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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第24話「それでも、撮りたい街」

 午後と夜のあいだみたいな時間の光が、窓ガラスに薄く張りついていた。


 喫茶「灯台」のドアを押すと、古い真鍮のベルがちりんと鳴る。

 深煎りのコーヒーの匂いと、レコードのかすれたピアノが、いつものように迎えてくれた。


「お、揃ったかな」


 窓際の四人掛けのテーブルから、相馬さんが片手を挙げる。


 テーブルの上には、すでに写真が広げられていた。

 柳瀬町のコンタクトシート。

 商店街アーケードの「公式」と「原本」のプリント。

 それから、この数か月のあいだに撮った、小さな街角のスナップたち。


 窓の外の帝都の街並みが、ガラスを通してぼんやりと重なって見える。


「やあ宵宮ちゃん、お疲れさん。今日も“打ち上げ”かい?」


 カウンターの向こうから、マスターが笑いながら声をかけてきた。

 白いシャツの袖をまくり上げ、ポットを傾けながら、わざとらしく片眉を上げる。


「打ち上げってほど、なにか終わりましたっけ」


「命がかかってなくて、誰も死んでなくて、コーヒーがうまい日ってのは、だいたい全部打ち上げみたいなもんだよ」


「……じゃあ、そういうことにしておきます」


 半分あきれたふりをしながら、私は窓際の席に腰を下ろした。


 相馬さん、花さん、九条さんがすでに座っていて、背中越しにはカウンターに寄りかかった御影さんの姿がある。


「コーヒーは?」


「いつものブレンドで」


「わたしもー。あと、チーズケーキ半分こしない?」


 花さんが、写真の上に肘をつかないよう気をつけながら、そっと身を乗り出す。


「……じゃあ、半分ください」


「はい、ブレンド三つと、チーズケーキひとつね」


 マスターが手早く注文を復唱する。その何気ないやりとりも、今日だけは少し特別に感じられた。


 テーブルの上は、帝都のあちこちから切り取られた「今日まで」の断片でいっぱいだ。


「こうして並べると、けっこう撮ったもんだな」


 相馬さんが、柳瀬町の一枚を指でつまむ。


「消えかけてた路地のやつに、川沿いの変なマンションに、坂の神社……あと、こないだの商店街」


「“変なマンション”って雑なまとめ方しないでください」


 私は苦笑しながら、その写真を見つめる。


 川沿いの白いマンション。その足元だけが、妙に霞んでいる。

 撮ったとき、レンズの向こうで空気がねじれたように感じたのを、まだ覚えている。


「でもさ」


 花さんが、指先でそっと一枚の隅を押さえた。柳瀬町の地蔵祭りのカットだ。


「こうして写真並べると、ちゃんと“あった”んだなって思うね。柳瀬町も、坂の神社も」


「記事になったのは、そのうちの何枚かですけどね」


 九条さんが、カップのソーサーを軽く回しながら言う。


「川沿いのマンションの記事なんか、かなり丸くなってますし。“時間がズレてる感じがした”なんて書けないですから」


「書いたらオカルト欄行きだしな」


「そうそう。オカルト専門枠に押し込められた瞬間、“真面目な記事”としては死にますからね」


 軽口みたいなやりとりの奥に、少し苦いものがにじむ。


「だからこそ、こっちに置いとけるわけですけど」


 九条さんは、柳瀬町のコンタクトシートをトントンと指で叩いた。


「記事にならなかった分も、言葉にできなかった違和感も、まとめて」


 そのとき、マスターがコーヒーを運んできた。


「はい、“街の記録係”さんたちに、今日の分の燃料」


「燃料って言い方やめてくださいよ」


「じゃあ“現像液”にしようか」


「もっとややこしいです」


 そう言いつつ、香りの立つ黒い液体を口に含むと、体のなかの何かが少しほぐれる気がした。


 窓の外では、路面電車がゆっくりと坂を下りていく。

 ここから見える帝都は、いつも通りだ。

 でも、テーブルの上には、「いつも通り」から少し外れた瞬間ばかりが集められている。



「そういや、これ見たか」


 相馬さんが、テーブルの端から新聞を一部引き寄せた。

 今日の朝刊らしい。


「ほら」


 示されたのは、一面でも社会面でもない、中ほどの小さな記事だった。


『帝都港湾部、新物流拠点整備へ』


 太字の見出しの下に、小さな地図と、役所の人間のコメントが並んでいる。


「“老朽化した既存施設の整理と、都市圏外部調整区域の有効活用を図り……”」


 私が記事をなぞると、花さんが眉をひそめた。


「“外部調整区域”って……柳瀬町の紙にも書いてあったやつ?」


「ああ。あっちは、“帝都の外にしますね”って意味で」


 相馬さんは、苦々しげに鼻で笑った。


「こっちは、“帝都の役に立つ物流拠点として有効活用します”って意味だろうな。同じ言葉で、切り捨てるときも、使い倒すときも説明できるようにしてある」


「……この地図」


 九条さんが、新聞と柳瀬町の古い地図を見比べた。


「縮尺が違うから、ぴったり重ねられるわけじゃないですけど。だいたい、この辺ですよね。柳瀬町が“なかったこと”になったあたりと」


「まあ、“たまたま”なんだろうさ」


 御影さんが、カウンター越しにぼそりと言う。


「港に物流拠点ができるのも、街が更地になるのも、“都市計画上の必然”ってやつだ」


「紙の上では、ね」


 相馬さんの声が、少し低くなった。


「教科書にも役所の資料にも、“ここに小さな祭りがあって、地蔵の前でじいさんが話してた”なんてことは、一行も書かれない。“調整区域”と“拠点整備”の間に、街一つ分の生活が挟まってるなんて、どこにも残らない」


 花さんが、自分のマグカップを握りしめた。


「でも、ここにはあるよ」


 彼女は、柳瀬町の写真の束をぎゅっと掴む。


「灯ちゃんが撮ったやつ。おじいさんも、子どもたちも、あの屋台のちょっと焦げた焼きそばも、ちゃんと写ってる」


「記事になるものと、ならないもの」


 九条さんが、静かに言葉を継いだ。


「行政資料になるものと、ならないもの。……で、ここには、“どっちにもならなかったもの”がある」


「どっちにもなれなかった、だろ」


 七瀬さんの声が、背後から降ってきた。


「遅れてすまないね。のれん、勝手にめくらせてもらった」


 振り返ると、コートを片手にぶら下げた七瀬さんが、いつもの軽い笑みを浮かべて立っていた。

 マスターが無言で指を二本立てると、「いつもの」で通じたらしく、七瀬さんも無言で頷く。


「“どっちにもなれなかった”ってどういう意味ですか」


「そのまんまさ」


 七瀬さんは、空いていた椅子に腰を下ろし、テーブルの上の写真をざっと見渡した。


「行政の資料になるには、きれいに整理されすぎてないといけない。記事になるには、“読者がお金払って読んでくれそうなネタ”じゃないといけない。……そのどっちにも乗れなかったやつらが、こうしてここに溜まってる」


「言い方が悪い」


 九条さんが、少しだけ目を細めた。


「“乗れなかった”じゃなくて、“乗せなかった”でしょう。少なくとも、僕のほうは」


「ふうん」


 七瀬さんは口元を歪める。


「じゃあ聞くけど、あんたの編集部、柳瀬町丸ごと一特集分、紙面くれるか?」


「……くれませんね」


「でしょ」


 マスターが、七瀬さんの前にブラックを置く。彼は礼もそこそこに一口飲んだ。


「結局さ、“誰が金払ってるか”で、街の顔なんて簡単に変わるんだよ」


 窓の外をあごで示しながら、七瀬さんは続ける。


「再開発でも、観光でも、物流でも。金出してるやつの都合のいい顔が“公式”になる。……あたしたちみたいな商売も、その外側でちょろちょろやってるだけでさ」


「それでも、外側から覗いてるやつは必要なんですけどね」


 九条さんは、苦笑いまじりに髪をかきあげた。


「僕たちが書けるのは、せいぜい“公式”と“現場”のあいだのごく一部だけですよ。柳瀬町のことだって、記事にできたのは、ほんの言い訳みたいな数行でしょう? それでも、ここにこうやって写真があるから、当時のことを忘れずに済む」


「お客さんがいる限り、そこが自分の街、って感覚もあるけどね」


 花さんが、カップの縁を指でなぞりながら言った。


「花を買いに来てくれる人がいて、『ここの花が好き』って言ってくれる間は、あたしにとっての帝都は、このアーケードが中心なの。再開発計画が出ようが、パンフレットで切り取られようが」


 相馬さんは、柳瀬町の写真と新聞の片隅の記事を交互に眺めていた。


「俺は……そうだな」


 少し考えてから、ぽつりとこぼす。


「“地図にも記録にも残らない現場”ってやつを、何度も見てきた。警察にいたころも、辞めてからも」


 テーブルの上の写真を、二、三枚指でずらしながら。


「ドサクサで片づけられた事故現場とか、報告書上は“処理済み”になってるけど、誰の責任だったのか、誰が一番傷ついたのか、どこにも書かれないままの事件とか。……柳瀬町も、その延長線上に見える」


「“現場”って言葉、便利ですよね」


 九条さんが、皮肉っぽく笑った。


「“現場では混乱が続いている模様です”とか、“現場からは以上です”とか。ぜんぶ、一枚の写真か、数行の原稿に押し込められたあげくに、“以上”で切られてしまう」


「だから、せめてここでは、“以上”をつけないで置いておく」


 御影さんが、カウンターから少し身を乗り出した。


「日付も、場所も、写ってる人の名前も、全部ここに混ざったままでいい。“柳瀬町”だの“アーケード”だのってラベルは、あくまで目印として貼ってるだけだ」


 七瀬さんが、コーヒーを傾けながら、口の端を上げる。


「ま、そういう“ごった煮”な記録のほうが、あとで高く売れる場合もあるけどね」


「すぐ値段の話にする」


 花さんが呆れたように言うと、七瀬さんは肩をすくめた。


「だって事実でしょう。“街そのもの”を切り売りするやり方なんて、いくらでも見てきた。“ここはもう古いから”“ここは危ないから”って言葉で、“生きたまま”外に追いやられた場所なんか、山ほど」


 そこで、一瞬だけ、誰も言葉を継がなくなった。


 窓の外を、路面電車がまたひとつ通り過ぎていく音がする。

 ガラスに映った車内の光が、テーブルの写真にちらりと反射した。


「――だからこそ、だよ」


 沈黙を破ったのは、九条さんだった。


「だからこそ、変わる前の顔を撮ってるんでしょう? この子たちは」


 彼の視線が、まっすぐこちらに向く。


 それにつられるように、テーブルの全員の視線が集まった。


 動揺というより、むしろ空白みたいな時間が、胸のあたりに生まれる。



「……私」


 何から言えばいいのか、一瞬分からなくなって、言葉を探す。


「正直、まだよくわからないんです。誰のための街で、誰のための写真なのか」


 柳瀬町のファイルを見下ろす。

 あの地蔵祭りの写真。

 古いアパートのベランダに、洗濯物が風に揺れているカット。

 路面電車の窓から撮った、ちょうちんの光の俯瞰。


「市のための写真だって言われれば、そうなんだろうなって思うし。観光客のために“きれいな部分だけ”撮ってって言われても、たしかにそのほうが分かりやすいのかもしれないし」


 アーケードの「公式」フォルダに入れた写真が頭に浮かぶ。

 ネオンをあえて外したカット。

 落書きのない壁。

 閉まったシャッターが、うまく死角に追いやられている構図。


「でも――」


 そこでいったん息を吸い込む。


「“なかったこと”にされたとき、一番最初に困るのって、たぶん、そこにいたのに、いなかったことにされた人たちだと思うんです」


 柳瀬町で、地蔵の前に座っていたおばあさんの声が、耳の奥でよみがえる。


 ――今年でおしまいかもしれんけどな。祭りも、町も、まとめてだよ。


「柳瀬町、あんなふうに消されちゃったあと、市役所の人も、新聞の人も、“そんな街、最初からありません”って顔をしてました」


 紙地図を見せたときの、事務的な笑い。

 「印刷ミスか何かですよ」と、簡単に流す声。


「でも、あそこにいた人たちは、“たしかに自分の家がここにあった”って、覚えてるはずで。おじいさんも、お祭りの準備してた人たちも」


 柳瀬町の写真を、一枚、指に挟んだ。

 暗くなりかけた路地で、子どもたちが紙風船を蹴っているカット。


「その人たちからしたら、“帝都の都合”で街が消えて、“物流拠点”とか“調整区域”とかって言葉に置き換えられて。……そのあと、“最初からなかったですよね?”って言われるのって」


 言葉にしようとして、喉の奥が熱くなる。


「たぶん、すごく、悔しいと思うんです」


 私の声が、少し震えたのが、自分でも分かった。


「だから、たぶん私は――」


 握っていた写真を、そっとテーブルに戻す。


「誰かの都合で消される前の街を、それでも撮りたいです。きれいごとでも、自己満足でも、ぜんぶ込みで。それしかできないから」


 最後の一言は、ほとんど独り言みたいになった。


 しばらくのあいだ、誰も何も言わない。

 外から聞こえる電車の音と、カウンターでマスターが皿を拭く小さな音だけが、店内に残る。


 最初に動いたのは、御影さんだった。


 彼はコーヒーをひと口飲んでから、カップをソーサーに静かに戻した。


「それで十分だよ」


「……十分?」


「“街の記憶を預かる人間”がさ」


 御影さんは、窓の向こうに視線を投げる。


「立派な言葉を持ってる必要なんてない。きれいな理念も、難しい理屈も、全部あとからくっついてくるもんだ」


 視線を写真の上に戻しながら、続ける。


「撮りたいと思って、撮り続ける。誰かの都合で消される前に、“ここにこんな顔があった”ってことだけを、ひたすら原本に放り込んでいく。そのうち、その原本のほうが勝手に重くなる」


「勝手に、ですか」


「そう。撮った本人があとでビビるくらいに、“こんなもん残しちまって大丈夫だったのか”ってな」


 冗談みたいな言い方なのに、その目はどこか遠くを見ていた。

 まるで、まだ見ぬ未来の棚の重さを想像しているみたいに。


「お前みたいなのが、いちばん厄介なんだよな」


 相馬さんが、大きくため息をついた。


「止めても撮るだろ、どうせ」


「……すみません」


「謝るな」


 相馬さんは、呆れと諦めと、少しの安堵が混ざったような笑い方をした。


「そういうやつがいないと、どうしようもない現場もある。警察の“現場”でも、役所の“現場”でもな」


「“現場”って言葉、また便利に使ってません?」


「便利な言葉は便利に使ってやればいい」


 短いやりとりに、少しだけ笑いが戻る。


「ま、いいんじゃない?」


 七瀬さんが、椅子の背にもたれて腕を組んだ。


「あんたたちが、そうやって“原本”って名札つけて拾い集めてるおかげで、あたしらはあとから“この街の本当の顔”って付けて売り出せるかもしれないし」


「すぐビジネスモデルにする」


 花さんが呆れながらも、笑う。


「でも、ちょっと安心した」


「何が?」


「灯ちゃんが、“撮りたいから撮る”って言ってくれたこと」


 花さんは、柳瀬町と商店街の写真を交互に見つめながら言った。


「あたしは、お客さんがいる限り、ここが自分の街だって思ってるけど。でも、いつか本当に“外部調整区域です”って紙切れ一枚で、ここが“帝都の外”にされちゃうかもしれないじゃない」


 その言葉に、誰も軽い冗談を返せなかった。


「そのときに、“ここで花買ってた人がいた”って証拠が、この原本にちょっとでも残ってたら、あたしはたぶん、それだけで少し救われると思う」


「……そういう意味では、僕もですね」


 九条さんが、眼鏡の位置を指で直した。


「記事って、どうしても“読みやすい形”に整えざるを得ないんです。取りこぼすことも多い。だけど、“あのとき、こういう顔もそこにあった”って写真を見ながらなら、あとから何度でも書き直せる可能性がある」


 彼は柳瀬町の一枚を取り上げた。


「今は“物流拠点”って言葉の隅に追いやられている話でも、十年後、二十年後に、“あの時代、こういう街があった”って特集が組めるかもしれない。……そのときのための、種みたいなものですよ」


「種ねえ」


 七瀬さんが、少しだけ興味深そうに写真を覗き込んだ。


「芽が出るかどうか分かんないもんに、水やって肥料やってんの、物好きって言われない?」


「物好きで結構です」


 九条さんは、意外とあっさりと言い切った。


「誰もやらないことをやるのが、物書きの仕事でもありますから」


「ま、あたしは、芽が出てきたら横から値札ぶら下げる係でいいや」


 七瀬さんの言葉に、今度はみんなが笑った。


「勝手に値段つけないでください」


「必要なら“友達価格”にしといてやるよ、灯子ちゃん」



 喫茶「灯台」を出るころには、すっかり夜になっていた。


 アーケードの蛍光灯が、雨上がりの路面に白く反射している。

 花の店の前では、花さんがシャッターを半分下ろしながら、売れ残った花を数本、店先に残していた。


「灯ちゃん、これ持って帰る? 今日の“原本打ち上げ記念”」


「なんですか、その名前」


 渡されたのは、小さな白いカスミソウの束だった。


「重くならないやつ選んどいたから」


「原本の話したあとに、そのセリフはずるいです」


 笑いながら受け取ると、花さんも笑った。


「また明日ね。明日はうちの店の“ありのまま”も撮ってってよ。掃除前の散らかってるのとか」


「それ、原本行き確定じゃないですか」


「そうそう。“公式”には見せられないからね」


 シャッターがガラガラと下りていく音を背中で聞きながら、私はアーケードの外に出た。


 頭上を、路面電車が橋を渡っていく。

 そのまま川沿いまで足を伸ばすと、防波堤のコンクリートが、夜気を吸い込んで冷たくなっていた。


 川面には、帝都の灯りがゆらゆらと揺れて映っている。

 ビルのネオン。橋の街灯。遠くを走る車のヘッドライト。


 目の前に広がるこの夜景の、どれだけが「帝都の公式の顔」で、どれだけが「原本の顔」なんだろう。


 そんなことを考えながら、私はカメラバッグのストラップを肩にかけ直した。


 バッグの中には、今日撮った商店街のデータが入ったカードと、柳瀬町のネガと、川沿いのマンションのカットと――いくつもの「顔」が重なっている。


 重さは、まだ大したことはない。

 でも、これから先、もっと重くなっていくのだろう。


 ――この街が、誰のものかはわからない。


 心の中で、さっき喫茶店で言いそびれた言葉を、もう一度ゆっくりと並べてみる。


 市役所のものだと言われれば、そうなのかもしれない。

 観光客のためのものだと言われても、きっと間違ってはいない。

 そこで暮らす人たちのものだと胸を張る人もいるだろう。


 ひとつだけ、はっきりしていることがある。


 ――今日見たものを覚えていたい人は、きっとどこかにいる。


 柳瀬町のことを覚えていたい人。

 消えかけたネオンの下で野菜を並べている八百屋のおじさん。

 シャッターだらけの通りで将棋を指していたおじいさんたち。

 再開発の紙切れに座標だけ打たれてしまった、名前のない路地の住人たち。


 そういう人たちのために。


 いや、正直に言えば、まずは自分のために。


 ――だったら。


 川面を渡ってくる風が、前髪を少し揺らした。


 遠くで、また路面電車のブレーキ音が聞こえる。


 だったら――明日もまた、撮りに行こう。


 誰のための街か分からなくても。

 誰のための写真か、まだ言葉にできなくても。


 “なかったこと”にされる前の顔を、見たままの形でいったん受け取って。

 原本という名前の棚のどこかに、そっと置いておく。


 そのうち、その棚がどれだけ重くなるのか。

 どんな形で誰かの目に触れるのか。


 それはきっと、今決めることじゃない。


 それでも。


 私は、カメラバッグの上からそっと手を置き、帝都の夜景を正面から見据えた。


 川沿いの防波堤に立つ自分の影が、街の光と一緒に、水の上で揺れている。

 その向こうを、路面電車が、光の線のようになって橋を渡っていく。


 明日もきっと、同じようにこの街は動き続ける。


 でも、その中に、今日撮った一枚一枚が、たしかに紛れ込んでいる。


 それだけは、私たちが決めていい。


 そう思いながら、私は小さく息を吐いて、帝都の夜に背を向けた。


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