第20話「見えない原本」
通知音で、朝の静けさが切れた。
幻灯局の事務所は、まだ暖房が効ききらない。窓ガラスが白く曇っていて、指でなぞると、外を走る路面電車の色がにじんだ。
机の上には、昨日のままのカメラと、現像済みのコンタクトシート。それを横目に見ながら、私はポケットからスマホを取り出す。
ロックを外すと、ニュースアプリのポップアップが画面の真ん中に出ていた。
〈第三区再編計画、市長会見を実施〉
〈「未来の帝都の姿」――市長が語るビジョン〉
タップすると、白い画面の中に、見慣れた構図が現れた。
壇上の市長。背後には、例のイメージパース。手前には、ぼかされた記者の頭。
――私が撮ったカットだ。
細部は微妙にトリミングされているけれど、構図のクセで分かる。連写したうちの「これかな」と思う番号まで、ほとんど思い出せる。
指で画面を下にスクロールする。市の広報サイト、ニュースサイト、まとめ記事。どこも似たような写真だった。
笑っている市長。真剣な表情の市長。イメージパースを指さす市長。
そこには、
途中で席を立った母親の背中も、
空席が目立つ後列も、
うんざりした顔で腕を組んでいる人の表情も、どこにもなかった。
画面の下に並ぶコメント欄に、目が滑っていく。
〈きれいごとばっかり〉
〈でも第三区ほんとに危ないしなあ〉
〈写真はきれいだな〉
写真はきれいだな。
褒められているのか、利用されているのか、よく分からない言葉だった。
「お、もう出てる?」
背後から声がして、私は慌ててスマホを伏せた。
事務所の扉が半分開いていて、その隙間から九条さんが顔を覗かせている。
「市長のやつですよね」
「うん。……私が撮ったの、使われてます」
「そりゃそうでしょう。わざわざ“ご立派な”協力機関指定のお話まで持ってきたんだから」
九条さんは、当然とばかりに頷くと、自分のスマホも取り出した。
「で、こっちはこっちで――っと」
画面を見せられる。
私のより少し古い型のスマホ。その中に、別のニュースサイトの記事の見出しが並んでいた。
〈「未来のための再編」という名の地上げ――第三区の住民たちの声〉
執筆者欄には、九条 隆とある。
「仕事早いですね」
「締切が早いんですよ」
苦笑しながら、記事をスクロールして見せてくれる。
会見場の俯瞰写真。第三区の地図のアップ。川沿いの商店街のスナップ。
どれも、私たちが撮ったものだった。
キャプションには、小さく〈写真提供:幻灯局〉。
「……勝手に使ったわけじゃないですからね。一応、御影さんには話通してます」
「はい。それは聞いてますけど」
記事の本文には、市の説明と並べて、住民たちの不安や怒りの声が載せられていた。
〈市は“未来のための再編”と語るが、
第三区の住民たちは、今この街で暮らす“現在”を失う不安を抱えている〉
その中ほどで、見慣れた三文字が目に飛び込んできた。
――幻灯局。
そして、そこに続く一文。
〈市とも連携する“帝都の記憶装置” 幻灯局〉
「“記憶装置”って」
思わず声が漏れる。
「キャッチコピー的なやつです」
九条さんは、悪びれもせず肩をすくめた。
「ほら、“謎の個人事務所”だと、読者に伝わらないでしょう? 市とも連携してるし、街を撮ってるし、なんかそれっぽい言い方を……」
「“市とも連携”って書いたら、完全に“市の仲間”みたいに見えません?」
「そこは、読者の想像にお任せして」
「いや、任せたくないです」
私は、画面を指で指しながら抗議した。
幻灯局の名前を、こんなふうに括って書かれるのは、初めてだ。
記事の下に、SNS共有のボタンが並んでいる。その隣に、小さく数字。
もう何十件もシェアされている。
嫌な予感がして、九条さんのスマホの別のアプリを開かせてもらった。タイムラインを流れる、拡散された記事とコメント。
〈市とグルのくせにカッコつけてる〉
〈公式カメラならもっとちゃんと撮れ〉
〈幻灯局って、市役所の外注じゃん〉
雑なラベリングが、文字列になって画面を埋めていく。
全部が全部じゃない。中には冷静な意見もあるし、幻灯局を面白がってくれている人もいる。
それでも、乱暴な言葉のほうが、目に刺さりやすかった。
「……なんか、勝手に“市の側”にも、“反対派の側”にも、名前使われてません?」
私はスマホを返しながら言った。
「こっちにそんなつもりがなくても」
「まあ、ネットなんてそんなもんですよ」
九条さんは、あっさりと言う。
「“便利なラベル”が一個あったら、みんなそこに貼り付けて楽したくなる。市にとっては『協力機関』、僕にとっては『記憶装置』。どっちも、事実の一部ではある」
「でも、それが全部じゃない」
「そこが一番、伝わりにくいところなんですよねえ」
彼は、ため息ともつかない笑いを漏らした。
「じゃあ、どう書けばよかったです?」
逆に聞き返されて、言葉に詰まる。
“市とも連携する”“裏側も撮っている”“でもどこにも属しきっていない”。
そんな面倒くさい説明を、記事の枠の中でどう書けるだろう。
「……あとで、御影さん怒ると思いますよ」
「それはそれで記事になりますね」
「もう」
軽口を交わしていても、胸の中の居心地の悪さは薄れない。
そのとき、事務所の電話が鳴った。
◇
黒電話のベルは、いつもより一段低く聞こえた。
御影さんが受話器を取り、とりあえずの挨拶をする。
「幻灯局です。――はい。ええ。……警察?」
その単語に、空気が少し変わった。
御影さんは短く相槌を打ちながら、机のこちら側をチラリと見る。
「会見の日の写真……? ――本人確認のための提供?」
私は思わず、椅子から身を乗り出した。
受話器の向こうの声は聞こえない。でも、「本人確認」「違法行為」という単語だけは、なんとなく想像がついた。
「……分かりました。一度、うちでも相談した上で折り返します」
電話を切ると、御影さんは額を押さえた。
「どうしました?」
「会見当日に来てた参加者の一部が、別件のデモで暴れたらしい」
相馬さんが、いつの間にか扉のところに立っていた。
「おそらく公安か刑事か、その辺からだろうな」
「“会場に来てたかどうか”と、“実際にやったかどうか”は別でしょう」
九条さんが、さっきまでの軽さとは違う声で言う。
「で、うちの写真で『この人いました』『この人もいました』って線引きするわけですか」
「向こうの理屈は、よく分かる」
相馬さんは、低く言った。
「もし放っておいて、次のデモで誰かが怪我したり、最悪死者が出たりしたら――そのとき『あんたら、写真持ってて何もしなかったのか』って言われるのは、目に見えてる」
「……でも、うちは防犯カメラじゃない」
御影さんが、電話の受話器を見つめながら言った。
「監視カメラでもない。そういう扱いをされるのは、正直ごめんだ」
「それは、俺だって同じですよ」
相馬さんが、腕を組む。
「ただ、“見てただけ”って言われるのも、結構堪えるもんなんだ」
彼の顔には、何か別の記憶がちらついているようだった。
まだ聞かれていない話。聞くタイミングを誤ると、崩れてしまいそうな話。
私は、昨日見たコンタクトシートを思い出した。
壇上の市長。会場の雰囲気。途中退席する人の後ろ姿。
密集する人の中で、特定の顔を抜き出すことは、たぶん難しくない。
私の写真は、人を守るためにも、人を縛るためにも使える。
それを改めて突きつけられて、指先が冷たくなった。
◇
午後。相馬さんと御影さんは、警察署へ話をしに行くことになった。
「付き添いは、いいのか?」
カメラバッグを肩にかけようとして、相馬さんに止められる。
「写真を持ってくわけじゃない。今日は“話”だけだ」
「でも――」
何もないロビーや廊下を撮ることにも、意味がある気がした。
“記録”の相談をしに行く場所の、空気を残しておくこと。
けれど、相馬さんは首を振った。
「署内にカメラは山ほどある。お前のカメラまで持ち込む必要はないさ」
冗談めかした言い方だったけれど、その目は本気だった。
「じゃ、留守番組は?」
「ネガとコンタクト、一通り整理しといてくれ」
御影さんが、指示を飛ばす。
「どれを市に渡したか、九条に提供したのがどれか、リストを見ながら確認したい」
「了解です」
私はうなずき、二人を見送った。
扉が閉まると、事務所の中は急に広くなった気がした。
机の上に、会見の日のコンタクトシートを広げる。番号ごとに、小さな四角の中に、少しずつ違う瞬間が並んでいる。
市長の表情。イメージパース。記者席。後ろの空席。視線を落とす人。立ち上がる人。
「お邪魔します」
ふわりとコーヒーの匂いがして、顔を上げる。
「差し入れでーす」
花さんが、トレーを持って立っていた。
「例の会見のやつ、いろいろ大変みたいだからさ。糖分とカフェイン補給」
「ありがとうございます」
コーヒーカップが、コンタクトシートの端ギリギリに置かれる。
「……これ、全部、灯ちゃんが撮ったんだよね?」
「はい」
「すごいねえ。なんか、テレビで見たのと、ちょっと雰囲気違う」
花さんは、コンタクトシートを覗き込みながら首をかしげる。
「テレビのやつはさ、市長さんがしゃべってるとこばっかだったじゃん。拍手してるとこも多かったし」
「こっちは、途中であくびしてる人もいますからね」
「この人とか」
花さんが指を止めたのは、半分目を閉じたまま、ペンを口にくわえている誰かのカットだった。
「こういうのも、全部“あったこと”なんだよね?」
「ええ、まあ」
「だったらさ、どれも“本当のこと”なんじゃないの?」
花さんは、当たり前のように言う。
「ほら、どの一枚も、ウソじゃないじゃん。合成とかじゃないし」
「……“本当”だけど、“全部”じゃないんです」
自分でも何を言っているのか分からなくなりながら、口から言葉が滑り出た。
「市の広報に載ってる一枚も、本当にあった瞬間だし。九条さんの記事に載ってる一枚も、そう。でも、それぞれが“見せたい部分”だけ切り取ってる」
「うちも?」
「幻灯局も」
私は、コンタクトシートの一コマを指さした。
壇上の横で、スタッフが慌てて何かを片付けている瞬間。後ろの席に、退屈そうに足を組んでいる人。
「これ、私、好きなんですよ。会見の“余白”って感じで。でも、もし市に出す写真えらべって言われたら、たぶん外しちゃう」
「なんで?」
「“だらしない現場”って思われそうだから」
花さんは、少しだけ考えてから、言った。
「じゃあさ、外に出すぶんは外に出すとして……“外さない場所”もどこかに作っとけば?」
「外さない場所?」
「うん。ここには全部あるよ、っていう場所」
彼女の言葉は、ふわっとしているのに、どこか芯があった。
「ニュースとか地図とか変わってもさ。誰かが“ここにこういう顔があった”って覚えてれば、それも一つの記録でしょ?」
前に、商店街で花さんが言っていたことを思い出す。
――ニュースとか地図とか変わってもさ。ここに何があって、誰がいたかくらいは、誰かが勝手に覚えてるでしょ。
彼女にとって、記録とはきっと、最初から「誰かが覚えていること」と分かち難く結びついているのだろう。
私たちにとっての写真は、その「覚えていること」をちょっと助ける道具にすぎないのかもしれない。
コーヒーの湯気を見上げながら、ぼんやりそんなことを考えていると、扉が開いた。
◇
夕方前。相馬さんと御影さんが戻ってきた。
外はもう、ビルの影が長く伸び始めている。
「どうでした?」
私は立ち上がって聞いた。
「……向こうの言い分も、だいたい予想通りだった」
御影さんは、コートをハンガーにかけながら答えた。
「“危険な人物を未然に特定したい”“市民の安全を守るために必要”」
「それで?」
「会見場全体の俯瞰と、壇上のカットについては、“特定の人物の顔がはっきり写っていない限り”という条件で、提供してもいいと伝えた」
相馬さんが続ける。
「それ以上のどアップや、個人が特定できるものは、“撮影目的と違う使い方はできない”って、御影がねばってくれた」
「向こうも、“じゃあ裁判所を通した正式な手続きになったら”とか言ってきたがな」
御影さんが、疲れたように笑った。
「今回は、とりあえず見送りだそうだ。“まずは検討する”で帰っていった」
「……ギリギリのとこで踏みとどまったって感じですね」
私は、胸の中の緊張を少しだけ解く。
それでも、「次がない」とは誰も言わなかった。
この先もきっと、同じような依頼や圧力は何度も来る。そのたびに、線をどこに引くか、いちいち悩むことになる。
「で、その線をどう引くかって話を、今日のうちに決めとかないとだ」
御影さんが、机の上のコンタクトシートを指で叩いた。
「全員、ちょっと時間取れるか?」
「もちろん」
「取材ネタになりそうなら、いくらでも」
「コーヒーおかわり淹れてくる!」
花さんが、嬉々としてキッチンに向かう。
七瀬さんも、いつの間にか窓際の椅子に腰掛けて煙草を指で弄んでいた。
「巻き込まれてるけど、まあいいや。面白そうだし」
こうして、珍しく幻灯局に関わる全員が一箇所に顔を揃えた。
◇
机の上に、紙が広がる。
会見の日のコンタクトシート。
市に渡した「公式採用カット」のリスト。
九条さんに提供したカットの控え。
そして、まだどこにも渡していない「余り」の写真たち。
「要するにさ」
七瀬さんが、つまらなそうでいて目だけは鋭く、それらを眺めて言った。
「同じ一日でも、誰に何を渡すかで、“どんな日だったか”変わっちまうってことだよね?」
「変わる、というか……」
九条さんが、ペンをくるくる回しながら答える。
「見える部分が変わる。市民が後から知る“第二区再編会見”は、広報が出した写真を見た人のものでもあるし、僕の記事を読んだ人のものでもある」
「ウチらの店から見た“第三区”とも、また違う顔ってわけだ」
七瀬さんは窓の外を顎でしゃくった。
「でもさ、どんな切り取り方にしろ、灯ちゃんの写真ってさ、どれも“本当にあった”ことでしょう?」
花さんが、コーヒーカップを配りながら言う。
「この人、あくびしてたし。この人、途中で帰ったし。この人は真剣にメモとってたし」
「“本当にあったこと”も、見せ方次第でどうとでもなるんですよ」
九条さんが、それにかぶせる。
「たとえば、このカット」
彼は、自分が記事に使った写真を指さした。
「これ、“真剣に話を聞く記者たち”ってキャプションを付ければそう見えるし、“不安そうな顔で話を聞く市民たち”って書けば、そう見える。視線の先が市長なのか、別の誰かなのか、読者には分からない」
「詐欺じゃないですか、それ」
「嘘は書いてないです」
軽く笑いながらも、その目は真面目だった。
「だからこそ、怖いんです。写真って、“本当”であることと、“都合のいい物語を支える”ことが、両立しちゃうから」
私たちは、それぞれのカットを見つめる。
市のための“顔”。
記事のための“顔”。
裏社会にとっての“情報”。
住民にとっての“思い出”。
同じ一枚が、いくつもの“誰かのもの”になろうとしている。
その中で、私たちはどこに立つのか。
黙っている時間が、少し長く続いた。
沈黙が重さを増し始めた頃、気づいたら私は口を開いていた。
「――じゃあ、“見せない分”は、どこに置いておきますか?」
自分でも、不意打ちのような言葉だった。
全員の視線が一斉に向くのを感じる。
「市に渡す分も、九条さんに渡す分も、それぞれ意味はあると思うんです。でも、そのどちらにも入らない写真もあるし」
私は、コンタクトシートの端を指でなぞった。
「さっき花さんが言ったみたいに、“外さない場所”がどこかにあってもいいんじゃないかって」
「外さない場所……」
御影さんが、ゆっくりとその言葉を繰り返した。
しばらく考え込んでから、顔を上げる。
「市に渡す分、メディアに渡す分とは別に、“幻灯局だけの原本”を作る、ってのはどうだろう」
「原本?」
相馬さんが聞き返す。
「ネガでもプリントでもいい。とにかく、“その日、俺たちが見たものの全部”を、加工も選別もせずにまとめておく。公には出さない。誰のものでもない。でも、どこかにちゃんと残っている記録」
「誰のものでもない、って言ってもさ」
七瀬さんが、ニヤリと笑う。
「鍵持ってんの、御影さんなんでしょ?」
「まあ、物理的にはな」
御影さんも笑い返す。
「でも、発想としては、“所有者不明の記録”が一つくらいあってもいいと思う。市のものでも、メディアのものでも、裏社会のものでもない、“帝都の原本”みたいなやつが」
「帝都の……原本」
言葉の響きが、胸に落ちてくる。
ネガの黒。印画紙の白。
その間に浮かび上がる、街の影。
「じゃあ、そこにある“原本”には、俺たちが見た全部を書いとこう」
相馬さんが、ゆっくりと言った。
「たとえ外に出せなくても、誰かが“ここにあった”って知ってたってことを、あとになって、証明できるくらいには」
「書いて、撮って、残すだけ残して、“いつか誰かが見るかもしれない場所”に置いておく」
九条さんも、ペン先で机をとんとんと叩きながら言う。
「それ、記事より気楽でいいなあ。誰にも読まれないかもしれない前提って」
「でも、それやるならさ」
花さんが、そっと言った。
「ラベルはちゃんと書こうよ。“いつのどこで、誰が見た何か”って」
「ラベル係、花さんで決まりだな」
七瀬さんが、笑い混じりに言う。
「私は字が丸いから、あんまり怖くならないよ?」
笑いが、少しだけ空気を軽くする。
私は、自分の胸の中の重りが、形を変えていくのを感じていた。
市のための写真。
記事のための写真。
誰かを守るためかもしれない写真。
誰かを縛るかもしれない写真。
その全部に、簡単な正解はない。
でも、「全部がどこかにちゃんとある」という前提を、自分たちだけでも握っておけるなら――私の写真は、誰かの都合だけじゃなくて、「ここにいた人」のものにもなる気がする。
「……やりましょう」
私は言った。
「“原本ファイル”、作りたいです」
「よし。じゃあ早速、棚を一段あけるか」
御影さんが、立ち上がる。
古い資料やカタログが詰まった棚の一角を整理し始める。その横で、花さんが空のファイルを持ってきて、「原本」と手書きのラベルを貼った。
「名前、そのまんまですね」
「あとでカッコいい名前思いついたら貼り替えればいいよ」
花さんは笑う。
ライトボックスの上にネガを並べる。
相馬さんが、その横でメモを書いていく。
「第三区市長会見 ○月○日 撮影:灯子」
九条さんは、提供したカットの番号を別紙に控え、ラベルに小さく印をつける。
私は、印画紙の上に浮かぶ像を一枚ずつ見ていく。
笑っている人。あくびをしている人。立ち上がる人。俯いている人。
その全部を、「どれが正しい」と決めつけずに、ただそこに置いておく。
◇
作業が一段落した頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
帝都のネオンがにじみ、遠くを路面電車のライトが滑っていく。
机の上には、新しく立てられたファイルが一つ。
背表紙には、花さんの丸い字で「原本」とだけ書かれている。
その少し離れた場所に、白い紙箱がぽつんと残っていた。
紺色の袖章が入った箱。
私は、そっとふたを開ける。
銀色の刺繍が、蛍光灯の光を反射して一瞬だけきらりと光った。
腕に巻けば、きっと現場での通行証にもなる。
市の職員にも、警察にも、一目で分かる印になる。
それを付けてシャッターを切る自分と、
それを付けずにシャッターを切る自分。
どちらがいいのか、今の私にはまだ分からない。
ただ一つだけ、はっきりしているのは――この袖章を付けた瞬間、私たちは“市のカメラ”として見られるようになる、ということだ。
原本ファイルの背表紙に目をやる。
誰のものでもない、けれど確かにここにある記録。
袖章の入った箱と、原本ファイル。その間の距離は、机の上のほんの数十センチ。
でも、その意味の差は、たぶん、帝都一つぶんくらい重い。
「……ごめん。今は、まだいいや」
小さくつぶやいて、私は袖章を箱の中に戻した。
ふたを閉め、そのまま引き出しを開ける。
一番下の段。滅多に使わない領収書や古いフィルムが押し込まれている場所を少し整理して、箱をそっと置いた。
引き出しを閉めるとき、金属の取っ手が小さく鳴る。
代わりに、空いた棚の一段に、原本ファイルを立てる。
背表紙の「原本」という文字を指でなぞる。
私たちはたぶん、“市のカメラ”にはならない。
でも、“誰のものでもない記録”っていうのが、この街には一つくらいあっていいと思う。
窓の外で、路面電車がゆっくりと走っていく。
ガラスに映った幻灯局の窓だけが、ほんの少しだけ暖かい光を漏らしていた。
その光の中で、私はカメラを持ち直し、シャッターを一度だけ空で切った。
見えない原本の一枚目が、心の中でそっと増えた気がした。




