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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第36話「ここに住んでいた証拠」

 翌朝の路面電車は、いつもより少しだけ言葉が少なかった。


 吊り革につかまっている男の人も、窓際の学生も、膝の上に広げているのは同じ紙だ。

 市役所の広報紙と一緒に折り込まれていたらしい、再開発のお知らせ。


『高架下市場 防災上の理由により立ち退き説明会開催』


 そんな見出しが、黒い太字で目に飛び込んでくる。


 車輪がレールの継ぎ目を踏むたび、紙面の隅がふるりと揺れた。

 窓の外を流れていく高架のコンクリートが、今日だけは少し重たく見える。


 私は手すりにつかまったまま、吊り広告越しに天井を見上げた。

 あの高架の下で、昨日、赤い線を見た。

 「撤去予定区画」として囲われた、屋台と人の密度。

 ミヤシタ写真機店の看板が、現場からは消えていて、写真の中にだけ残っていた違和感。


 説明会、と聞くと、どうしても法廷みたいな光景を想像してしまう。

 前に出て喋る人と、後ろでうつむく人たち。

 黒い文字で書かれた「理由」と、「仕方ない」という言葉。


(今日は、その場に立ち会うんだ)


 そう思うと、カメラバッグの重さが、いつもと少し違って感じられた。



 喫茶「花」に寄ると、カウンターの上にも同じ紙が広げられていた。


「おはよう、灯子ちゃん」


 花が、いつものように明るく声を掛けてくれる。

 でも、その視線は新聞の一点に落ちていた。


「……見た?」


「はい。電車の中でも、みんな読んでました」


 私は椅子に腰を下ろしながら、紙面の見出しをなぞる。


「“立ち退き説明会”。なんだか、“ちゃんと話し合いましたよ”っていう証拠みたいな言葉ですね」


「そうだね」


 花は、カップに珈琲を注ぎながら小さく笑った。


「説明会が開かれた、資料も配られた、サインももらった。“だから、後は自己責任です”って言うための儀式、みたいな」


 カップから立ち上る湯気が、紙面の上をふわりと曇らせる。


「灯子ちゃんたちも、行くの?」


「ええ。現場を見ておいてほしいって、組合長さんから」


「そっか」


 花は、少しだけ真剣な顔になる。


「じゃあ、飲み過ぎないで行きなよ。ああいう場所って、空気に酔うから」


「空気に……?」


「“安全”とか“将来的価値”とか、“みんなのため”とか。

 きれいな言葉で部屋が満たされると、それだけで正しそうに見えてきちゃうからね」


 私は、カップの縁に口をつけながら頷いた。


 その「きれいな言葉」と、高架下に漂う油とホコリの匂いが、一つの場所に並ぶ。

 今日見る光景は、多分、そういうものだ。



 高架下市場の端っこの一角に、急ごしらえの会場が作られていた。


 普段は荷物置き場に使われているスペースらしく、天井は低く、柱には古いポスターが残っている。

 その真ん中に、折りたたみ椅子がびっしりと並べられ、奥には白い布をかけた簡易スクリーン。

 プロジェクターが載った小さな台の横に、「再開発課」と書かれた札を下げた長机がある。


 裸電球の光を、無理やり「会議室」の照明に仕立てたような空間。


「……裁判所ごっこ、って感じですね」


 思わず口から出た言葉に、隣の相馬さんが苦笑した。


「言うと思ったよ。

 まあ、実際、“形だけでも話し合いました”っていう証拠作りにはなる」


 御影さんは、少し離れた柱にもたれながら、会場の全体を眺めていた。


「今日は“撮る側”じゃなくて、“見る側”でいましょう。

 住民説明会の“公式言語”を、一度きちんと目に入れておいたほうがいい」


 折りたたみ椅子には、既に市場の人たちが座り始めている。

 前のほうには、スーツ姿の再開発課の職員が数人。

 そのうちの一人が立ち上がり、マイクを手に取った。


「本日は、お忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます」


 よく通るが抑揚の少ない声。

 台本を読み上げるような滑らかさで、言葉が続いていく。


「当地区は、以前より老朽化が指摘されており、火災や地震時の倒壊など、安全上の課題がございました。

 市としましては、皆さまの安全と、将来的な地域価値の向上のため——」


 スクリーンに、カラフルなグラフが映し出された。


 棒グラフ。折れ線グラフ。円グラフ。

 数字と色で塗り分けられた「危険度」。

 その中に、「高架下市場」という名前だけが、赤く囲まれている。


「こちらが、市が行った危険度調査の結果になります。

 火災リスク、地震時の倒壊リスク、犯罪発生件数——総合的に鑑みまして、“高危険度”と判定されました」


 ざわ、と、後方から小さな波のような声が上がった。


 誰かが「犯罪ってなんだよ」と呟き、別の誰かが「ここで事件なんて起きたか?」と返す。

 でも、マイクを持った職員の声は、それを踏みつぶすように淡々と続いた。


「また、メディアでもこのように“改善の必要性”が指摘されております」


 スクリーンが切り替わる。


 そこには、見覚えのあるレイアウトが映し出されていた。


『帝都から消えた路地——それでも残すべき場所はどこか』


 九条さんの特集記事の、一部分。

 高架下市場の写真と、「治安と安全面の課題」というキャプション。


 職員は、その一節だけを指し示した。


「市としても、この指摘を真摯に受け止め、改善に向けた対応を——」


「改善じゃなくて、なくす話しかしてねえだろ!」


 前列の端から、低くよく通る声が飛んだ。


 組合長だ。


 椅子に浅く腰掛けたまま、彼はスクリーンを睨みつけている。


「“改善の必要性”なんて立派なこと言って、やろうとしてるのは“撤去”だけじゃねえか。

 俺たちに相談なんて一度もなかったくせに、いつの間にか“高危険度”と判定されててよ」


「ご意見は、後ほど質疑応答の時間に——」


 職員が慌ててなだめるように言うが、ざわめきは完全には収まらなかった。


 私は、スクリーンに映るグラフと、椅子に座る人たちの表情を交互に見た。

 カラフルな棒と線の中に、「ここで何年店をやってきたか」という数字はない。

 「子どもがどれだけ走り回ったか」「何度雨漏りを直したか」という回数も。


 グラフの外側で、誰かの拳が膝の上でぎゅっと握られている。


(これも、“証拠”なんだ)


 スクリーンに映る数値と判定は、行政にとっての「公式な証拠」。

 その横に並べられた記事の一部は、「世論」の後押しとして使われている。


 九条さんの文章は、「ここにはまだ人がいる」と伝えようとしたものだったはずだ。

 でも今は、赤い枠で囲まれた「高危険度」の補強材料になっている。


 写真も、文章も。

 送り出された瞬間から、「誰のものでもない証拠」になってしまう。



 説明会が終わった後の空気は、始まる前よりもずっと重かった。


 椅子がたたまれ、スクリーンが片付けられ、職員たちが資料の束をかき集めて帰っていく。

 残されたのは、配られた紙を握りしめたまま、呆然と立ち尽くす商店主たちだ。


「“任意協力”ってなんだよ。

 退きたくなきゃ裁判でもなんでもしろってことか?」


「裁判なんて、誰ができるんだよ」


 そんなやり取りを背中に聞きながら、私は会場の端でカメラバッグを抱えていた。


 ふと、視線を感じて顔を上げる。


 組合長がこっちを見ていた。


「……なあ」


 彼は、ゆっくりと歩み寄ってきて、私たちの前で立ち止まる。


「あんたら、さっきのグラフみたいなもん以外の、“ここに人が住んでた証拠”を残せるのか?」


 「証拠」という言葉に、御影さんがほんの少しだけ眉を動かした。


 彼は、組合長の目を真っ直ぐ見返す。


「……写真は、風景だけじゃなくて、“時間”も写ります」


 静かな声だった。


「店が開いている時間。

 子どもが走り抜ける瞬間。

 誰かが片付けをしている後ろ姿。

 それは、グラフには変換できません」


 組合長の喉仏が、ごくりと動いた。


「グラフの外側にあるものを、全部とは言いませんが……できる限り、写したいと思います」


 私は、その言葉に合わせるようにカメラを握り直した。


「“ここに住んでいた証拠”を撮る、ということですね」


「そうだ」


 組合長は、短く頷く。


「ここで何年飯を食ってきたか。

 どんな日々だったか。

 上の連中が“高危険度”と判子を押した、その外側にあった時間をな」


 彼の声には、説明会のときとは違う種類の熱があった。


「裁判なんてするかどうかも分からねえ。

 だが、もしも何かのときに、“ここにこういう生活があった”って突きつけられるものがあるなら……それを作っときてえ」


 幻灯局の写真が、行政との交渉材料になるかもしれない。

 そう考えているのだ、と気づいた瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。


(私たちの“記録”は、誰のためのものなんだろう)


 住民のため。

 行政と対峙するときの材料として。

 それとも、未来の誰かが「こんな場所があった」と知るために。


 全部だと言ってしまうのは簡単だけれど、その全部が同じ方向を向いているとは限らない。



 昼下がりから夕方にかけて、私は市場を歩き回った。


「ここで何年、お店を?」


「うちは、親父の代から数えて四十五年だな」


 魚屋の店主が、鱗だらけの手で頭を掻く。


「最初は、この高架すらなかった。

 線路が通るって聞いて、“とんでもねえ場所になりそうだ”って反対したやつも多かったけどよ……そのうち、それが当たり前になって」


 頭上を電車が通り過ぎる音が、会話の合間を埋めていく。


 私は、シャッターを上げる瞬間のガラガラという音を撮った。

 レジ横に貼られた、色あせた家族写真。

 柱の高さを刻むように引かれた、鉛筆の線と子どもの名前。


「ここの線が、小学校に入る前。

 こっちが、中学に上がるときだ」


 おでん屋の女将が、指先でその線をなぞる。


「もう本体は、とうに家を出ちまったけどね。

 でも、この線を見ると“ああ、ここで育ったんだな”って思うんだよ」


 その指の横で、シャッターを切る。


 グラフには載らない身長。

 危険度ランクには反映されない、「ここで過ごした年月」。


 店の奥には、子どもの描いた拙い絵が、テープで貼り付けられていた。

 屋台の柱には、「〇〇ちゃん、がんばれ」と書かれた寄せ書き。

 レジの脇には、小さな貯金箱と「募金ありがとう」の手書きの文字。


(“高危険度・ランク高”ってラベルの外側にあるものを、どこまで写せるんだろう)


 シャッターを押す指に、何度となくその疑問が浮かんでは消えていく。


 レンズに映るのは、あくまで一瞬の切り取りだ。

 そこに至るまでの年月も、その後に続く時間も、フレームの外側に追いやられてしまう。


 それでも——。


 子どもが八百屋の店先で駄々をこねる瞬間。

 店主が「しょうがねえな」と笑いながら飴玉を渡す瞬間。

 雨漏りで濡れた床を、文句を言いながら雑巾で拭う瞬間。


 それらを撮っておくことで、「ここに住んでいた」と示せるかもしれない。


 証拠は、いつだって不完全だ。

 でも、不完全な証拠しかないのと、その証拠すらないのとでは、違う。



 日が傾き始めた頃、見慣れた背中が高架下に現れた。


「……九条さん?」


 カメラを構えたまま振り向くと、彼は片手に書類の束をぶら下げ、もう片方の手で額の汗を拭っていた。


「よかった。まだいた」


「どうしたんですか、その格好」


 スーツの上着は肩に引っ掛けられ、ネクタイは少し緩んでいる。

 いつもの余裕のある笑みは、今日は影を落としていた。


「いや、ちょっと編集部で……自分の記事が、ああいう使われ方をしていると知りまして」


 彼は苦笑いを浮かべた。


「“改善の必要性”なんて、一言も書いてないんだけどなあ。

 “ここにはまだ人がいる”って、ただそれだけを伝えたかったつもりだったんだけど」


「説明会で、その一部だけ引用されてました」


「でしょ」


 九条さんは、肩をすくめる。


「文章は、送り出された瞬間に誰のものでもなくなる。

 編集長にも、そう言われたよ。“だから怖いし、だから最低限の責任がある”って」


 その言葉の「責任」が、彼の肩に重くのしかかっているように見えた。


「……だから、せめて自分なりの責任の取り方をしようと思ってさ」


 九条さんは、カメラバッグを持った私の手元を見た。


「君たちが“ここに住んでいた証拠”を集めてると聞いて、混ぜてもらいに来た」


「証拠、ですか」


「うん。

 行政にとって都合のいい証拠じゃなくて、ここにいた側の証拠」


 彼は、ポケットから小さな取材ノートを取り出す。


「写真と、言葉。両方残しておけば、どちらかだけが都合よく使われそうになったとき、もう片方で踏ん張れるかもしれない」


 御影さんが、その言葉に静かに頷いた。


「その“ズレ”ごと記録する、ということですね」


「そう。

 現場と書類の時間のズレ。

 グラフに載る数字と、ここでの生活の体感時間のズレ」


 九条さんの目は、いつもの取材モードに近い光を取り戻しつつあった。


「……勝手な話ですけど、混ぜてください」


「もちろんです」


 私は、小さく笑って頷いた。


 この場には、写真を撮る人と、文章を書く人がいる。

 それぞれの「証拠」が、どの方向に向かうかは分からない。

 それでも今は、「ここに住んでいた」という一点で、同じ方角を見ている気がした。



 日が暮れると、高架下の灯りが一つ、また一つと消えていった。


 焼き鳥の屋台の提灯がふっと暗くなり、ラーメン屋の暖簾が外される。

 シャッターが下ろされるガラガラという音が、あちこちから聞こえてくる。


 最後に残ったのは、通路にぽつんと残る裸電球と、まだ片付け途中のお店が一軒。


「すまねえな、遅くまで」


 組合長が、ほうきを壁に立てかけながら言った。


「いえ。こちらこそ、たくさん撮らせてもらって」


 通路には、人の気配がほとんどない。

 頭上を通る電車の音だけが、一定のリズムで響いている。


「……最後に、一枚だけ」


 私は、高架下市場全体が見渡せる位置に立った。


 昼間も登った階段の踊り場。

 そこから見下ろすと、赤い線で囲われた屋台の列が、闇の中に輪郭だけを残している。


 ほとんどの店の灯りは消えていて、一軒だけの薄い光が、地面に小さな四角を落としていた。


 私は、息を整え、ファインダーを覗く。


 市場。

 赤い線。

 最後の灯り。

 そして——。


 レンズの端に、奇妙なものが引っかかった。


 昼間、現場からは消えていたはずの古い看板。

 ミヤシタ写真機店の板。

 さらに、午前中の説明会で配られた資料で見た、区画番号の古い表記。


 「区画C-3」と記された小さなプレートが、まだ柱に掛かったまま写っている。

 実際には、午後のうちに新しい区画番号プレートに付け替えられていた場所だ。


「……」


 私は一度カメラを下ろし、肉眼で同じ場所を確認した。


 そこには、何もない。

 看板も、古いプレートも。

 新しい区画番号の札だけが、金属の光を鈍く返している。


「どうしました?」


 後ろから御影さんの声がした。


「今、撮った写真に……現場にはもうないものが写っていて」


 言葉を探しながら、私はプレビュー画面を見せる。


 御影さんは、しばらく無言でそれを見つめた後、小さく息を吐いた。


「……現場は、もう“撤去後”の時間に入っているのかもしれませんね」


「撤去後、の時間」


「説明会が開かれて、“高危険度”と判定されて、“撤去予定”と書かれた張り紙が貼られた。

 行政の時間軸では、もうここは“終わった場所”なんでしょう」


 その言葉に、背筋が少し冷たくなる。


「でも、写真の中では——」


「まだ“撤去前”の時間が続いている」


 私は、自分の口から出た言葉に、ぞくりとした。


 写真の中では、看板も古い区画番号も、そのまま「今」として存在している。

 そこには、今日一日の終わりと、これから始まる「撤去」の影は、まだ落ちていない。


「……そのズレごと、記録しよう」


 九条さんが、私たちの横に立って言った。


「どちらかだけ都合よく使われないように。

 行政の時間だけが正しいとも、現場の感情だけが絶対とも、言えないから」


 彼は、空になった通路を見下ろした。


「いつか誰かが、この写真と、この場所の記録を見返すとき。

 “ここに住んでいた証拠”として、少なくとも両方の時間が並んでいるようにしたい」


 私は、もう一度ファインダーを覗いた。


 現場から消えたものが、写真の中にだけ残っている。

 写真の中から消えたものが、現場にだけ残っていることも、きっとあるだろう。


 そのどちらも、「証拠」と呼ばれてしまう世界で。


「……撮ります」


 シャッターを切った。


 最後の一灯りが、ゆっくりと消えた。


 暗闇の中で、カメラの小さな駆動音だけが鳴り響く。



 暗室の赤い光の中で、高架下市場の写真が、液面からゆっくりと浮かび上がっていく。


 現像液に浸された印画紙の上で、ぼんやりとしていた影が、少しずつ輪郭を持ち始める。


 赤い線。

 折りたたまれた屋台。

 暗い通路。

 その端に——古い看板と、昔の区画番号。


 現実には、もう撤去済みのものたちが、ここではくっきりと息をしている。


「……不思議だね」


 隣でトングを持っている花が、小さく呟いた。


「こっちの世界ではもうないのに、紙の中ではまだ残ってる」


「“証拠”って、何なんでしょうね」


 私は、自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。


「どっちが“本当”ってわけでもなくて。

 ただ、“あのとき、このフレームの中では、こうだった”っていう一時点の切り取りで」


「でも、その一時点の切り取りに助けられることもある」


 御影さんが、静かに続ける。


「裁判の証拠にだってなるし、誰かが“ここに住んでいた”と主張するときの支えにもなる。

 同時に、行政が“危険だった証拠です”と言い張る材料にもなり得る」


 赤い光の中で、印画紙を持つ指先がわずかに震えた。


「幻灯局の記録は、誰のためのものなんでしょう」


 自分で問いながら、それが簡単には答えられないことも分かっていた。


 住民のため。

 行政との交渉材料として。

 未来の誰かのため。


 どこに軸足を置くかによって、同じ写真の意味は変わってしまう。


「……少なくとも」


 九条さんが、印画紙を覗き込みながら言った。


「“どこか一方の都合だけのためじゃない”ってことだけは、意地でも守りたいですね」


 写真の中で、ミヤシタ写真機店の看板が柔らかく浮かび上がる。


 この看板が、いつ、誰の手によって外されたのか。

 再開発課の職員かもしれないし、利権に群がる誰かかもしれないし、あるいは持ち主自身かもしれない。


 その答えは、今は分からない。

 ただ、「ここにあった」という事実だけが、印画紙の上に刻まれている。


 現実から切り離されてしまった街。

 写真の中だけに残ってしまう街。


 そのどちらも、帝都のひとつの顔だ。


 赤い明かりの下で揺れる水面を見つめながら、私は思う。


(“ここに住んでいた証拠”を撮るって、きっと、そういう全部を引き受けることなんだ)


 誰の味方をしているのか分からないまま、シャッターを押し続ける。

 その迷いごと、写真の中に封じ込めてしまう。


 液面から完全に立ち上がった一枚を、私は慎重につまみ上げた。


 その紙の上でだけ、高架下市場は、まだ「撤去予定地区」になる前の表情をしていた。


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