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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第27話「設立前夜のフィルム」

 市庁舎の封筒というものは、どうしてあんなにも「面倒ごとの匂い」をまとっているんだろう。


 その朝、幻灯局のポストに入っていた茶封筒を、花さんが恐る恐る持ってきたとき、私はまず差出人の欄を見て、正直ちょっと肩を落とした。


「……市役所・文化資源課、だそうです」


「文化資源って、名前だけ聞くと穏やかだよね」


 九条さんが、コーヒー片手に覗き込む。


「名前だけは、ね」


 私は封を切って、中の文書を広げた。


 白い紙に、機械のように整った字体が並んでいる。


『帝都幻灯局 御中

 設立一年経過にともなう原資料の棚卸しについて(通知)』


 そこまで読んだ時点で、御影さんが「ああ、それか」と小さく声を漏らした。


「それ、前から話だけは来てたんだよ。やっぱり、このタイミングで出してきたか」


「原資料……棚卸し?」


 私は、紙に目を落としたまま声に出す。


「『設立から一年をめどに、前身組織から引き継いだ写真およびフィルムの状態を確認し、必要に応じて移管・廃棄・再整理を行うこと』……って書いてあります」


「廃棄ってさらっと書くなあ」


 花さんが、思わずといった様子で口を挟んだ。


「何をどう捨てろって言ってるんでしょうね」


「そこが“文化資源課”の面白いところだよ」


 御影さんは、文書をひょいと取り上げる。


「何を残して何を捨てるかの線引きが、“文化的価値”と“行政上の必要性”と“物理的な保管スペース”の三つで決まる。……その三つの中に、“この街の事情”はだいたい含まれない」


「含まれないんですか」


「“含まれていることにしておく”のが、彼らの仕事だからね」


 相変わらず、たちの悪い冗談と本音の境目が分かりづらい。


「で、その前身組織って、例の“対策室”ですよね?」


 九条さんが、わざとさらっとした口調で聞いた。


「帝都異常事象記録対策室。設立覚書の端っこに名前の残ってた、あれ」


「そう。名前だけ立派で、当時は部屋ひとつ分ぐらいしかなかった部署だけどね」


 御影さんは、文書を折りたたんで机の上に置いた。


「文化資源課のほうで、“対策室”時代の写真やフィルムも、とりあえず箱ごと預かってくれてる。市庁舎別館の地下資料庫にね。それを『棚卸ししてくれ』って話」


「棚卸しってことは……数を数えるだけじゃなくて、“いる・いらない”を決めろ、ってことですよね」


「そういうことになるね」


 花さんが、眉を八の字にする。


「“いらない”って、誰が決めるんですか」


「まずはここだろうね」


 御影さんは、自分の胸を軽く指で叩いた。


「で、そのあとで、向こうが“本当に”いらないかどうか判断する」


「二重仕分け、ですか」


「まあね。だから――」


 御影さんは、こちらを見渡した。


「地下資料庫に行こうか。灯子ちゃんと花さんと九条くん。ぼくも一緒に行く」


「はい」


 返事をしながら、胸のどこかがざわついた。


 “前身組織”の残骸。

 そこには、今の原本棚とは違う種類の、古い記憶が眠っているのだろう。


 その中に、旧軍需工場エリアの“何か”も、きっと含まれている。


 数日前、倉庫の中で見たあの“抜ける壁”と、端末の地図の揺らぎ。

 それと同じような揺らぎが、昔からそこにあったのだとしたら――。


 そんなことを考えているうちに、私たちは支度を終えていた。



 市庁舎別館の地下資料庫は、空気そのものが過去の匂いをしていた。


 階段を降りていくと、ひんやりとした空気が肌にまとわりついてくる。

 蛍光灯の白い光が、低い天井とグレーのコンクリート壁に跳ね返って、どこか病院めいてもいた。


 金属製の棚が、奥へ奥へと規則正しく並んでいる。

 棚のあいだの通路は、どこも似たような幅と明るさで、少し目を離すと、すぐに自分がどこから来たのか分からなくなりそうだった。


「うわ……迷路だ」


 花さんが、思わず声を漏らす。


「図書館の書庫とも違う感じですね」


 九条さんは、興味深そうに周囲を見回している。


「“ここで働きたいですか”って聞かれたら、即答で断るかな……」


「慣れるとね、案外落ち着くよ」


 棚のあいだを、御影さんは迷いなく歩いていく。


 棚の端に貼られたラベルには、数字とアルファベットがびっしりと書き込まれている。

 “昭和○○年度 都市計画図”“河川改修記録”“教会建造物写真資料”――その中に、ひときわ地味な文字列が紛れていた。


「ここが、“対策室”エリア」


 御影さんが立ち止まる。


 ラベルには、こう書かれていた。


『帝都異常事象記録対策室/写真・フィルム/第1〜第○○群』


 番号だけ振られた段ボール箱が、棚一面に積まれている。

 その下の段には、金属製の丸いフィルム缶が、背の低い塔のように重ねられていた。


「こんなにあるんですか……」


 私は思わず息を飲んだ。


 原本棚のファイル群とは違う、無名の重みがそこにあった。

 ラベルには、日時と大まかな場所の名前、そしてごく簡単な事案の種類だけが書かれている。


「“河川沿い局地霧発生事案”……“某町内路地行方不明再現試行”……」


 九条さんが、箱の側面を読みながら苦笑する。


「タイトルだけで記事が一本書けそうなやつがごろごろしてますね」


「書いときゃよかったね、当時」


 御影さんは、そう言いながら、棚の一角に指を滑らせていく。


「で、今回の棚卸しでは、まず“状態の確認”がメイン。カビてないか、変形してないか、再生可能か。……その過程で、“残すべきもの”の目星もつけておきたい」


「“残すべきもの”って、どうやって決めるんですか」


 花さんの問いに、御影さんは少しだけ考える素振りを見せた。


「消しちゃいけないもの。消してもいいもの。どっちでもいいけど、“今消すのはまずい”もの」


「最後のが一番難しそうです」


「だから、こうして四人で来てるんじゃないか」


 そう言って、御影さんは、ひとつのフィルム缶の前で手を止めた。


「……これ」


 他の缶と同じ、くすんだ銀色の丸い筒。

 ただ、貼られた紙ラベルの端がわずかにめくれ、そこに鉛筆書きの文字がかすかに覗いていた。


 御影さんは、それをそっと引き抜き、埃を指先で払う。


 ラベルには、こう書かれていた。


《第零号記録/工業区画南端/“一時的消失”事案》


「“第零号”?」


 思わず、声が漏れた。


「ゼロから始まってるんですか、この番号」


「正式な記録群に入れる前の、“試験撮影”扱いだったからね」


 御影さんの声が、わずかに低くなる。


「はずされずに、残ってたんだ」


「“はずされずに”?」


「本来なら、設立のときにこっそり抜かれててもおかしくなかったフィルム、ってこと」


 冗談めかした言い方だったけれど、その目は笑っていなかった。



 地下資料庫の一角には、簡易な映写室が併設されていた。


 スクリーンとプロジェクター、数列の折りたたみ椅子。

 壁には、映画のポスターも何もなく、ただ白いペンキが塗られているだけだ。


「こんなところに映写室あるなんて、知りませんでした」


「まあ、普段は誰も使わないからね。図書係の人がたまに古い教育映画を動作確認するぐらい」


 御影さんは、慣れた様子でプロジェクターのカバーを外し、フィルムリールをセットする。

 銀色の缶から出てきたフィルムは、ところどころに小さな傷があり、縁もほんの少し波打っている。


「大丈夫なんですか、それ」


「一応、前に一度チェックしてる。かろうじて再生可能、ってところかな」


「前に?」


「……だいぶ前にね」


 御影さんは、それ以上何も言わず、スイッチを入れた。


 映写機のランプが点き、ファンの音が低く響き始める。

 回転するリールの影が、壁に小さく揺れる。


 やがて、スクリーンが薄い光に満たされていった。


 最初に映し出されたのは、見慣れたようで見慣れない風景だった。


 旧軍需工場エリア――と、今なら言える場所。


 けれど、画面の中のそれは、私たちがこのあいだ見た倉庫群やフェンスとは違っていた。

 整地されきっていない土の地面。むき出しになった基礎。崩れかけた建物の足元に散らばる鉄骨。


 カメラは手持ちらしく、微妙にガタつきながら、ゆっくりと工場群のあいだを進んでいく。


 そこかしこに立っている人影の服装が、今より少し古い。

 ヘルメットの形、作業服の色、軍服らしき衣装。細部の違いが、画面全体にうっすらした時差を生んでいた。


「……これ、どれぐらい前なんですか」


 スクリーンを見つめながら問うと、隣で九条さんが小さく口笛を吹いた。


「フィルムの仕様とラベルの感じからして……少なくとも十数年前、下手すると二十年は前じゃないですかね」


「十数年前の“対策室”……」


 花さんが、椅子の背もたれをぎゅっと握る。


 画面の端に、一瞬だけ横顔が映った。


 今より頬がふっくらしていて、髪も黒々としていて、それでも目の形と笑い方に覚えがある顔。


「……御影さん?」


「たぶん、そうだね」


 本人は、飄々とした声で認めた。


「若いねえ。フィルムって残酷だ」


「いや、あの、そんなに変わってませんよ。たぶん」


 フォローになっているかどうか分からない言葉が口から出る。


 画面の“若い御影さん”は、何か指示を出すように手を上げていた。

 その唇が動いているが、フィルムには音声がない。


 カメラは、彼の指差す先へとパンする。


 その瞬間、画面全体がざらりとノイズに覆われた。


「……っ」


 思わず息を呑む。


 砂嵐とまではいかないものの、細かい白い斑点が画面に散り、映像が一瞬ぼやける。

 そのノイズが引いたとき――そこにあるはずのものが、ない。


 さっきまで映っていた工場の建物の一部が、「数コマだけ」ごっそりと消えていた。


 そこにはぽっかりと、空白がある。


 地面だけが、かろうじて輪郭を保っている。

 でも、その上に乗っていたはずの壁や屋根は、まるで最初から存在しなかったみたいに、画から抜け落ちていた。


 空白を埋めるように、周囲の影や煙の形が、ゆっくりとずれていく。

 隣の建物の影が、そこへ伸びてきて、さっきまで“建物の影だったもの”を塗りつぶす。


 数コマ分の時間が、奇妙に伸び縮みしているように見えた。


「……戻ってる」


 花さんが、震える声で言った。


 その言葉どおり、数コマののちには、消えていた建物が何事もなかったように画面に戻っていた。


 壁も屋根も窓も、さっきと同じ位置にある。

 そこに立っているはずの人影も、そのままの姿勢で映っていた。


 ただ、その人影の輪郭が、ほんのわずかにぶれて見える。


 何かが、一度その場所から抜き取られ、また無理やり元に押し込められたような違和感。


「“一時的消失”って、こういう意味かよ」


 九条さんが、低い声でつぶやいた。


 画面が、再びガタつきながら周囲を映し出していく。


 工場の壁。タンク。配管。

 そのどれかが、またいつ消えてしまうのか分からない緊張感が、画面全体に乗っていた。


 最後のほうの数コマで、スクリーンの隅に何かが映った。


 今の帝都の地図には存在しない標識。


 文字の一部しか読めないが、「帝都工業区画南端」と、その下に見慣れない記号のようなものが見えた気がする。


 それは、本当に一瞬だけだった。


 映像が乱れ、白い光に飛ばされる。


 フィルムが回る音が、急に空虚に聞こえた。


 やがて、プロジェクターのランプがふっと落ちる。


 映写機の回転がゆっくりと弱まり、リールが止まった。



 映写室の蛍光灯が、じわじわと明るさを取り戻していく。


 さっきまで壁だった場所には、何も映っていない白いスクリーンだけが残っていた。


 私たちはしばらく、誰も口を開けなかった。


 耳の奥で、まだフィルムのざらついた音が鳴っている気がする。


「……今のが、“第零号”」


 沈黙を破ったのは、御影さんだった。


 その声は、いつもよりわずかに低かった。


「対策室が、“ちゃんとした部署”になる前の、試験的な記録。工業区画南端で、“一時的消失”が初めてはっきりと映像に残ったときのやつだ」


「初めて、ってことは……」


「報告書上は、ね」


 御影さんは、スクリーンを見たまま言った。


「さっきの映像も、“工場の一部が一時的に視認不能となったのち、数秒以内に再出現した。人的被害や構造的損傷は確認されず”って書類上は整理されてる」


「でも、“戻ってきていないもの”も、あったんですよね」


 自分でも驚くぐらい、すっとその言葉が出た。


 御影さんは、ほんの少しだけ目を細める。


「……どこまで聞いてた?」


「設立覚書の、端っこに書かれてたメモ。『第一次“帝都消失”事案に関する暫定対応』って」


 あの文字列が、地下資料庫の冷たい空気と一緒に蘇る。


「今日のフィルムも、その“暫定対応”の一環、ってことですか」


「まあ、半分はね」


 御影さんは、椅子の背にもたれ、天井を見た。


「対策室の頃は、今よりもっと場当たり的だった。“おかしなことが起きたら、とりあえず撮っておけ”って発想が先にあって、記録の意味づけは後から付いてくる」


「今もあんまり変わってない気がしますけど」


 九条さんが、半分冗談のように言う。


「撮ってから悩むのが、うちのやり方だしね」


 御影さんは、苦笑してから、真顔に戻った。


「さっきの“工場の一部”は、映像上では戻ってきてる。建物も、人も、影も。……ただ、現場にいた人間の感覚としては、“戻ってこなかったもの”のほうが印象に残ってる」


「戻ってこなかったもの」


 私は、スクリーンを見ながら復唱した。


「例えば、時間の一部。さっきの数秒が、どこにも属さなくなってしまったような、変な感覚。

 例えば、人の顔。映像上は同じ顔なんだけど、“さっきまで知ってた顔”とは微妙に違って見える感じ。

 言葉にしようとすると、どれも単なる気のせいに聞こえるんだけどね」


「でも、その“気のせい”が積もった結果が、“新しい枠組みが必要だ”って話につながったんですよね」


 九条さんの言葉に、御影さんは小さくうなずく。


「“帝都の異常事象を、ちゃんと記録しておく場所”。それが対策室の拡張版として提案されて、“幻灯局”になった」


「……それが、設立前夜」


 私は、スクリーンに映っていた若い横顔を思い出した。


「御影さんも、その場にいたんですよね」


「いたよ」


 あっさりとした肯定。


「カメラを回してたのが、たぶんぼく。フレームに映ってたのは、同じ現場にいた別の職員だね。あの頃は人手も少なかったから、撮りながら、走りながら、書きながら、って感じでね」


「そのときのこと、今でも覚えてますか」


「“全部”じゃないよ」


 御影さんは、わざとらしく肩をすくめてみせる。


「人間の記憶なんて、だいたい穴あきのフィルムみたいなもんだ。ところどころ、コマが抜け落ちてる。その抜けたところを、残ってるコマ同士が勝手に埋め合わせてるだけ」


「それでも、今日みたいにフィルムを見れば、“忘れてたこと”も戻ってくるんじゃないですか」


「戻ってくるものもあるし、“戻ってこないほうがいい”ものもある」


 御影さんは、スクリーンから視線を外し、私たちのほうを見た。


「灯子ちゃん」


「……はい」


「あのフィルム、どう思った?」


 問われて、言葉を探す。


 “すごかった”とか“怖かった”とか、単純な感想だけでは足りない。


 あの瞬間、工場の一部が抜け落ちたフレームの、あの嫌な静けさ。

 影と煙が、ゆっくりと形を変えながら空白を埋めようとしていたあの感じ。


 数日前、旧工場で見た“抜ける壁”の感覚と、どこか似ていた。


「……撮られてなかったら、“なかったこと”にされてたんだろうな、って思いました」


 しばらく考えた末に、そう口にしていた。


「さっきの“消えた数コマ”も、もしフィルムが回ってなかったら、『そんなことは起きなかった』って誰かが言って、それで終わりだったかもしれない」


 言いながら、自分の中にもうひとつの声があるのに気づく。


「でも、撮られてしまったから、もう“なかったこと”にはできない」


「“できなくなっちゃった”ほうが、困る人もいるだろうね」


 九条さんが、薄く笑う。


「『証拠がないから“異常はなかった”と言い張れる』って状態のほうが、楽な人たちもいる。逆に、撮ってしまったことで、“異常がある”って認めざるを得なくなる」


「そのせいで、街が守られることもあるし、壊されることもある」


 言葉が、自分でも驚くほどすらすらと出てきた。


「柳瀬町だって、あの日、誰も撮ってなかったら、“祭りの翌日に更地になってた”って話すら、どこにも残らなかったかもしれない」


 あの更地と、祭りの写真が、頭の中で重なる。


「でも、撮ってしまったせいで、“再開発の記録”としても使われた。『ちゃんと事前に記録してから更地にしました』って言うための、証拠にもなった」


 言いながら、自分で胸がざわつく。


「記録って、そういう両方の顔があるんだな、って……まだうまく整理できてないんですけど」


「整理なんて、しなくていいよ」


 御影さんは、少しだけ笑った。


「“街を守る”ためか、“街を壊す”ためかなんて、撮る前に分かってたら苦労しない。

 ぼくらの仕事は、“その両方に使われうるもの”を、とりあえずここに置いておくことだ」


「“ここ”?」


「幻灯局の原本棚。対策室の頃は、この資料庫の片隅だった。今は、朧町の小さな局の一角」


 御影さんは、映写機からフィルムを外しながら続けた。


「さっきの“第零号”も、本当はどこかで捨てられててもおかしくなかったんだよ。『一時的に消えたけど、戻ってきたから問題なし』ってことで」


「でも、残った」


「そう。ラベルも剥がされないまま、棚の奥でほこりをかぶってた。……どこの誰が、“捨てられなかった”のかは、もう覚えてないけどね」


 それは、御影さん自身なのかもしれないし、別の誰かなのかもしれない。


 その曖昧さが、かえって現実味を増していた。


「灯子ちゃん」


 名前を呼ばれて、顔を上げる。


「今日見たもの、どう扱う?」


「どう……」


「“撮るべきだったかどうか”じゃなくて、“撮られてしまっているもの”として、どう扱うか。

 柳瀬町の祭りも、更地も、旧工場の倉庫の“ゆがみ”も。……さっきの“瞬きする工場”も」


 スクリーンの白さが、急に重たく見えた。


 記録は、消せない。


 一度シャッターを切ってしまったものは、たとえどこかで廃棄されたとしても、「かつてそこにあった」という事実だけは、撮った人間の中から完全には消えない。


 フィルムが燃やされても、ハードディスクが壊されても、見る前に破棄されたとしても。


 今日見た“第零号”の映像も、もしこれから文化資源課の判断で「保管スペースの都合上、フィルムをデータに変換して原本は処分します」と言われたとしても――。


 もう、消えていない。


 少なくとも、私の中では。


「……ちゃんと、怖がろうと思います」


 自分でも意外な言葉が、口から出た。


「“撮らなかったことにする”んじゃなくて、“撮ってしまったことの重さを、ちゃんと怖がる”。

 そのうえで、“それでも撮るかどうか”を、その都度考える」


 御影さんは、ほんの一瞬だけ目を見開き、それからいつもの笑いに戻った。


「それで十分だよ」


「十分、ですか」


「“帝都の記憶を預かる人間”が、最初から立派な言葉を持ってる必要なんてない。

 怖がりつつ、それでも撮りたいと思って、撮り続ける。あとは原本が勝手に重くなる」


 どこかで聞いたような言い回しだった。


 喫茶「灯台」で、柳瀬町の写真を並べた夜のことを思い出す。


 あのときも、御影さんは似たようなことを言っていた。


 “原本が勝手に重くなる”。


 その重さが、街を守る錨になるのか、沈める石になるのか。

 それはきっと、私たちだけでは決められない。


 だからこそ、その石を「なかったこと」にしないための場所が、ここには必要なのだ。



 映写室を出ると、地下資料庫の蛍光灯が、さっきよりも冷たく感じられた。


 棚に戻す前に、私はもう一度だけ、“第零号”のラベルを見つめる。


《第零号記録/工業区画南端/“一時的消失”事案》


 十数年前の“瞬きする街”が、その中に巻き込まれている。


 数日前、私たちが倉庫の中で見た“ゆがむ壁”。

 あの奥に、もしかしたら同じような“瞬き”が繰り返されていたのだとしたら――。


 相馬さんが昔ここを歩いたときにも、誰かが行方不明になったあの時にも。

 見えないところで、街は何度も瞬きをしていたのかもしれない。


 撮られていない瞬きも、きっとたくさんあったはずだ。


 それらは、完全に“なかったこと”になっている。


 怖いのは、そっちのほうだ。


「……灯子ちゃん?」


 花さんが、棚の端で立ち止まっている私に気づいて声をかけた。


「はい、今行きます」


 フィルム缶をそっと棚に戻す。

 ラベルの文字が、蛍光灯の光でかすかに光った。



 地上に出ると、夕方の空気が、地下とは別の意味でひんやりしていた。


 市庁舎別館の階段を降りたところで、小さな広場を抜ける風が、紙くずを転がしていく。

 遠くで路面電車のベルが鳴った。


「ふう……やっぱり地上の空気はいい」


 花さんが、大きく伸びをする。


「地下も、あれはあれで味がありましたけどね」


 九条さんは、手帳を開きながら言った。


「『帝都異常事象記録対策室の残したフィルム』なんて特集、いつか組みたいなあ。……その前に、“情報共有の優先順位”で、うちの編集部が最下位にされそうですけど」


「記事にできるところと、ここにだけ置いておくところ。“両方あっていい”って、御影さんはさっき言ってましたよね」


「そうだね」


 私は、局へ戻る路面電車の停留所に向かいながら空を見上げた。


 薄雲の向こうで、夕日がビルの隙間を縫っている。


「さっきのフィルムも、たぶん“ここにだけ置いておく”ほうに入るんだと思います」


「記事にしたくない?」


「“したくない”ってわけじゃないです。ただ、あれをそのまま外に出したところで、『変な映像だな』って消費されて終わる気もして」


 その終わり方が、一番怖かった。


「だったら今は、とりあえず幻灯局と対策室の棚にだけ、重しみたいに置いておく。……そういう記録も、きっと必要だと思うんです」


「“記事にならない記録”か」


 九条さんは、小さく笑った。


「それはそれで、いいタイトルですね」


 停留所に停まった路面電車に乗り込む。


 窓から見える帝都の街は、さっき地下資料庫で見た古い工場とは違って、きちんと整えられた顔をしていた。


 整えられた顔の下で、ときどき瞬きする何かがあるとしても――。


 それをすべて映そうとすることは、きっとできない。


 それでも、カメラを持っている限り、見てしまった瞬きだけは、「なかったこと」にはしないでおきたい。


 “記録そのものが、街を守りも壊しもする”という感覚が、胸のどこかに静かに沈んでいく。


 幻灯局の原本棚には、対策室から引き継いだ箱やフィルムのほかに、柳瀬町や商店街や、旧工場の倉庫のラベルが増えていくのだろう。


 その一つひとつが、いつか誰かにとっての“証拠”になり、“呪い”になり、“支え”になる。


 路面電車が橋を渡るとき、川面に映る帝都の灯りが揺れた。


 その揺れもいつか、誰かのレンズに切り取られるのかもしれない。


 私は、膝の上に置いたカメラバッグにそっと手を置いた。


 今日見た“設立前夜のフィルム”の瞬きと、旧軍需工場の“ゆがむ壁”が、私の中で一本の細い線でつながっていく。


 その線の先に何があるのかは、まだよく分からない。


 分からないままで、明日もまたシャッターを切るのだろう。


 怖がりながら、それでも。


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