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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第32話「塞がれていく抜け道」

 高架をくぐるたびに、音が変わる。


 ガタン、と車輪が鉄の継ぎ目を踏む音。

 それが頭の上を走ると、路面電車の車内に、低い響きが落ちてきた。


 朝の電車は、昨日と同じように混んでいる。

 けれど、窓の外の景色は、少しずつ変わっていく。


 新しい「立入禁止」の看板。

 黒と黄色のしま模様のロープ。

 工事フェンスの向こうに押し込められた路地。


 高架の柱の根元に、昨日まではなかったはずの赤い札が打ち付けられているのが、ちらりと見えた。


(塞がれていく……)


 口の中でそっと呟く。


 頭の上を、もう一度、電車が渡っていく。

 高架のコンクリートは、今日も黙ったままだ。



 幻灯局に着くと、玄関脇に立てかけられたチラシ立てが、いつもより賑やかになっていた。


 市の「防災週間」のポスター。

 交通局の「高架下安全利用について」のお知らせ。

 それから、古びた紙に手書きで書かれた「迷子の猫を探しています」の貼り紙。


 ポスターの隙間から、猫の顔が申し訳なさそうに覗いている。


「おはようございます」


 カウンターの奥から、花の声がした。


「灯子さん、これ……さっき持ってこられたんですよ」


 彼女は、防災ポスターの下に挟まれていた、薄い封筒を差し出した。

 差出人は、「高架下市場振興組合」。


「市場振興組合?」


「はい。“また変な噂が出てるから、ちょっと見に来てくれないか”って」


 封筒の中には、簡単な依頼文が入っていた。


 ――高架下市場にて、夜間、「昔あった店の看板」が光って見えるという噂が広がっております。

 ――お客が怖がって、夜の人通りが減ると困ります。

 ――もし“そちら向き”の事案でしたら、一度見に来ていただけないでしょうか。


「“そちら向き”って」


 思わず苦笑する。


「だいぶ、うちの評判も広まってきたねえ」


 新聞の束を抱えて入ってきた九条さんが、横から覗き込んだ。


「高架下市場か。あそこ、昔は治安悪いって言われてたけど、最近は逆の意味で居心地悪いって話だよ」


「逆の意味……?」


「立入禁止が増えたってこと」


 ちょうどそのとき、背後のドアが開いて、相馬さんが入ってきた。


「おはよ。何だ、朝から市場の話か?」


「おはようございます」


 花が会釈する。


「高架下市場で、看板がどうこうって噂がですね……」


「看板?」


 相馬さんは、依頼文を受け取って、ざっと目を通した。


「“昔あった店の看板だけが、電気もついていないのに光って見える”……。ありがちな怪談だな」


「ありがちな、で片付けていいんでしょうか」


 私は、彼の顔をうかがう。


「“昔あった店”ってのが、実際にはもうない場所だとしたら、ちょっと気になります」


「だろうな」


 相馬さんは、依頼文を指で折り曲げてポケットに押し込みながら、肩をすくめた。


「どうせ今日もヒマだ。行ってみるか」


「ヒマ、とか言わないでください」


 花が、少しむっとした顔をする。


「今日、現像上がりの整理もありますし……」


「花ちゃんは局番守り、俺と灯子で現場。いつもの分担だよ」


 御影さんが、奥の部屋からひょっこり顔を出した。


「高架下か……」


 彼は少しだけ考えるように目を細めた。


「今あそこは、交通局と軍の管轄がかぶってて、面倒なエリアなんだよね。

 許可証だけは、ちゃんと持って行ってね」


「許可証……」


 私は、胸ポケットの身分証カードに手をやる。


 先日交付されたばかりの、帝都記録協力機関の証。


 裏面のバーコードと条文が、指先の下でひやりとした感触を返した。


「じゃあ、準備してきます」


 そう言ってカメラバッグに手を伸ばしたとき、局の扉が再び開いた。


「おーい、いるか」


 聞き慣れた声。


 七瀬さんが、ドア枠にもたれかかるように立っていた。


「なんだよ、朝からそろい踏みじゃねえか」


「珍しいですね」


 九条さんが、新聞をテーブルに放り出す。


「暴対課の人間が、まっとうな時間に来るなんて」


「今日は“まっとうな”用事だからな」


 七瀬さんは、片手に持った封筒をひらひらと振った。


「交通局からの通達。高架下の立入制限が、また一段階きつくなった」


「また、ですか」


 相馬さんが、露骨にうんざりした顔をした。


「高架下市場の周り、今は交通局と軍の管轄が揉めてるエリアだ。

 許可証、ちゃんと持っていけよ」


 御影さんが言ったのと、ほとんど同じ言葉だった。


「……もしかして、今日の高架下って」


「市場の噂だろ?」


 七瀬さんは、依頼文の封筒を指でつつく。


「振興組合から、市にも“よく分からない不安の声”ってのが上がってきてる。

 上は“記録局も動いてるならちょうどいい”って顔してたよ」


「便利に使われてますね、うち」


 九条さんが、少し皮肉っぽく笑う。


「“記録協力機関”の肩書きは、こういうときだけやたら重宝されるんだよ」


 七瀬さんは、私の胸元を見た。


「そのバッジとカード、ちゃんと首から下げてけ。

 高架下の柱に“関係者以外立入禁止”って札が増えてる。

 その“関係者”の顔ぶれを、向こうが決める前に、こっちから名乗り出とかないと面倒だ」


「……はい」


 私は、少しだけ息を深く吸って頷いた。


 許可証。

 立入制限。

 関係者。


 それらの言葉が、さっきまでの猫の貼り紙とは、まるで別の世界のもののように思えた。



 高架下市場は、相変わらず薄暗かった。


 古い高架橋のコンクリート柱が、一定の間隔で並んでいる。

 その間を縫うように、露店のテント屋根と、簡易な看板と、裸電球がぶら下がっていた。


 昼間だというのに、頭上を走る電車の影と高架の陰が重なって、全体が夕方みたいな明るさになっている。


 焼き鳥の煙が、低い天井のあたりで渦を巻いていた。

 屋台ラーメンの湯気が、ネオンと混じりあって、不思議な色をしている。


「相変わらず、空気が悪いですね……」


 私はマスクを少し上げながら言った。


「これでもマシになったほうだ」


 相馬さんが、手をポケットにつっこんだまま歩く。


「昔は、排気ガスとタバコと酔っぱらいの息で、ここ通るときは息止めてた」


「息止めて歩ける距離じゃないですよ、ここ」


「だから途中で諦めるんだよ。そうすると余計身体に悪い」


 どうでもいい会話を交わしながらも、視線は周囲を探っていた。


 柱。看板。路地。

 以前見たときにはなかったものが、いくつも目に入ってくる。


「……増えましたね」


 私は足を止めて、柱に打ち付けられた金属板を見上げた。


「『立入制限区域』」


 赤い文字が白地に踊っている。


 少し先の柱には、「特別管理区につき関係者以外立入禁止」と書かれた札。

 その向こうには、銀色の鉄線で塞がれた細い通路。


 昔、相馬さんと一緒に追いかけっこした記憶が、頭の片隅から顔を出す。


「あれ、ここ……」


「そう」


 相馬さんが、同じ方向をにらんだ。


「俺がよく使ってた近道の路地だ。駅裏に抜けるのに便利だった」


 通りの奥は、まだ薄暗いままだ。

 けれど、その手前に張られた新しい鉄線が、まるで「ここから先はもう地図に載せない」と言っているみたいだった。


「……こんなに“関係者以外”だらけだったか、ここ」


「この前の条例の影響、ですか?」


「さあな」


 相馬さんは、肩をすくめる。


「でも、“ここに入る人間の顔ぶれ”を絞りたい人たちがいるのは確かだ」


 私は思わず、胸元のバッジに手をやった。


 今、あの鉄線の前に立って身分証を見せれば、もしかしたら通してもらえるのかもしれない。

 “関係者”という言葉の中に、自分が含まれてしまったという事実が、急に重くなる。


「……こういうときに、このバッジを使うのが正しいのかどうか、よく分からなくなります」


「使うためにもらったんだろ」


「そうなんですけど」


 視界の隅で、「立入禁止」の赤い文字がちらついた。


 抜け道に、ひとつずつ錠前がかけられていくみたいだ。



 市場自体は、まだ賑やかだった。


 焼き鳥の串を並べる屋台の親父が、「おねーちゃんたち、一本どうだ」と声をかけてくる。

 安っぽい景品が積まれたゲームコーナーには、子どもと大人が半々くらいで群がっている。


 古本屋のダンボールからは、紙とインクと埃の匂いが立ち上る。

 ブラウン管テレビの前では、誰かが古いゲームに熱中していた。


(まだ、ここも“帝都の一部”なんだ)


 条例や看板だけじゃない。

 ここには、生活の匂いがまだちゃんと残っている。


「それで、噂の看板ってのはどこだ?」


 相馬さんが、市場の奥を見渡しながら訊ねた。


「依頼文には、“線路側の通路の突き当たり”って」


 私は、地図と簡単なメモが書かれた紙を取り出した。


 案内図の片隅に、「ミヤシタ写真機店(閉店)」と小さく書かれている。


「写真機店……?」


「前に、ここで店をやってた人がいたらしいです」


「カメラ屋が、看板になって出てくるわけか」


 なぜか、それだけで少し胸がざわついた。


 線路側の通路を進んでいくと、やがて人通りが少し途切れた。


 上下に揺れる裸電球の下、シャッターが半分錆びて閉ざされた店がある。


 その上に、ひときわ古びた看板がぶら下がっていた。


「……あれだな」


 相馬さんが、顎で指す。


 色あせた板に、「ミヤシタ写真機店」と、かすれた文字。

 フィルムロールのイラストと、古いカメラのシルエット。


 周囲の看板は、どれも油で黒ずんでいるのに、そこだけが、わずかに白く浮かび上がって見えた。


 電球の光が、ちょうど当たっているわけでもない。

 ネオンの反射が強いわけでもない。


 なのに――。


「……なんか、ここだけ“露出”がおかしいみたいですね」


 カメラをそっと構える。


 ファインダー越しに見ると、「浮いている」感じがさらに強くなった。


 周囲の柱やシャッターが暗く沈むのに対して、看板だけが一段階明るい。

 白いペンキの部分が、紙焼きのときに“飛びそうな”ぎりぎりのラインで踏みとどまっているみたいに。


 シャッターを切る。


 一枚。

 二枚。

 三枚。


 撮った画像を確認する。


「……あれ?」


「どうした」


「“写真機”の“写”の字、こんなでしたっけ」


 表示された画像の中で、漢字の形が、微妙に揺れているように見えた。


 一枚目は、左側の偏が、少し丸く見える。

 二枚目は、下のはらいが長いように思える。

 三枚目は、字全体が細くなっているような。


「気のせいだろ」


 相馬さんが、画面を覗き込んで鼻を鳴らした。


「看板なんて、そうそう書き換えられねえよ。少なくとも、現実じゃな」


「現実じゃ、ですか」


 私は、看板と画面を交互に見比べる。


 肉眼で見ている分には、字はそれほど変でもない。

 ただ、白さだけが異様に目に残る。


「ミヤシタ写真機店かあ」


 背後から声がして振り向くと、年配の女性が買い物袋をさげて立っていた。


「懐かしいねえ。若いころ、あそこでフィルムよく現像してもらったよ」


「今は、もう閉めちゃってるんですよね?」


「とっくにねえ。ご主人、病気で倒れてさ。十年……いや、もっと前かな。シャッター下ろしたきりだよ」


 女性は、シャッターに目をやって、少し寂しそうに笑った。


「でも、不思議とねえ。あの看板だけは、いつまでたっても落ちないんだよ。

 他の店なんて、とっくに作り直してるのにさ」


「落ちない……」


「ええ。

 ほら、あそこの魚屋なんか、看板三回変えてるからね。

 ミヤシタさんとこのだけは、本当に、ずっとあのまんま。

 夜遅くに見ると、なんだか光ってるみたいに見えるときがあるんだよねえ」


 彼女は、「噂は本当なのよ」とでも言うように、声をひそめた。


「まあ、あれだ。きっとまだ、ご主人が見てるんだよ。

 “うちの店を忘れんなよ”ってさ」


 そう言って笑い、買い物袋を提げて去っていった。


 足音が、焼き鳥屋のほうに紛れて消えていく。


「……忘れられない看板、ですか」


 私はもう一度、ファインダーを覗いた。


 さっきよりも、字の“揺れ”がはっきりしているように思える。


 “写真機”の“写”の字が、まるで何かを写そうとして、形を変え続けているみたいに。



 看板にカメラを向けていると、背後から鋭い声が飛んできた。


「おい、そこの二人」


 振り返ると、制服姿の警邏隊員が二人、こちらに向かって歩いてきていた。


「ここ、今は立入制限区域だぞ。どこの所属だ?」


「あ――」


 私は、慌てて胸元に手をやる。


 身分証を取り出そうとして、指がもたついた。


 そのとき、私より先に一歩前に出た影があった。


「俺が連れてきた」


 七瀬さんだった。


 いつの間にか、通路の反対側から様子を見ていたらしい。


「記録局だ。今日の立入申請、うち経由で通ってるはずだろ」


「……ああ、暴対課の七瀬さん」


 警邏隊員が、少し態度を和らげる。


「すみません。最近、規制の範囲がコロコロ変わってて、こっちも混乱してるんですよ」


「こっちもだ」


 七瀬さんは、肩をすくめた。


「立札増やす前に、現場の人間にちゃんと話通しといてくれって、何回言えば分かるんだかな」


「はは……。お気をつけて」


 警邏隊はそれ以上何も言わず、小走りで去っていった。


 彼らの背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。


「……助かりました」


 七瀬さんに頭を下げると、彼は片手をひらひらと振った。


「別に、助けたつもりはねえよ」


 そう言いながらも、その声色はいつもより柔らかい。


 その陰で、相馬さんがぼそりと言った。


「さっき“許可証持っていけ”って言ったの、あんたなりの助け舟か?」


「勝手に転ぶバカを、毎回拾って歩く趣味はない」


 七瀬さんは、わざとらしく顔をそむける。


「ただ――」


 少しだけ間を置いてから、続けた。


「このあたりを勝手に塞がれると、俺たちも困るんだよ」


「“俺たち”?」


 相馬さんが、その言い方を捉える。


「暴対課じゃなくて、“俺たち”か」


 七瀬さんは、その問いを否定も肯定もしない。


 代わりに、高架の上を走る電車をちらりと見上げた。


「現場で動く連中に必要なのは、たいてい同じ“抜け道”だ。

 看板は違ってもな」


 暴対課。警察。記録局。

 肩書きはばらばらでも、狭い路地や高架下の通路を行き来するための「抜け道」は、みんなで共有している。


 そして今、その抜け道が、ひとつずつ「立入禁止」の札で塞がれていく。


 その光景を、彼らはそれぞれの立場から、同じように見上げているのだ。



「灯子」


 ふと呼ばれて、顔を上げる。


「何か、気になるとこあるか」


 相馬さんが、周囲を見渡しながら訊ねた。


 市場の喧噪。

 光る看板。

 立入禁止の鉄線。


 視線を滑らせていくと、ミヤシタ写真機店のシャッター脇に、細い鉄階段があるのに気づいた。


「あそこ……」


 私は、指で示した。


 錆びた手すり。

 狭い踏み板。

 上は、高架橋の中腹に小さな踊り場があるらしい。


 そこからなら、市場全体と線路と、頭上を走る電車が、ちょうどいい角度で見下ろせそうだ。


「ここ、登れたらいい画が撮れるのに……」


 しかし、階段の下には、新しく打ち付けられた「立入禁止」の札と、銀色のチェーン。


 チェーンは、まだ新品の輝きを保っている。


 札の文字は、ついさっき書かれたみたいにくっきりと赤かった。


「……“関係者以外立入禁止”の、関係者って誰なんでしょうね」


 呟くと、七瀬さんが階段をじっと見つめた。


 少しだけ迷っているのが、横顔から伝わってくる。


 やがて、彼はふっと息を吐いた。


「あと数日もすりゃ、ここも本当に塞がれる」


 そう言って、チェーンの留め具に手を伸ばした。


「撮るなら、今のうちだ」


 器用な指先が、南京錠に触れずにフックだけを外していく。

 チェーンが、からん、と小さな音を立てて垂れ下がる。


「……いいんですか?」


「いいか悪いかは、後で考えろ」


 七瀬さんは、わざとらしく顔を背けた。


「俺はただ、“危ない階段で足を滑らせるバカが出ないように見張ってます”って顔して立ってるだけだ」


 その言い訳の仕方が、少しおかしくて、少しだけ心強かった。


「行ってこいよ、記録係」


 相馬さんが、私の肩を軽く押した。


「こういう“抜け道”を撮るのが、あんたの仕事だろ」


「……はい」


 私は、カメラバッグの紐を握り直した。


 錆びた階段を、一段ずつ登っていく。

 鉄のきしむ音が、足もとから伝わってきた。


 途中で何度か振り返ると、七瀬さんと相馬さんが、下からこちらを見上げているのが見えた。

 その背後を、人々が通り過ぎていく。


 焼き鳥の煙。

 ゲーム機の電子音。

 ブラウン管のちらつき。


 すべてが、少しずつ遠ざかっていく。


 踊り場に出ると、高架下市場が一望できた。


 柱の列。

 露店の屋根。

 光る看板。

 「立入禁止」の札。


 その向こうには、線路と路面電車の姿。


 遠くで、電車がカーブを曲がる音が聞こえた。


 私はゆっくりと息を吸い込み、カメラを構えた。


 ファインダーの中に、高架下市場全体が収まる。


 ミヤシタ写真機店の看板。

 焼き鳥屋の煙。

 古本屋のダンボール。

 ブラウン管テレビ。

 そして、通路を塞ぐ「立入禁止」の看板が、フレームの端に小さく写り込んでいる。


 シャッターを切る。


 一枚。

 もう一枚。

 時間を少しずつずらしながら、何枚か。


 そのうちの一枚で、ちょうど頭上を電車が走り抜けた。


 高架が小さく震える。

 光の線がフレームの上を横切っていく。


(塞がれていく抜け道を、間に合ううちに一枚だけでも残す)


 心の中で、そう言葉を結んだ。


 チェーンが本当に錠前で固められてしまったら、ここにはもう誰も立てなくなるだろう。

 抜け道は、地図からも、人の記憶からも消えていく。


 その前に、一度だけでも、その姿を「撮っておきたい」と思った。


 それしか、私にできないのかもしれない。



 局に戻ると、現像室の赤いランプが、いつもより少し強く見えた。


 高架下で撮った写真をプリントし、乾燥台に並べていく。


 市場のロングショット。

 ミヤシタ写真機店の看板のアップ。

 塞がれかけた階段からの俯瞰。


「わぁ……」


 花が、乾きかけのプリントをのぞき込んで目を丸くした。


「なんか、映画のセットみたいですね。ごちゃごちゃしてるけど、ぜんぶ“帝都”なんだって分かる感じで」


「映画のセットみたいな街が、本物の街なんだよ、ここは」


 九条さんが、コーヒー片手にプリントを眺める。


「しかしまあ、“立入禁止”って文字が、どこ見ても目に入ってくるな」


「それも含めて、いまの高架下ですから」


 私は、俯瞰の写真の端に写り込んだ札を指さした。


「ここ、少し前までは普通に通れたんですよね」


「ああ」


 相馬さんが、椅子の背にもたれかかりながら答える。


「俺が新人のころなんて、あの路地を通らずに現場に行くほうが難しかった」


「じゃあ、そこが抜け道だったころの写真は、どこにも残ってないんですか?」


「さあな。誰かが適当に撮ってたかもしれねえし、誰も撮ってねえかもしれねえ」


 彼は、テーブルの上に並んだ新しいプリントを指でつついた。


「とりあえず、“塞がれかけの抜け道”は、今日、ここに一式残った」


「……うちの、非公式アーカイブにですね」


 花が、少し誇らしげに笑う。


「公式のほうには、“市場の現況”だけ出しておけばいいですよね?」


「公式には、なるべく問題の少ない画を」


 御影さんが、カウンター側から顔を出した。


「でも、こっちには“ちょっと問題のある画”も残しておく」


「問題のある、って言っちゃいますか」


「存在そのものが問題なんじゃないよ」


 御影さんは、プリントの一枚をそっと持ち上げた。


「“誰かにとって都合が悪いかもしれない画”ってだけ。

 そういうのを全部捨てたら、この街はあっという間に“問題のない街”になる」


 それは、どんな街だろう。


 問題のない街。

 立入禁止も、抜け道も、光りすぎる看板も、何もかも最初から「なかった」ことにされた街。


 考えただけで、背筋が少し寒くなった。


「私は――」


 気づけば、口が動いていた。


「私は、そういう街のほうが、よっぽど怖いです」


 花が、うんうんと頷いた。


「私もです。ちょっとゴチャっとしてるくらいが、落ち着きます」


「ゴチャっとしたまま残しておくのが、うちの仕事だからな」


 九条さんが、コーヒーを一口飲んだ。


「今日のネタも、そのうちどっかで記事に混ぜるさ。“塞がれていく抜け道”って見出し、わりと好きだし」


「……記事には、どこまで書くつもりなんですか?」


「さあな」


 彼は、肩をすくめる。


「紙面の“立入禁止”も、最近増えてるんでね。

 とりあえず、ここに残った画のことを忘れないように、メモくらいはしとくさ」


 その言い方が、少しだけ救いだった。



 夜、路面電車の窓に、今日も帝都のネオンがにじんでいた。


 昼間見た高架下の市場とは違う光景。

 けれど、その下には同じように「塞がれていく抜け道」が、きっといくつもあるのだろう。


 膝の上で手帳を開く。


 今日のページに、踊り場からの俯瞰写真を一枚、糊で貼りつけた。


 柱の列。

 露店の屋根。

 光る看板。

 小さな「立入禁止」の札。


 その全部が、一枚の中に収まっている。


 貼り終えたページを、しばらく眺める。


(いつか、この写真を見返したとき――)


 ここに写っている抜け道が、本当に全部塞がれてしまったあと。

 高架下市場が、別の何かに変えられてしまったあと。


 この一枚が、「そんな場所が確かにあった」と教えてくれるかどうか。


 それすらも、分からない。


 それでも、私はシャッターを切る。


 許可証を見せて通るしかなくなった通路で。

 もうすぐチェーンと錠前で固められてしまう階段の上で。


 塞がれていく抜け道を、間に合ううちに、一枚だけでも残すために。


 電車が、頭上の高架をくぐり抜ける。

 窓ガラスが、かすかに震えた。


 私はそっと手帳を閉じ、胸ポケットの中の身分証カードに触れた。


 バーコードの列の向こうで、今日の足跡が、小さな点々になって刻まれていく。


 それとは別に、手帳の中にも、自分だけの点々が増えていく。


 どちらが本当の帝都なのか、まだ分からないまま。

 揺れる車内で、私は目を閉じて、ささやかな眠気に身をゆだねた。


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