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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第37話「残される街の条件」

 河畔のあたりは、昔からなんとなく「お洒落な場所」というイメージがあった。


 でも、その理由をちゃんと考えたことはなかった。


 その日、路面電車の中で広げた新聞の一面を見た瞬間まで。


『河畔石畳地区——文化景観保存地区として指定へ』


 太い活字が、白い紙の上でやけにくっきりと浮かんでいた。


 石畳の道にガス灯の列。

 レンガ造りの倉庫を改装したカフェとギャラリー。

 川面に揺れる遊覧船の灯り。


 写真に写っている光景は、たしかに「きれいだな」と思うものだった。

 でも、その見出しと並んでいるのを見た瞬間、私は別の場所のことを思い出していた。


 高架下市場の、赤いスプレーで引かれた「撤去予定区画」の線。


(あっちは、消される側の線で。こっちは、残される側の肩書きか)


 電車が緩やかにカーブを曲がる。

 窓の外に一瞬だけ、その河畔地区のシルエットが見えた。


 川沿いに並ぶガス灯。テラス席のパラソル。

 それらが、朝の薄い光を受けて静かに立っている。


 その直後、視界は高架のコンクリートに切り替わった。

 暗い影の下に、まだ人が行き来している市場の屋台の一部が一瞬だけのぞく。


 同じ川沿いなのに、電車の窓から見ると、そこには境界線のような切れ目があった。



 喫茶「花」に入ると、カウンターの上にも同じ新聞が広げられていた。


「おはよう」


 花が、カウンターの中から顔を上げる。


「おはようございます。……やっぱり見てました?」


「まあね。うちは川沿いじゃないけど、ああいうニュースが出ると、お客さんの話題にもなるから」


 彼女はコーヒーカップを温めながら、見出しのあたりを指先で軽く叩く。


「“文化景観保存地区”だってさ。かっこいい肩書きだよね」


「ですね。なんだか、急に“正しい街”になったみたいな」


 口にしてから、自分でその言葉に違和感をおぼえて、慌てて続けた。


「いや、その……もともと素敵な場所だとは思うんですけど」


「分かってるよ」


 花は笑った。


「“保存される側”って言われた時点で、なんかこう、“合格しました”ってスタンプを押されたみたいな感じがするんだよね。

 逆に言うと、“そうじゃない場所”もあるってことになるけど」


 ――高架下市場。


 言葉には出さなくても、今この街でその例を挙げようとしたら、真っ先にそこが浮かぶ。


「九条さんが、前からよく記事にしてた場所ですよね、あの河畔」


「うん。写真の撮り方も上手いし、読み物としても人気だったみたいだし」


 花は、カップにコーヒーを注ぎながら、少しだけ目を伏せた。


「……同じ人が書いた記事でも、片方は“撤去の口実”で、片方は“保存の後押し”になるんだから、不思議なもんだね」


「不思議で、ちょっと怖いです」


 私は、カップから立ちのぼる湯気を眺めながら言った。


 そのとき、ポケットの中で局の携帯が震えた。


「灯子? 御影だ」


 電話口の声は、いつもどおり落ち着いていたが、どことなく急いでいる。


「はい」


「今朝の新聞、見ましたね?」


「はい。河畔石畳地区の保存指定の……」


「その件で、市庁舎前で式典があります。

 記録局として“参考出席”の招待が来ている。九条さんも来るそうです」


 カウンター越しにこちらを見ている花と目が合う。


「……行きます」


「喫茶『花』を経由して市庁舎に来てください。

 高架下の件もある。見ておいた方がいいでしょう」


 通話が切れた。


「式典?」


「はい。保存地区指定の……。私たちも呼ばれてるみたいで」


 花は「そうか」と短く答え、ポットを置いた。


「行っておいで。きっと、“きれいな言葉”がたくさん飛び交うだろうから」


 電車の中で花が言っていた「空気に酔う」という表現を、私は思い出す。


 保存。景観。価値。

 そういう単語の隙間に、何が隠れているのか。


 それを見に行くのだ、と自分に言い聞かせるように、私はカメラバッグを肩にかけた。



 市庁舎前の広場は、いつもよりずっと華やかだった。


 正面の階段には「河畔石畳地区 文化景観保存地区指定 記念式典」という横断幕。

 白いテントがいくつか並び、その下には椅子が整然と並べられている。

 報道関係者らしきカメラが三脚の上に並び、市の職員が慌ただしく行き来していた。


 広場の端には、河畔地区の写真パネルが立てられている。


 夕暮れの川面。

 レンガ倉庫を背にしたカフェのテラス席。

 ガス灯のオレンジ色の光。


 どれも、「残されるにふさわしい景色」として選ばれたものなのだろう。


「こっちです」


 御影さんが、群衆の隙間から手を振った。


 私はそのそばに立つと、広場の中央に目をやった。


 ステージ上に、市長らしき人物。文化財保護課の幹部。地元の有力者たち。

 そして、その端のほうに——見慣れた姿。


「……九条さん」


 彼は、いつもの少しくたびれたスーツではなく、珍しくきちんとしたネクタイを締めていた。

 ただ、その表情はどこか居心地悪そうで、視線が落ち着きなく泳いでいる。


 司会者がマイクを握り、式典が始まった。


「本日はご多忙のところ、河畔石畳地区の文化景観保存地区指定記念式典にお集まりいただき、誠にありがとうございます」


 定型句のような挨拶が続き、「歴史的価値」「市民の財産」「後世に伝える責任」といった言葉が並んでいく。


 やがて、司会者は笑顔で声のトーンを上げた。


「そして、この地区の価値をいち早く発信してくださった方をご紹介いたします。

 帝都日報の若手記者、九条さんです!」


 拍手が、広場に広がった。


 九条さんは、わずかに肩をこわばらせながら前に出た。


「九条さんは、これまでに何度も記事や連載を通じて、河畔石畳地区の魅力を広く市民に伝えてくださいました。

 その発信が、今回の保存指定の重要な後押しとなったことは、間違いありません」


 その言葉に、もう一段階拍手が強まる。


 でも、その中心にいる本人の顔は、素直な喜びとは違っていた。


 口元は笑っているのに、目だけがどこか遠くを見ている。


(——高架下市場のときは、“危険区域”の証拠に使われて。

 こっちの記事は、“保存する価値”の証拠になる)


 昨日、暗室で聞いた彼の言葉が頭に浮かぶ。


 送り出した文章が、どんな文脈で使われるか。

 それを完全にコントロールすることはできない。


 拍手の渦の中で、九条さんだけが、どこか浮いて見えた。



 式典が終わると、人の流れは二手に分かれた。


 一つは、市長や幹部たちが参加する記念撮影のほうへ。

 もう一つは、会場の端に設けられた、お茶と軽食のテントへ。


 私は御影さんと一緒に、その中間あたりで人の動きを眺めていた。


「灯子」


 背後から名前を呼ばれて振り向くと、九条さんがいた。


 先ほどの壇上のときよりも、ネクタイが少しだけ緩んでいる。


「お疲れさまです」


「いや、こっちこそ。……さっきは、なんか妙な紹介をされてしまって」


 苦笑とも自嘲ともつかない表情だった。


「“この街の魅力を伝えてきた若手記者”……でしたっけ」


「そうそう。

 まあ、間違ってるわけじゃないんだけどさ」


 彼は、視線を広場から少し外した。


「高架下市場の記事のほうは、“危険だから整理が必要だ”っていう資料に引用されて。

 こっちの河畔の記事は、“文化的価値があるから保存すべきだ”っていう裏付けにされて。

 同じペンから出た文字なのに、ね」


 その淡々とした口ぶりの奥に、じわりとした疲れのようなものがにじんでいた。


「……九条さんの記事がなかったら、この街が保存されなかった、ってこともあるんじゃないですか?」


 それは、励ましのつもりで言った言葉だった。


 でも、九条さんは少しだけ首を横に振った。


「どうだろうね。

 予算。景観。地権者との調整。観光資源としての“伸びしろ”。

 そういう条件が全部そろってたから、“保存される街”になれたんだと思うよ」


 彼は、河畔地区の方向に視線を投げた。


「きれいな物語も、“保存される条件”の一つかもしれないけど」


「物語……」


「“古い倉庫が若者の手でカフェに生まれ変わり、川沿いに新しい文化が生まれつつある”――そういうやつ。

 そう聞けば、誰だって“守らなきゃ”って気持ちになりやすいだろ」


 私は、高架下市場の組合長の顔を思い出した。


「“消される側”に回ったなら、消される理由ごと残してくれよ」


 あのときの言葉には、物語というよりも、剥き出しの生活の重さがあった。


 側溝の匂い。油の染みた床。

 ギリギリのところで回っている商売。


 それもまた、一つの物語のはずなのに。


「……九条さん」


「ん?」


「この記事のときは、九条さんも“保存されるべきだ”って思って書いたんですよね?」


 彼は少し考え、ゆっくりと頷いた。


「そうだね。

 この石畳が消えて、全部タワーマンションになっちゃったりしたら、つまんないだろうなって、本気で思った」


 その言葉に嘘はないように思えた。


「だからこそ、余計にモヤモヤするんだよ。

 同じ川沿いに、高架下市場みたいな場所があって。

 そっちは、“危ないから整理しましょう”って線で囲われてる」


 彼は、小さく息を吐いた。


「“残される街の条件”って、何なんだろうね。

 記事の露出。見た目のきれいさ。後ろにつく人。

 それとも、“ここは残すべきだ”って誰かが声を上げた回数?」


 私は、答えを持っていないことを自覚しながら、黙って聞いていた。


 そこに、御影さんが歩み寄ってきた。


「九条さん、お疲れさまです」


「御影さんも」


 軽く会釈を交わした後、御影さんは手にしていた紙をこちらに見せた。


「さきほど、文化財保護課の方から依頼が来ました。

 河畔石畳地区の保存指定記録用の写真を、幻灯局で撮ってほしい、と」


 紙には、「公式パンフレット」「アーカイブ用資料」といった言葉が並んでいる。


「“魅力的なカットを中心に”だそうです」


 御影さんは、その一文を指先で軽く叩いた。


「……“保存される側”の記録、ですか」


 思わず口から出た言葉に、自分でハッとする。


 御影さんが、こちらを見た。


「高架下市場は、“撤去予定地区”としての記録。

 こちらは、“保存決定地区”としての記録。

 どちらも残すための写真ですが、使われ方は正反対でしょうね」


 九条さんは、苦笑ともため息ともつかない表情で口元をゆがめた。


「俺の記事が、“保存する価値の証拠”として紹介されて。

 幻灯局の写真は、“その価値をビジュアルに見せるため”に使われる、と」


 そのまとめ方が、あまりに正確で、そして残酷でもあった。


 でも、断る理由もない。


 保存される街の記録を残すこと自体は、間違っているようには思えない。


(ただ――どこかで、高架下市場の赤い線と繋がってしまう気がする)


 その感覚を抱えたまま、私は御影さんの次の言葉を待った。


「灯子。花さんと一緒に、現場を回ってください。

 “魅力的なカット”と、そこに住んでいる人たちの姿、両方を」


「はい」


 返事をするとき、胸の奥で何かが少しだけ引っかかった。


 高架下市場で撮ったのは、「ここに住んでいた証拠」。

 河畔石畳地区で求められているのは、「ここに残す価値がある証拠」。


 同じ「証拠」でも、重さが違う。



 午後。

 花と二人で、河畔石畳地区に降り立った。


 川沿いの石畳は、朝の写真で見たとおり、よく手入れされていた。

 雑草は端に押しやられ、ガス灯の柱には季節の花が絡ませてある。

 レンガ造りの倉庫は、古さを残しつつ、窓や扉は新しく塗り直されている。


「……きれい、ですね」


 思わず漏れた言葉に、花が横で頷いた。


「うん。素直に素敵だと思うよ」


 川沿いには、テラス席のあるカフェが並んでいる。

 若いカップルが写真を撮り合い、子ども連れの家族が遊覧船に手を振っている。


 そして、ところどころに立っているのは、「PHOTO SPOT」と書かれた小さな看板。


「ここから撮ると、ガス灯がきれいに並んで見えます」

「夕暮れ時がおすすめ」


 矢印付きの説明が、観光客に向けて丁寧に書かれている。


「“フォトスポット”……」


 私は、その文字を指でなぞりながら苦笑した。


「高架下市場の赤いラインは、本当にただ“雑に引かれた線”って感じでしたけど。

 こっちの“残すための線”は、ちゃんとデザインされてますね」


「守られるための線は、こうして可愛く飾ってもらえるんだね」


 花は、看板の横にある鉢植えを眺めながら言った。


「こっちは“カメラを向けてください”って線で。

 あっちは“ここから先には入らないでください”って線で」


 同じ川沿いで、違う役割を持つ線。


 私は、フォトスポットから川を挟んで向こう岸を見た。


 遠くに、高架が見える。

 その下に、あの日歩き回った市場の屋根が、かろうじて輪郭だけを見せていた。


 ここから写真を撮れば、その高架もフレームの端に入り込むかもしれない。

 でも、依頼されている「魅力的なカット」には、きっと必要ないものとして切り落とされる。


「こっちの側から見ると、高架下は完全に“影の向こう側”だね」


 花が、私の視線を追って言った。


「同じ川なのに」


「……どの側に立つか、で見えるものが変わっちゃうんですね」


 私は、カメラを構えてシャッターを切った。


 ガス灯の列。

 石畳の曲がり具合。

 テラス席で笑う人たち。


 ファインダーの中から、高架の影は消えていた。



 河畔を一通り撮り終えたあと、御影さんに教えられた老舗喫茶店に向かった。


 レンガ倉庫を改装した店ではなく、もう少し奥まった路地にある、小さな店だ。


 木の扉を開けると、ベルの音がちりんと響く。


「いらっしゃい」


 カウンターの向こうで、白髪混じりのマスターが顔を上げた。


「幻灯局の方かい?」


「はい。御影からご挨拶していると思いますが……」


 名乗ると、マスターは「聞いてるよ」と頷いた。


「保存地区指定の記録、だってね」


 私たちが席に着くと、彼は湯気の立つカップを二つ運んできてくれた。


「保存ってのは、ありがたい話だよ。

 取り壊されて、別の建物になっちまうよりは、ずっとね」


 そう言って笑う顔には、確かに安堵がにじんでいた。


 でも、その口調にはどこか慎重さも混じっていた。


「ただね」


 マスターは、カウンターの端に肘をつきながら続けた。


「“文化景観”とか“観光資源”とか、立派な言葉が増えれば増えるほど、こっちの心配も増えるのさ」


「心配、ですか」


「家賃。固定資産税。

 うちは先祖代々ここで喫茶店をやってきたけど、“きれいな景色”のために住んでる人間が追い出される、なんて笑えない冗談もあるからね」


 彼は、窓の外の石畳に目をやった。


「観光客が増えるのはいいことだよ。

 でも、“ここは保存されるべき素敵な街です”って肩書きがついた途端、外からいろんなものが流れ込んでくる。

 味方ばかりとは限らない」


 私は、受け皿の上でカップを持ち上げながら頷いた。


「高架下市場でも、“安全のため”“将来的価値のため”って言葉ばかりが出てきました」


「ほう」


 マスターの眉がわずかに動いた。


「“価値”ってのは、誰が決めるかで全然違うからね。

 あっちの市場だって、そこで毎日買い物してる人にとっては、何よりの価値だったはずだ」


 その言葉には、河畔地区の外側のことまで見ている目線があった。


 高架下の赤い線と、ここでこれから引かれていくであろう目に見えない線が、どこかでつながる。


「……私たちの写真も、“この街は残す価値があります”っていう証拠になるかもしれません」


 口にすると、自分で少しだけ怖くなった。


「それ自体が悪いわけじゃないんでしょうけど」


「悪くはないさ」


 マスターは、笑って首を振った。


「ただ、“残される街の条件”にあまりにも合格しすぎると、その条件に合わないものが弾かれていく。

 それを忘れないでいてくれれば、それでいい」


 その言葉を、私は胸の奥にしまった。


 写真を撮るとき、フレームの外に何を置き去りにしているのか。


 それを忘れないこと。



 日が沈みかける頃、川沿いのテラスから夜景を撮る時間になった。


 ガス灯が一つずつ灯り、テラス席のランプが暖かい光を放つ。

 遊覧船のイルミネーションが、川面に揺れる帯を描いていた。


 私は、石畳の端に三脚を立て、カメラを載せる。


「ここも、きっとパンフレットの表紙候補ですね」


 隣で花が言う。


「“帝都の新しい顔”ってキャッチコピーが付きそう」


「ですね……」


 シャッター速度を少し長く設定し、ファインダーを覗く。


 ガス灯の列。

 川面に映る光の筋。

 テラス席の人影。


 その構図は嘘みたいに絵になっていて、「魅力的なカット」として申し分なかった。


 ただ、そのフレームの端を、私はわざと少しだけずらした。


 川を挟んで向こう岸。

 高架のコンクリートの脚。

 その下に広がる、暗い影。


 長時間露光だと、暗い部分はほとんど潰れてしまうかもしれない。

 それでも、そこに存在しているということだけは、フレームの中に押し込めておきたかった。


 シャッターが切れる。

 静かな機械音が、川のせせらぎに紛れて消える。


 プレビュー画面を確認すると、河畔地区の夜景が美しく写っていた。


 石畳に沿って並ぶガス灯。

川面に漂う光。

 テラス席でグラスを掲げる人々のシルエット。


 画面の端には、ほんのわずかに、高架の影が写り込んでいる。

 それは、意識して見なければ気づかない程度の暗がりだった。


(同じ川の、どの側に立っているかで――)


 ふと、画面がにじんで見えた。


 そこに、別の光景が重なったように感じたのだ。


 暗く、湿った高架下。

 赤いスプレーで引かれた線。

 屋台の間を走り抜ける子どもの背中。

 雨漏りの滴る音。


 昨日撮った高架下市場の写真たちが、プレビュー画面の端でちらりと顔を出した気がした。


 もちろん、実際にはそんなことはない。

 でも、一瞬だけ、二つの光景が二重露光のように重なった。


「どうかした?」


 花が覗き込んでくる。


「いえ……ちょっと、フレアが入っただけです」


 笑ってごまかしながら、もう一度シャッターを切った。


 保存される側の夜景と、消されかけている側の暗闇。


 どちらも同じ川沿いにある。

 同じ街の一部だ。


(同じ川の、どの側に立っているかで、“残される”か“消される”かが決まってしまうのだとしたら――)


 私は、川面に映る二つの光を見た。


 ガス灯のオレンジと、遠くで瞬く工事用の赤いランプ。


 それぞれの光が、それぞれの理由でそこにある。



 帰りの路面電車は、すっかり夜になっていた。


 窓の外を、さっきまでいた河畔地区の灯りが流れていく。


 次のカーブで、高架下市場のほうへ視界が切り替わる。


 暗がりの中に、わずかに残っている屋台の影。

 説明会の張り紙。

 赤い線。


 電車の吊り広告には、早速「河畔石畳地区保存決定! 週末は川辺の散歩を」という観光キャンペーンのちらしがぶら下がっていた。


 その下で新聞を読んでいる人の指先が、写真の上を無意識になぞる。


「ここ、今度行ってみるか」

「おしゃれそうだな」


 そんな会話が、断片的に耳に入ってくる。


 私は、自分の膝の上に置いたカメラバッグに視線を落とした。


 今日撮った河畔の夜景。

 昨日撮った高架下市場の赤い線。

 両方が、この中に詰まっている。


 どちらか一方だけを選ぶことはできないし、選びたくもない。


 保存される街の条件。

 消される街の条件。


 どちらにも、私たちの写真が関わってしまうのなら――。


(せめて、その条件の不公平さごと、写し込めたらいいのに)


 そんなことを考えてしまう自分に、少しだけ苦笑する。


 記録するだけで、何かを救えるわけじゃない。

 でも、記録がなければ、何かが無かったことにされてしまう。


 電車が、ゆっくりと減速していく。


 次の停車駅は、喫茶「花」の最寄りだ。


 窓ガラスに映る自分の顔が、外の夜景と重なって揺れた。


 その向こうに、川面の光と、高架下の暗がりが、ぼんやりと溶け合って見えた気がした。


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