第32話「塞がれていく抜け道」
高架をくぐるたびに、音が変わる。
ガタン、と車輪が鉄の継ぎ目を踏む音。
それが頭の上を走ると、路面電車の車内に、低い響きが落ちてきた。
朝の電車は、昨日と同じように混んでいる。
けれど、窓の外の景色は、少しずつ変わっていく。
新しい「立入禁止」の看板。
黒と黄色のしま模様のロープ。
工事フェンスの向こうに押し込められた路地。
高架の柱の根元に、昨日まではなかったはずの赤い札が打ち付けられているのが、ちらりと見えた。
(塞がれていく……)
口の中でそっと呟く。
頭の上を、もう一度、電車が渡っていく。
高架のコンクリートは、今日も黙ったままだ。
◇
幻灯局に着くと、玄関脇に立てかけられたチラシ立てが、いつもより賑やかになっていた。
市の「防災週間」のポスター。
交通局の「高架下安全利用について」のお知らせ。
それから、古びた紙に手書きで書かれた「迷子の猫を探しています」の貼り紙。
ポスターの隙間から、猫の顔が申し訳なさそうに覗いている。
「おはようございます」
カウンターの奥から、花の声がした。
「灯子さん、これ……さっき持ってこられたんですよ」
彼女は、防災ポスターの下に挟まれていた、薄い封筒を差し出した。
差出人は、「高架下市場振興組合」。
「市場振興組合?」
「はい。“また変な噂が出てるから、ちょっと見に来てくれないか”って」
封筒の中には、簡単な依頼文が入っていた。
――高架下市場にて、夜間、「昔あった店の看板」が光って見えるという噂が広がっております。
――お客が怖がって、夜の人通りが減ると困ります。
――もし“そちら向き”の事案でしたら、一度見に来ていただけないでしょうか。
「“そちら向き”って」
思わず苦笑する。
「だいぶ、うちの評判も広まってきたねえ」
新聞の束を抱えて入ってきた九条さんが、横から覗き込んだ。
「高架下市場か。あそこ、昔は治安悪いって言われてたけど、最近は逆の意味で居心地悪いって話だよ」
「逆の意味……?」
「立入禁止が増えたってこと」
ちょうどそのとき、背後のドアが開いて、相馬さんが入ってきた。
「おはよ。何だ、朝から市場の話か?」
「おはようございます」
花が会釈する。
「高架下市場で、看板がどうこうって噂がですね……」
「看板?」
相馬さんは、依頼文を受け取って、ざっと目を通した。
「“昔あった店の看板だけが、電気もついていないのに光って見える”……。ありがちな怪談だな」
「ありがちな、で片付けていいんでしょうか」
私は、彼の顔をうかがう。
「“昔あった店”ってのが、実際にはもうない場所だとしたら、ちょっと気になります」
「だろうな」
相馬さんは、依頼文を指で折り曲げてポケットに押し込みながら、肩をすくめた。
「どうせ今日もヒマだ。行ってみるか」
「ヒマ、とか言わないでください」
花が、少しむっとした顔をする。
「今日、現像上がりの整理もありますし……」
「花ちゃんは局番守り、俺と灯子で現場。いつもの分担だよ」
御影さんが、奥の部屋からひょっこり顔を出した。
「高架下か……」
彼は少しだけ考えるように目を細めた。
「今あそこは、交通局と軍の管轄がかぶってて、面倒なエリアなんだよね。
許可証だけは、ちゃんと持って行ってね」
「許可証……」
私は、胸ポケットの身分証カードに手をやる。
先日交付されたばかりの、帝都記録協力機関の証。
裏面のバーコードと条文が、指先の下でひやりとした感触を返した。
「じゃあ、準備してきます」
そう言ってカメラバッグに手を伸ばしたとき、局の扉が再び開いた。
「おーい、いるか」
聞き慣れた声。
七瀬さんが、ドア枠にもたれかかるように立っていた。
「なんだよ、朝からそろい踏みじゃねえか」
「珍しいですね」
九条さんが、新聞をテーブルに放り出す。
「暴対課の人間が、まっとうな時間に来るなんて」
「今日は“まっとうな”用事だからな」
七瀬さんは、片手に持った封筒をひらひらと振った。
「交通局からの通達。高架下の立入制限が、また一段階きつくなった」
「また、ですか」
相馬さんが、露骨にうんざりした顔をした。
「高架下市場の周り、今は交通局と軍の管轄が揉めてるエリアだ。
許可証、ちゃんと持っていけよ」
御影さんが言ったのと、ほとんど同じ言葉だった。
「……もしかして、今日の高架下って」
「市場の噂だろ?」
七瀬さんは、依頼文の封筒を指でつつく。
「振興組合から、市にも“よく分からない不安の声”ってのが上がってきてる。
上は“記録局も動いてるならちょうどいい”って顔してたよ」
「便利に使われてますね、うち」
九条さんが、少し皮肉っぽく笑う。
「“記録協力機関”の肩書きは、こういうときだけやたら重宝されるんだよ」
七瀬さんは、私の胸元を見た。
「そのバッジとカード、ちゃんと首から下げてけ。
高架下の柱に“関係者以外立入禁止”って札が増えてる。
その“関係者”の顔ぶれを、向こうが決める前に、こっちから名乗り出とかないと面倒だ」
「……はい」
私は、少しだけ息を深く吸って頷いた。
許可証。
立入制限。
関係者。
それらの言葉が、さっきまでの猫の貼り紙とは、まるで別の世界のもののように思えた。
◇
高架下市場は、相変わらず薄暗かった。
古い高架橋のコンクリート柱が、一定の間隔で並んでいる。
その間を縫うように、露店のテント屋根と、簡易な看板と、裸電球がぶら下がっていた。
昼間だというのに、頭上を走る電車の影と高架の陰が重なって、全体が夕方みたいな明るさになっている。
焼き鳥の煙が、低い天井のあたりで渦を巻いていた。
屋台ラーメンの湯気が、ネオンと混じりあって、不思議な色をしている。
「相変わらず、空気が悪いですね……」
私はマスクを少し上げながら言った。
「これでもマシになったほうだ」
相馬さんが、手をポケットにつっこんだまま歩く。
「昔は、排気ガスとタバコと酔っぱらいの息で、ここ通るときは息止めてた」
「息止めて歩ける距離じゃないですよ、ここ」
「だから途中で諦めるんだよ。そうすると余計身体に悪い」
どうでもいい会話を交わしながらも、視線は周囲を探っていた。
柱。看板。路地。
以前見たときにはなかったものが、いくつも目に入ってくる。
「……増えましたね」
私は足を止めて、柱に打ち付けられた金属板を見上げた。
「『立入制限区域』」
赤い文字が白地に踊っている。
少し先の柱には、「特別管理区につき関係者以外立入禁止」と書かれた札。
その向こうには、銀色の鉄線で塞がれた細い通路。
昔、相馬さんと一緒に追いかけっこした記憶が、頭の片隅から顔を出す。
「あれ、ここ……」
「そう」
相馬さんが、同じ方向をにらんだ。
「俺がよく使ってた近道の路地だ。駅裏に抜けるのに便利だった」
通りの奥は、まだ薄暗いままだ。
けれど、その手前に張られた新しい鉄線が、まるで「ここから先はもう地図に載せない」と言っているみたいだった。
「……こんなに“関係者以外”だらけだったか、ここ」
「この前の条例の影響、ですか?」
「さあな」
相馬さんは、肩をすくめる。
「でも、“ここに入る人間の顔ぶれ”を絞りたい人たちがいるのは確かだ」
私は思わず、胸元のバッジに手をやった。
今、あの鉄線の前に立って身分証を見せれば、もしかしたら通してもらえるのかもしれない。
“関係者”という言葉の中に、自分が含まれてしまったという事実が、急に重くなる。
「……こういうときに、このバッジを使うのが正しいのかどうか、よく分からなくなります」
「使うためにもらったんだろ」
「そうなんですけど」
視界の隅で、「立入禁止」の赤い文字がちらついた。
抜け道に、ひとつずつ錠前がかけられていくみたいだ。
◇
市場自体は、まだ賑やかだった。
焼き鳥の串を並べる屋台の親父が、「おねーちゃんたち、一本どうだ」と声をかけてくる。
安っぽい景品が積まれたゲームコーナーには、子どもと大人が半々くらいで群がっている。
古本屋のダンボールからは、紙とインクと埃の匂いが立ち上る。
ブラウン管テレビの前では、誰かが古いゲームに熱中していた。
(まだ、ここも“帝都の一部”なんだ)
条例や看板だけじゃない。
ここには、生活の匂いがまだちゃんと残っている。
「それで、噂の看板ってのはどこだ?」
相馬さんが、市場の奥を見渡しながら訊ねた。
「依頼文には、“線路側の通路の突き当たり”って」
私は、地図と簡単なメモが書かれた紙を取り出した。
案内図の片隅に、「ミヤシタ写真機店(閉店)」と小さく書かれている。
「写真機店……?」
「前に、ここで店をやってた人がいたらしいです」
「カメラ屋が、看板になって出てくるわけか」
なぜか、それだけで少し胸がざわついた。
線路側の通路を進んでいくと、やがて人通りが少し途切れた。
上下に揺れる裸電球の下、シャッターが半分錆びて閉ざされた店がある。
その上に、ひときわ古びた看板がぶら下がっていた。
「……あれだな」
相馬さんが、顎で指す。
色あせた板に、「ミヤシタ写真機店」と、かすれた文字。
フィルムロールのイラストと、古いカメラのシルエット。
周囲の看板は、どれも油で黒ずんでいるのに、そこだけが、わずかに白く浮かび上がって見えた。
電球の光が、ちょうど当たっているわけでもない。
ネオンの反射が強いわけでもない。
なのに――。
「……なんか、ここだけ“露出”がおかしいみたいですね」
カメラをそっと構える。
ファインダー越しに見ると、「浮いている」感じがさらに強くなった。
周囲の柱やシャッターが暗く沈むのに対して、看板だけが一段階明るい。
白いペンキの部分が、紙焼きのときに“飛びそうな”ぎりぎりのラインで踏みとどまっているみたいに。
シャッターを切る。
一枚。
二枚。
三枚。
撮った画像を確認する。
「……あれ?」
「どうした」
「“写真機”の“写”の字、こんなでしたっけ」
表示された画像の中で、漢字の形が、微妙に揺れているように見えた。
一枚目は、左側の偏が、少し丸く見える。
二枚目は、下のはらいが長いように思える。
三枚目は、字全体が細くなっているような。
「気のせいだろ」
相馬さんが、画面を覗き込んで鼻を鳴らした。
「看板なんて、そうそう書き換えられねえよ。少なくとも、現実じゃな」
「現実じゃ、ですか」
私は、看板と画面を交互に見比べる。
肉眼で見ている分には、字はそれほど変でもない。
ただ、白さだけが異様に目に残る。
「ミヤシタ写真機店かあ」
背後から声がして振り向くと、年配の女性が買い物袋をさげて立っていた。
「懐かしいねえ。若いころ、あそこでフィルムよく現像してもらったよ」
「今は、もう閉めちゃってるんですよね?」
「とっくにねえ。ご主人、病気で倒れてさ。十年……いや、もっと前かな。シャッター下ろしたきりだよ」
女性は、シャッターに目をやって、少し寂しそうに笑った。
「でも、不思議とねえ。あの看板だけは、いつまでたっても落ちないんだよ。
他の店なんて、とっくに作り直してるのにさ」
「落ちない……」
「ええ。
ほら、あそこの魚屋なんか、看板三回変えてるからね。
ミヤシタさんとこのだけは、本当に、ずっとあのまんま。
夜遅くに見ると、なんだか光ってるみたいに見えるときがあるんだよねえ」
彼女は、「噂は本当なのよ」とでも言うように、声をひそめた。
「まあ、あれだ。きっとまだ、ご主人が見てるんだよ。
“うちの店を忘れんなよ”ってさ」
そう言って笑い、買い物袋を提げて去っていった。
足音が、焼き鳥屋のほうに紛れて消えていく。
「……忘れられない看板、ですか」
私はもう一度、ファインダーを覗いた。
さっきよりも、字の“揺れ”がはっきりしているように思える。
“写真機”の“写”の字が、まるで何かを写そうとして、形を変え続けているみたいに。
◇
看板にカメラを向けていると、背後から鋭い声が飛んできた。
「おい、そこの二人」
振り返ると、制服姿の警邏隊員が二人、こちらに向かって歩いてきていた。
「ここ、今は立入制限区域だぞ。どこの所属だ?」
「あ――」
私は、慌てて胸元に手をやる。
身分証を取り出そうとして、指がもたついた。
そのとき、私より先に一歩前に出た影があった。
「俺が連れてきた」
七瀬さんだった。
いつの間にか、通路の反対側から様子を見ていたらしい。
「記録局だ。今日の立入申請、うち経由で通ってるはずだろ」
「……ああ、暴対課の七瀬さん」
警邏隊員が、少し態度を和らげる。
「すみません。最近、規制の範囲がコロコロ変わってて、こっちも混乱してるんですよ」
「こっちもだ」
七瀬さんは、肩をすくめた。
「立札増やす前に、現場の人間にちゃんと話通しといてくれって、何回言えば分かるんだかな」
「はは……。お気をつけて」
警邏隊はそれ以上何も言わず、小走りで去っていった。
彼らの背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
「……助かりました」
七瀬さんに頭を下げると、彼は片手をひらひらと振った。
「別に、助けたつもりはねえよ」
そう言いながらも、その声色はいつもより柔らかい。
その陰で、相馬さんがぼそりと言った。
「さっき“許可証持っていけ”って言ったの、あんたなりの助け舟か?」
「勝手に転ぶバカを、毎回拾って歩く趣味はない」
七瀬さんは、わざとらしく顔をそむける。
「ただ――」
少しだけ間を置いてから、続けた。
「このあたりを勝手に塞がれると、俺たちも困るんだよ」
「“俺たち”?」
相馬さんが、その言い方を捉える。
「暴対課じゃなくて、“俺たち”か」
七瀬さんは、その問いを否定も肯定もしない。
代わりに、高架の上を走る電車をちらりと見上げた。
「現場で動く連中に必要なのは、たいてい同じ“抜け道”だ。
看板は違ってもな」
暴対課。警察。記録局。
肩書きはばらばらでも、狭い路地や高架下の通路を行き来するための「抜け道」は、みんなで共有している。
そして今、その抜け道が、ひとつずつ「立入禁止」の札で塞がれていく。
その光景を、彼らはそれぞれの立場から、同じように見上げているのだ。
◇
「灯子」
ふと呼ばれて、顔を上げる。
「何か、気になるとこあるか」
相馬さんが、周囲を見渡しながら訊ねた。
市場の喧噪。
光る看板。
立入禁止の鉄線。
視線を滑らせていくと、ミヤシタ写真機店のシャッター脇に、細い鉄階段があるのに気づいた。
「あそこ……」
私は、指で示した。
錆びた手すり。
狭い踏み板。
上は、高架橋の中腹に小さな踊り場があるらしい。
そこからなら、市場全体と線路と、頭上を走る電車が、ちょうどいい角度で見下ろせそうだ。
「ここ、登れたらいい画が撮れるのに……」
しかし、階段の下には、新しく打ち付けられた「立入禁止」の札と、銀色のチェーン。
チェーンは、まだ新品の輝きを保っている。
札の文字は、ついさっき書かれたみたいにくっきりと赤かった。
「……“関係者以外立入禁止”の、関係者って誰なんでしょうね」
呟くと、七瀬さんが階段をじっと見つめた。
少しだけ迷っているのが、横顔から伝わってくる。
やがて、彼はふっと息を吐いた。
「あと数日もすりゃ、ここも本当に塞がれる」
そう言って、チェーンの留め具に手を伸ばした。
「撮るなら、今のうちだ」
器用な指先が、南京錠に触れずにフックだけを外していく。
チェーンが、からん、と小さな音を立てて垂れ下がる。
「……いいんですか?」
「いいか悪いかは、後で考えろ」
七瀬さんは、わざとらしく顔を背けた。
「俺はただ、“危ない階段で足を滑らせるバカが出ないように見張ってます”って顔して立ってるだけだ」
その言い訳の仕方が、少しおかしくて、少しだけ心強かった。
「行ってこいよ、記録係」
相馬さんが、私の肩を軽く押した。
「こういう“抜け道”を撮るのが、あんたの仕事だろ」
「……はい」
私は、カメラバッグの紐を握り直した。
錆びた階段を、一段ずつ登っていく。
鉄のきしむ音が、足もとから伝わってきた。
途中で何度か振り返ると、七瀬さんと相馬さんが、下からこちらを見上げているのが見えた。
その背後を、人々が通り過ぎていく。
焼き鳥の煙。
ゲーム機の電子音。
ブラウン管のちらつき。
すべてが、少しずつ遠ざかっていく。
踊り場に出ると、高架下市場が一望できた。
柱の列。
露店の屋根。
光る看板。
「立入禁止」の札。
その向こうには、線路と路面電車の姿。
遠くで、電車がカーブを曲がる音が聞こえた。
私はゆっくりと息を吸い込み、カメラを構えた。
ファインダーの中に、高架下市場全体が収まる。
ミヤシタ写真機店の看板。
焼き鳥屋の煙。
古本屋のダンボール。
ブラウン管テレビ。
そして、通路を塞ぐ「立入禁止」の看板が、フレームの端に小さく写り込んでいる。
シャッターを切る。
一枚。
もう一枚。
時間を少しずつずらしながら、何枚か。
そのうちの一枚で、ちょうど頭上を電車が走り抜けた。
高架が小さく震える。
光の線がフレームの上を横切っていく。
(塞がれていく抜け道を、間に合ううちに一枚だけでも残す)
心の中で、そう言葉を結んだ。
チェーンが本当に錠前で固められてしまったら、ここにはもう誰も立てなくなるだろう。
抜け道は、地図からも、人の記憶からも消えていく。
その前に、一度だけでも、その姿を「撮っておきたい」と思った。
それしか、私にできないのかもしれない。
◇
局に戻ると、現像室の赤いランプが、いつもより少し強く見えた。
高架下で撮った写真をプリントし、乾燥台に並べていく。
市場のロングショット。
ミヤシタ写真機店の看板のアップ。
塞がれかけた階段からの俯瞰。
「わぁ……」
花が、乾きかけのプリントをのぞき込んで目を丸くした。
「なんか、映画のセットみたいですね。ごちゃごちゃしてるけど、ぜんぶ“帝都”なんだって分かる感じで」
「映画のセットみたいな街が、本物の街なんだよ、ここは」
九条さんが、コーヒー片手にプリントを眺める。
「しかしまあ、“立入禁止”って文字が、どこ見ても目に入ってくるな」
「それも含めて、いまの高架下ですから」
私は、俯瞰の写真の端に写り込んだ札を指さした。
「ここ、少し前までは普通に通れたんですよね」
「ああ」
相馬さんが、椅子の背にもたれかかりながら答える。
「俺が新人のころなんて、あの路地を通らずに現場に行くほうが難しかった」
「じゃあ、そこが抜け道だったころの写真は、どこにも残ってないんですか?」
「さあな。誰かが適当に撮ってたかもしれねえし、誰も撮ってねえかもしれねえ」
彼は、テーブルの上に並んだ新しいプリントを指でつついた。
「とりあえず、“塞がれかけの抜け道”は、今日、ここに一式残った」
「……うちの、非公式アーカイブにですね」
花が、少し誇らしげに笑う。
「公式のほうには、“市場の現況”だけ出しておけばいいですよね?」
「公式には、なるべく問題の少ない画を」
御影さんが、カウンター側から顔を出した。
「でも、こっちには“ちょっと問題のある画”も残しておく」
「問題のある、って言っちゃいますか」
「存在そのものが問題なんじゃないよ」
御影さんは、プリントの一枚をそっと持ち上げた。
「“誰かにとって都合が悪いかもしれない画”ってだけ。
そういうのを全部捨てたら、この街はあっという間に“問題のない街”になる」
それは、どんな街だろう。
問題のない街。
立入禁止も、抜け道も、光りすぎる看板も、何もかも最初から「なかった」ことにされた街。
考えただけで、背筋が少し寒くなった。
「私は――」
気づけば、口が動いていた。
「私は、そういう街のほうが、よっぽど怖いです」
花が、うんうんと頷いた。
「私もです。ちょっとゴチャっとしてるくらいが、落ち着きます」
「ゴチャっとしたまま残しておくのが、うちの仕事だからな」
九条さんが、コーヒーを一口飲んだ。
「今日のネタも、そのうちどっかで記事に混ぜるさ。“塞がれていく抜け道”って見出し、わりと好きだし」
「……記事には、どこまで書くつもりなんですか?」
「さあな」
彼は、肩をすくめる。
「紙面の“立入禁止”も、最近増えてるんでね。
とりあえず、ここに残った画のことを忘れないように、メモくらいはしとくさ」
その言い方が、少しだけ救いだった。
◇
夜、路面電車の窓に、今日も帝都のネオンがにじんでいた。
昼間見た高架下の市場とは違う光景。
けれど、その下には同じように「塞がれていく抜け道」が、きっといくつもあるのだろう。
膝の上で手帳を開く。
今日のページに、踊り場からの俯瞰写真を一枚、糊で貼りつけた。
柱の列。
露店の屋根。
光る看板。
小さな「立入禁止」の札。
その全部が、一枚の中に収まっている。
貼り終えたページを、しばらく眺める。
(いつか、この写真を見返したとき――)
ここに写っている抜け道が、本当に全部塞がれてしまったあと。
高架下市場が、別の何かに変えられてしまったあと。
この一枚が、「そんな場所が確かにあった」と教えてくれるかどうか。
それすらも、分からない。
それでも、私はシャッターを切る。
許可証を見せて通るしかなくなった通路で。
もうすぐチェーンと錠前で固められてしまう階段の上で。
塞がれていく抜け道を、間に合ううちに、一枚だけでも残すために。
電車が、頭上の高架をくぐり抜ける。
窓ガラスが、かすかに震えた。
私はそっと手帳を閉じ、胸ポケットの中の身分証カードに触れた。
バーコードの列の向こうで、今日の足跡が、小さな点々になって刻まれていく。
それとは別に、手帳の中にも、自分だけの点々が増えていく。
どちらが本当の帝都なのか、まだ分からないまま。
揺れる車内で、私は目を閉じて、ささやかな眠気に身をゆだねた。




