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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第29話「境界線のスタンプ」

 その通知が届いたのは、旧工場エリアの写真をテーブルの上で並べてから、三日ほど経った朝だった。


 幻灯局のポストに、分厚い封筒が差し込まれていた。

 御影さんがそれを持って戻ってきて、カウンターの上に置く。


「また、市からだね。最近よく来るなあ」


 そう言いながら、器用に封を切って中身を取り出す。

 白い便箋の上には、きれいな活字でこう書かれていた。


『帝都河川沿い低地帯 区画整理に伴う現況記録の依頼について』


 御影さんの視線が、ちらりと私たちのほうをかすめる。


「ふむ。“防災上の理由による区画整理の対象に指定”……ね」


 その言葉に、相馬さんが新聞から顔を上げた。


「河川沿いの長屋群の話か?」


「知ってるんですか?」


「まあな。前から“水害対策”だのなんだので名前は上がってた地区だ。住民からの相談も何度か聞いた」


 御影さんが便箋をテーブルに広げ、指で一行一行をなぞっていく。


「『区画変更前の現況記録を、幻灯局名義の公式写真として残したい』……ふうん、公式写真、ねえ」


 “公式”という単語が、紙から浮かび上がってくるように見えた。


 柳瀬町のときとは違う。

 あのときは、“消えかけていた街”を、私たちの側から撮りにいった。

 今度は、“消す前提の街”を、向こうの都合で撮らせようとしている。


「行くんですよね」


 気づけば、口が動いていた。


「もちろん」


 御影さんは、あっさりと頷く。


「公式かどうかはさておき、区画が変わる前の川沿いは、一度ちゃんと見ておきたかったからね。……灯子ちゃん、一緒に来る?」


「はい」


 即答してしまった自分に、少し驚く。

 でも、旧工場エリアのときと同じだ。

 “変わる前の顔”を知らないままの場所が、またひとつ増えるのは嫌だった。


「じゃあ、今日は灯子ちゃんと、相馬くんも同行ね」


「はいはい。どうせまた“ついでに何か見つけろ”って話なんだろ」


 相馬さんは面倒くさそうに立ち上がりながらも、ジャケットを引っかけた。


 そのやりとりを横目に見ながら、私はカメラバッグの中身を確認する。

 ボディ、レンズ、予備バッテリー。

 そして、最近持ち歩くようになった、小さなノートとペン。


 “今日の一枚”を書くための、私のささやかな原本棚だ。



 川沿いの長屋群は、朧町から路面電車で二つ先の停留所から、さらに歩いて十分ほどの場所にあった。


 川に沿って、古い木造の長屋がびっしりと肩を寄せ合うように並んでいる。

 ひさしの下には洗濯物が揺れ、軒先には植木鉢や古い自転車が置かれていた。


 川面を渡る風には、少し湿った匂いと、どこか懐かしい洗剤の香りが混じっている。


 長屋の合間から、子どもの笑い声が聞こえた。

 誰かが、縁側でラジオをつけているのか、かすかに演歌が流れている。


 そのすぐ側で、黄色いヘルメットをかぶった作業員たちが、仮のポールを立てながらメジャーを延ばしていた。


「……ここも、“順調”に整理される予定か」


 相馬さんが、川の柵にもたれながらぼそっと言う。


「“防災上の理由”って書かれてましたけど」


「ああ。大雨のときに川が溢れたら危ない、とかなんとか。理由としてはもっともらしい。誰も反対しづらい類のやつだ」


 理由は正しい。

 でも、その結果として消えるもののことは、紙の上ではあまり触れられない。


「先に来てるみたいだよ」


 御影さんが顎で示した先、小さな空き地に簡易テントが張られていた。

 その下に、折りたたみ式の机が三つ並べられている。


 机のまわりには、いかにも市役所という感じのスーツ姿の職員と、軍服を着た将校、それから――


「シスター?」


 白いヴェールと黒いスカートの若い女性が、細い肩を少し縮めながら礼拝堂のほうを見ていた。


 川沿いの長屋群の奥に、小さな礼拝堂がひっそりと建っている。

 洋風とも和風ともつかない、妙にこの街になじんだ建物だ。

 木の扉の上には小さな十字架が掲げられ、その上に低い尖塔が空を差している。


「帝都都市計画課の○○です。本日はお忙しいところありがとうございます」


 スーツの職員が、こちらに気づいて小走りに近づいてきた。


「幻灯局の御影と申します。こちらが記録担当の灯子ちゃんと、同行の相馬くん」


「どうも、市警……いえ、今はただの付き添いです」


 名刺交換と軽い挨拶が済むと、職員はテントの下の机に私たちを案内した。


 机の上には、大判の地図が広げられている。


 青い線で描かれた川。

 その両側に、細かい格子状の街路。

 ところどころに赤い斜線が引かれ、“区画整理対象”の文字が書き込まれていた。


「こちらが都市計画側で作成した新しい区画図になります」


 職員は、淡々と説明を始める。


「この線から川側が、“立入管理区域”として指定されます。住民の方々には順次、移転のお願いをしているところです」


 地図上の一本の線を、ペンでなぞる。

 長屋群のほとんどが、その線の川側に含まれていた。


 そこへ、軍服の将校が近づき、別の透明なシートを地図の上に重ねた。


「失礼。この図面の上に、軍の施設局が作成した観測区域の図を重ねさせていただく」


 透明シートには、また別の線が引かれている。

 川に向かって斜めに走る太い線。そこから川べりに向かって、ハッチングが細かく入っていた。


「こちらの線から川までのエリアは、防衛上の観測対象区域とする。……都市計画課の“立入管理区域”とは、少し違う意味だ」


 やや固い口調で言いながらも、将校の指先は慣れた様子で線をなぞっていく。


 さらに、その横からおずおずと手が伸びた。


「あの、その……」


 若いシスターが、少し緊張した様子で紙片を広げる。

 そこには、手書きの簡単なスケッチが描かれていた。礼拝堂と、その前の小さな庭。


「この礼拝堂と、その前庭は、司教区としては“聖別区域”です。あまり乱暴な扱い方をされると、困るというか……」


 都市計画の線。軍の線。教会の線。


 三者三様の線が、一枚の地図の上で少しずつズレながら重なっている。


 私は、その重なりを、少し離れたところから眺めた。


 同じ帝都の地図なのに、みんな別の街を見ているみたいだ――そう感じた。


「で、今日は何を撮らせたいんだ?」


 相馬さんが、本題に切り込む。


「はい、ええと……」


 都市計画課の職員が、紙束の中から一枚の書類を取り出した。


「こちらが、幻灯局さんにお願いしたい“指定カット”のリストになります」


 そこには、いくつかの項目が箇条書きにされていた。


『川沿いの長屋群が一望できる位置からの全景写真』

『長屋と川が同時に写るアングルの写真』

『礼拝堂を背景に含めつつ、あくまで“旧市街の一部”として扱った構図』

『軍施設が画面に入る場合、特定設備がフレームに含まれないよう留意すること』 などなど。


「これは、公文書として保存される写真になりますので。後々、区画整理の経緯を説明する際にも使いますし、議会への資料としても参照されます。……いわば、“問題のない構図”でお願いしたいんです」


 “問題のない構図”。


 その言葉に、相馬さんの眉がぴくりと動いた。


「問題が“ないように見せたい”構図、って意味だろ、それ」


「いえいえ、決してそのような――」


「いいよいいよ、言葉尻をとるつもりはない。ただ、そういう注文だってことは、こっちも理解しておきたいだけだ」


 職員は苦笑いを浮かべて口をつぐむ。


 御影さんが、そのやりとりを横目に見ながら、そっと私のほうへ身を寄せた。


「公式写真っていうのはね、灯子ちゃん」


 小さな声で囁く。


「誰にとっての“公式”か、っていう話でもあるんだ。……でも、撮る側が全部“従う”必要はない」


「え?」


「指定されたカットは、指定された通り撮ればいいよ。それはそれで、向こうの“線引き”がそのまま写るから。

 それとは別に――君が見た“本当の線”も、撮っておきなさい」


 “本当の線”。


 それが何なのか、この時点ではまだ分からない。

 でも、その言葉はカメラのストラップよりも重く、私の肩にのしかかってきた。



 撮影は、川沿いの堤防から始まった。


 指定リストの一番目、“長屋群の全景”。


 私は、川を背にして立ち、少し高い位置から長屋を見渡すようにしてカメラを構えた。


 びっしりと並ぶ木造の家々。

 屋根にはところどころブルーシートがかかっている。

 洗濯物の白さが、薄曇りの空の下で少しだけ浮いて見えた。


「もう少し、左に寄ってもらえますか」


 背後から都市計画課の職員の声がする。


「礼拝堂が、あまり中央に来ないように。ええと、その、あくまで“背景”というか……」


「分かってます」


 私は小さく息をつきながら、カメラごと身体をわずかにずらした。


 ファインダーの中で礼拝堂の屋根が端に寄り、長屋群が画面の大部分を占める。


「このくらいでどうでしょう」


「ああ、そのあたりで」


 シャッターを切る。


 カチャン、という音が、川の流れと子どもの声と、遠くの電車の音に溶けて消えた。


 二枚目、三枚目と、指定された角度からのカットを順番に消化していく。


「軍の施設が入るカットも、お願いいたします」


 将校が指し示した方向には、小さなアンテナ塔のようなものが立っていた。

 金網で囲われた中に、無機質な箱状の設備がいくつか並んでいる。


「ただし、こちらの設備番号が書かれている部分は、フレームに入らないように。……ぼかす程度なら問題ありません」


「ぼかすって、写真をですか?」


「構図の話です。手前に何かを入れて、目立たないようにするとか」


 “見えているけれど、見えないように撮る”。

 そんな器用なことを、私はまだ上手にできそうにない。


「難しい顔してるね」


 隣で見ていた御影さんが、苦笑混じりに言った。


「こういう撮り方を覚えておくのも、悪くないよ。

 “何を入れて、何を外すか”を意識するのは、写真の基本でもあるから」


「でも……」


「分かってる。今日は、“向こうの基本”に合わせた撮り方だってこともね」


 私は、少しだけ配置を工夫しながらシャッターを切った。


 アンテナ塔は、画面の奥に小さく写るように。

 手前には、長屋の瓦屋根と、物干し竿と、誰かが干している布団を入れる。


 一見、のどかな川沿いの風景。

 でも、その端っこに、何か異物のような設備が小さく顔を出している。


 ――写真を見た人が、気づくかどうかは分からない。

 それでも、そこに“いた”ことだけは、きっと残る。



 日が傾き始めたころ、礼拝堂の前に移動した。


 小さな敷地の中に、石畳の道と、わずかな前庭。

 鉢植えの花がいくつか置かれ、古びたベンチがひとつだけ置かれている。


 礼拝堂の扉は閉ざされていたが、シスターがそっと鍵を開けて中を見せてくれた。


 中は質素で、ベンチが数列と、簡素な祭壇があるだけだった。

 カトラリーのきらびやかさはないけれど、どこか落ち着く空気が漂っている。


「ここも、移転になるんですか?」


 思わず聞いてしまう。


「まだ、正式には何も決まっていません。ただ……」


 シスターは、少し困ったように笑った。


「“ここだけ残すわけにもいかない”という話も、聞こえてきてはいます」


 彼女の視線が、川のほうへと向かう。

 長屋群の屋根の向こうに、堤防と、その向こうの水面が見えた。


「ここが建ったときは、“川の守り”としての意味もあったんです。

 水害があったとき、みんなここに集まって祈って……。

 だから、私としては“防災”の名目に反対はしづらいんですけど」


 その声は、川面に触れる風のように、どこか頼りない。


 礼拝堂の外に出ると、夕方の斜光が長屋の壁と礼拝堂の壁をまたぐように伸びていた。


 西側から差し込む光が、建物の角をくっきりと切り取る。

 明るい部分と暗い部分。その境目が、地面の上にも一本の線を引いている。


 ふと、違和感が走った。


(……なんだろう)


 石畳の上、礼拝堂の前庭と長屋の敷地との境目あたりに、黒い斑点のような影が、等間隔で並んでいる。


 夕陽の角度のせいだろうか。

 でも、それにしては、影の形が不自然だ。


 私は、カメラを構えた。


 ファインダー越しに、その“斑点”を見る。


 丸くも四角くもない、いびつな点が、地面に押されたスタンプのように連なっている。

 まるで、誰かがそこに目に見えない印を押していったかのように。


「……ここ、何か、押されてる?」


 思わず、小さく呟いた。


「どうした?」


 相馬さんが近づいてくる。


「いえ、その……影が」


 ファインダーを覗いたまま、少し角度を変えてみる。


 長屋の影、礼拝堂の影、木の影。

 それらが重なり合う場所に、さっきの斑点が浮かび上がったり、消えたりする。


 肉眼で見ると、ただの影のムラにしか見えない。

 でも、ファインダー越しには、その連なりが“線”になっているのが分かる。


「シャッター、切っときな」


 背後から、御影さんの声がした。


「理由はあとから考えればいい。“おかしい”と思ったら、とりあえず撮る。……それがここでのルールだ」


「……はい」


 私は息を整え、一枚、シャッターを切った。


 カチャン。


 その瞬間、川から風が吹き上がった。


 礼拝堂の小さな鐘が、かすかに鳴る。

 川面にさざ波が立ち、光を砕いた。


 スカートの裾を押さえながら、シスターが礼拝堂の扉の取っ手をぎゅっと握りしめた。


「ここだけ、前から“区切られている”気がするんです」


 誰に言うでもなく、彼女はぽつりと言った。


「神さまのためなのか、誰かの都合のためなのかは、分かりませんけど」


 その言葉は、さっき見た“スタンプのような影”と奇妙に重なって、胸の奥で引っかかった。



 日が暮れ始めたころ、指定カットの撮影はひととおり終わった。


 都市計画課の職員は、チェックリストに次々とチェックマークを入れていく。


「では、本日の撮影分のデータについて、後日、こちら宛に……」


「はい。選定したうえで、公文書用のプリントをお送りします」


「助かります。“公式記録機関としての幻灯局”さんには、今後ともお世話になります」


 にこりと笑いながら、そう言った。


 “公式記録機関”。


 その言葉が、妙に重く響いた。


 軍の将校も、ひととおりの確認を終えると、私たちに向き直る。


「本日の協力に感謝する。……今回のような“防災上の案件”に限らず、今後、帝都の安全保障上重要な事象があれば、また記録を依頼することになるだろう」


「教会としても、不可解な現象が記録された場合には、ぜひ早めに教えていただきたいです」


 シスターが、少し緊張した面持ちで付け加える。


 行政、防衛、聖別。


 三者三様の“線引き”をする人たちが、夕暮れの川沿いの一角に集まっている。

 その中心に、カメラを提げた私たちが立っている。


 ファインダーを覗けば、一フレームの中に三者が収まるだろう。

 同じ帝都の地図の上で、違う街を見ている人たち。


 それを“公式写真”にする役割を、今、幻灯局に求められている。


「……行こうか」


 御影さんが、川面をしばらく眺めてから言った。


「灯子ちゃん、指定カットは一通り押さえたね?」


「はい」


「じゃあ、あとは君の“もう一枚”に期待してるよ」


 その言葉に、私は無意識にカメラバッグを抱き直した。



 局に戻ると、すでに外は暗くなっていた。


 蛍光灯の白い光が、局内のテーブルを平たく照らしている。

 コーヒーの香りと、少し湿ったフィルムの匂いが混ざり合う。


 私は、撮ってきたデータの中から、指定カットと、自分なりに“気になった”カットをそれぞれプリントアウトした。


 一枚目は、都市計画課の指示通りに撮った、川沿いの長屋群の全景。

 きれいに並ぶ屋根。遠くに見える堤防。

 礼拝堂は画面の端に小さく入り込んでいるだけだ。


 二枚目は、礼拝堂の前庭と長屋の壁が、夕方の光でくっきりと区切られた一枚。

 地面には、あの“斑点の連なり”が、影としてかすかに写っている。


 私は、その二枚をテーブルの上に並べた。


 ひとつは、“公文書用”として都市計画課に提出する写真。

 もうひとつは、誰にも指定されていない、私が勝手に撮った“境界線のスタンプ”の写真。


「ほう」


 御影さんが、プリントの横にコーヒーカップを置く。


「ちゃんと、二種類撮ってきたね」


「指定カットは、向こうのリスト通りです」


 私は一枚目の写真を指さした。


「川沿いの全景、“整理されるべき旧市街”って感じで」


「うん、“公式な帝都”の資料としては、申し分ない構図だと思うよ」


 御影さんは、さらりと言う。


「問題のない構図、ってやつですね」


 自分で口にしてみて、その軽さに少し嫌気がさした。


「で、こっちが“もう一枚”?」


「はい」


 私は二枚目のほうを指で押さえた。


 光と影でくっきりと分かれた礼拝堂と長屋。

 地面に沿って並ぶ黒い影の斑点。


「これは、一体何の影なんだろうねえ」


 御影さんが、身をかがめてプリントを覗き込む。


「肉眼で見たときは、正直よく分からなかったんです。ただ、ファインダー越しに見ると、どうしても“線”に見えて」


「撮ってるとき、何か感じた?」


「……ここだけ、前から“区切られている”気がする、って」


 シスターの言葉を、そのまま伝える。


「神さまのためなのか、誰かの都合のためなのか分からないって言ってましたけど」


「なるほどね」


 御影さんは、腕を組んで小さく頷いた。


「行政の線。軍の線。教会の線。今日、いろんな線があの場所に引かれていたけれど――」


 テーブルの端には、都市計画課から預かったコピーの地図も広げられている。

 “立入管理区域”を示す線。

 軍の“観測対象区域”の透明シート。

 そこに、教会の“聖別区域”のスケッチが重なる。


 紙の上の線と、地面の上の影の線。


 それらが、少しずつズレながら、ひとつの帝都を形作っている。


「“公式な帝都”に残るのは、きっと前者のほうなんだろうね」


 御影さんが、一枚目の写真を指で叩く。


「区画整理の経緯を説明する資料としても、“整理されるべき旧市街”としても、扱いやすい」


「でも、私には後者のほうが、この街の本当の顔に見えます」


 気づけば、そう口にしていた。


 二枚目の、影の斑点が並ぶ写真。

 川沿いの生活と、礼拝堂の役割と、防災という名目と、誰かの都合。

 それらが全部、見えないスタンプみたいに地面に押されている気がしてならなかった。


「“公式写真”は、行政や軍や教会のための記録かもしれないけど」


 自分の言葉を探しながら、ゆっくり続ける。


「私が撮りたいのは、“この街が何に区切られているのか”のほうで。誰のために線が引かれて、誰のためにスタンプが押されているのか、ちゃんと覚えておきたいです」


 御影さんが、小さく笑った。


「いいね。それでこそ、幻灯局のカメラマンだ」


「カメラマンなんて、大げさです」


「自覚がないぶん、余計にね」


 からかうような言い方だったけれど、その目は真面目だった。


「行政向けの“公式写真”は、君じゃなくても誰かが撮れる。でも、“境界線のスタンプ”は、君が気づかなかったら誰も撮らなかったかもしれない」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。


 同時に、少しだけ怖くもあった。


 私が“気づいてしまった”せいで、撮られたもの。

 それが、これからどう扱われるのか。


「……これ、もし誰かに見せたら、“不必要に不安を煽る写真だ”って言われるかもしれないですよね」


「言う人は言うだろうね」


 御影さんはあっさりと認める。


「だからこそ、全部を“外側”に出す必要はない。

 行政には行政用の正面写真を渡す。軍には軍用の資料を渡す。教会には教会用の写しを渡してもいい。

 でも、“君が見た帝都”そのものは、局の原本棚と、君の手帳の中に残しておけばいい」


「……記録は、誰のためのものなんでしょう」


 ぽつりと、本音が漏れた。


 行政のため? 軍のため? 教会のため?

 街で暮らす人たちのため?

 それとも、自分自身のため?


「全部、って答えじゃダメかな」


 御影さんは、少しだけ肩をすくめる。


「行政や軍や教会のためにもなるし、街の人たちのためにもなるし、何より“君のため”にもなる。

 ただし、そのどれか一つだけのために使われないように、原本の置き場所を工夫する必要はあるけどね」


 原本の置き場所。


 それは、局の棚と、私の手帳と――きっと、九条さんや相馬さんの記憶の中にも、それぞれ違う形で保存されていく。


「……少なくとも、“なかったこと”には、もうできませんよね」


 影の斑点が並んだ地面。

 そこに押された、見えないスタンプの跡。


 それを見てしまった以上、何も知らなかった頃には戻れない。


 私は、自分の手帳を開いた。


 空いているページに、二枚目の写真を縮小プリントしたものを貼り付ける。


 礼拝堂と長屋。

 地面の“スタンプ”。


 その下に、走り書きでメモを書く。


『川沿い長屋群と礼拝堂/都市計画・軍・教会の線が重なる場所/夕方の光で浮かぶ“見えないスタンプ”』


 ペン先が紙をひっかく音が、小さく局内に響く。


 ページを閉じると、ほんのわずかに厚みが増えた気がした。


 それは、帝都のどこかに押されたスタンプが、私の手の中にもひとつ増えた、という感覚でもあった。



 局を出ると、外はもう夜だった。


 朧町の通りには、いつものようにネオンと白熱灯の光が滲んでいる。

 三上商店のシャッターは半分だけ開いていて、その隙間から、店主の三上さんが誰かと世間話をしている声が聞こえた。


「川のほう、どうだった?」


 立ち寄ると、三上さんがレジの奥から顔を出す。


「長屋の連中、みんな“そのうち出てけって言われるんだろうなあ”って諦め半分でさ」


「……そう、なんですね」


「まあ、“防災”って言われちゃあ、こっちも強くは言えんわな。でも、あそこの魚屋のばあさんは、“水が怖いから、この街に来たのに”って泣いてたよ」


 水が怖いから、この街に来た。

 でも、その街が“水害対策”の名目で区画整理される。


 見えないスタンプは、きっとそんなところにも押されているのだろう。


「何か飲んでく?」


「今日は大丈夫です。また今度寄ります」


「おう。あんまり遅くまでうろついてると、また変なもん撮っちまうぞ」


 冗談めかした声に苦笑しながら、私は店を後にした。


 路地を歩きながら、さっき貼った手帳のページのことを思い出す。


 行政の線。軍の線。教会の線。

 どれも、紙の上ではきれいに引かれていて、理由もきちんと書かれている。


 でも、夕方の礼拝堂の前で見た“スタンプ”は、どの線ともぴったり一致しなかった。


 あれは、誰の線なのだろう。


 帝都そのものの都合?

 もっと外側から押された、別の手?


 答えは分からない。


 ただ、“見えないスタンプ”が押された場所は、どこかでまた、別の区画整理や再開発や、もっと極端な何かの対象になるのかもしれない――そんな予感だけが、じわりと広がっていく。


 遠くで、路面電車のベルが鳴った。


 私は、カメラバッグの重みを肩に感じながら、停留所へと向かう。


 今日撮った公式カットは、いずれ都市計画課の棚に収まるだろう。

 “問題のない構図”としての帝都。


 私の手帳には、もう一枚の、影のスタンプが残る。


 どちらも、この街に本当にあった景色だ。


 だったら、どちらも、どこかで生き続けていてほしい――そう願いながら、私は夜の帝都の中を歩き続けた。


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