第28話「現在地との交差点」
旧軍需工場のフィルムを見た夜から、数日が過ぎた。
地下資料庫のひんやりした空気や、スクリーンに映った“瞬きする工場”の画は、時間が経っても頭のどこかに居座り続けている。けれど、幻灯局の朝はいつもどおりに始まった。
窓際の机に、相馬さんが新聞を広げる。
花さんは湯気の立つマグカップを両手で包んでいて、私はカメラの整備をしながら、その横顔を横目で見ていた。
「……あ、出てる」
新聞の紙面をめくっていた相馬さんが、眉をひそめる。
「何がですか?」
「ほら、ここ」
差し出された紙面には、写真付きの小さな記事が載っていた。
『帝都外縁部旧工業区画 安全確認のうえ再開発へ』
『物流拠点としての再整備、順調に進行中』
見慣れた言葉が並んでいる。「安全確認」「順調」。
記事の写真には、クレーンと仮囲いと、笑顔の偉い人たちが写っていた。
あの倉庫の中で、壁が一瞬“抜けて”見えたことなんて、どこにも書かれていない。
「順調、だそうです」
相馬さんの声は、どこか乾いていた。
「順調って、便利な言葉ですよね」
花さんが、マグカップ越しにぼんやりと言う。
「“順”って誰にとっての順なんでしょう」
「そりゃあ、記事に名前が出てるほうだろ」
相馬さんが肩をすくめたとき、局のドアが勢いよく開いた。
「おはようございます、記録屋さんたち」
軽い声と一緒に入ってきたのは、いつもの新聞記者、九条さんだった。肩から下げたカバンがやけに膨らんでいる。
「朝からずいぶん元気ですね」
御影さんがカウンターから顔を出す。
「元気じゃないと、編集部で潰されますからね」
九条さんは、テーブルにドサッと紙束を置いた。よく見ると、さっきの新聞と同じ号だ。
「それ……」
「はい、うちの本紙。で、こちらが――」
九条さんは、自分の手帳をひらひらと振った。
「編集長からの“宿題”です。旧工場エリアの再開発案件、うちでも一本大きめの記事を出すことになりまして」
「またずいぶん、火の近くに行く仕事ですね」
「ですよねえ。市も軍も“安全に再開発されます”って言い張ってる。だったらこっちはこっちで、“本当に安全なのか”確かめに行こうぜ、だそうで」
言葉だけ聞くと、まっとうなジャーナリズムの仕事に聞こえる。
でも、数日前に見たフィルムのことを知っている私には、その裏にある含みが透けて見える気がした。
「それで」
九条さんは、こちらを見回す。
「取材協力、お願いできます?」
「協力?」
「はい。記事の体裁としては“物流拠点再開発の現状レポート”。でも、俺としては“ついでに”この前の共同作戦のその後も見ておきたいわけですよ。……ほら、幻灯局のカメラと、元・市警の足と口も、一緒に借りられたら心強いじゃないですか」
そこで、相馬さんのほうを見る。
「勝手に人の足と口を借り物扱いするな」
「まあまあ。どうせヒマしてるでしょ」
「してない」
と言いながらも、相馬さんは新聞を半分たたんだ。
「昼間の現場なら、昨日の夜勤明けよりはマシか……」
「というわけで、灯子ちゃんも一緒にどう?」
唐突に話を振られて、私は少し身構えた。
「……フィルムと、今の“同じ場所”を、見比べておきたいんです」
気づけば、そう口にしていた。
スクリーンに映った“第零号”の工場。倉庫が一瞬消えたあの画角。
そこに、今は何が建っていて、何が消えているのか。
「なら、決まりだね」
御影さんが、軽く手を叩いた。
「午後からなら、局のほうはなんとか回せる。花さん、こちらは任せてもいい?」
「はい。お店の配達も夕方まではないので、大丈夫です」
「じゃあ、三人で行っておいで。……あ、九条くん」
「なんでしょう」
「“安全確認の取材”だからって、あんまり安全だと思い込まないように」
御影さんの言い方は柔らかかったが、その目には、地下資料庫でフィルムを見ていたときと同じ影があった。
◇
昼下がりの路面電車は、通勤時間帯ほど混んでいなかった。
窓際の席に座り、私は膝の上のカメラバッグを軽く押さえる。
九条さんは向かいの席に足を組んで座り、相馬さんはつり革につかまりながら窓の外を眺めていた。
「そういえば」
九条さんが、思い出したように言う。
「この前の“対策室のフィルム”、記事にしたくなりました?」
「……正直、なりました」
答えてから、自分でも少し驚く。
「でも、うまく言葉にできる自信はないです。何か“おかしい”ってことだけは分かるんですけど、それをそのまま書いたら、ただの怪談記事になりそうで」
「怪談も立派な記事だよ。うちの読者、そういうの好きだし」
「でも、“好き”なだけで終わっちゃったら、なんだかもったいなくないですか」
「そこがジレンマなんですよねえ」
九条さんは、窓の外に視線をやる。
「俺も、あのフィルム一枚だけで煽り記事を書きたくはない。でも、“何もなかったこと”にして、おとなしく再開発の美談だけを書いて終わるのも違う。……なので、今日はせめて“今の画”を押さえておきたいわけです」
今の画。
フィルムに焼き付いた過去の画と重ねるための、現在地。
そう考えると、胸の奥が、少しだけきゅっとした。
◇
旧軍需工場エリアは、数日前の夕方とは違う顔をしていた。
日中の光の下で見ると、仮囲いの白さや、クレーンの黄色、作業員のヘルメットの青さが、やけにくっきりと浮かび上がる。
フェンスには「安全第一」「立入禁止」と書かれた看板が等間隔に並び、遠くにはまだ使われているらしい古い煙突が、薄い空に刺さっている。
トラックが砂利道を行き交い、どこかで鉄を切る音が響く。
工事現場としては、よくある光景だ。
でも、私はその奥に、スクリーンで見た“瞬きする工場”の残像を重ねてしまう。
「ここが、“大きな絵”だとしたら」
九条さんが、メモ帳を片手に周囲を眺める。
「俺らが見たいのは、その絵の“描き直しの跡”なんですよね」
「描き直し……」
私は、カメラバッグから一枚の紙を取り出した。
地下資料庫で、“第零号”のフィルムの一コマをプリントしたもの。
ガタガタした画面の中に、工場の建物と煙突と、あの“消えた部分”が写っている。
そこに映っていた標識も、かろうじて読み取れる。
私は、それを見ながら、周囲を見渡した。
「……こっちじゃないですか」
フェンス沿いの道を歩きながら、地面のわずかな傾きや、遠くに見える煙突の位置を確かめていく。
フィルムの画角と、今の視界を頭の中で重ねる。
倉庫の配置は変わっている。新しい道路が一本通っているせいで、奥行きの感覚も違う。
それでも、遠くの煙突の間隔や、地面の勾配、フェンスの向こうの空き地の広さに、共通するものがある気がした。
「ここ……かもしれない」
足を止めて、私は小さく呟いた。
「角度が少し違うけど、たぶんこの辺りだと思います」
フェンスの向こう側には、平らにならされた土地と、その奥に残った古い建物の一部が見える。
フィルムに映っていた工場と、完全に同じではない。でも、“同じ場所が別の姿になった”と言われれば納得してしまいそうな程度の差だ。
「よし」
私はカメラをバッグから取り出し、ファインダーを覗いた。
フィルムと同じように、ゆっくりと画角をパンしていく。
左から右へ。工場の残骸、煙突、空。
フレームの端に、あのときスクリーンの隅に見えた標識があるはず――そう思って目を凝らしたが、そこには何もなかった。
代わりに映り込んできたのは、赤い縁取りの「立入禁止」の標識だけだ。
角も色も、どこにでもある既製品の形。
「……ない」
思わず、声が漏れる。
「何が?」
「フィルムに映ってた標識です。“工業区画南端”って書いてあったやつ。今は、跡形もない」
私は、片手でプリントを掲げながら、ファインダーの中と見比べた。
フィルムでは、スクリーンの隅に古びた標識が立っていた。
そこには、今の帝都地図には載っていない記号のようなものも書かれていた。
でも、今の画には、それがいっさいない。
「……誰かが“上書き”したんだよ」
隣で、相馬さんがぼそっと言った。
「上書き?」
「地図も、標識も、全部。新しい区画割りに合わせて、“過去の目印”は消される。そうやって、古い記憶のほうを“間違い”にしていく」
その言葉が、妙に冷たく胸に刺さった。
地図だけじゃない。
写真や記事も、同じように“上書き”されるのかもしれない。
「――もしもし、九条か」
少し離れたところで、九条さんがポケットから取り出した電話に出ていた。
彼の表情が、いつもより少しだけ硬い。
「ええ、今、例の現場に来てますよ。……は? もう市から?」
会話の内容が気になって、ついそちらに耳を傾ける。
「“変な不安を煽る書き方はやめてくれ”って、まだ何も書いてねえですよ。タイトルすら決まってないのに」
やや大げさな口調だけれど、その奥に本音の苛立ちが滲んでいる。
「ええ、分かってますよ。“事実を冷静に伝える範囲で”ね。はいはい、“再開発の必要性も併記してくれ”っと。……そっちはそっちで釘を刺されたわけですか」
しばらくやりとりしたあと、九条さんはため息混じりに電話を切った。
「編集長から?」
戻ってきた彼に、相馬さんが聞く。
「というか、その向こうから。市の広報室から“事前に”連絡があったそうで」
九条さんは、手帳の端でこめかみをかいた。
「“変な不安を煽る書き方はやめてくれ”ってさ。まだ一文字も打ってないのに」
「予防線、ってやつですね」
私は、自分の声が少しだけ強張っているのを感じた。
「最初から、“どの線を越えるな”って決められてるんだ」
「まあ、向こうも仕事だからね。“安全にやってます”って言い続けないと予算が下りないし、再開発も進まない。……そのあたりを、俺も理解はしてるつもりですけど」
「理解したうえで、どうするか、ですね」
「そう」
九条さんは、フェンスの向こうの工場跡を見つめた。
「だから、とりあえず“見たもの”だけは持ち帰る。書けることと書けないことを仕分けるのは、そのあと」
“見たもの”。
それは、カメラの中に入るものだけじゃない。
フィルムに残らない違和感や、電話口の声の調子、立ち入り禁止看板の数。その全部が、ここにある“現在地”だ。
◇
夕方に近づくと、工場エリアの空が薄いオレンジ色に染まり始めた。
クレーンの影が長く伸び、仮囲いの白い板に斜めの影を落とす。
遠くの煙突のシルエットが、かすかに暗く縁取られていく。
「もう一回、撮っておく」
私は、さっきと同じ場所に立ち、カメラを構えた。
フィルムと同じように、ゆっくりとフレームを横に振る。
工場跡、煙突、空。
シャッター音が、夕方の空気の中に小さく溶けていく。
撮影した写真を、その場で確認する。
液晶画面には、きれいに整えられた“再開発現場”が写っていた。
平らに均された地面。クレーンとトラック。立入禁止の標識。
どこからどう見ても、“普通の工事現場”だ。
異常も、瞬きも、どこにもない。
それでも、何かがおかしい気がした。
「……同じ“場所”を撮っているはずなのに」
自分でも驚くほど小さな声が出た。
「画面の奥の、形が、合わない」
液晶に映る煙突の並びと、プリントに残されたフィルムの煙突の並び。
数も高さも、わずかに違う。
影の落ち方も、地面の傾きも、完全には重ならない。
“工場が建て替えられたから”と言われれば、それで片付く程度の差かもしれない。
でも、フィルムの中で一度“消えて戻った”建物を見てしまった私には、その差がひどく落ち着かない。
「記録ってのはな」
隣で液晶を覗き込みながら、相馬さんがぼそりと言った。
「真実をそのまま残すためにあるんじゃない。誰かにとって“都合のいい真実”を固めるためにも使われる」
「都合のいい真実……」
「“安全です”って証明する写真。“ちゃんと手続き踏みました”って証明する書類。“再開発は必要だったんです”って証明する記事。
どれも、嘘じゃない。嘘じゃないんだけど……都合の悪い部分は、最初から画面に入れないようにする」
柳瀬町のパンフレット撮影のとき、市の広報担当者が「シャッター街はフレームから外して」と言った声が、頭の中によみがえる。
「だったら、せめて俺たちは逆をやらないとな」
九条さんが、メモ帳を握り直した。
「“都合よく切り取られた真実”じゃなくて、見たまんまの“いびつさ”のほうを、ちゃんと書いておきたい」
「でも、さっきの電話みたいに、最初から釘を刺されてたら……」
「全部は書けないかもしれない」
九条さんは、あっさりと言った。
「“一時的消失”なんて言葉をそのまま紙面に載せたら、編集長ごと飛ばされるかもしれない。だから、表向きの記事ではそこまで踏み込まない。
でも、“見たこと”自体は消せないし、どこかに残しておくことはできる」
どこかに。
たとえば、幻灯局の原本棚や、今日の撮影データや――私の手帳の中とか。
「灯子ちゃんの写真は、どうなってる?」
「“普通の工事現場”です」
もう一度、液晶に目を落とす。
そこにあるのは、確かに今この瞬間の帝都の一部だ。
でも、数日前に倉庫の中で見た“ゆがみ”や、十数年前のフィルムに焼き付いた“瞬きする工場”も、同じ場所の“真実”の一部だと思う。
「どっちも、嘘じゃないんですよね」
「そうだろうね」
相馬さんが、煙草が吸えない代わりにポケットの中で何かを指で弄びながら言った。
「だから厄介なんだ」
◇
局に戻るころには、外はすっかり暗くなっていた。
路面電車の揺れに身を任せながら、私はカメラの中のデータを頭の中で反芻する。
フィルムと今の写真。
どちらも、“同じ場所”だと説明される。
でも、重ねようとすると部分的にずれて、きっちりとは合わない。
幻灯局のドアを開けると、コーヒーの香りが迎えてくれた。
「おかえり」
御影さんが、カウンターから顔を上げる。
「どうだった?」
「“安全に再開発が進んでいる現場”でした」
九条さんが、妙に爽やかな笑顔で答える。
「ただし、撮る人と書く人によって、“安全の意味”が少しずつ違う、ってところまで含めて」
「それはまた、ややこしそうな現場だ」
御影さんは、楽しそうとも呆れたともつかない声で言った。
「とりあえず、今日は“橋渡し”だと思ってください」
九条さんは、自分のカメラからもデータを取り出し始める。
「本番は、このあとですから」
◇
局内のテーブルの上に、プリントアウトした写真が並んだ。
ひとつは、地下資料庫で見た“第零号”のフィルムから切り出した静止画。
ざらついた白黒の画面の中に、古い工場と煙突と、あの標識が映っている。
もうひとつは、今日撮ったばかりのデジタル写真。
フルカラーで、クレーンと仮囲いと、新しい立入禁止の標識がくっきりと写っている。
テーブルの上で、二枚の紙が少しだけ重なるように置かれていた。
上からのぞき込むと、左半分が白黒の“昔”、右半分がカラーの“今”に見える。
「一見、同じ構図なんだけどね」
九条さんが、コーヒーカップを手にしたまま言った。
「煙突の数が違う」
花さんが、小さな声で指摘する。
「こっちの白黒には、三本あるのに。カラーのほうには二本しかない」
「影の落ち方も違うよ」
私は、自分の指で紙の上をなぞった。
「この建物の影、フィルムだとこっち側に長く伸びてるのに、今の写真だと、少し向きが違う」
「写ってる標識も、まるで別物だしね」
相馬さんが腕を組む。
「フィルムのほうは、“工業区画南端”って書いてあった。今のは、“工事関係者以外立入禁止”。どっちも正しい。でも、そこに書かれてる“街の意味”は、まるで違う」
「で、どっちが“正しい帝都”なんだろうね」
九条さんが、わざと軽く言った。
問いかけに、誰もすぐには答えなかった。
私には、答えられなかった。
十数年前、この工場群が“瞬き”したときの帝都。
数日前、倉庫の中で壁が一瞬“抜けて見えた”帝都。
今日、クレーンと仮囲いに覆われた再開発現場としての帝都。
全部、この街の“現在地”だったはずだ。
でも、フィルムと写真を並べてしまうと、どちらかが“間違い”に見えてきてしまう。
「……どっちか一方を残して、どっちか一方を捨てる、って話じゃないと思うんです」
気づけば、口が動いていた。
「フィルムの中の工場も、今日撮った再開発現場も、どっちも、この街に本当にあった景色だから」
自分でも意外なほど、はっきりと言えた。
「ただ、その両方を並べて見たときに、“何がどう変わったのか”、“何を見えなくしたのか”を忘れないようにしたい。……それが、幻灯局の仕事なんじゃないかなって」
御影さんが、少しだけ目を細める。
「いいね。そのまま覚書の一行に使えそうだ」
「冗談はやめてください」
と言いつつ、胸の中は少しだけ軽くなっていた。
どちらか一方を“正しい”と決めてしまうことのほうが、きっと危うい。
だからこそ、こうしてテーブルの上に、違う時代の画を並べておく意味がある。
「じゃあ、これは“局のテーブル”に置いておくとして」
九条さんが、二枚のプリントを指で押さえる。
「灯子ちゃんは、どれを持って帰る?」
「持って帰るって……」
「ほら、例の“今日の一枚”の手帳。あれ、結構楽しみにしてるんですよ」
バレていたらしい。
私は少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、テーブルの上の写真を見下ろした。
どっちも捨てがたい。
フィルムから起こした白黒のほうは、“設立前夜”の重さがある。
今日撮ったカラーのほうは、“今ここ”の息遣いがある。
少し考えてから、私はカラーのほうを一枚だけ抜き取った。
「こっちを、貼ります」
「理由、聞いてもいい?」
「……フィルムのほうは、幻灯局にちゃんと残ってるから」
私は、自分の手帳を取り出した。
ページの隅には、柳瀬町の祭りの写真や、商店街のネオン看板や、川沿いの夜景が貼られている。
その空いている一角に、再開発現場の写真をそっと貼り付けた。
白い仮囲いとクレーンと、遠くの煙突。
手帳に書き込むペン先が、紙の上を滑る。
『旧工業区画再開発現場/第零号フィルムと同じ場所/煙突の数が合わない』
小さくそうメモしてから、ページを閉じる。
「局には、原本としてフィルムとプリントが残ってる。私の手帳には、今日見た“今の景色”が残る。……どっちも、本当だったってことだけは、たぶん消えないから」
言いながら、自分の中で何かが少しだけ落ち着いていくのを感じた。
過去と現在。
原本と複製。
記事と、記事にならなかったメモ。
どれか一つが真実で、他は全部偽り、という単純な話じゃない。
ただ、この街が“書き換えられうる”場所なのだとしたら――せめて、書き換えられる前と後の両方を、どこかに置いておきたい。
「よし」
御影さんが、コーヒーカップを片手に言った。
「じゃあ、今日のところはここまで。九条くんは記事の骨組みを考えて、灯子ちゃんと相馬くんはデータのバックアップ。花さんは、差し入れにお茶でも淹れてくれると嬉しい」
「はい」
いつもの日常に戻るような、ゆるい指示。
でも、テーブルの上に並んだ二枚のプリントが、局の空気を少しだけ重くしているのが分かった。
◇
夜、局を出ると、朧町の路地にはいつもの灯りがともっていた。
三上商店のシャッターは半分だけ下ろされていて、その隙間から、棚に並んだ缶詰のラベルがちらちら見える。
遠くで路面電車の走る音がした。
私は、カメラバッグを肩にかけ直しながら空を見上げる。
昼間に見た再開発現場の空と、今頭上に広がる朧町の空。
どちらも、同じ帝都の空だ。
でも、その下で起きていることは、場所ごとに少しずつ違う。
フィルムと写真を並べたテーブルの光景が、脳裏に浮かんだ。
過去と現在が、同じ紙の上で少しだけずれて重なっていたあの感じ。
「……どっちも、本当にあった景色だから」
さっき自分で言った言葉を、もう一度、小さく繰り返す。
この街が、これからも何度も“書き換え”られていくのだとしても。
そのたびに、どこかで誰かが、その前と後の両方を見ていたということだけは、残せるかもしれない。
それが、幻灯局の原本であり、私の手帳であり、九条さんの記事であり、相馬さんの記憶であり――この街を歩く人たちの目だ。
路地の向こうで、電車のベルが鳴る。
私は、カメラバッグの重みを確かめるように肩をすくめてから、停留所へ向かって歩き出した。
今日貼った“現在地”の一枚の上に、これからどんな画が重なっていくのかは、まだわからない。
わからないままで、明日もまたシャッターを切るのだろう。
過去と現在のあいだにある、見えない“交差点”を探しながら。




