第34話「見出しの外にいる街」
新聞のインクの匂いって、朝の空気と一緒になると、少しだけ甘く感じる。
三上商店の店先で、七瀬さんが買っていく缶コーヒーの列の横。
吊り下げられた新聞の束が、今日も紐でぎゅっと括られてぶら下がっていた。
『帝都から消えた路地——
それでも残すべき場所はどこか』
一面の見出しが、まだ乾ききらない黒で、くっきりと目に飛び込んでくる。
「おや、灯子ちゃん。朝から真剣な顔してるねえ」
三上商店のおばちゃんが、棚に牛乳を並べながら笑った。
「い、いえ……知り合いの記事なので、つい」
「ふうん。お友だち、新聞にこんな立派なの書いちゃうなんて、すごいじゃないの。
あんたもそのうち、名前載るかもねえ、“謎の写真家”とかなんとか言って」
冗談めかした言葉に、私は曖昧に笑って返した。
名前は載っていない。
けれど、記事の中にあるいくつかの一枚は、たしかに私がシャッターを切った瞬間だった。
その一枚一枚が、今、帝都のあちこちに散っていっている。
「ありがとうございました」
牛乳パックを受け取り、商店をあとにする。
路面電車のベルが遠くで鳴った。
(この記事で、帝都の何かが少し変わるなら——)
そんなふうに思っていた。
まだ、このときまでは。
◇
数日も経たないうちに、その「変化」は、目に見える形になって現れた。
坂の多い住宅街。
以前、フェンス越しに「立入禁止」の看板が立てられたあの一帯に、私は再び足を踏み入れていた。
もちろん、正式な許可を取って。
“帝都記録協力機関”のカードを首から提げ、胸元の認定バッジを軽く指で押さえながら。
坂の下から見上げると、石段の上のほうに、見慣れない人たちが複数見えた。
肩から立派なカメラを下げた若い男性。
スマホを高く掲げて、自分と路地を一緒に撮ろうとしている女の子たち。
三脚を立てて、じっくり構図を決めている中年の男性もいる。
「わあ、本当に記事の写真と同じだ」
「この角度、この角度。ここから電車の線が見えるんだって」
石段を行き来する足音。
笑い声。
シャッター音。
以前は、洗濯物と子どもの声だけがあった場所に、新しい音が混じっていた。
階段脇の家の戸口から、腰の曲がったお婆さんが顔を出す。
「あらまあ、急ににぎやかになったねえ。
みんな写真かい? 好きなだけ撮っていきな」
にこにこと言う声には、戸惑いよりも、少しだけ誇らしさが混じっているように聞こえた。
私は階段の途中で立ち止まり、ファインダーを覗いた。
石段の上から見下ろす構図。
若いカップルが笑いながらポーズを取る。
その奥で、さっきのお婆さんが洗濯物を取り込んでいる。
九条さんの記事で、ここは「残すべき街の一例」として、紙面いっぱいに載った。
その見出しが、観光ガイドの一行みたいにも見えてくる。
(……悪いことばかり、じゃないのかもしれない)
この写真を撮れるうちに撮っておきたい、と思う人が増える。
残してほしい、という声も、きっと前より届きやすくなる。
でも、その反対側で——。
◇
高架下市場は、違う種類のにぎわいに囲まれていた。
コンクリートの柱に沿って、自転車の列と屋台が並ぶ。
焼き鳥の煙。
油の焦げた匂い。
その中を、メジャーを片手にした市の職員たちが、無造作に歩き回っていた。
「ここからここまでが通路、ですね。幅は……」
しゃがみ込んで、メジャーの端を地面に押し当てる。
「一・五メートル。ギリギリですけど、まあ許容範囲か」
「ただ、この屋台の位置は消防法的にまずいですね。
火気の近くに可燃物がこんなに」
チェックリストに何やらメモを書き込む音が、油跳ねの音と混ざる。
「あのさあ、ずっとこのままでやってきたじゃねえか」
焼き鳥屋の主人が、串を返しながら渋い顔をした。
「なんだよ急に。火事も出してねえし」
「この記事の影響でね」
職員のひとりが、腕に挟んでいた新聞を少し持ち上げて見せた。
『安全面の課題』『治安の懸念』
高架下市場の写真の下に添えられた言葉。
「市民から“あの辺危ないんじゃないか”って問い合わせが増えてるんですよ。
今まで以上にきちんと管理しないと」
「問い合わせ、ねえ……」
主人は、ふっと乾いた笑いを漏らした。
「どうせ来たこともねえ奴らが、“写真見ました”とか言ってんだろ」
私は、その言葉に肩をすくめたくなるのをこらえた。
私も、その“写真”を撮った一人だからだ。
柱の影から、焼き鳥の煙と職員の背中を一緒にフレームに収めながら、私はこっそりシャッターを切った。
メジャーを伸ばす白い手。
チェックリスト。
その後ろで、腕を組んで様子をうかがう店主。
紙の上に書かれた「安全面の課題」という文字が、現場の空気を少しずつ変えていく。
その光景もまた、「今の帝都」の一部だった。
◇
その日の午後、局に一本の電話がかかってきた。
「幻灯局さんですか」
受話器を取ったのは花で、私は隣の机でフィルムの整理をしながら、その声をなんとなく聞いていた。
「ええ、はい。……はい、九条さんの記事。ご覧になったんですね。……はい」
花の相づちのトーンが、いつもの軽さから少しだけ変わる。
「場所はどちらの……ああ、あの商店街。ええ、私も何度か通ったことがあります」
しばらくして、彼女は受話器を手で押さえ、こちらを見た。
「灯子ちゃん」
「はい?」
「今、別のエリアの商店街の人から電話でね。
“うちもいつ消えてもおかしくないのに、どこにも載ってなかった”って」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
電話口からは、かすかに男性の声が漏れていた。
『記事で紹介されてた路地も、高架下も、たしかにいい街だと思う。
でも、うちだって……』
全部は聞き取れない。
けれど、その「でも」の重さだけは、はっきり伝わってきた。
「……行きましょうか」
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出ていた。
「その商店街。今から、行ってみませんか」
花は少し目を丸くして、それからすぐに頷いた。
「うん。じゃあ、お邪魔しますって伝えておくね」
◇
郊外寄りの駅前から少し歩いたところに、その商店街はあった。
古びたアーチ状の看板。
その下に続く、長いアーケード。
夕暮れにはまだ早い時間だというのに、天井の蛍光灯はところどころ切れていて、通り全体が少し暗く見えた。
シャッターの閉まった店が目立つ。
その合間に、八百屋と小さな惣菜屋、それから古書店がぽつぽつと明かりを灯している。
「……」
私は、アーケードの入口から、商店街の奥までを一度見渡した。
帝都の中には、こういう「少し郊外寄りの普通の商店街」が、いくつもある。
記事の見出しにも、観光ガイドにも、滅多に名前が出てこない場所。
「おーい」
惣菜屋の前から、中年の男性が手を振った。
「幻灯局さんかい?」
「はい。先ほどお電話くださった……」
「俺だよ。電話じゃあれこれ言っちゃって悪かったね」
彼は手拭いで額の汗を拭いながら、少し照れ臭そうに笑った。
「記事で紹介されてた路地も、高架下も、たしかにいい街だと思うよ。
行ったことはないけど、写真見て“ああ、いいところだな”って」
「ありがとうございます」
「でも、うちの商店街だってさ」
彼はアーケードの奥を顎でしゃくった。
「いつ消えてもおかしくないのに、どこにも載ってなかった」
その言葉には、怒りというより、乾いた諦めみたいなものが混じっていた。
「“取り上げられるほどの特徴がない”ってことなんだろうな。
消えるときも、きっとそんな感じなんだろ」
「特徴が……」
私は、そう繰り返してから、何と言えばいいのか分からなくなった。
確かに、ここには帝都新聞の一面を飾るような“分かりやすい絵”はないかもしれない。
坂の劇的な眺望も、路面電車の線も、ノスタルジックな提灯の列もない。
あるのは、毎日同じ時間に開いて、同じように店じまいをする店と、その前を行き来する人々の、当たり前の生活だけだ。
「この通りで育ってさ。
子どものときは、ここを走り回ってて、親父に怒鳴られて」
惣菜屋の主人は、笑いながら自分の店の前を見た。
「シャッター閉めたままの店も増えたし、再開発の話も何度か出てるし。
だけど、地図から消えるときもきっと、“ああ、そういえばあったね”くらいなんだろうなって」
私は、カメラを肩から外した。
「……撮っても、いいですか」
「え?」
「特徴がなくても。
“取り上げられるほどじゃない”って言われるような場所でも。
ここで暮らしてきた人がいたってことを、撮っておきたいです」
言いながら、自分でもどこかで九条さんの言葉をなぞっているような気がした。
“とっかかり”。
“引っかかり”。
「好きなだけ撮っていきなよ」
主人は、さっき坂の路地で出会ったお婆さんと同じ言い回しで言った。
「どうせここを撮りたいっていう物好きも、そうそういないしな」
私はゆっくりとアーケードを歩き始めた。
半分剥がれかけた特売のポスター。
色あせた看板。
シャッターに残る、かつての店名のかすかな跡。
開いている店からは、惣菜の匂いと、お客さんとのやり取りの声がもれてくる。
どれも、「消えかけている」と言えばそうかもしれない。
でも、今この瞬間は、まだ確かにここで続いている生活だ。
私は、シャッターや看板を、黙ってフレームに収めていった。
見出しになりそうな“決定的な一枚”ではない、細切れの画ばかり。
でも、今日のところは、それでいいような気がした。
◇
その頃、九条さんは編集部で、違う種類の「現実」と向き合っていたらしい。
——あとで本人から聞いた話だ。
『君の記事、どうも役所が“いい口実”にし始めてるらしい』
編集長が、紙束を机に叩きつけるようにして言ったという。
『“治安の懸念”と書かれたエリアを優先的に整理しようってね』
『……そんな狙いはなかった。むしろ逆です』
九条さんは、そこで少し声を荒げたらしい。
礼拝堂の前で撮った「見えないスタンプ」の影。
高架下市場の、塞がれかけた階段。
坂の路地の、フェンス越しの子どもたち。
本当は、その全部を「簡単に整理していい場所じゃない」と伝えたかったのだ、と。
『狙いがどうあれ、使う側は都合のいいところだけ使う。それが現実だ』
編集長は、そう言って肩をすくめたらしい。
同じ頃、読者欄にはこんな投書も届いていたという。
『記事を読んで、子どもの頃住んでいた街を思い出しました。
もう地図から消えてしまった場所を、また見せてくれてありがとうございます』
救われた、という声。
利用された、という現実。
その両方を突きつけられて、九条さんは静かに頭を抱えた——と、苦笑しながら話していた。
記録も、報道も、その間で揺れている。
◇
夕方、局に戻った私は、一日の写真をモニターに並べていった。
坂の住宅街で、楽しそうに写真を撮る人々。
石段の上から見下ろした画面の中で、カメラを構える青年と、その後ろで洗濯物を取り込むお婆さん。
高架下市場で、メジャーを伸ばす職員。
「防災点検中」と書かれた紙。
腕を組んで彼らの動きを見つめる店主。
どこにも載らない郊外商店街の、くすんだアーケード。
切れかけた蛍光灯。
シャッターと、少しだけ開いている店からこぼれる光。
モニターの中で、三つの街が横一列に並んだ。
どれも、私の目の前に実際にあった景色だ。
紙面に載った場所も。
載らなかった場所も。
これから「危ない」と指さされるかもしれない場所も。
(どれも同じように、誰かの日常だったはずなのに)
なのに、紙の上では、それぞれに違うラベルが貼られていく。
「残すべき街」。
「安全面の課題」。
「取り上げられるほどの特徴がない」。
誰が、そのラベルを作っているのだろう。
行政?
メディア?
読者?
それとも、そんなラベルを必要としている、もっと漠然とした“帝都”そのもの?
ぽん、と机の上で何かが震えた。
携帯だ。
画面には、九条さんの名前が表示されている。
メッセージは短かった。
『今度、
“見出しに乗れなかった街”だけを集めた企画をやりたい。
そのとき、君の写真を、今度は必ず名前付きで載せたい』
画面の文字を何度か読み返す。
“見出しに乗れなかった街”。
さっき歩いた郊外の商店街も。
高架下の、市職員のメジャーが伸びていたあの通路も。
まだ記事になっていない、たくさんの「普通の場所」も。
全部そこに含まれるのだろうか。
「……」
すぐに返事を打とうとして、指が止まった。
名前付きで載ることが、きっとゴールではない。
私の撮る一枚が、また違うラベルと結びつけられることもあるだろう。
でも、「見出しに乗れなかった街」に光を当てたいという気持ちは、たしかに私の胸にもあった。
私は、ゆっくりと入力を始めた。
『そのときまでに、
“見出しに乗れなかった街”を、もっとたくさん撮っておきます』
送信ボタンを押す前に、ふと視線を窓の外に向ける。
局の窓からは、遠くに高架下市場の灯りが見えた。
以前より、少しだけ暗く見える。
それは、蛍光灯が切れたせいなのか。
「防災点検中」の紙が増えたせいなのか。
私の中で、あの場所の行く末を想像してしまうようになったせいなのか。
たぶん、その全部だ。
私は、送信ボタンを押した。
紙面に引かれた線の外側に、まだたくさんの街がいる。
その一つ一つに、ちゃんとピントを合わせられるように。
今日もまた、帝都のどこかを撮って、ここに持ち帰る。
その繰り返しの先に、いつか九条さんの「見出し」と、私の「記録」が、少しだけ同じ方向を向く日が来るかもしれない——そんな淡い期待と一緒に。
モニターの中で並ぶ三つの街の写真に、もう一度だけ目をやってから、私はそっと電源を落とした。




