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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第21話「柳瀬町ラストライト」

 柳瀬町のことを知ったのは、コーヒーの匂いと紙の匂いが混ざった、少し眠い午前中だった。


 幻灯局の事務所の真ん中に、古い紙箱がひっくり返されている。ざらざらした図面とコピー用紙が、机から床にかけて流れ落ちていた。


「……で、これはいつの時代の都市計画なんですか?」


 椅子の上で体育座りしながら、花さんが図面をつつく。


「平成のどっか。正確なとこまでは知りません」


 段ボールに上半身を突っ込んだまま、九条さんの声が返ってくる。


 その横で、私は湯気の上がるマグカップを指で回しながら、その様子を眺めていた。


「なんで急に、都市計画の資料なんて?」


「“第三区”の名前が出てきたの、どこからか辿っとこうと思いましてね」


 九条さんが、ひときわ大きな紙を引っ張り出した。机の上に広げられたそれは、帝都の川沿いの一角を拡大したものらしい。


「今の再開発図面と、昔の区分けと、噛み合ってないところが多すぎるんですよ」


「ふうん……」


 私は、その紙地図を覗き込んだ。太い川の線、橋、鉄道。そこに、細かい路地の網目と、小さな字の地名がびっしりと書き込まれている。


「で、こっちが最新のデータ」


 九条さんが、自分のノートPCをくるりとこちらに向けた。表示されているのは、帝都市の公式サイトの地図。色分けされた区画の中に、見慣れた町名が並ぶ。


 ただ、その一角だけが、妙に違っていた。


「……白い」


 川沿いの、紙地図でぎっしりと路地が描かれていた場所が、デジタル地図上では、四角い白いブロックになっている。境界線だけ引かれていて、中には文字も何もない。


「ここの名前、なんでしたっけ?」


 九条さんが、紙地図を指でたどり、ある地点をとんとんと叩いた。


 そこには、小さな字で「柳瀬町」と書かれていた。


「柳瀬町……?」


 聞いたことのない地名だった。でも、紙地図の中ではそれが当たり前のように存在している。細い坂道、川と並行する通り、小さなバツ印で記された公園。


「おかしいんですよ」


 九条さんは、デジタル地図と紙地図を、交互に指さした。


「再開発予定地でもなければ、災害危険区域でもないのに、データ上“なかったこと”になってる」


「消し忘れ、じゃないんですか?」


「だったら、紙地図のほうが古いのに残ってるのおかしくないです?」


 言われてみれば、たしかに。


「路面電車の路線図も見ましたけどね」


 彼は、別の資料を引っ張り出した。停留所の名前が書かれた、色褪せたポスター。


「昔のやつには“柳瀬町”って駅名がある。でも、今の路線図には、手前と次の停留所しか書いてない」


「乗ったことないなあ、そんな駅」


 花さんが首をかしげる。


「バスの系統図も、停留所一個分、抜けてるんですよ。“誤植”って言われたらそれまでですけど、誤植にしちゃ整ってるんですよね」


 九条さんは、ひょいと肩をすくめてみせた。


「再開発図面でしれっと“第三区”に編入されてる場所と、範囲が微妙に被ってるのも気になるし」


「……つまり?」


 背後から聞こえた声に振り向くと、御影さんがコートを腕にかけたまま、入り口に立っていた。


 さっきまで外回りに出ていたはずなのに、いつの間に戻ってきていたのだろう。


「つまりですねえ」


 九条さんが、やや芝居がかった口調で答える。


「“帝都の地図の上に、ぽっかり空いた穴がある”って話です」


 御影さんは、デジタル地図と紙地図を一瞥した。


「柳瀬町か」


「ご存じなんですか?」


「名前だけな。前に、市役所で古い資料見てるときに、たしか出てきた」


 彼は、コートを椅子にかけながら、低く息を吐いた。


「で、九条。“仕事”としては、まだ何も来てないんだな?」


「ええ。公式な依頼は一切」


「……ふむ」


 御影さんは、しばらく黙って紙地図を眺めていた。やがて、私たちのほうを向く。


「いま、うちには“原本ファイル”っていう棚が一段ある」


 視線の先には、昨日ラベルを貼ったばかりのファイルが立っている。


「市から頼まれたわけでも、どこかの媒体から依頼されたわけでもない。でも、“ここにあった”ことを、誰かがちゃんと覚えていたほうがいいものがあるなら――それは、うちが勝手に撮って、勝手に残していい」


 その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。


「柳瀬町が、その“原本案件”だと?」


「そう思う」


 御影さんは、ためらいなくうなずいた。


「地図の上では、すでに白く塗られ始めている。でも、まだ誰かが住んでいるなら、その人たちにとっては、ちゃんと“町”だ。そこを一度、街ごと記録しておきたい」


「正式な資料でもないのに、適当なこと言えないですよ?」


 九条さんが、冗談めかして言う。


「適当なことを言うのは、お前の仕事だろう」


「ひどい」


 笑いが起きて、少し空気が和らぐ。


 それでも、地図の白いブロックは、じっとこちらを見ているようだった。


「行ってみたいです」


 気づいたら、私は口を開いていた。


「“消える前提で撮るのは嫌だ”って前に言ったけど……原本に残すため、っていうのなら、理由としてちゃんと欲しいです」


 御影さんは、少しだけ微笑んだ。


「じゃあ決まりだな。――相馬」


「呼ばれると思った」


 いつからか、相馬さんが扉のところにもたれていた。煙草の匂いを外に残してきたらしく、コートから冷たい空気が流れ込んでくる。


「柳瀬町まで、灯子と花を頼む」


「了解。どうせ川沿いだろ。俺が一緒のほうが、変な警らに絡まれても話が早い」


「私は“カフェイン係”でついていきまーす」


 花さんが、手を挙げる。


「勝手に決めるな」


 そう言いながらも、御影さんは止めなかった。


「じゃあ、今日は一日“街ドキュメンタリー”だ。川沿いから坂の上まで、まるごと撮ってこい」



 路面電車の窓から見える川は、いつもより少し濁っていた。


 朝のラッシュはひと段落した時間帯で、車内はほどよく空いている。制服姿の高校生と、買い物袋を持った老人と、居眠りをしているサラリーマン。そんな人たちの間に混じって、私たちは揺られていた。


「次は、柳……」


 車内アナウンスの声が、一瞬だけ引っかかったように聞こえた。


「あれ?」


 私は顔を上げる。


「次は、○○前、○○前です」


 機械の声は、何事もなかったかのように、次の停留所の名前だけを告げていた。


「聞き間違いかな」


 小さく呟くと、隣の花さんが首を傾ける。


「柳、なんとか、って言った?」


「ような気がしたんですけど……」


 相馬さんは、窓の外を眺めたまま言った。


「昔はこの辺に“柳瀬町”って駅があった。俺が子どもの頃に乗ってた路線図には、まだ名前が載ってた」


「降りたこと、あります?」


「記憶が曖昧なんだよな。通り過ぎた風景が、妙に残ってるだけで」


 電車がカーブし、川と並行して走り始める。


 窓の外、川の向こう側に、ぎゅっと詰まった家並みが見えた。坂に張り付くように、屋根と屋根が階段状に重なっている。その一角だけ、どこか色合いが違って見えた。


「ほら、あそこ」


 相馬さんが顎で示す。


「あれが、たぶん柳瀬町」


 私がカメラを構えかけたとき、電車は次の停留所に滑り込んだ。ドアが開き、「○○前です」というアナウンスが繰り返される。


 柳瀬町という言葉は、どこにも出てこない。停留所の看板にも、路線図にも。


 私たちは、そこで降り、川沿いの小さな橋を渡った。



 柳瀬町は、川の匂いが濃い場所だった。


 橋から町に入ると、すぐに細い坂道が始まる。左右には、古いアパートや木造の長屋が、斜面に沿って無理やり押し込まれたように並んでいた。


 洗濯物が、空き地代わりの狭いスペースにびっしりと吊るされている。バスタオルの隙間から、誰かのシャツの柄がのぞく。


 電線が、頭上で複雑に交差している。曇りがちな帝都の空を、小さな四角い切れ端に区切っていた。


「……なんか、空気が違うね」


 花さんが、息を深く吸い込んだ。


「美味しい、っていうより、濃い」


「潮の匂いと、風呂屋の煙と、煮物の匂いと……いろいろ混ざってますね」


 私も、鼻の奥にくすぐったいものを感じながら答えた。


 坂道を上がるごとに、違う匂いが混じる。路地の曲がり角ごとに、小さな店や家が現れる。


 シャッターの半分だけ開いた駄菓子屋。

 店先の木箱に、ラムネ瓶と、色あせた駄菓子の箱が並んでいる。


 薄暗い入口から、ラジオの音が漏れてきた。懐かしい歌謡曲のようでいて、今の流行歌でもあるような、不思議な時間の混ざり方。


 私は、一枚一枚、慎重にシャッターを切っていった。


 駄菓子を選んで悩んでいる子どもの横顔。


 坂の途中で立ち話をしている主婦たち。


 川べりの防波堤で、古びた椅子に腰掛けて釣り糸を垂らしているお爺さん。


 その全部が、「今日の柳瀬町」の一部だった。


「ねえ灯ちゃん」


 花さんが、町内会の掲示板の前で立ち止まる。


 そこには、色あせたプリントがいくつも重ね貼りされていた。


 粗大ごみの日程。避難訓練のお知らせ。地蔵祭りのお知らせ。


「……この日付、何年?」


 花さんが指さした紙には、手書きで「○年○月」としか書かれていない。年号は、虫食いのように欠けて読めない部分もある。


「平成……? 令和……?」


 印刷された書体と、貼り紙の色あせ具合と、手書きの丸文字。その全部が、どの時代のものともつかない曖昧さをまとっていた。


「ね、“今”の帝都って感じ、あんまりしないよね」


「時間だけ、どこかで引っかかってる感じがします」


 相馬さんが、掲示板の隅の時計を指した。丸いアナログ時計は、針が十二時と六時の間で止まっている。


「止まってる」


「あの時計、俺が子どもの頃に見たときから、たぶん同じ時間指してる」


「電池替えないだけでは?」


「かもしれない」


 冗談めかして言いながらも、相馬さんの目は笑っていなかった。


 私の胸の奥にも、小さなざわめきが生まれていた。


 紙の地図にしか載っていない町。

 デジタル地図上では白く抜けているブロック。

 アナウンスから消えた駅名。

 止まった掲示板の時計。


 ここだけ、帝都の「時間の線」から少し外れているように感じた。


 だからこそ、撮らなければならない。


 私は改めてカメラを握りしめた。



 坂を上りきったところに、小さな祠があった。


 道が少し広くなっていて、そこに、赤い前掛けをつけた地蔵が並んでいる。石段には、紙提灯を吊るすための竹の骨組みが組まれていた。


「あらまあ、写真屋さんかい」


 低い声がして振り向くと、ベンチに腰掛けた白髪の老人が、こちらを見ていた。


「こんにちは。あの、少し、お話聞かせてもらってもいいですか?」


 私はカメラを胸の前で抱え、頭を下げた。


「どこから来たの?」


「幻灯局っていう、写真……記録をやってるところからです。今日は、この町を撮らせてもらいに」


「幻灯局?」


 老人は、目を細めて私たちを見た。


「よう来たねぇ。今年でおしまいかもしれんけどな」


「おしまい、って……祭りが、ですか?」


「祭りも、町も、まとめてだよ」


 老人は、地蔵の足元に置かれた空き缶を足先で転がした。中で小銭がちりんと鳴る。


「“ここはもう帝都じゃない”んだとさ」


「帝都じゃ、ない?」


 聞き返した私の声が、少し上ずる。


「役所の人が来てな。なんやら紙じゃらじゃら持ってきて、“柳瀬町地区は帝都都市圏外部調整区域として”って、早口で読みよった」


 老人は、ベンチの横のトートバッグから、折り畳まれた紙を取り出した。何度も広げたり畳んだりしたのか、端がすっかり柔らかくなっている。


「ほれ」


 差し出された紙を、慎重に受け取る。


 印刷された細かい文字が、びっしりと並んでいた。


 ――柳瀬町地区は、帝都都市圏外部調整区域として位置付けられ……

 ――当該区域における都市機能の移転および居住者の段階的移行を……


 意味が分かるようで分からない言葉が、むやみに難しい漢字といっしょに並んでいる。


「“外部調整区域”って、要するに『外』なんだろうよ。帝都の中にあるくせに」


 老人は、鼻で笑った。


「外にしたいところを、線で囲んで“ここは外です”って」


「……それで、町がなくなるんですか」


「そんなにすぐには消えんよ」


 老人は、空を見上げた。竹にぶら下がったちょうちんの骨組みが、風に揺れる。


「でもな、“地図”から消えたら、あとは早い。バスも電車も、ここを通ってるってことにしなくなる。店も、病院も、学校も、少しずつ“別のところ”に移されていく」


 私は紙を持つ手に力を込めた。インクの匂いが、鼻の奥に刺さる。


「この祭りも、いつまで続けられるか分からん」


 老人は、地蔵の頭を撫でた。


「昔は、川がもっと暴れてな。橋も、今みたいにちゃんとしたコンクリじゃなかった。あっちこっち流されて、そのたびに皆で担ぎ直して」


 地蔵の足元には、古い白黒写真が数枚置かれていた。河原に並ぶ木造の家々。増水した川。板切れみたいな橋。


「これ、見てもええかの」


「どうぞどうぞ。若いもんに見てもらえるだけでも、こいつらも嬉しかろう」


 私は、白黒写真を一枚ずつ持ち上げた。


 目の前の風景と、写真の中の風景が、頭の中で重なる。


 川筋は同じだ。坂の傾きも。家の並びも、基本の形は変わっていない。


 でも、写真の中の家々は、私がさっき見たものよりさらに古びていて、今よりももっとぎゅうぎゅうに詰まっているように見えた。


 時間が、何層にも重なっている。


 その真ん中に、自分が立っている感覚がした。


「撮らせてもらっても、いいですか?」


 私は、写真をそっと元の場所に戻し、カメラを構えた。


「紙も、お地蔵さんも、あなたも。まとめて」


「ワシまで撮るんかい」


「“この町の今日”なので」


 シャッターを切る。

 地蔵と、その前に座る老人と、その足元の古い白黒写真と――老人が持ってきた、役所からの紙。


 それらが、一枚の画面の中に収まる瞬間。


「今年でおしまいかもしれんけどな」


 老人は、もう一度同じことを言った。


「それでも、“あったこと”が一枚残るなら、まあ悪くない」


 その言葉が、胸に刺さった。


 “消える前提”で撮ることへの嫌悪と、“あったことを残す”ことの意味。その間で揺れていた感情が、少しだけ形を持った気がする。


 これは、“誰かの都合のため”じゃなくて、“ここにいた人たちのため”の写真だ。


 そう思えたら、シャッターを押す指が、少し軽くなった。



 日が傾き始めると、柳瀬町は急に賑やかになった。


 地蔵の前の路地には、赤いちょうちんがぶら下がり、裸電球の光が順番につながっていく。折りたたみの机に、焼きそばの鉄板代わりのホットプレートや、手作りのお菓子が並べられる。


 子どもたちが、紙鉄砲やくじ引きの箱を持って走り回る。浴衣姿もいれば、Tシャツに短パンの子もいる。どの時代なのか、やっぱり分からない。


「いいねえ、こういうの」


 花さんが、わたあめをちぎりながら笑った。


「お店じゃなくて、おばちゃんたちが作ったお菓子ってところがまた」


「衛生的にはどうか知りませんけどね」


 相馬さんが、苦笑しながら缶ビールを片手に立っている。警察官らしからぬ姿だが、ここでは皆、そうやって夜を迎えている。


 私は、祭りの一つ一つをできるだけ丁寧に撮っていった。


 紙風船を追いかける子ども。

 ちょうちんの影の中で煙草をふかす若い父親。

 地蔵の前で手を合わせる老夫婦。


 祭りの喧騒の向こうには、川の音が絶えず聞こえていた。


 川面には、ちょうちんの光が揺れている。それが、風に揺れるたびに、伸びたり縮んだりする。


 こんな風景が、「帝都の地図」からは、最初から存在しないことになりつつある。


 この街の記録は、いったい誰のものなのだろう。


 役所の文書に「外部調整区域」と書かれた瞬間に、ここは誰の街でもない場所にされていく。


 でも、目の前の子どもたちや、露店を準備する人たちにとっては、ここは、紛れもなく“自分たちの街”だ。


 私のカメラは、どちら側の味方なんだろう。


 そんなことを考えながらも、シャッターは止まらない。

 止めてしまったら、今日の光景は、本当にどこにも残らなくなるから。



 帰りの路面電車に乗ったときには、すっかり夜になっていた。


 川に架かった鉄橋を渡るとき、車輪の音が少しだけ高くなる。


 窓の外には、柳瀬町の明かりが、ひとかたまりの光となって見えた。ぎゅっと詰まった家並みの間を、ちょうちんの赤い点がいくつも揺れている。


「見える?」


 私は立ち上がり、窓にカメラを寄せた。電車の揺れに合わせて、視界が上下に揺れる。


「揺れすぎて、ブレそう」


「連写でごまかせ」


 相馬さんが、隣で支えるように立ってくれた。


 シャッターを切る。

 外の光と、車内の蛍光灯の反射と、自分の顔と。


 窓ガラスの向こうにある柳瀬町は、小さくて、でもたしかにそこにあった。


 いつまで、そうなのかは分からない。


 明日も、明後日も。


 川沿いの防波堤で釣りをするお爺さんがいて、

 地蔵の前で子どもたちが笑っていて、

 掲示板の時計は相変わらず止まったままで――


 そんな町の姿が、できるだけ長く続いてほしいと、私は思った。


 でも、たとえそうならなかったとしても。


 今日、私たちが歩いた柳瀬町は、確かにあった。


 原本ファイルの中には、その証拠が入る。


 それが、誰のものでもなく、どこにも属しない記録だとしても。


 暗い車内の窓に、柳瀬町の光と、自分のシルエットが重なる。


 カメラを構える自分の姿が、ガラスの中でぼんやりと浮かんだ。


 鉄橋を渡り終える直前、もう一度だけシャッターを切る。


 カメラの中に、今夜の柳瀬町の最後の灯りが、そっと封じ込められた気がした。


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