第26話「共同作戦」
その日、幻灯局の窓から見える帝都の空は、やけに薄く感じた。
薄曇りとも晴れともつかない色の向こうで、高架を走る路面電車だけが、いつも通りのリズムで往復している。
柳瀬町のラベルが増え、設立覚書の分厚さを知ってしまったあとで見る日常は、どこか上澄みだけをすくったみたいで、現実感が少し足りなかった。
モニターには、昨日までに撮ったアーケードの写真が並んでいる。
「公式」と「原本」、二つのフォルダの名前を見比べながら、私は思わず息をついた。
――記録って、どこまでが街のためで、どこからが、誰かの都合のためなんだろう。
「灯子ちゃん、顔こわい」
背後から声がして振り向くと、花さんが湯飲みを二つ持って立っていた。
「えっ、そんな怖かったですか?」
「うん。『この写真、今から消してやる……』みたいな顔」
「しませんよ。せいぜい『二枚目はどっちを原本に残すべきか』って悩んでたぐらいです」
「それも十分こわいからね? はい、休憩休憩」
湯飲みを受け取って一口飲むと、温かさが喉を落ちていく。その温度で、さっきまでの考えが少しだけ薄まった。
局の奥では、相馬さんが新聞と報告書を行ったり来たりしながら、何かを書き込んでいる。
御影さんは、例の設立覚書を別のファイルに挟み直し、原本棚ではなく自分の机の引き出しにしまっていた。
「……それ、戻さないんですか?」
つい、口が出る。
「これかい?」
御影さんは、引き出しの取っ手に手をかけたまま、こちらを見た。
「原本棚に置いたら、“見たい人”が増えちゃうからね。あれは、もう少しこっちで寝かせておく」
「寝かせてるうちに、勝手に消されたりしないですか」
「さあ。そこまで器用な力が、うちの引き出しに備わってればいいんだけど」
軽く笑ったそのとき、机の上の電話が鳴った。
御影さんが受話器を取る。
いつもの柔らかい声が、一瞬だけ引き締まるのが分かった。
「はい、帝都幻灯局です……ええ、御影ですが。……はい、はい……軍の治安部門と市警の混成チーム?」
その単語の並びに、部屋の空気がわずかに固まった。
「何か、あったんですか」
思わず花さんと目を合わせる。
「はい……局地的な“空白地帯”……」
御影さんは相手の言葉を復唱しながら、視線だけをこちらに向けてくる。
「現場での記録協力、ね……。ええ、分かりました。人員を二名出します」
受話器を置くと、少しだけ間を置いてから、こちらに向き直った。
「相馬くん」
「……嫌な予感しかしねえ呼び方だな」
相馬さんが、新聞から顔を上げる。
「灯子ちゃん」
「はい」
「ちょっと外縁部まで、お散歩だ」
「お散歩って顔じゃなかったですよね、今の電話」
「まあ、そうだね。軍需工場跡まで、だってさ」
やっぱり、と胸の奥が冷たくなる。
「場所は、帝都の外縁にある旧軍需工場エリア。今は物流倉庫と再開発予定地でぐるっと囲いがしてある一帯だ。そこで“局地的な空白地帯”が一時的に発生してる可能性があるから、現場の記録を、だって」
「空白地帯……」
柳瀬町の更地を思い出す言葉だ。
「単なる図面ミスかもしれないし、“こないだの柳瀬町みたいなやつの予兆”かもしれない。向こうもそこをはっきりさせたいんだろうね」
御影さんは、努めて淡々と説明した。
「軍と市警の混成チーム、それから“関連業者”って肩書きで、七瀬くんのところも入ってる。向こうが『幻灯局の記録が必要だ』って言ってるから、こちらとしても完全には断れない」
「“協力要請”ってやつですね」
相馬さんが、舌打ち寸前の息を吐く。
「断ったら断ったで、『じゃあ再編にあたり局の位置づけも再検討しよう』とか言われそうだしな」
「そういうこと。だから――」
御影さんは、私と相馬さんを順番に見た。
「危ないと思ったら、撮る前に逃げて」
「……撮る前に、ですか」
「うん。撮ったものを奪われるより、撮らないほうがマシな場面も、世の中にはある」
その言葉が、胸のどこかをちくりと刺した。
「でも、今日は向こうも“記録してほしい”って言ってる。どこまでが“協力”で、どこからが“利用”になるか。その線を、現場で見極めておいで」
そう言って、御影さんはいつもの笑顔を作った。
「カメラは……そうだね、今日はデジとフィルム、両方持っていこうか」
「え」
「デジタルはすぐにコピーを押さえられるけど、フィルムは奪うにも手間がかかる。“記録を武器にしたがる人たち”の前では、武器の数をこっちでも揃えておいたほうがいい」
冗談とも本気ともつかない声だった。
私は、うなずくしかなかった。
◇
路面電車を乗り継ぎ、さらに市警のバンに同乗させられて、帝都の外縁へ向かう。
窓の外の景色は、駅前の商店街から、大通り沿いのオフィスビル群へ、そして徐々に倉庫とコンテナ置き場ばかりの風景に変わっていく。
さっきまで原本棚に挟まれていた柳瀬町が、いつかこういう「再開発エリア」の片隅にあったのかもしれない、と思うと、行き先が少し怖くなった。
「顔、青いぞ」
隣の席の相馬さんが、窓の外から目を戻して言った。
「酔ってません。ちょっと考え事を」
「どうせロクでもねえ内容だろ。“また街が消えるんじゃないか”とか」
「……そうだったら、どうします?」
「どうするって、止められるなら止めてるさ。止められなかったから、今こうやってお前を連れて出動してんだろ」
乱暴な言い方なのに、どこか自分に向けてるみたいな口調だった。
「ここのエリア、相馬さん、来たことあるんですよね?」
「なんだ、御影から聞いたのか」
「いえ。さっき、『前に別件で来たことが』って、ちょっと言ってました」
「ああ……」
相馬さんは、窓の外に目を戻す。
「行方不明が一件あってな。工場勤務の男。現場はここら辺りだ。倉庫と倉庫の間で足取りが途切れて、それっきり」
「見つからなかったんですか」
「“それっきり”って言ったろ」
短く切った言葉が、妙に重かった。
「報告書上は、“自発的失踪の可能性も考えられる”とかなんとか書かれてる。警察の中でも“うやむや案件”ってやつだ」
「……そういうの、多いんですか」
「少なくはない。地図のほうが“正しい”って言われる街だからな、ここは」
返す言葉が見つからなかった。
バンが減速し、やがて金網のフェンスが続くエリアの手前で止まった。
「着いたぞ」
◇
旧軍需工場エリアは、錆と新しさが無理やり同居させられている場所だった。
遠くに、倒れかけた煙突がいくつも突き出している。その手前には、サビだらけの巨大なタンクや、窓ガラスの抜け落ちたコンクリートの建物。
そして、その前面を塞ぐように、真新しい白い倉庫群と、銀色に光るフェンスが整然と並んでいる。
夕方の斜光が、古い鉄の赤茶色と、新しい金属の白さを斜めに切り分けていた。
フェンスの前には、軍の車両、市警のパトカー、それから見慣れたタイプのトラックが数台止まっている。
「あー、来た来た」
ひょいと手を振る声に、そちらを見る。
反射ベストに作業用ヘルメット、スニーカーという、妙に軽い格好で立っていたのは、七瀬だった。
背後には、似たような格好の男たちが数人。体つきも歩き方も、どう見ても“普通の作業員”ではない。
「よ、相馬さんにお嬢ちゃん。今日はうちの現場が、“ちゃんと”記録付きでやれってさ」
「“ちゃんと”の意味がこえーんだよ」
相馬さんが顔をしかめる。
「七瀬、てめえのところ、どういう名目で呼ばれてんだ」
「“老朽化施設の解体前調査”」
七瀬は、視線だけで軍の車両を示す。
「で、あっちは“安全確認”。そっちは“記録協力”。……お前ら“どこからどう見ても解体業者”って顔してるけど、実際には何やらされる予定なんだ?」
「さあね。ウチに回ってくる仕事って、大体いつも“本当の目的は見積書の裏側”だからさ」
軽口の奥に、うっすらとした警戒がにじんでいた。
フェンスの内側では、軍の制服組と市警の制服組が何やら打ち合わせをしている。
そのあいだを、ヘルメット姿の男たちが行き来していた。
「幻灯局さんですね」
先に近づいてきたのは、市警側の中年の男だった。
胸のワッペンには、聞き覚えのない部署名が書かれている。
「私は市警の対策一課の――まあ、名前はいいです。今日は軍側の治安部門と共同で、“老朽化施設の安全確認”を」
「その“安全確認”の現場で、“局地的な空白地帯”が出てるって話じゃなかったんですか」
相馬さんが、あえて言葉を選ばずに切り込む。
「言葉に気をつけていただきたい。現時点では、あくまで“地図と現場の微妙なズレ”が指摘されているだけです」
「微妙なズレ、ねえ」
七瀬が横から口を挟む。
「この一帯、帳簿の上では、とっくに別会社名義に移ってるはずなんだけどさ。その割に、誰も中身をはっきり知らないんだよね」
軍の制服の男が、こちらに歩み寄ってきた。
肩章が、さっき設立覚書のときに見た軍人と似ているようで、違うようにも見える。
「ここから先の区域は、再開発予定地として暫定的に“調整区域”に指定されている」
軍の男は、抑揚の少ない声で言った。
「図面上では、古い工場群はすでに“大枠で撤去”されたことになっているが、実際には一部構造物が残っている。現場での安全確認と、今後の工事計画の再調整のために、君たちの“記録”が必要だ」
「“必要だ”、ね」
相馬さんの目が鋭くなる。
「お言葉ですけど、“必要だから”って言えば、何でも撮らせていいってもんじゃないですよ」
「分かっている。君たちは“帝都の記憶の記録機関”なのだろう。だからこそ、我々はその目を借りたい」
軍の男は言葉を選ぶように言った。
「可能な限り、現場で記録を続けてほしい。何か起きた瞬間を逃したくない」
――何か起きた瞬間。
その言い方が、妙に引っかかった。
「具体的には、どれぐらい“何か”が起きそうなんですか」
私が問いかけると、男は一瞬だけこちらを見た。
「“柳瀬町の再現”を期待しているわけではない」
「期待、ですか」
「例えだ」
軍の男は、表情を変えずに続けた。
「些細な揺らぎであっても、事前に察知できれば、対処の方法も変わってくる。我々は、“普通の再開発現場”かどうかを早めに判断したい。そのための記録だと思ってくれ」
“普通の再開発現場”。
その言葉が、今日のキーワードのように頭にこびりつく。
◇
倉庫群のあいだを、ヘルメットと反射ベストの列が進んでいく。
旧軍需工場の建物は、フェンスの奥に影のように残っていた。
崩れかけた煉瓦の壁、窓ガラスの割れた高い塔。そこに、白いプレハブと新しい倉庫の直線が、無理やり上書きされている。
夕方の太陽が、古い煙突と新しい鉄骨のあいだに斜めに差し込んでいた。
オレンジ色の光と長い影が交差して、地面に奇妙な模様を描いている。
「こうして見るとさ」
ヘルメットを斜めにかぶりながら、七瀬がぼそりと言う。
「古い街の上に新しい街が乗っかってるっていうより、“死体の上に服着せて歩かせてる”みたいだよな」
「例えが悪い」
相馬さんが眉をひそめる。
「でも、まあ――」
私は、カメラを構えながら周囲を見渡した。
サビだらけの梯子。
使われなくなって久しい配管。
そして、その手前に並ぶ、真新しいパレットと、整然と積まれたコンテナ。
たしかに、どちらかだけを見ていれば「よくある景色」で済んでしまう。
けれど、二つが隣り合っている様子を見ると、何かが無理やりつなぎ合わされているのが分かる。
「ここです」
案内役の市警の男が、ある倉庫の前で立ち止まった。
他の倉庫と同じような白い外壁。シャッター。番号札。
でも、端末で示された地図上の位置を見ると、その倉庫だけ座標がわずかにずれているという。
「図面では、もう少し向こう側にあることになっているんですがね」
男は、端末を相馬さんに見せた。
地図上の四角と、現実の倉庫の位置が、微妙に重なっていない。
ほんの数メートルの違い。けれど、こういう場所では、その数メートルが命取りになることもある。
「単なる測量ミスか、再編の過程で移動したのに更新されてないだけかもしれませんが」
「“かもしれない”が、ここでは一番怖いんだよ」
相馬さんは、端末を覗き込みながら低くつぶやいた。
「前に来たときと、配置が微妙に違う気がするんだ。俺の勘違いならそれでいいけどな」
「勘違いじゃないんだったら?」
私の問いに、相馬さんは肩をすくめた。
「そのとき行方不明になったやつが、今でもこの“ズレ”の向こう側に立ってたら――なんて考えたくねえだろ」
胸の奥が、きゅっと縮む。
七瀬は、別の意味で眉をひそめていた。
「この倉庫ね、“帳簿の上”だと何年か前にとっくに別会社の資産になってるんだよ」
「別会社?」
「うん、“港湾部物流統合センター第二管理会社”とかいう、長い名前のとこ。で、その会社の実態を追ってみると、また別の会社が出てきて、その裏にまた別の会社がいて――ってやつ」
七瀬は、指で空中に線を描きながら続ける。
「表向きは全部、再開発と物流拠点整備のための名義替え。だけど、こういうとこ、誰も“中身”を見たがらないんだよね。“書類の上で片付いてるなら、それでいいじゃないか”って」
「だから、こうして現場が呼ばれたわけか」
相馬さんが、倉庫のシャッターを見上げた。
「“書類通りじゃない”ってだけで、ここまでの人間動員するかね、普通」
軍の男が近づいてきた。
「これより内部の安全確認に入る。作業員チーム、配電盤と構造のチェックを。市警は外周の確保。幻灯局は、入口から内部全体にかけて“途切れないように”記録を続けてくれ」
「途切れないように、ですか」
「何か起きてから“さっきまでは何もなかった”と主張しても、説得力がない」
軍の男は、こちらを真っすぐ見た。
「“何も起きていなかった時間”ごと記録してほしい」
――記録が、ここでは“保険”じゃなくて、“武器”として求められている。
そんな感覚が、皮膚の上を冷たく這った。
◇
倉庫のシャッターが、重い音を立てて持ち上がる。
中は薄暗く、ひんやりした空気が流れ出てきた。
古い木材と油の匂い。長く使われていなかった埃っぽさと、どこか湿った気配が混ざりあっている。
「ライト入れるぞ」
七瀬の部下の一人が、ヘッドライトをつける。
細い光が、倉庫の奥を細切れに照らしていく。
私は、カメラの電源を入れた。
ファインダーを覗きながら、入口から内部に向かってゆっくりとパンしていく。
古いラック。空になったパレット。壁にかかったまま錆びた扉。
どれも、“よくある倉庫の風景”と言えば、その通りだ。
ただ、その奥――
「……今、ちょっとおかしく――」
言葉になりきらない違和感が、喉の奥につかえた。
ファインダーの中で、一瞬だけ、奥の壁の輪郭が“抜けた”。
そこにはさっきまで、灰色のコンクリートの壁があったはずだ。
なのに、その一瞬だけ、そこが薄い膜みたいになって、その向こう側に別の空間の影が透けて見えた気がした。
幅の違う通路。見たことのない配管のパターン。
遠くで点滅する、どこか別の施設の警告灯――そんな光景が、ほんの数フレーム、差し込まれたような感覚。
息を止めて、もう一度同じ場所を覗き込む。
そこには、さっきと同じ、灰色のコンクリートの壁があるだけだった。
「どうした」
すぐ横にいた相馬さんが、小声で問う。
「いえ……今、ファインダー越しに、壁が……ちょっとだけ、抜けて見えたような」
「抜ける?」
「向こう側に、別の……説明がうまくできないんですけど」
私が言っているあいだにも、手元のカメラは、忠実に“灰色の壁”を映し続けている。
液晶画面を確認しても、さっきの“ゆがみ”は見当たらない。
気のせいだったのかもしれない。
でも、背筋に走った寒気は消えない。
そのとき、相馬さんのポケットで端末が短く震えた。
「……チッ」
小さく舌打ちが漏れる。
「どうかしました?」
「位置情報が、さっきからちょこちょこぶれてやがる」
相馬さんは、端末の画面をこちらに向けた。
地図上で、私たちがいる倉庫のマークが、微妙に揺れている。
数メートル単位で表示がふらつき、時折、さっきとは違う場所を指しては戻る。
「電波の状況が悪いだけかもしれませんが」
市警の男が、そう言いながら自分の端末も確認する。
「他の倉庫では問題ないんですよね?」
「ええ。ここだけです」
軍の男が短く答える。
「やっぱり、“普通の再開発現場”じゃねえな、ここ」
相馬さんは、奥の暗がりを睨んだ。
「なあ、あんたら」
七瀬が、軍の男に一歩詰め寄る。
「最初からこうなる可能性、知っててウチら呼んでるだろ。“ちょっと地図がズレてるかもしれないから、安全確認お願い”って顔じゃねえぞ、これ」
「現時点では、何も起きていない」
軍の男の声が、冷たく平板に返る。
「記録は続けてくれ。それが、君たちの仕事だ」
「記録続けて、もし現場で人が消えたらどうするんだ」
相馬さんの声に怒気が混じる。
「“経年劣化でした”“安全確認は行われていました”って、報告書に一行書いて終わりか?」
「そのようなことは想定していない」
「想定してないことが起きてるから、俺たちはここにいるんだろうが!」
一瞬、空気がぴんと張り詰めた。
七瀬の部下たちが、作業の手を止めてこちらを見ている。
倉庫の奥の薄暗がりが、急に濃くなったような気がした。
――このままじゃ、きっと、何かが起きる前に、言い合いのほうが爆発する。
「……どっちにしても」
自分の声が、思っていたより大きく響いて、びくりと肩が震えた。
「どっちにしても、起きたことは、撮らないとわからないです」
みんなの視線が、一斉にこちらに向く。
「図面のズレなのか、現場の老朽化なのか、“それ以外の何か”なのか。どれも、言葉だけじゃ、きっとあとで『そんなことはなかった』って言われるだけで」
手の中のカメラが、いつもより重く感じた。
「だから――私は撮ります。ここで、いま、何が起きてるのか」
自分でも驚くぐらい、はっきりと言葉が出た。
「……ほらよ、相馬さん」
沈黙を破ったのは、七瀬だった。
「お嬢ちゃんの護衛、あんたの担当だ」
「勝手に決めんな」
相馬さんが、心底面倒くさそうに顔をしかめる。
「お前だって一緒に巻き込まれてんだよ。ちゃんと働け、七瀬」
「はいはい。ウチの連中にも“門番”ぐらいはさせるよ」
二人のやり取りに、少しだけ空気が緩んだ。
軍の男は、わずかに眉をひそめたまま、それ以上は何も言わなかった。
「……記録は、続けてくれ」
ただ、それだけを繰り返した。
◇
倉庫の奥へと進みながら、私は意識的にシャッターを切り続けた。
何もない床。
ハシゴ。
割れた窓。
さっき“抜けた”ように見えた壁。
どれも、ファインダー越しには、ごく当たり前のようにそこにある。
さっきの一瞬は、本当に見間違いだったのかもしれない。
でも、指先の感触が覚えている。
シャッターを切る瞬間に、ほんのわずか、レンズの向こうの空気がねじれたような手応えを。
相馬さんの端末は、時折小さく震えては、位置情報の揺らぎを知らせ続けている。
画面の上で、倉庫のマークが、また数メートルずれては戻る。
七瀬の部下が、配電盤にテスターを当てている。
「電気系統は、まあギリ生きてるな。ここが“このまま放置したら危ない”のは、間違いないけどさ」
「“普通の危なさ”と、“普通じゃない危なさ”の線引きが、今日は一番の難題だね」
七瀬が、軽く肩を回す。
その視線の先で、軍と市警の制服組が、こそこそと何かを話している。
時折、こちらのほうをちらりと見ては、すぐに視線をそらす。
――記録が、“証拠”にも“口止め材料”にもなる。
設立覚書の言葉が、頭の片隅でよみがえった。
今日撮った映像や写真は、いつかどこかで、「何も起きなかった」ことの証拠に使われるかもしれない。
あるいは、「説明できない何か」が写り込んだ一枚だけが、どこかの机の引き出しにしまわれて、なかったことにされるかもしれない。
それでも、撮らなければ、私たち自身にも何が起きたのか分からなくなる。
その矛盾を抱えたまま、私はシャッターを切り続けた。
◇
日が完全に傾き、倉庫の外にはオレンジ色の光が長い影を落とし始めていた。
内部の調査は、一通り終わったということになった。
軍と市警の顔は、どこか納得したような、納得していないような曖昧な表情だ。
「本日のところはこれで打ち切る」
軍の男が、簡潔に告げた。
「詳細な解析は、持ち帰ったデータをもとに行う。幻灯局には、撮影したデータ一式の提出をお願いしたい」
「それは、いつものように“コピー”でいいんですよね」
相馬さんが確認する。
「こちらで“原本”まで預かられては、御影局長が困るだろう」
男は、意味ありげにそう言った。
「ただし、“提出されたものがすべて”であることを、信頼させていただく必要がある」
「信頼は、両方通りですよ」
相馬さんは、目を逸らさずに返した。
「こっちも、“提出したものが全部”として扱われるって信じるしかないんで」
軍の男は、何も言い返さなかった。
その沈黙が、逆にいろいろなものを語っている気がした。
◇
撤収作業が進むなか、倉庫の入口で私は一度だけ振り返った。
薄暗い内部。
オレンジ色の斜光が、手前だけを照らし、奥は相変わらず影の中に沈んでいる。
その境目に、ほんの一瞬だけ、光がゆらいだ。
壁でも影でもない、微妙な“空間のゆがみ”のようなものが、かすかにきらめいて、すぐに消えた。
さっき見た“抜ける”感覚の、もっと薄い残り香みたいな光だった。
「灯子」
名前を呼ばれて振り返ると、相馬さんと七瀬が、入口に並んで立っていた。
「ぼーっとしてると、置いてくぞ」
「すみません。ちょっと、光が」
「……そういうの、今は一人で見るな」
相馬さんは、わざとらしく大きなため息をついてみせる。
「お嬢ちゃんに変なもん見せる現場連れてくるの、だいたいウチらなんだけどさ」
「責任感じてんの?」
七瀬が、口の端を上げる。
「見たくて見てるわけじゃねえよ。ここで見なきゃ、どっか別の場所で誰かが“巻き込まれる”だけだ」
「そういうところが、相馬さんの面倒くさいところなんだよね」
「うるせえ。お前も似たようなもんだろうが」
「それ、褒め言葉?」
「違う」
二人のやり取りに、思わず笑いそうになって、すぐに真顔に戻した。
笑うには、まだ少し早い気がしたからだ。
倉庫の入口から一歩外に出ると、夕焼けの光が目に痛かった。
背後の暗闇と、目の前のオレンジ色。
そのあいだに、自分の影と、二人の影が並んで伸びる。
誰かが、どこかからこの光景を撮っていたら――三人の背中は、どう見えるのだろう。
倉庫の奥から、さっきの“ゆがみ”が、まだこちらを見ているような気がした。
振り返らないまま、私はシャッターを一度切った。
倉庫の入口から、薄暗い内部を見つめる三人の背中。
その奥の暗闇の中で、一瞬だけきらめく、説明のつかない光。
カメラの中に閉じ込められたその一枚が、後でどんな意味を持つのかは、まだ分からない。
◇
現場をあとにするころには、空はすっかり群青に変わっていた。
軍の車両と市警のバンが先に出ていき、七瀬たちのトラックがそのあとを追う。
私たちは、少し遅れて、工場エリアから離れる路地に出た。
遠くで、路面電車の軋む音が聞こえる。
帝都の中心部へ戻る線路は、あの音の先に続いている。
「……なあ」
歩きながら、相馬さんがぼそりと言った。
「さっき、お前が言ったろ。“どっちにしても、起きたことは撮らないとわからない”って」
「はい」
「その通りなんだよ。だからこそ、あいつらは“起きたことを自分の都合のためだけに使いたがる”」
軍と市警の車列のテールランプが、遠ざかっていくのが見える。
「記録は武器にもなる。盾にもなるし、口封じの札にもなる。……だからこそ、“こっちの武器”も鈍らせたくないんだよな」
「“こっちの武器”?」
「原本だよ」
相馬さんは、うっすらと笑った。
「今日撮ったやつも、御影がどうせ“公式提出用”と“原本用”で分けるだろ。あいつも、あいつなりに“共同作戦”やってるんだよ」
「誰と誰の共同作戦ですか」
「街と、消されるほうと、消すほうと――その真ん中ぐらい」
よく分からないようで、なんとなく分かるような表現だった。
「七瀬さんは、どうなんでしょうね」
前を歩く七瀬の背中を見ながら、私は言った。
「さっき、『死体に服着せて歩かせてるみたい』って言ってましたけど」
「あいつはあいつで、“死体の服”作ってる側にいる自覚はあるだろな」
相馬さんは、肩をすくめる。
「でも、今日みたいに利害が重なるときは、同じ方向を見る。そういうやつだ」
前を行く七瀬が、振り返りもせずに片手をひらひらと振った。
「聞こえてるよー。それ」
「わざとだ」
二人のやり取りに、さっきより少しだけ素直に笑えた。
工場エリアを出る角で、遠くから路面電車のヘッドライトが見えた。
帝都は、今日も走り続けている。
そのどこかで、さっきの倉庫みたいに、“地図と現物のズレ”がまた生まれているのかもしれない。
誰も気づかないまま、誰か一人だけが消えていくような場所が。
今日撮った映像と写真は、きっと近いうちに“公式の席”に並べられるだろう。
そのうちの何枚かは報告書の添付資料になり、何枚かは机の中にしまわれ、何枚かは「必要ない」と言われるかもしれない。
それでも、原本棚には、今日の倉庫の名前がひとつ増える。
“旧軍需工場エリア・倉庫12(調整区域)”。
その背表紙が、いつか柳瀬町のファイルと並んで、帝都の片隅で静かに重みを増していく。
路面電車に乗り込むと、窓ガラスに自分たちの姿が映った。
ヘルメットを外し、少し埃っぽくなった髪のまま座席に沈む私と、隣で腕を組んで目を閉じる相馬さん。
前のほうの吊り革近くには、七瀬がスマホをいじりながら立っている。
窓の外を、工場の影と倉庫の白さが後ろへ流れていく。
その向こうに、まだ見えない何かの“空白”があるのかもしれない。
それを全部埋められるほど、私たちのカメラは万能じゃない。
でも、見てしまったものを、「最初からなかった」ことにされる前に、とりあえず一度はフレームに収めておきたい。
それだけでも、きっと意味があると信じたい。
電車が高架を渡るとき、遠くに帝都の夜景が広がった。
灯りの数だけ、街の顔がある。
そのいくつかは、すでに地図からも名前からも外れかけているかもしれない。
――共同作戦、か。
軍と市警と七瀬と、幻灯局。
表向きはみんな同じ方向を向いているふりをしながら、それぞれ別のものを守ろうとしている。
その中で、私のカメラは、いったいどっち側の武器なんだろう。
答えは出ないまま、私はそっとカメラバッグに手を置いた。
少なくとも、今日撮った一枚一枚が、“誰かの都合だけで”使われないように。
原本棚という小さな器に、ちゃんとたどり着くように。
電車の揺れに身を任せながら、私は目を閉じた。
薄暗い倉庫の奥で一瞬だけ光った“ゆがみ”が、まぶたの裏で、まだかすかにきらめいていた。




