第23話「誰のための顔」
原本棚の一番下の段に、「柳瀬町」と書かれた背表紙がある。
その文字を視界の端で捉えないようにしながら、私は机の上のカメラを整えていた。
見てしまうと、胸の奥がきゅっと痛くなるからだ。
それでも、ふと手が止まるたびに、目は勝手にそちらへ吸い寄せられてしまう。
白い背表紙、少し曲がった私の字。その横に立てかけられた、花さんがお供えみたいに置いた小さな花瓶。
――あそこに入っている街は、もうどこにもない。
「灯子」
御影さんの声がして、私は慌てて顔を上げた。
「はい」
「さっきから、同じレンズを三回は拭いてる」
言われて、自分の手元を見る。クロスに包んだままの標準レンズが、やたらとぴかぴかだ。
「あ……すみません。ぼーっとしてました」
「まあ、そうなるよな」
御影さんは、それ以上柳瀬町の話には触れなかった。代わりに、机の端に置いていた茶封筒をこちらに滑らせてくる。
「市役所から。正式な依頼だ」
封筒の角には、「帝都市役所 広報課」の印字。
柳瀬町のときにお世話になった、あの早乙女さんの部署だ。
いやな予感と、仕事としての好奇心が、喉のあたりでぶつかり合う。
封を切ると、滑りのいい紙が数枚、手の中に落ちた。
「……『帝都観光キャンペーン・撮影依頼について』」
読み上げると、御影さんが顎をしゃくった。
「続きも」
「『帝都の“下町の温かい日常”をテーマとしたパンフレット・ポスター用写真の撮影をお願いしたく――』」
そこまで読んで、思わず顔を上げる。
「下町?」
「そう。場所の指定もある」
御影さんが指で示した先には、アーケード商店街の略図が印刷されていた。
その一角には、見覚えのある店の名前がいくつか並んでいる。
「……花さんの店のある通りですね」
「そう。再開発の話がいったん白紙になったエリアだ」
私は、紙を持つ手に力を込める。
柳瀬町を「最初からなかった」ことにしたのと、同じ街の中で。
別の下町を、「温かい日常」としてパンフレットに載せようとしている。
その並び方が、どうしても頭の中でひっかかった。
「イメージアップ、ですかね」
口にすると、言葉の端が少し尖ってしまう。
「柳瀬町の件、記事にはできなくても、噂くらいはそれなりに広まってるでしょうし。“ちゃんと下町も大事にしてます”って顔を、どこかで作りたいのかな、って」
御影さんは、すぐには否定しなかった。
「そういう思惑も、ゼロじゃないだろうな」
淡々と認めたうえで、彼は肩をすくめる。
「でも、だからといって、ここにある商店街の顔まで嘘になるわけじゃない。誰がどんなきっかけで照明を当てようと、あそこにいる人たちは、今日も店を開けて、閉めて、暮らしてる」
静かな声だった。
「利用されるのは、正直、癪だけどな。……それとは別に、“今ここの街がどう見えてるか”を撮っておく価値はある」
「……どう切り取るかは、こっちの仕事、ってやつですか」
「お、最近は俺の言い回しも覚えてきたな」
御影さんは少し笑った。
「受けよう。条件は、向こうにも伝えておく。“観光パンフ用に整えたカットと、幻灯局の原本は別物だ”ってな」
原本、という言葉に、私はちらりと棚のほうへ視線を向けた。
柳瀬町のファイルが、そこに静かに立っている。
今度は、「最初からなかった」ことにはさせない。
そんな意地に、少しだけ近い感情が、胸の中に生まれた。
◇
撮影当日は、雲ひとつない、きれいすぎるくらいの青空だった。
けれど、アーケードの中に差し込んでくる光は、どこかくすんで見えた。
トタン屋根の隙間から漏れる午後の光が、埃と一緒にゆらゆらと漂っている。
花さんの店の前には、いつも通り色とりどりの花が並んでいた。
ガーベラ、カーネーション、名前の分からない葉物の束。
その背後には、隣の店のくすんだシャッターと、上の階のひび割れたモルタル壁。
「灯ちゃん、こっちこっち」
花さんが、店先から手を振った。エプロンには、土と水のしみがまだらについている。
「今日、うちもパンフ載るんだって? お母さん、昨日から浮かれてさー。髪の毛までセットしてもらってたよ」
「それはぜひ撮らないと」
カメラを首から提げながら近づくと、花さんのお母さんが、店の奥からひょこっと顔を出した。
「あら灯子ちゃん。今日はよろしくねえ」
「こちらこそ、お世話になります」
挨拶を交わしていると、アーケードの入口側から、かちかちとヒールの音が近づいてきた。
振り向くと、スーツ姿の女性と、タブレットを抱えた男性が歩いてくる。その少し後ろに、ラフなシャツ姿の早乙女さん。
「帝都広報課の佐久間です。本日はどうぞよろしくお願いします」
女性が名刺を差し出す。そこには、「広報戦略担当」と書かれていた。
私たちのほうからも、御影さんが軽く会釈する。
「幻灯局の御影です。こちらがカメラ担当の宵宮、花の店の三上さん」
「きょう……みやさん、ですね。よろしくお願いします」
佐久間さんは、にこやかに笑いながら周囲を見回した。
「わあ、本当に“昭和レトロな下町”って感じですね。いいですねえ、この味」
言いながら、その視線は案外シビアに、あちこちの汚れや剥がれを拾っているように見えた。
「では、さっそく撮影をお願いしたいのですが……こちらの通りから、順番に」
タブレットに表示された簡単なラフに沿って、撮るべきカットの説明が始まる。
アーケード全景。
花の店と、その向かい側のパン屋。
通りを歩く親子連れ。
将棋を指すおじいさんたち。
聞いている内容だけなら、特別おかしなところはない。
私はファインダーを覗きながら、一枚目のシャッターを切った。
花の店の前。
吊り下がるプラスチック看板と、上から漏れる光。
その奥に見える、くすんだシャッターの模様。
「……あ、その看板はちょっと」
すぐ横から、佐久間さんの声が飛んできた。
「え?」
「すみません、この奥の看板。もう営業していない店なんで、写らないようにしてもらえます?」
指さされた先を見ると、「◯◯電気商会」と書かれた古いホーロー看板が、半分錆びながら壁に残っていた。
「“閉店したまま放置されている商店街”って誤解されると困るので……角度、もう少し右に振れますか?」
「あ、はい」
私は、言われた通りにわずかに身体をずらした。
ファインダーから、ホーロー看板が外れる。
代わりに、チェーン店の新しいロゴが、バランスよく画面の端に入ってきた。
シャッターを切る。
確かに、こっちのほうが、パンフレットに載せるには「きれい」なのだろう。
でも、それは、この通りの「顔」の一部を削った写真でもある。
その矛盾を意識しながら、私は次のカットへと進んでいった。
◇
アーケードの真ん中あたりでは、折りたたみのテーブルを囲んで、老人たちが将棋を指していた。
「ほら、ちゃんと撮ってもらえよ」
「えー、わしらなんかがパンフに出てもいいのかねえ」
そんな冗談を言い合いながら、みんなどこか嬉しそうだった。
「じゃあ、一枚撮らせてください。……そのままで大丈夫です」
私はしゃがみ込んで、盤面の高さに目線を合わせる。
盤上を挟む手。
端に置かれた、安物のポットと湯のみ。
背後には、少し剥がれたポスターと、壁の落書き。
そこに、すっと影が差した。
「すみません、ちょっとストップで」
佐久間さんが、手を上げる。
「その後ろの落書き、フレームから外せますか? “◯◯反対”って見えてしまうと、別の意味のメッセージに受け取られかねないので……」
私は、一瞬だけ口をつぐんだ。
壁には、手書きで大きく「再開発反対」と書かれている。塗りつぶした跡の上から、さらに書き足されたような線。
柳瀬町の地蔵を思い出す。あそこにも、役所から回ってきた紙が貼られていた。「外部調整区域」とか、よく分からない言葉が並んだやつ。
「……分かりました。角度、変えてみます」
言って、私は再びカメラを構えた。
老人たちの顔が、少し不安そうに揺れたように見えた。
「ごめんなさいね、なんかうるさくて」
佐久間さんが、にこやかに頭を下げる。
「いえいえ。きれいに撮ってもらえるなら、なんでも」
老人のひとりが笑って返した。
その笑いの奥に、「きれいじゃない部分は、見せる価値がないのか」という問いが、うっすらと浮かんでいる気がしたのは、私の考えすぎだろうか。
◇
アーケードの入口近くに、その看板はあった。
「帝都◯◯商店街」と書かれたネオン。
半分は光っていない。
残っている文字も、ところどころ切れていて、「帝◯◯◯店街」みたいな中途半端な表示になっている。
それでも、夕方になると、かろうじて残った管が、チカチカと点いたり消えたりを繰り返す。そのちらつきは、この通りが「まだ生きている」ことの、かろうじての証のようにも見えた。
「ここからの引きのカット、いいですよね」
私は、ファインダーを覗きながら言った。
看板の下を、人々がくぐっていく。
買い物袋を下げた主婦。
自転車を押す高校生。
その手前に、花の店の色がにじむ。
「そうですねえ……」
佐久間さんは、一度は感心したように声を漏らしたものの、すぐに微妙な顔になる。
「ただ、このネオン、ちょっと“古すぎる”印象がありますね。観光キャンペーンのイメージとしては、もう少し“今の帝都”っぽさを出したいと言いますか……」
「“昔ながら”を打ち出したいんじゃなかったんですか?」
思わず、問い返してしまう。
「あ、もちろん“ノスタルジー”は大事なんです。ただ、“廃れている”印象は避けたいので……。できれば、この看板は写さない方向でお願いしたいんです」
そこで、アーケードの端から声が飛んだ。
「ちょっと待った」
振り向くと、八百屋の店主が、手ぬぐいで汗を拭きながらこちらへ歩いてきた。
大きな手。エプロンには、野菜の葉っぱがくっついている。
「その看板、ウチのじいさんが若いころに頼み込んで付けてもらったもんなんだよ」
彼は、ネオンを指さした。
「“ここの商店街は帝都の一部だ”って、役所に認めてもらった証みたいなもんでさ。あれが付いたとき、みんなで酒盛りしたって話、俺、子どものころから何十回も聞かされたんだ」
佐久間さんが、少し困った顔をする。
「そうなんですね。それは、とても素敵なお話だと思います。ただ、今回のパンフレットは、“若い観光客にも刺さる、今っぽい下町”というテーマでして……」
「今っぽいだの、刺さるだのは、そっちの都合だろ」
八百屋の声が、少しだけ低くなる。
「あんたら、市の金で、きれいなパンフ作るのは勝手だけどな。その写真の中に、うちの通りが入ってるなら、“昔から帝都にある街”ってことも、ちゃんと写してくれや」
周りの店からも、ひそひそ声が漏れてきた。
「そうだそうだ」
「看板、俺も好きだよ」
私は、視線をファインダーから外した。
ネオン看板。
剥がれかけた文字。
その下を行き交う人々の影。
そのどれもが、「この街の顔」の一部だ。
「……佐久間さん」
私は、カメラを下ろしたまま口を開いた。
「パンフレット用のカットとして、“新しい顔”を作るのは分かります。でも、原本としては、“ここが帝都の一部になった証”も一緒に残させてもらえませんか」
佐久間さんは、一瞬だけ黙り込んだ。
その横で、早乙女さんが小さく咳払いをする。
「佐久間。原本の件、覚えてる?」
「あ、ええ……」
早乙女さんは、私たちと市の間で交わした、あの口約束を思い出させるように言った。
「幻灯局さんには、公に出す写真とは別に、局内だけで保管する原本を作ってもらう、って話でしたよね。そこまでは、こちらも口出ししないって」
「……そうでしたね」
佐久間さんは、小さく息を吐いた。
「分かりました。パンフレット用のメインビジュアルでは、この看板はあまり強くは出さない方向で……。でも、原本のほうで撮っていただく分には、こちらは何も言いません」
八百屋の店主が、ふん、と鼻を鳴らした。
「パンフのほうは、まあ好きにしてくれていいよ。その代わり、あの看板、ちゃんと撮って、どこかに残しといてくれ」
「はい」
私は、素直に頭を下げた。
ファインダーを覗き込む。
古いネオン。
くすんだ文字。
下を通る人々のシルエット。
シャッターを切る。
一枚は、パンフ用に、ネオンをあえてフレームの端に追いやった整理されたカット。
もう一枚は、看板を画面の上いっぱいに入れて、その下に花の店や八百屋を収めた「ありのまま」のカット。
同じ街の、二種類の「顔」が、フィルムの中に並んでいった。
◇
その日の撮影が終わるころには、夕方の光がアーケードの端から斜めに差し込んでいた。
花の店の前で、花さんがお疲れさまー、と手を振る。
「パンフ、楽しみにしてるね」
「私も。……どんな“帝都の下町”になるんでしょう」
「うちの母さん、ちゃんと写ってるかなあ」
軽口を交わしながら、私はカメラバッグのファスナーを閉じる。
頭の隅には、柳瀬町の地蔵の前で聞いた老人の言葉が浮かんでいた。
――“ここはもう帝都じゃないんだとさ”。
柳瀬町は、帝都から切り離された。
この商店街は、「帝都の観光資源」として、改めて顔を作られようとしている。
どちらも、誰かの都合で決められた「街の扱い」だ。
その中で、私はシャッターを切っている。
誰のために。
誰の側に立って。
アーケードの入口で、古いネオンが、かすかに点いた。
昼間はほとんど分からない。
でも、確かに、そこには「昔から帝都にある街」としての記憶が灯っていた。
◇
事務所に戻ると、御影さんがパソコンの前で待っていた。
相馬さんも、珍しく早い時間に署から上がってきている。
奥では、花さんが買ってきたコンビニのおにぎりを並べていた。
「おかえり」
「ただいま戻りました。データ、取り込みます」
私はカメラからカードを抜き、パソコンに差し込んだ。
モニターの中に、今日のアーケードが次々と並んでいく。
整えられたパンフレット向けのカット。
八百屋の店主の表情。
花の店の鮮やかな花。
そして、古いネオン看板とくすんだシャッター。
「おお、ちゃんと“下町の温かい日常”に見えるな」
相馬さんが、少し冗談めかして言う。
「広報のチェックは厳しかったか?」
「まあ、そこそこ」
私は苦笑した。
「写さないでほしい看板とか、落書きとか、めちゃくちゃいっぱいありました。“誤解されると困るので”って」
「誤解されるのは、いつも現場じゃなくて、紙の上のほうなんだけどな」
相馬さんは、ぼそっとこぼした。
「で、例の看板は?」
「ちゃんと撮りました」
私は、数枚の写真をクリックして拡大する。
一枚は、ネオンを画面の端に追いやった、すっきりしたカット。
もう一枚は、ネオンを大きく入れ、下のシャッターや店をそのまま写したカット。
御影さんが、腕を組んで画面を見つめた。
「……同じ通りとは、思えんな」
「でも、どっちも“嘘”じゃないですよね」
私は、少し迷いながら言葉を続ける。
「花の店も、若い店も、本当にここにある。商店街が“今の帝都”として見せたい顔も、たぶんあると思います。でも、古い看板も、半分閉まったシャッターも、ここに暮らしている人たちにとっては“今日の顔”で」
相馬さんが、椅子に深く腰をかけながらうなずいた。
「どっちも“ほんとの一部”なんだろうな。ただ、どっちか片方だけ残ると、もう片方は丸ごと消える」
「柳瀬町、ですね」
花さんが、小さくつぶやいた。
部屋の空気が、ほんの少しだけ固くなる。
「柳瀬町は、“どっちも残らなかった”街だ」
御影さんが、静かに言った。
「地図にも、観光パンフにも、ニュースにも。……だから、せめて原本には、“こっちの顔もあった”って残しておかないと」
モニターの左側には、広報に提出する予定の「整えた商店街」のカットを集めたフォルダ。
右側には、ありのままの看板やシャッターを写したカットを集めたフォルダ。
私は、キーボードに指を置いた。
「フォルダ名、どうします?」
「左が“商店街アーケード(公式)”」
御影さんが、少し冗談めかした口調で言う。
「右が?」
私は、自分で答えを考えながら、キーを叩いた。
「“商店街アーケード(原本)”。……で、どうでしょう」
「いいじゃないか」
相馬さんが、笑いながら頷く。
「公式だろうが原本だろうが、どっちも帝都の一部だ。ただ、“誰のための顔か”が違うだけで」
フォルダ名が、モニターの中に2列で並んだ。
同じ通り、同じ日に撮った写真たちが、それぞれ違う場所へ向かおうとしている。
広報課に提出すれば、きれいにレイアウトされて、パンフレットやポスターになるだろう。
原本のフォルダは、局内のサーバーと、原本棚のどこかに、ひっそりと眠り続ける。
「……だから、こっちにも残しておきます」
私は、自分の声に向けて言った。
「“誰に見せるか分からないけど、たしかにあった顔”として」
キーボードから指を離すと、花さんが、小さく拍手した。
「原本棚、また一段増やさないとだね」
「増やそう。増えるってことは、それだけ“ここにあった”って言えるものが多いってことだ」
御影さんが、原本棚のほうを振り向く。
柳瀬町のファイルの隣には、まだ空白のスペースがある。
いつかそこに、「商店街アーケード」と書かれた背表紙が並ぶのだろう。
◇
帰り道、私はわざとひと駅手前で路面電車を降りた。
遠回りになるのは分かっていたけれど、どうしても、夜のアーケードをもう一度見ておきたかった。
商店街の入口に立つと、古いネオン看板が、かすかに明滅しているのが見えた。
「帝都◯◯商店街」の文字。
ところどころ消えた管。
それでも、残った部分だけで、どうにか意味を伝えようとしている。
下から見上げると、看板の向こうに、トタン屋根の隙間から夜空の小さな欠片が覗いていた。
さっきまで、パンフレット用の「顔」を考えていた場所とは思えないくらい、静かな夜だった。
自動販売機の光。
シャッターの隙間から漏れるテレビの音。
誰かが閉店作業をしている気配。
私は、カメラを取り出し、ファインダーを覗いた。
ネオン看板。
その下を、足早に通り過ぎていく人の影。
遠くで、自転車のブレーキがきしむ音。
シャッターを、ひとつだけ切った。
これは、パンフレットにも、広報のサーバーにも行かない。
局の原本フォルダと、原本棚のどこかにだけ、そっと置かれる写真になる。
――この街の“顔”って、どこまで削ってもいいんだろう。
心の中で、昼間の自分の問いを繰り返す。
きれいなところだけなら、どこの帝都にだってある。
でも、少しだけくすんだネオンや、消えかけの落書きや、半分閉まったシャッターや。
そういう「都合の悪い顔」も抱え込んでいる街のほうが、私は、きっと好きだ。
そして、それを丸ごと撮って、丸ごと残しておきたい。
誰のためでもなく。
誰かに見せるためでもなく。
――たしかに、ここにそういう顔があった、って自分で覚えておくために。
ネオンが、ひときわ明るく光ってから、またふっと暗くなった。
その点滅を見上げながら、私はカメラをバッグにしまう。
路面電車の走る音が、遠くから聞こえてきた。
柳瀬町は、もうどこにもない。
でも、この商店街は、まだここにある。
それぞれの街が、それぞれの「誰かの都合」で顔を作らされる中で。
幻灯局だけは、「誰のものでもない顔」を撮り続ける場所でありたいと、私はそっと思った。




