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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第34話「見出しの外にいる街」

 新聞のインクの匂いって、朝の空気と一緒になると、少しだけ甘く感じる。


 三上商店の店先で、七瀬さんが買っていく缶コーヒーの列の横。

 吊り下げられた新聞の束が、今日も紐でぎゅっと括られてぶら下がっていた。


『帝都から消えた路地——

 それでも残すべき場所はどこか』


 一面の見出しが、まだ乾ききらない黒で、くっきりと目に飛び込んでくる。


「おや、灯子ちゃん。朝から真剣な顔してるねえ」


 三上商店のおばちゃんが、棚に牛乳を並べながら笑った。


「い、いえ……知り合いの記事なので、つい」


「ふうん。お友だち、新聞にこんな立派なの書いちゃうなんて、すごいじゃないの。

 あんたもそのうち、名前載るかもねえ、“謎の写真家”とかなんとか言って」


 冗談めかした言葉に、私は曖昧に笑って返した。


 名前は載っていない。

 けれど、記事の中にあるいくつかの一枚は、たしかに私がシャッターを切った瞬間だった。


 その一枚一枚が、今、帝都のあちこちに散っていっている。


「ありがとうございました」


 牛乳パックを受け取り、商店をあとにする。

 路面電車のベルが遠くで鳴った。


(この記事で、帝都の何かが少し変わるなら——)


 そんなふうに思っていた。

 まだ、このときまでは。



 数日も経たないうちに、その「変化」は、目に見える形になって現れた。


 坂の多い住宅街。

 以前、フェンス越しに「立入禁止」の看板が立てられたあの一帯に、私は再び足を踏み入れていた。


 もちろん、正式な許可を取って。

 “帝都記録協力機関”のカードを首から提げ、胸元の認定バッジを軽く指で押さえながら。


 坂の下から見上げると、石段の上のほうに、見慣れない人たちが複数見えた。


 肩から立派なカメラを下げた若い男性。

 スマホを高く掲げて、自分と路地を一緒に撮ろうとしている女の子たち。

 三脚を立てて、じっくり構図を決めている中年の男性もいる。


「わあ、本当に記事の写真と同じだ」


「この角度、この角度。ここから電車の線が見えるんだって」


 石段を行き来する足音。

 笑い声。

 シャッター音。


 以前は、洗濯物と子どもの声だけがあった場所に、新しい音が混じっていた。


 階段脇の家の戸口から、腰の曲がったお婆さんが顔を出す。


「あらまあ、急ににぎやかになったねえ。

 みんな写真かい? 好きなだけ撮っていきな」


 にこにこと言う声には、戸惑いよりも、少しだけ誇らしさが混じっているように聞こえた。


 私は階段の途中で立ち止まり、ファインダーを覗いた。


 石段の上から見下ろす構図。

 若いカップルが笑いながらポーズを取る。

 その奥で、さっきのお婆さんが洗濯物を取り込んでいる。


 九条さんの記事で、ここは「残すべき街の一例」として、紙面いっぱいに載った。


 その見出しが、観光ガイドの一行みたいにも見えてくる。


(……悪いことばかり、じゃないのかもしれない)


 この写真を撮れるうちに撮っておきたい、と思う人が増える。

 残してほしい、という声も、きっと前より届きやすくなる。


 でも、その反対側で——。



 高架下市場は、違う種類のにぎわいに囲まれていた。


 コンクリートの柱に沿って、自転車の列と屋台が並ぶ。

 焼き鳥の煙。

 油の焦げた匂い。


 その中を、メジャーを片手にした市の職員たちが、無造作に歩き回っていた。


「ここからここまでが通路、ですね。幅は……」


 しゃがみ込んで、メジャーの端を地面に押し当てる。


「一・五メートル。ギリギリですけど、まあ許容範囲か」


「ただ、この屋台の位置は消防法的にまずいですね。

 火気の近くに可燃物がこんなに」


 チェックリストに何やらメモを書き込む音が、油跳ねの音と混ざる。


「あのさあ、ずっとこのままでやってきたじゃねえか」


 焼き鳥屋の主人が、串を返しながら渋い顔をした。


「なんだよ急に。火事も出してねえし」


「この記事の影響でね」


 職員のひとりが、腕に挟んでいた新聞を少し持ち上げて見せた。


『安全面の課題』『治安の懸念』


 高架下市場の写真の下に添えられた言葉。


「市民から“あの辺危ないんじゃないか”って問い合わせが増えてるんですよ。

 今まで以上にきちんと管理しないと」


「問い合わせ、ねえ……」


 主人は、ふっと乾いた笑いを漏らした。


「どうせ来たこともねえ奴らが、“写真見ました”とか言ってんだろ」


 私は、その言葉に肩をすくめたくなるのをこらえた。


 私も、その“写真”を撮った一人だからだ。


 柱の影から、焼き鳥の煙と職員の背中を一緒にフレームに収めながら、私はこっそりシャッターを切った。


 メジャーを伸ばす白い手。

 チェックリスト。

 その後ろで、腕を組んで様子をうかがう店主。


 紙の上に書かれた「安全面の課題」という文字が、現場の空気を少しずつ変えていく。


 その光景もまた、「今の帝都」の一部だった。



 その日の午後、局に一本の電話がかかってきた。


「幻灯局さんですか」


 受話器を取ったのは花で、私は隣の机でフィルムの整理をしながら、その声をなんとなく聞いていた。


「ええ、はい。……はい、九条さんの記事。ご覧になったんですね。……はい」


 花の相づちのトーンが、いつもの軽さから少しだけ変わる。


「場所はどちらの……ああ、あの商店街。ええ、私も何度か通ったことがあります」


 しばらくして、彼女は受話器を手で押さえ、こちらを見た。


「灯子ちゃん」


「はい?」


「今、別のエリアの商店街の人から電話でね。

 “うちもいつ消えてもおかしくないのに、どこにも載ってなかった”って」


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


 電話口からは、かすかに男性の声が漏れていた。


『記事で紹介されてた路地も、高架下も、たしかにいい街だと思う。

 でも、うちだって……』


 全部は聞き取れない。

 けれど、その「でも」の重さだけは、はっきり伝わってきた。


「……行きましょうか」


 自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出ていた。


「その商店街。今から、行ってみませんか」


 花は少し目を丸くして、それからすぐに頷いた。


「うん。じゃあ、お邪魔しますって伝えておくね」



 郊外寄りの駅前から少し歩いたところに、その商店街はあった。


 古びたアーチ状の看板。

 その下に続く、長いアーケード。


 夕暮れにはまだ早い時間だというのに、天井の蛍光灯はところどころ切れていて、通り全体が少し暗く見えた。


 シャッターの閉まった店が目立つ。

 その合間に、八百屋と小さな惣菜屋、それから古書店がぽつぽつと明かりを灯している。


「……」


 私は、アーケードの入口から、商店街の奥までを一度見渡した。


 帝都の中には、こういう「少し郊外寄りの普通の商店街」が、いくつもある。


 記事の見出しにも、観光ガイドにも、滅多に名前が出てこない場所。


「おーい」


 惣菜屋の前から、中年の男性が手を振った。


「幻灯局さんかい?」


「はい。先ほどお電話くださった……」


「俺だよ。電話じゃあれこれ言っちゃって悪かったね」


 彼は手拭いで額の汗を拭いながら、少し照れ臭そうに笑った。


「記事で紹介されてた路地も、高架下も、たしかにいい街だと思うよ。

 行ったことはないけど、写真見て“ああ、いいところだな”って」


「ありがとうございます」


「でも、うちの商店街だってさ」


 彼はアーケードの奥を顎でしゃくった。


「いつ消えてもおかしくないのに、どこにも載ってなかった」


 その言葉には、怒りというより、乾いた諦めみたいなものが混じっていた。


「“取り上げられるほどの特徴がない”ってことなんだろうな。

 消えるときも、きっとそんな感じなんだろ」


「特徴が……」


 私は、そう繰り返してから、何と言えばいいのか分からなくなった。


 確かに、ここには帝都新聞の一面を飾るような“分かりやすい絵”はないかもしれない。


 坂の劇的な眺望も、路面電車の線も、ノスタルジックな提灯の列もない。


 あるのは、毎日同じ時間に開いて、同じように店じまいをする店と、その前を行き来する人々の、当たり前の生活だけだ。


「この通りで育ってさ。

 子どものときは、ここを走り回ってて、親父に怒鳴られて」


 惣菜屋の主人は、笑いながら自分の店の前を見た。


「シャッター閉めたままの店も増えたし、再開発の話も何度か出てるし。

 だけど、地図から消えるときもきっと、“ああ、そういえばあったね”くらいなんだろうなって」


 私は、カメラを肩から外した。


「……撮っても、いいですか」


「え?」


「特徴がなくても。

 “取り上げられるほどじゃない”って言われるような場所でも。

 ここで暮らしてきた人がいたってことを、撮っておきたいです」


 言いながら、自分でもどこかで九条さんの言葉をなぞっているような気がした。


 “とっかかり”。

 “引っかかり”。


「好きなだけ撮っていきなよ」


 主人は、さっき坂の路地で出会ったお婆さんと同じ言い回しで言った。


「どうせここを撮りたいっていう物好きも、そうそういないしな」


 私はゆっくりとアーケードを歩き始めた。


 半分剥がれかけた特売のポスター。

 色あせた看板。

 シャッターに残る、かつての店名のかすかな跡。


 開いている店からは、惣菜の匂いと、お客さんとのやり取りの声がもれてくる。


 どれも、「消えかけている」と言えばそうかもしれない。

 でも、今この瞬間は、まだ確かにここで続いている生活だ。


 私は、シャッターや看板を、黙ってフレームに収めていった。


 見出しになりそうな“決定的な一枚”ではない、細切れの画ばかり。


 でも、今日のところは、それでいいような気がした。



 その頃、九条さんは編集部で、違う種類の「現実」と向き合っていたらしい。


 ——あとで本人から聞いた話だ。


『君の記事、どうも役所が“いい口実”にし始めてるらしい』


 編集長が、紙束を机に叩きつけるようにして言ったという。


『“治安の懸念”と書かれたエリアを優先的に整理しようってね』


『……そんな狙いはなかった。むしろ逆です』


 九条さんは、そこで少し声を荒げたらしい。


 礼拝堂の前で撮った「見えないスタンプ」の影。

 高架下市場の、塞がれかけた階段。

 坂の路地の、フェンス越しの子どもたち。


 本当は、その全部を「簡単に整理していい場所じゃない」と伝えたかったのだ、と。


『狙いがどうあれ、使う側は都合のいいところだけ使う。それが現実だ』


 編集長は、そう言って肩をすくめたらしい。


 同じ頃、読者欄にはこんな投書も届いていたという。


『記事を読んで、子どもの頃住んでいた街を思い出しました。

 もう地図から消えてしまった場所を、また見せてくれてありがとうございます』


 救われた、という声。

 利用された、という現実。


 その両方を突きつけられて、九条さんは静かに頭を抱えた——と、苦笑しながら話していた。


 記録も、報道も、その間で揺れている。



 夕方、局に戻った私は、一日の写真をモニターに並べていった。


 坂の住宅街で、楽しそうに写真を撮る人々。

 石段の上から見下ろした画面の中で、カメラを構える青年と、その後ろで洗濯物を取り込むお婆さん。


 高架下市場で、メジャーを伸ばす職員。

 「防災点検中」と書かれた紙。

 腕を組んで彼らの動きを見つめる店主。


 どこにも載らない郊外商店街の、くすんだアーケード。

 切れかけた蛍光灯。

 シャッターと、少しだけ開いている店からこぼれる光。


 モニターの中で、三つの街が横一列に並んだ。


 どれも、私の目の前に実際にあった景色だ。


 紙面に載った場所も。

 載らなかった場所も。

 これから「危ない」と指さされるかもしれない場所も。


(どれも同じように、誰かの日常だったはずなのに)


 なのに、紙の上では、それぞれに違うラベルが貼られていく。


 「残すべき街」。

「安全面の課題」。

 「取り上げられるほどの特徴がない」。


 誰が、そのラベルを作っているのだろう。


 行政?

 メディア?

 読者?

 それとも、そんなラベルを必要としている、もっと漠然とした“帝都”そのもの?


 ぽん、と机の上で何かが震えた。


 携帯だ。

 画面には、九条さんの名前が表示されている。


 メッセージは短かった。


『今度、

 “見出しに乗れなかった街”だけを集めた企画をやりたい。

 そのとき、君の写真を、今度は必ず名前付きで載せたい』


 画面の文字を何度か読み返す。


 “見出しに乗れなかった街”。


 さっき歩いた郊外の商店街も。

 高架下の、市職員のメジャーが伸びていたあの通路も。

 まだ記事になっていない、たくさんの「普通の場所」も。


 全部そこに含まれるのだろうか。


「……」


 すぐに返事を打とうとして、指が止まった。


 名前付きで載ることが、きっとゴールではない。


 私の撮る一枚が、また違うラベルと結びつけられることもあるだろう。


 でも、「見出しに乗れなかった街」に光を当てたいという気持ちは、たしかに私の胸にもあった。


 私は、ゆっくりと入力を始めた。


『そのときまでに、

 “見出しに乗れなかった街”を、もっとたくさん撮っておきます』


 送信ボタンを押す前に、ふと視線を窓の外に向ける。


 局の窓からは、遠くに高架下市場の灯りが見えた。


 以前より、少しだけ暗く見える。


 それは、蛍光灯が切れたせいなのか。

 「防災点検中」の紙が増えたせいなのか。

 私の中で、あの場所の行く末を想像してしまうようになったせいなのか。


 たぶん、その全部だ。


 私は、送信ボタンを押した。


 紙面に引かれた線の外側に、まだたくさんの街がいる。


 その一つ一つに、ちゃんとピントを合わせられるように。


 今日もまた、帝都のどこかを撮って、ここに持ち帰る。


 その繰り返しの先に、いつか九条さんの「見出し」と、私の「記録」が、少しだけ同じ方向を向く日が来るかもしれない——そんな淡い期待と一緒に。


 モニターの中で並ぶ三つの街の写真に、もう一度だけ目をやってから、私はそっと電源を落とした。


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