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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第22話「原本にしかない街」

 柳瀬町の現像が上がったのは、朝の光がまだ斜めに差し込んでくる時間だった。


 暗室の赤いランプの下で、水に揺れる印画紙を見ていると、昨日の路地の湿った空気まで、ふっと手の甲にまとわりついてくるような気がした。


 ちょうちんの列。

 地蔵の前で笑う子ども。

 川べりで竿を構えるお爺さん。


 一枚一枚、ピンセットでつまんでトレイから引き上げると、そのたびに「シャッターを切ったときの気持ち」が、紙の裏側からじわじわと染み出してくる。


「……いいね」


 背後で気配がして振り向くと、御影さんが暗室の入口にもたれて、こちらを覗き込んでいた。


「昨日、よく撮れてる。街がちゃんと“そこにある”って感じがする」


「はい。なんか、いつもより必死で撮ってた気がします」


「柳瀬町の原本は、厚くなりそうだ」


 そう言って、御影さんは暗室の壁に掛けてあるタオルで、適当に指先を拭った。


「……もう一回、行ってきてもいいですか?」


 自分でも少し唐突だと思いながら、口が先に動いていた。


「もう一回?」


「はい。現像した写真を持って。祭りは昨日だけだったかもしれないですけど……お地蔵さんのところに、ちゃんと“できました”って渡したいです」


 言ってから、少し照れくさくなった。


 御影さんは、ふっと目を細める。


「現場に“納品”か。いいんじゃないか」


「午前中だけ、行ってきます」


「相馬は?」


「さっき署に顔出してきますって」


「じゃあ、今日は一人か。……気をつけてな」


「はい」


 暗室から出ると、原本用に焼き増しする前のプリントを、薄い封筒にまとめた。手触りは、しっかりとした重さがあった。


 その重さを両腕に抱えて、私は路面電車に乗り込んだ。



 電車の窓から見える川は、昨日と変わらないように見えた。


 同じようにカーブして、同じところに橋がかかっている。水の色も、対岸のビルも。


 ただ、電車の中のアナウンスだけが、昨日と違っていた。


「次は、□□前、□□前です」


 機械的な声が、淡々と停留所名を告げる。


 昨日、ほんの一瞬だけ引っかかって聞こえた“柳”の音は、今日はどこにも混じっていなかった。


 胸の奥に、小さな不安が生まれる。


 でも、きっと気のせいだ。

 名前を聞いたから、耳が勝手に探しているだけ。


 そう自分に言い聞かせながら、私はいつものように電車を降り、川沿いの小さな橋へと向かった。


 ――その橋の先に、柳瀬町があるはずだった。


 昨日、何十枚もシャッターを切った、あの路地が。


 地蔵の前にちょうちんが連なっていた、あの坂道が。


 でも、橋を渡りきったところで、私の足はぴたりと止まった。


 目の前に広がっていたのは、見覚えのない風景だった。


 いや――川の音も、高架の位置も、まるっきり知らない場所というわけではない。


 ただ、それは、あまりにも「整いすぎていた」。


 かつて坂道が始まっていたはずの場所から、真っ直ぐにアスファルトが伸びている。その上を、トラックが何台も行き交っていた。


 頭上には、高速道路の高架が走っている。灰色の柱が、一定の間隔で地面から生えている。柱の根元には、色とりどりのコンテナが並んでいた。資材置き場だろうか、ところどころに重機の影も見える。


 その奥には、真新しい倉庫がいくつも建っていた。白い壁と、青いシャッター。まだ看板も出ていない。


 坂に張り付くような住宅街は、どこにもない。

 木造の長屋も、古いアパートも。

 駄菓子屋の半開きのシャッターも。


 私は、封筒を抱えた腕に力を込めた。


「……え?」


 声が、勝手に漏れた。


 そういう「再開発の途中」の風景は、これまでも何度も見てきた。古い家々が壊され、資材置き場になり、しばらくしてからマンションが建つ。その過渡期の景色。


 でも、柳瀬町は、昨日、まだ壊されてさえいなかった。


 ちょうちんが吊るされていて、人がいて、地蔵の前にお供え物があった。


 それが、一晩のうちに全部――。


 足元が少しふらついた。


 慌てて、川沿いのガードレールにつかまる。


 現実味がなくて、少し笑えてくるくらいだった。


「いやいや、そんなはず……」


 私は、封筒を抱えたまま、資材置き場の周囲を歩き始めた。


 どこかに、あの路地へ続く小さな入口が残っているはずだ。

 昨日、花さんと掲示板を眺めた角。

 古い銭湯の煙突。

 地蔵の祠へ続く階段。


 それらを探して歩き回る。けれど、見えるのはコンクリートのブロック塀と、仮設フェンスだけだった。


 仕方なく、バス停を探した。


 川沿いの道路を少し歩くと、バスの停留所が見つかった。銀色のポールに掲示されたダイヤを覗き込む。


 そこに書かれているのは、見慣れない地名だった。


「……□□三丁目?」


 昨日、同じ場所で、私は確かに「柳瀬町」と書かれたプレートを見た。停留所名が印刷された板。その上に貼られた時刻表。


 それが、今日はどこにもない。


 胸の中が、冷たくなっていく。


 もう一度、路面電車の停留所まで戻る。

 路線図を確認する。

 やはり、柳瀬町という名前はどこにもなく、私の知らない駅名が、整然と並んでいた。


 昨日、止まっていた掲示板の時計も、地蔵も、ちょうちんも。


 全部が、きれいさっぱり消えていた。


 まるで、最初からそんなものは存在しなかったかのように。



 気がついたら、市役所の中にいた。


 どうやってここまで来たのか、途中の記憶が曖昧だ。川沿いを歩きながら、何度も封筒を抱え直した感触だけが、やけにはっきりと残っている。


 案内板を頼りにたどり着いた「地図情報課」は、白い蛍光灯の光がぎらぎらとしたフロアの一角にあった。


 窓際の席で、眼鏡をかけた若い職員が、端末の画面に向かってカタカタとキーボードを叩いている。


「あの……すみません」


 声をかけると、彼は眼鏡を押し上げながら顔を上げた。


「はい、どうされました?」


「柳瀬町っていう地名、検索できますか?」


「柳瀬町?」


 繰り返しながら、職員は端末に向き直る。

 指がキーボードの上を滑る。

 数秒後、画面に結果が表示された。


「えっと……柳瀬町、柳瀬……ありませんね」


「帝都の中に、ですか?」


「帝都市域内、周辺含めて検索かけましたけど。ヒットしません。昔の町名を含めても」


 彼は、事務的な口調のまま言った。


「そんな地名、帝都にありませんよ」


「でも、昨日――」


 私は封筒から、紙地図のコピーと、現像したばかりの写真を取り出した。


「これ、見てもらえますか」


 職員は、紙地図を手に取った。顔を近づけ、しばらく眺める。


「古い地図ですね。いつ頃のですか?」


「分かりません。ただ、市の資料から出てきたって聞きました」


 そう答えると、彼は曖昧に笑った。


「印刷ミスか、どこか別の自治体の古い地図じゃないですかね。帝都の正式な地名一覧にはありませんから」


「でも、この川と、このカーブと……」


 私は写真も差し出した。

 紙の上には、昨夜の柳瀬町が、鮮明に写っている。


 ちょうちんの列。

 地蔵の前に並ぶ子ども。

 坂に沿って立つ家々。


「昨日、ここで撮ったんです。同じ川沿いで」


「……ふうん」


 職員は、写真をひと通り眺めると、端末の画面に表示されているデジタル地図をくるりとこちらに向けた。


「ここが、さっきおっしゃったエリアですよね」


 彼の指が、画面上の空白の四角形をなぞる。


 そこには、道路と区画線だけが描かれている。

 住宅地としての色も、工業地帯としての色もついていない。

 用途未定のまま、きれいに整地された区画として表示されていた。


「このブロックですよね?」


「……はい」


「なら、もともと“柳瀬町”なんて地名はなかったんじゃないですか。昔の測量図には、仮の名前とか、略称とかが書いてあることもありますから」


 軽く笑いながら、職員は写真を私に返した。


「写真のほうの場所が本当にどこなのかは分かりませんけど……少なくとも、市の正式な記録上は、“柳瀬町”という地名は確認できません」


 さっきよりも、少しだけ柔らかい声だった。でも、その分だけ、「決定事項」として響いた。


「じゃあ……昨日、私が行ったあの町は……」


 言いかけて、言葉が喉につかえた。


 自分ですら、うまく説明できない。


 昨日の祭りの喧騒と、今日のコンテナの静けさが、頭の中でぐしゃぐしゃに混ざっている。


「何かの撮影地とか、イベント用のセットとか、そういうのだったのかもしれませんね」


 職員は、当たり障りのない答えを口にした。


「もし正式な問い合わせでしたら、文書で出していただければ、過去の資料まで含めて調べますけど。今日は……窓口レベルだと、これ以上は」


「……いえ、大丈夫です。ありがとうございました」


 私は頭を下げて、その場を離れた。


 背後で、キーボードの音が再び鳴り始める。


 デジタル地図の上で、「柳瀬町」のあった場所は、最初から「空白のまま整地された区画」として存在している。


 そこには、昨日の夜のちょうちんの光も、子どもたちの声も、一切反映されていなかった。



 幻灯局に戻ると、事務所の机の上に、私の持っている封筒と同じ写真が、すでに何枚も並べられていた。


 御影さんと相馬さんが、プリントの前で腕を組んでいる。

 その横には、コンタクトシートと、今日撮ったという数枚の写真。


「戻りました」


 声をかけると、二人の視線がこちらに向いた。


「どうだった」


 相馬さんの声は、いつもより少し低かった。


「……全部、なかったことになってました」


 自分の口から出た言葉が、妙に冷静で驚く。


「高架とコンテナと倉庫だけで。バス停の名前も変わってて。市役所で聞いたら、“柳瀬町なんて地名はない”って」


 封筒を机の上に置くと、中から柳瀬町の写真が滑り出た。


「こっちを見てくれ」


 御影さんが、机の上の写真を指さした。


 一枚目――

 昨夜、路面電車の車内から撮った、柳瀬町の俯瞰。


 川沿いにぎゅっと詰まった家々と、その間にぶら下がるちょうちんの列が見える。


 二枚目――

 今日、同じ鉄橋の上から撮ったという写真。


 高架の下に広がるのは、整然と舗装された更地と、コンテナの列。光の点の並び方が違うだけで、同じカーブを描く川筋だけが共通している。


「ここ」


 相馬さんが、二枚の写真の端を揃えながら、川のカーブの部分を指で押さえた。


「川の角度、高架の位置、遠くに見えるビル……全部、だいたい合ってる。同じ場所を撮ってるのは間違いない」


 そこから彼は、ゆっくりと指を移動させていく。


「でも、その上に載ってる“街”が違う」


 柳瀬町の家々が並んでいる場所に、今日の写真では何もない。

 ちょうちんの光が連なっていたあたりには、白い倉庫の壁だけがある。


「パースも合わない。坂の傾斜も、電柱の位置も。どうやっても重ならない」


 相馬さんは、二枚の写真を少しずつずらしながら、何度も確かめていた。


「同じ空間で、違うものが写ってる。……これ、証拠写真としては使えないぞ」


「使えない、って?」


「証拠ってのはな、“誰が見ても同じものが見える”から意味があるんだ」


 相馬さんは、ため息をひとつついた。


「現場が“ここには何もなかった”って証言して、地図も“何もない”って示してて、そこに“こういう街がありました”って写真を出したところで、“合成”だの“加工”だの言われて終わりだ」


「でも、合成なんかじゃ……」


「分かってる。俺も、灯子がそんなことしないのは知ってる」


 その声には、私への信頼と、どうしようもない苛立ちとが混ざっていた。


「問題は、“現実の側”が揃ってるってことだ。バス会社も、路面電車も、市役所も。“柳瀬町は存在しない”で、全部が一致してる」


 だから、写真のほうが「間違っている」扱いになる。


 九条さんが、机の端に腰掛けながら口を挟んだ。


「さっき、編集部にも話振ってみたんですよ。“存在しない地名の街が消えた”ってネタで一本どうかって」


「どう言われた?」


「“オカルト特集じゃないんだからさ”って笑われました。“写真加工じゃないって証明できんの?”って」


 彼は、指で空中に引用符を描いてみせた。


「“帝都の記憶装置”が聞いて呆れる、って顔されましたね」


 軽口のように聞こえたけれど、その目は笑っていなかった。


「……じゃあ、私は、全部見間違いだったってことですか」


 気づいたら、そう口走っていた。


 柳瀬町の路地。

 地蔵の前の老人の笑い皺。

 花さんがラムネを飲んでむせた顔。


 それらが全部、私一人の幻想だったのだとしたら。


 カメラの中に写っているこれらは、何なんだろう。


「見間違いにしては、ピントが合いすぎてる」


 御影さんが、静かに言った。


「灯子のカメラは、そういうことをしない」


 彼は、黙ってコンタクトシートを指でたどっていた。

 路地のカット、祭りのカット、地蔵のカット。


「ただ――」


 そこで一度言葉を切り、窓の外に目を向ける。


「帝都の“公式な現実”の側が、“柳瀬町はなかった”で揃ってしまった以上、この写真たちは、“間違っている”ことにさせられる。どんなに正しくても」


 記録が、現実に負ける。


 頭では分かっていたはずのことが、こうして目の前で起きると、想像以上に重たかった。


 膝に力が入らなくて、その場にしゃがみ込みたくなる。



 夜になると、事務所の中はいつもより静かだった。


 御影さんは原稿用紙の束を片付け、相馬さんは署から戻ってきて椅子に投げ出されている。花さんは、コンビニの袋から紙コップとお菓子を取り出して並べていた。


 机の真ん中には、柳瀬町のコンタクトシートと、プリントが一面に広げられている。


「今日は、ちゃんと聞こえます?」


 花さんが、紙コップにコーヒーを注ぎながら尋ねた。


「何がですか」


「灯ちゃんの中の、“これ撮ってよかったのかな”って声」


 彼女の言葉に、私は苦笑した。


「聞こえすぎて、うるさいくらいです」


 せめて、誰かに怒られたほうが楽だ。

 「そんなもの撮るな」とか、「勝手に街の都合を語るな」とか。


 でも、現実の側は、ただ静かに「なかった」と言うだけだ。


 そこに感情も悪意も乗っていない。だからこそ、余計に堪える。


 私は、柳瀬町の写真を一枚手に取った。


 地蔵の前で笑っている子どもたち。

 ベンチに座って、私に紙を見せてくれた老人。

 その足元に置かれた古い白黒写真と、「外部調整区域」と書かれた役所の通知。


「昨日、あの子たち、ちょうちんの下で笑ってました」


 声が、知らないうちに震えていた。


「あのお爺さん、“今年でおしまいかもしれん”って言ってました。じゃあ、あれ全部、私の見間違いだったってことですか?」


 問いは、部屋の中に落ちて、そこで動かなくなった。


 誰も、すぐには答えられなかった。


 御影さんはしばらく黙っていたあと、立ち上がって原本棚の前に歩いていった。


 そこには、まだラベルの少ないファイルが、数冊並んでいる。


 一番端の空いているスペースから、彼は厚手のファイルを一冊引き抜いた。


 机の上に置くと、ペン立てから黒いマジックを一本取り出す。


 ファイルの背表紙に、ゆっくりと字を書いていく。


「……柳瀬町」


 太い線で書かれたその文字を見て、胸の奥がきゅっと締め付けられた。


「地図からは消えてても」


 御影さんは、マジックのキャップを閉めながら言った。


「帝都の記録には“あった”ってことにする」


 相馬さんが、椅子から立ち上がり、ファイルのそばまで来た。


「現場の感覚で言うとさ」


 彼は、軽く笑いながら、背表紙を指でとんとんと叩いた。


「“なかったことにされて困る”現場って、山ほどあったんだよ。事件も、事故も、災害も。柳瀬町は、その一つってことでいい」


 花さんは、コンビニ袋の底から、小さな花束を取り出した。


 ラッピングペーパーにくるまれた、安っぽいカーネーションだ。でも、その色はやけに鮮やかに見えた。


「お地蔵さんの代わり、ってことで……ここに」


 彼女は、原本棚の一角、柳瀬町のファイルの横に、そっと花束を置いた。


「原本棚に、お供え」


 少し冗談めかした言い方だったけれど、その目は真剣だった。


 私は、深く息を吸った。


 震える指先で、柳瀬町のプリントを一枚ずつファイルに差し込んでいく。


 路地の写真。

 掲示板の写真。

 地蔵祭りの写真。

 路面電車からの俯瞰。


 透明ポケットの中に収まっていくたびに、「ここに確かにあった」という手応えが、ほんの少しだけ戻ってくる。


「――ここに、“あった街”として残します」


 気づいたら、そう口にしていた。


「見間違いでも、勘違いでもいいから。誰かが覚えてたっていう証拠に」


 言い終えると、胸の奥に溜まっていた何かが、少しだけほどけた。


 九条さんが、腕を組んでその様子を見ていた。


「“誰かが覚えてた”ってのは、かなり強力ですよ」


 彼は、少しだけ口元を緩めた。


「“誰も覚えてない”よりは、ずっとマシだ」


 御影さんが、原本棚の扉をそっと閉じる。


 薄い木の板の向こうに、柳瀬町が収まった。



 夜も更けて、窓の外の帝都は、蛍光灯とネオンと、路面電車の光でまだ明るかった。


 私は立ち上がり、原本棚の前に歩いていく。


 さっき書かれたばかりの「柳瀬町」という背表紙を、人差し指でなぞる。


 黒いインクが、まだほんの少しだけ盛り上がっている。


 扉を閉じても、柳瀬町の写真はそこにある。


 地図からは消されても。

 役所のデータベースからも、路線図からも消されても。


 この棚の中と、私たちの記憶の中には、たしかに「一つの街」として残る。


 それは、誰のものでもない記録だ。


 市のものでも、メディアのものでも、裏社会のものでもない。


 でも、完全に「私たちのもの」と言い切るのも違う気がした。


 あの子どもたちや、お爺さんたちの「今日」が、ここに入っているのだから。


 窓の外で、路面電車の走る音がした。


 高架を渡るときの、わずかに高い車輪の音。

 その下には、何もない、整えられすぎた区画が広がっているのだろう。


 でも、その音を聞くたびに、私はきっと柳瀬町の光を思い出す。


 昨日、橋の上から見下ろした、ぎゅっと詰まった家並み。

 ちょうちんの赤い点が揺れる、あの光の塊。


 それが、もうどこにもないのだとしても。


 原本棚の中には、確かにある。


 私は背表紙から指を離し、少しだけ距離を取って棚全体を見つめた。


 これから先、どれだけの街や人が、この棚の中に収まっていくのだろう。


 消される前に撮ったもの。

 消されたあとにしか撮れないもの。


 その全部を、「あったこと」として残していく。


 窓の外の高架下には、何もない夜景が広がっていた。


 整然とした舗装地。

 コンテナの影。

 街灯だけが、規則正しく並んでいる。


 その光景の片隅に、ほんの一瞬だけ、ちょうちんの列と路地の影が重なって見えたような気がした。


 目を凝らしたときには、もう元の「何もない区画」に戻っていた。


 見間違いかもしれない。


 でも、それでいい。


 見間違いでも、勘違いでも――誰かが覚えている限り、その街は完全には消えないのだと、私は信じることにした。


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