「これ……市場の」


 男の目が、写真に吸い寄せられた。

 しばらく黙って、ページをめくるみたいに一枚ずつ見ていく。


 隣では、別の元店主が無言で写真を受け取り、胸の前で押さえるように抱えた。

 涙ぐみながら笑う人もいれば、何も言えずにただ頷くだけの人もいる。


 反応がさまざまなのが、救いでもあり、つらさでもあった。

 同じ場所でも、抱えているものは同じじゃない。だから「これでよかった」とは言えない。


「……ありがとう」


 元魚屋の男が、写真の端を指で撫でた。紙が少しだけ震えた。


「こういうのがあると、“あそこにいた”って言える」


 私は喉の奥が熱くなるのを感じた。

 “言える”というのは、誰かに向けての言葉だ。自分に向けてでもある。

 何かが消えたあとに残るのは、結局、「言えるかどうか」なのかもしれない。



 夕方、幻灯局に戻ると、机の上に封筒が置かれていた。市の印。

 御影さんが開け、内容を読み上げる。


「撤去完了の報告と……写真記録の寄贈の打診です。公文書館へ。都市史研究のため、と」


 相馬さんが鼻で笑った。


「都市史研究、ね」


 御影さんは、続きの文面を読み、眉をわずかに寄せた。


「……“市場に関わる苦情や訴訟リスクに備えて、全体像を把握しておきたいという意味もあります”」


 書き方が妙に正直だった。あるいは、正直であるふりをしている。


「つまり、こっちが撮った写真を、行政側の“備え”に使いたいってことだ」


 相馬さんの声が低い。


「都合のいい証拠、ってやつに」


 私は、机の上に広げたプリントの束を見た。

 市場の人たちのために撮った写真。依頼人との約束で撮った記録。

 それを、行政の棚に並べる――そのことの重さが、ようやく実感として落ちてきた。


 写真は物だ。物は置かれる。

 置かれる棚によって、物語が変わる。


「写真は、どこに置かれるかで意味が変わってしまいます」


 御影さんが静かに言った。


「市場の人たちのために撮ったものを、誰の棚に並べるべきか――それが問われています」


 そこへ、ノックもなく扉が開いた。九条さんだった。

 疲れた顔のまま、でも歩き方は迷いがない。


「……来たの、これか」


 封筒を見て、彼は苦い顔をした。


「公文書館に寄贈しろ、ってやつ」


「九条さん、知ってたんですか」


「編集部に話が回ってきた。市は“透明性のため”とか言ってるけど、実際は“管理のため”だろうね」


 九条さんは椅子に腰を下ろし、頭を抱えた。


「文章も写真もさ、結局“公的”に取り込まれると、勝手に“正しさ”の顔をし始めるんだ」


 御影さんが、言葉を整えるように言う。


「寄贈を断ることもできます。ただ……」


「断ったら断ったで、“隠している”って言われる」


 九条さんが即座に返した。


「書かないと“知らんぷり”。出すと“利用”。地獄だね」


 沈黙が落ちた。

 窓の外で、路面電車の音が遠くに聞こえる。いつもの音が、今日は薄く聞こえる。


 私は、プリントの束に指を触れた。

 紙の冷たさが、妙に現実的だった。


「……全部をどこか一箇所に任せてしまうんじゃなくて」


 自分の声が、少し震えているのが分かった。


「いくつかの場所に、分けて置いておくことは、ズルいでしょうか」


 相馬さんが、こちらを見た。御影さんも。九条さんも。


 ズルい、という言葉が先に出たのは、自分の中に罪悪感があったからだ。

 どちらか一つを選べない弱さ。責任を分散してしまう逃げ。


 でも同時に、それしかない気もしていた。独占させないために。


 九条さんが、ゆっくり笑った。


「むしろ、それがいちばんフェアなやり方かもしれない」


「フェア……」


「どこか一つの“物語”に独占させないためにはね。

 行政の物語にも、住民の物語にも、幻灯局の物語にも。

 全部が少しずつ持ってて、全部が少しずつ不完全でいる方が、“正しすぎる証拠”より信用できる」


 御影さんが、考え込むように目を伏せた。


「住民側の記録……冊子にして配る。

 公的記録としては、最小限の寄贈。解説を付け、撮影の経緯を注釈する」


 相馬さんが、頷く。


「全景と通路数枚だけ。生活の顔が分かる写真は、住民の手元に残す。

 ……それなら、“武器”になりにくい」


「それでも、“武器”にされる可能性はあります」


 御影さんが言う。


「ですが、注釈があれば、少なくとも“どう撮られたか”は残ります。文脈の一部が棚に置ける」


 私は、ふっと息を吐いた。

 決める、ということは、誰かの線を引くということだ。

 でも、今引こうとしている線は、高架下の赤い線とは違う。雑に引かれた「ここから先は消す」の線ではなく、雑に引かれないようにするための線。


 それでも、線であることは変わらない。



 その夜、幻灯局の暗室に赤い光が灯った。


 液面から、写真がゆっくりと浮かび上がってくる。

 かつての市場の通路。屋台の密度。人の気配。


 私は、できあがったプリントを一枚ずつ乾かしながら、冊子の構成を考えた。

 写真だけではなく、短い言葉も添える。店の名前。年数。あの日聞いた一言。子どもの背の線。落書きの場所。


 “危険度ランク”の外側にあったものを、なるべく落とさないように。


 裏表紙に入れる一文は、御影さんが提案した。


『ここにあったことを、あなたと私たちが覚えている』


 その文章を見て、私は胸の奥が少しだけほどけた。

 覚えている、というのは、未来への約束ではなく、今ここにいる者同士の握手だ。


 冊子ができあがった翌日、私と花で仮設商店街を回った。


 元店主たちに一軒一軒渡し、ページをめくる指先を見守った。


 古い手が、ページをめくるたび、高架下の風景が現れる。

 ページの端が、少し震えている。

 震えが止まらない人もいれば、途中でふっと笑って「これ、うちの棚だ」と言う人もいる。


 “ここにあった”ことが、紙の上で呼吸していた。


 同じ頃、御影さんと九条さんは公文書館へ行った。

 寄贈するのは薄いファイル一つ。全景写真と数枚の通路写真。

 そして、解説文。


『本記録は、立ち退きを前に住民からの依頼により撮影されたものである。撮影は生活の証拠を目的とし、行政判断の材料として作成されたものではない』


 それを、蛍光灯の白い光の下で、無機質な棚に差し込む。


 公文書館の書庫は静かで、音が吸い込まれるようだった。

 ファイル群が整然と並ぶ棚の一角に、「高架下市場・撤去前記録」と書かれた薄いファイルが入る。


 棚の奥で、蛍光灯の光が少しだけチラついたという。

 それが偶然かどうか、御影さんは最後まで言わなかった。



 最後の確認撮影を終えた日、私はもう一度、高架下の更地に立った。


 夕方の光が、鉄骨の影を長く伸ばす。

 人の声がない。

 重機の音も、今日は止まっている。


 私は遠景から一枚撮った。

 鉄骨とコンクリートの床だけになった空間。

 柱の赤いスプレーの断片。


 赤い跡は、風雨で少し薄くなっている。

 それでも、まだそこにある。

 線としての役割は終わっているのに、線の痕は残っている。


(片付けたあとに残るものは、こんなふうに“薄い”のか)


 薄いからこそ、見落とされる。

 見落とされるからこそ、誰も責任を持たない。


 シャッターを切ったあと、私はカメラを下ろし、しばらくその空間を眺めた。

 何もない。だから、何もなかったことにされる。

 その流れに抗うために、私たちは今日も“物”を作る。紙に、像を焼き付ける。


 帰り道、路面電車の窓に、自分の背中が映った。

 その向こうに、高架の影が流れていく。


 喫茶「花」に寄ると、花が棚の端に新しい冊子を並べていた。

 商品ではない。値札のない冊子。けれど、手に取った人は必ず表紙を撫でる。


「置くの?」


 私が尋ねると、花は頷いた。


「仮設商店街の人が、ここにも置いていいって言ってくれた。

 “こっちの客にも見せたい”って」


「……いいですね」


「うん。どこか一つに閉じ込めないほうが、いい気がする」


 花は、コップの水を拭きながら言った。


「消える街ってさ、消える前より、消えたあとに“本当にあったんだっけ”ってなるのが怖いんだよね」


 私は、棚の端の冊子を一冊手に取った。表紙はシンプルで、でも紙は少しだけ厚くした。触れたときに、「物」として残るように。


 ページをめくると、シャッターを上げる手が写っている。

 次のページに、子どもの落書き。

 次のページに、看板。


 私は最後のページまでめくり、裏表紙の一文を指でなぞった。


『ここにあったことを、あなたと私たちが覚えている』


 窓の外で、路面電車のベルが鳴る。

 いつもの音。


 でも、そのいつもの音が、今日は少しだけ遠く感じた。

 遠く感じるぶんだけ、私は冊子を棚に戻す指先に力を込めた。


 薄い痕跡は、放っておけばすぐ消える。

 だから、置く。分けて置く。何度でも。


 喫茶の蛍光灯が、ほんの一瞬だけチラついた気がした。

 私は顔を上げ、何も言わずにその光を見つめた。


 影が落ちる前に、もう一度、記録の置き場所を確かめるように。


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