第25話「設立覚書」
その日の帝都は、いつもより少しだけ、ガラス越しに遠く見えた。
朝の路面電車に揺られながら、私は窓の外をぼんやり眺める。
川沿いの高架の向こうに、もう柳瀬町はない。かわりに「整備中」の看板と、規格通りのコンクリートの塊が増えていく。
車内では、吊り革につかまった会社員たちが新聞を広げ、学生らしい子たちがスマートフォンをのぞき込み、年配の女性が買い物袋を抱えて座っている。
みんな、それぞれの「今日」に向かって揺られている。
私だけが、少しだけ昨日の街と、もう地図にない街のことを考えている気がして、変な心地だった。
幻灯局の最寄りの停留所で降りると、いつもの坂道が待っている。
古いビルの壁に貼られた、色あせた選挙ポスター。角のたばこ屋の猫。配達中の自転車。
世界は、何事もなかったみたいな顔をしている。
局のドアを開けると、先に来ていた花さんが、給湯室からカップを二つ持って出てきた。
「あ、灯ちゃん。おはよ。コーヒーいる?」
「ください。今日はちゃんと寝られました?」
「うん、柳瀬町の夢は見なかったよ。代わりに、うちのアーケードが観光パンフで大出世する夢だった」
「それはそれで、こわいような……」
笑いあいながら、デスクに荷物を置く。
原本棚の一角に、昨日貼ったばかりの「柳瀬町」のラベルが、まだ新しいインクの黒さでこちらを見ていた。
あのファイルの中には、もう、この世にはない路地と、ちょうちんの光と、子どもたちの笑い声が詰まっている。
そう思うと、棚全体が、実際の重さ以上に重く見えた。
「今日は、何か入ってます?」
私は自分の机に腰かけながら、御影さんに声をかけた。
局長席の向こうで、御影さんはいつものように書類をめくっている。
「撮影の依頼なら、今のところは静かなもんだよ」
と答えながら、しかし珍しく顔をしかめた。
「その代わり、ちょっと面倒なのが一件ね」
「面倒?」
花さんがカップを片手に近づいてくる。
「市役所から連絡があってね。監査課だのなんだのって名乗る人たちが、午後イチで“視察”に来るそうだ」
「視察……?」
「『幻灯局設置から一年経過したので、中間報告と運用状況の確認を』だってさ。ついでに、軍と教会と、九条くんのとこの新聞社からも、“関係者”が来るって」
御影さんは、机の上の電話メモを軽く指で叩いた。
「いつの間に、そんな大がかりな話に」
「柳瀬町とアーケードの件が、思ってたより上のほうで話題になったんだろうね。“このまま放っとくには、ちょっと影響力が出てきたんじゃないか”って」
さらっと言われたけれど、胸の奥が少し冷たくなった。
影響力。
そんな大それたものを持っている自覚なんて、私たちにはなかった。
ただ、見たものを撮って、原本にしまっていただけなのに。
「じゃあ、なんですか」
花さんが、眉をひそめる。
「今日は、撮影じゃなくて、お役所に“お仕事やってますよね?”って見せる日ってこと?」
「まあ、ざっくり言うとそんなとこかな」
御影さんは、肩をすくめた。
「心配しなくていいよ。別に悪いことをしてるわけじゃない。“こういうものを撮って、こういうふうに保管してます”って説明すればいいだけさ」
「“だけ”って言いましたけど、相手、軍とか教会とかもいるんですよね」
「うん。そこが“面倒”ってさっき言った理由」
御影さんは、おどけたように溜め息をついた。
「とりあえず、会議室には掃除機をかけておいて。余計なファイルは片づけて、“見せていいほう”だけ並べとこうか」
“見せていいほう”。
自然な言い方で口から出たその言葉に、私の指先が少しだけ固くなる。
原本棚に目をやると、「柳瀬町」のファイルは、他の街角写真のファイルに挟まれて静かに立っていた。
今日の会議室に出ていくのは、そのうちのどれだけだろう。
◇
午後。幻灯局の小さな会議室は、いつになく人で埋まっていた。
長机の片側には、私たち。
御影さんと、相馬さんと、私。
花さんは、お茶出しと書記を兼ねて、端の椅子に座っている。
反対側には、市役所の監査課の職員が二人。
薄いグレーのスーツに、よくアイロンのきいたワイシャツ。顔に張り付いたような笑顔。
その隣には、軍の制服組が一人。
濃紺の詰襟に、肩章と勲章。背筋がまっすぐで、部屋の空気までしゃんとさせてしまう。
さらにその隣には、教会の連絡窓口だという神父風の男性。
黒い服に白い襟。柔らかく目尻の下がった笑みが、逆に何を考えているのか分かりづらい。
一番端には、見慣れた顔があった。
「いやあ、なんか、すごいメンバーですね」
九条さんが、手帳を膝に乗せて、苦笑いを浮かべる。
「“関係機関の代表者”って聞いたときは、もうちょっと地味な集まり想像してたんですけど」
「私もだよ」
御影さんが、向かい合う形で座りながら答える。
「うちみたいな小さな局に、よくまあこれだけの肩書が揃ったもんだね」
監査課の職員が、喉の奥で乾いた笑いを漏らした。
「いえいえ、決して“監査”というほど堅苦しいものではなくてですね」
そう言いながらも、その手つきは迷いなく分厚いファイルを机の上に置いた。
ドン、と、書類の重さが木の天板に伝わる。
「本日はあくまで、『幻灯局設置から一年の中間報告と、運用状況の確認』ということで。こちらが、その際の基本要綱と覚書になります」
ファイルの表紙には、古い紙特有の黄ばんだ色が浮かんでいた。
角は少し丸まり、何度も開閉されたらしい折り目がついている。
上部には、かすれた判が押されていた。
『帝都異常事象記録対策室 設置覚書』
墨がにじんだその文字を見た瞬間、背筋に冷たいものが走る。
異常事象。
記録。
対策室。
どれも、今私たちがやっていることに近い言葉なのに、そこににじむ古さと、お役所特有の堅苦しさが、別の匂いをまとわせている。
「……これ」
思わず声が出た。
「はい。幻灯局の“前身”となる組織の名称ですね」
監査課の職員が、慣れた調子で説明を続ける。
「設置当時は“帝都異常事象記録対策室”という名称でしたが、その後の改編を経て、現在の“帝都幻灯局”となっております。今日は、この覚書の内容を改めて確認させていただきながら、皆様の日々の活動が要綱に沿って行われているかどうか、軽くお伺いする形になります」
“軽く”と言いつつ、ファイルの厚みは全然軽くない。
ページがめくられるたびに、紙と紙がこすれあう音が、小さな部屋に積もっていく。
◇
ヒアリングは、最初は事務的なものだった。
「この一年で撮影された件数と、その内訳を教えてください」
「行政判断――再開発等に活用されたケースは何件ほどありますか」
「治安維持上、警察・軍に提供されたデータは」
「教会側に“不可解な現象”として共有された事例は」
監査課の職員が読み上げる問いに、御影さんが淡々と答えていく。
途中で相馬さんが、現場の状況を補足する場面もあった。
「件数だけで言えば、住宅街の小さな路地のほうが多いね。再開発の前後だけじゃなく、“ここがこう変わりました”って記録の依頼がじわじわ増えている」
「柳瀬町のような、行政区画そのものが消えるケースは、そう頻繁にあっては困るんですがね」
監査課の職員が、冗談めかして笑った。
けれど、その目の奥は笑っていなかった。
「軍といたしましても」
制服の男が、初めて口を開いた。
「局地的な“消失”や“改変”の記録というのは、決して他人事ではありません。特にインフラや交通網に関する部分で、突発的な変化があった場合、その影響は安全保障上も無視できない」
低くよく通る声だった。
「今後、幻灯局さんが撮影なさる映像や写真が、“安全保障上、重要な意味を持つ可能性”も十分考えられます。その際には、情報の優先的な共有という形で、ご協力をお願いする場面も出てくるでしょう」
「“優先的な共有”って、具体的にはどういう……」
私が口を挟みかけたとき、その隣の教会の連絡窓口が、穏やかな声で被せてきた。
「教会といたしましても、帝都における“不可解な現象”には深い関心があります」
神父のような男は、胸の前で手を組んだ。
「神の御業と人の作為とを見分けるためにも、現場の“生の記録”は大変貴重です。現象が確認された際には、できるだけ速やかに、教会側へもご共有いただければと」
“神の御業”という言葉が、この部屋に座っている軍人や役人と同じテーブルに並べられると、奇妙な違和感があった。
その違和感を、もっと別の言葉に変えたのは、九条さんだった。
「それ、簡単に要約するとですね」
軽そうな口調のまま、目だけが真剣になる。
「“場面によっては、報道機関は黙ってろ”ってことですか?」
会議室の空気が、少しだけ固くなった。
軍の男が、ゆっくりと九条さんに視線を向ける。
「そのような言い方はしておりません」
「言い方はしてないですけど、実質そういうことなのかなあ、って。ほら、この覚書の該当箇所」
九条さんは、覚書の一ページを指先で軽くたたいた。
そこには、こう書かれていた。
『軍・教会・行政機関への情報提供は、当該事案の影響範囲に応じて優先順位を定める。
報道機関・一般市民への情報公開については、別途協議のうえ決定するものとする』
「“優先順位を定める”って便利な言葉ですよね」
九条さんは、笑っていない笑顔で続ける。
「上から順に、“軍・教会・行政”って並んでて、“報道機関”は別枠。……つまり、“お前らは後回し”って読み取れてしまうのは、僕の職業病ですかね」
「必要に応じて、ご相談はいたします」
軍の男が、同じような笑っていない笑顔で返した。
「すべての情報が即時に公開されればいい、というものでもない。混乱を招くリスクも、考慮せねばなりませんから」
「混乱を防ぐために、情報を絞る。よくある話ですね」
九条さんは、あっさり引き下がるように見せながら、手元のメモ帳にさらさらと何かを書きつけた。
その横で、私は覚書の文字を追っていた。
『行政区画再編にともなう“非公表区域”に関する記録の扱い』
『局地的消失・改変事案の記録は、原則として関係各機関の合意のもとに保存・破棄の判断を行う』
“非公表区域”。
“保存・破棄”。
柳瀬町のことが、頭の奥で蘇る。
地図から消された街。
「最初からなかった」と言われた場所。
あの街の写真は、原本棚の一角に収まっている。
もし、この覚書通りに“関係各機関の合意”で“破棄”が決まったら、それすらもここから消されてしまうのだろうか。
◇
「それでは、そろそろまとめに入りましょうか」
監査課の職員が、書類を整えながら言った。
「本日のヒアリング内容をもとに、後日正式な報告書を作成させていただきます。最後に一つだけ、基本的な確認を」
彼はファイルを閉じ、改めて御影さんを見た。
「幻灯局――旧称“帝都異常事象記録対策室”の目的は、“帝都の記憶を記録・保存すること”で相違ありませんね?」
部屋の視線が、一斉に御影さんに集まった。
御影さんは、ほんの一瞬だけこちらを見た。
私と、花さんと、相馬さんの顔を順番に見てから、ゆっくりと息を吸う。
「建前としては、そうですね」
穏やかな口調だった。
「行政上の必要に応じて、消失や再編の前後を記録し、必要があれば“証拠”としても役立てる。それが、この覚書に書かれた目的です」
「“建前としては”」
教会の男が、その部分だけを繰り返した。
「ええ」
御影さんは、にこりともせずに頷く。
「それ以外のことは、覚書には書いてありませんから」
淡々とした言い方なのに、その一言が、妙に頭に残った。
軍の男が、わずかに笑みを浮かべる。
「では――有事の際には、“証拠の取扱い”について、改めてご相談させていただきましょう」
“取扱い”という言葉が、この部屋の空気を少しだけ冷たくする。
監査課の職員たちは、「本日は貴重なお時間を」といかにもな挨拶を述べ、教会の男は「神の御加護を」と小さく十字を切った。
軍の男は、きびすを返す前に、ちらと原本棚のほうへ視線を向けた。
その視線は、一瞬で通り過ぎたのに、なぜか長く残像を引いた。
ぞろぞろと去っていく一団を、局の入口まで見送る。
外は、日が傾き始めた帝都の光で満ちている。
「ふう……」
ドアが閉まった瞬間、相馬さんが大げさに肩を回した。
「なんつー顔ぶれだ。うち、いつ国の中枢機関になったんだよ」
「なってないよ」
御影さんが、ぽつりと返す。
「ただ、“消えていくもの”を撮ってる場所ってのは、昔から権力の目が向きやすいんだ」
「証拠になるからですか」
私が問いかけると、御影さんは「それもあるし」と続けた。
「証拠になるということは、裏返せば、“なかったことにしたいとき、最初に潰したいもの”でもあるってことだからね」
その一言に、誰もすぐには何も言えなかった。
◇
会議室に戻ると、テーブルの上にはまだ、さっきの覚書ファイルが置かれていた。
分厚い背表紙。黄ばんだ紙。
“帝都異常事象記録対策室 設置覚書”の文字。
私は、そっと椅子に腰を下ろし、そのファイルに手を伸ばした。
「ちょっとだけ、いいですか」
「どうぞ」
御影さんは、止めなかった。
表紙をめくると、細かい文字がぎっしり並んでいる。
設立の経緯。担当部署。連絡系統。予算の配分。
その中に、私にも分かる言葉がいくつもあった。
『帝都における局地的消失・改変事案の記録について』
『行政区画再編にともなう“非公表区域”に関する記録の扱い』
『軍・教会・報道機関に対する情報共有の優先順位』
柳瀬町のことを、まるで最初から見越していたみたいな文言だ。
ページの端に、古い日付と署名が並んでいるのが目に入った。
日付は、今から何年も前。
私がまだ、ただの学生だったころ。帝都でそんなことが起きていたなんて、想像もしなかった頃。
署名の列のなかに、見慣れた名前があった。
「……御影さん?」
思わず顔を上げると、御影さんは苦笑いで肩をすくめた。
「昔の話だよ。肩書だけは立派だった頃のね」
その名前の横には、見たことのない部署の印が押されていた。
『帝都総合調整局 特務調整課』
総合調整。特務。
どんな仕事をしていたのか、ここからは分からない。
ただ、今この場所に座っている御影さんが、設立のときからこの覚書の側にいたことだけは、はっきりした。
ページをめくりながら、胸の奥に、別の種類のざわめきが広がっていく。
――本当の目的は、ここに全部書いてあるわけじゃない。
そんな言葉が、自然と頭の中に浮かんだ。
柳瀬町を見たあとだからこそ、そう思うのかもしれない。
紙の上の言葉が、「再編」「調整」「有効活用」なんてきれいな言葉ばかりなのが、かえって怖かった。
終わりのほうのページをめくったとき、ふと、紙の色が微妙に違う部分があるのに気づいた。
紙の端が、ほんの少し黒ずんでいる。
何かが書かれて、あとから消されたみたいな跡。
目を凝らすと、薄く、かすれた文字が残っていた。
『第一次“帝都消失”事案に関する暫定対応――
詳細は別紙/極秘扱い』
息が詰まった。
“帝都消失”。
柳瀬町一つどころじゃない。
帝都そのものが、どこかで一度――。
「それは」
声が出る前に、そっとファイルに手が伸びた。
御影さんの指が、私の指のすぐ横で、静かにページを押さえる。
「それは、もう少し先でいいよ、灯子ちゃん」
優しい声だった。
「“過去問”を全部読んでから本番に臨まなきゃいけないわけじゃない。今、必要なのは、目の前の街と人を撮ることだけだ」
「でも――」
「“帝都消失”が何を指してるのか、気になるよね」
御影さんは、目を細めた。
「俺だって、いまだに全部を分かってるわけじゃないよ。少なくとも、紙に書かれたことだけが真実じゃないってことは、身をもって知ってるけど」
そう言って、彼はそっとファイルを閉じた。
パタン、と紙が重なり合う音が、妙に大きく聞こえた。
「原本にだって、全部は残せない」
御影さんは、閉じたファイルに手を置いたまま続ける。
「何を残して、何を残さないか。その選び方に、どうしても権力がにじむ。軍も、教会も、行政も、報道も」
そして、少しだけ笑った。
「うちは、“原本”って名前で、それに逆らおうとしてるだけさ。“公式”でも“極秘”でもない、別の器をこしらえてね」
原本棚に目をやると、「柳瀬町」の背表紙が、さっきよりもはっきりと目に入った。
その隣には、アーケードの商店街、坂の神社、川沿いのマンション――いくつもの街角の名前が並んでいる。
あの棚は、証拠庫でもあり、標的でもあり、救いでもあるのかもしれない。
誰かに「見せろ」と言われれば、圧力がかかる場所。
誰かが「残しておいてくれ」と言い出すかもしれない場所。
全部を守れるとは、正直思えない。
それでも。
◇
会議室を出ると、廊下の窓から、夕方の光が差し込んでいた。
路面電車が、いつものように坂を上り下りしているのが、小さく見える。
道の端では、学生たちが並んで歩き、ビジネスマンが電話をしながら急ぎ足で通り過ぎていく。
帝都は、何も知らない顔をして、今日も日常を続けている。
「お茶、おかわりいります?」
花さんが、湯のみを二つ持って廊下に出てきた。
「さっきのお役人さんたち、まだビルの前でなんか話してましたよ。“運用状況は概ね良好”とか、“今後の連携強化が必要”とか」
「どこから聞き耳立ててるんですか」
「うちの店、アーケードで鍛えられてますから。耳だけは良いの」
花さんは笑ってから、窓の外を見た。
「でもさ。どんなふうに報告されるにしても、灯ちゃんが撮った写真たちは、あそこにあるんだよね」
「……そうですね」
私は、さっき閉じたばかりの覚書ファイルと、原本棚の重なりを思い浮かべた。
「覚書に、“保存・破棄は関係各機関の合意で”って書いてあっても。ここにあるのは、合意の前の顔っていうか、“合意の外側”にいた人たちの顔だから」
「合意の外側、か」
花さんは、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ、あたしたちは、“外側係”ってことで」
「肩書きにしたら、怒られそうです」
「うん。お役人さんには内緒にしておこうね」
二人で笑ってから、私は窓の外に目を戻した。
夕暮れの帝都は、少しずつ、輪郭を失いつつあった。
ビルの影が伸びて、電車のライトが目立ち始める。
その光景を眺めていると、不意に、覚書の最後のページの文字が頭の中で蘇る。
――第一次“帝都消失”事案。
それが何を意味しているのか、今の私には分からない。
ただ、その言葉が、これから撮る街の一枚一枚と、どこかでつながっているような予感だけがある。
柳瀬町も。
アーケードも。
坂の神社も。
川沿いのマンションも。
全部、“帝都”という名前のどこかの一部だった場所だ。
その一部が、誰かの都合で間引かれていく。
紙の上の言葉で言い換えられ、地図から消され、記録から外されていく。
そのたびに、きっとどこかに新しい覚書が増えるのだろう。
「再編」「調整」「有効活用」というきれいな言葉で。
私たちは、そこに間に合うかどうか分からないまま、今日もカメラを持って街に出る。
それが、どこまで意味のあることなのか。
どこまで「証拠」として役に立つのか。
あるいは、逆に狙われる理由になるのか。
答えは、きっとまだ先にある。
それでも。
私は、廊下の窓ガラスに映った自分の顔を見つめ直した。
柳瀬町で見た、ちょうちんの光。
アーケードの天井から漏れる午後の光。
昨日まであったものと、今日もあるものと、明日にはないかもしれないもの。
それらを、ひとつひとつ、レンズ越しに拾っていく。
覚書には書かれていない目的のために。
帝都のどこかで、今日もまた誰かの「日常」が、静かに始まり、終わっていく。
その一端を、できるだけたくさん、原本という名前の器にすくい取っておきたい。
そう思いながら、私はそっと窓から目を離し、自分の机へと戻った。
カメラバッグの重みが、肩に心地よく食い込む。
廊下の向こうの原本棚にちらりと目をやると、「柳瀬町」の背表紙と、「設立覚書」の分厚い背中が、同じ空気のなかに並んでいた。
窓の外では、路面電車がまたひとつ、橋を渡っていく。
帝都は動き続けている。
その動きの中で、何が記録されて、何が書かれて、何が消されるのか。
私たちが、どこまで抗えるのか。
それはまだ分からない。
だからこそ、シャッターを切るしかない。
明日もきっと、新しい依頼か、あるいは“面倒な話”がやってくるだろう。
軍か、教会か、役所か、新聞社か。
それとも、名前もない誰かが、消えかけた路地の写真を求めてやってくるのかもしれない。
どちらにしても。
カメラを持って、私はまた街へ出る。
覚書の行間にこぼれ落ちている、帝都の顔を撮るために。




