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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第2話「地図にない路地」

 翌朝、目覚ましが鳴る少し前に、私は目を覚ました。


 天井の薄い染みをぼんやり眺めているだけで、昨日撮った路地の匂いが鼻の奥によみがえってくる。古い木の匂いと、味噌汁と、夕方の斜めの光。


 枕元のカメラバッグに伸ばしかけた手を、私は途中で止めた。


 ――まだ、見ていない。


 昨夜は、わざと電源を入れなかった。もしあの中身まで「おかしかったら」、きっと眠れなくなると思ったからだ。


 けれど、いつまでも放っておくわけにもいかない。今日からは、あの局の仕事として、ちゃんと向き合わなきゃいけない。


 私は布団を蹴って起き上がり、いつもより少し丁寧に顔を洗った。鏡の中の自分は、まだ帝都に来たばかりの、あか抜けない新人のままだけれど、目の下の影だけは、昨日より濃くなっている気がした。



 幻灯局の部屋は、午前中だというのに、もう紙と湯気でいっぱいだった。


 コピー機の音。キーボードを叩く音。花さんが湯呑みを並べる軽い音。全部が狭い空間の中に重なって、独特のリズムを作っている。


「おはようございます」


「あ、おはよー灯子ちゃん。ちゃんと起きれた?」


 花さんが笑いながら湯呑みを差し出してくれる。その後ろで、御影さんは新聞を三紙まとめてめくっていて、九条さんは、ペンを咥えたままパソコン画面とにらめっこしていた。


「昨日の分、データ上がってるか?」


「はい。これから整理しようと思ってて……」


 私はカメラを机の上に置き、局用の古いデスクトップにケーブルをつなぐ。立ち上がりの遅いPCが、うなり声みたいなファンの音を立てた。


 モニタに昨日のファイル名が並ぶ。淡々とした英数字の列の中に、自分だけが知っている感触がひそんでいる。


 石畳。洗濯物。猫。斜めの光。


「……開きますね」


 私は、自分に言い聞かせるように呟いて、最初の一枚を表示した。


 画面に広がるのは、あの路地だった。


 石畳の質感も、壁のひびも、思っていた以上にはっきり写っている。ファインダー越しに見ていたときの四角い世界が、そのまま薄い液晶の奥に貼り付けられているみたいだ。


「ほう。悪くないじゃないか」


 いつの間にか背後に来ていた御影さんが、腕組みをして画面をのぞき込む。


「奥行きがちゃんと出てる。……この路地、今はもう地図にない」


「はい。紙の方には、何も……」


 私は紙の地図を机に広げる。昨日赤い丸を付けた場所は、やっぱり真っ白なままだった。


 もう一枚、写真を送る。路地の奥を少しズームしたショット。洗濯物の間から覗く空。路地の突き当たりにある階段。


 ――そこで、私は違和感に気づいた。


「あれ?」


 画面の奥、突き当たりのあたりに、小さな黒い影が立っている。ピントは手前の石畳に合っていて、その影は少しぼやけている。人の後ろ姿のようにも見えるし、ただの柱かアンテナのようにも見える。


 もう少し拡大してみる。ボケた画素が増えるだけで、形はむしろ曖昧になった。


「人……に、見えますけど……」


「ん?」


 御影さんが覗き込む。眉間にしわを寄せたかと思うと、すぐに表情を緩めた。


「まあ、古い街ってのはな、だいたい記録の方が間違ってる」


「記録の方が、ですか?」


「覚えてるつもりでも、見落としてるもんだ。ランプ一本、誰かの背中ひとつ。後から見ると“こんなのなかった”って思う。でも、写真にはちゃんと残ってる」


 そう言って、御影さんは肩をすくめた。


「それに、あそこはもうすぐ工事入るって話だ。電気屋だか業者だかが、先にポール立ててったのかもしれん」


 その言い方は、説明というより、「ここで終わり」という印だった。


 けれど、私の目には、画面の中の影が、どうしても「人」の輪郭から離れてくれなかった。肩の傾き。足の開き方。どことなく、誰かがこっちに背を向けて立っているように見える。


「地図には、やっぱり載ってないですよね」


「地図なんて、今や上がどうとでもする。消したいなら消すし、増やしたいなら増やす」


 御影さんは、あっけらかんと言う。


「大事なのは、今ここにあるってことだ。地図にあるかないかなんて、後付けだよ」


 今ここにある。


 昨日、私が歩いたあの石畳の感触が、足裏にもう一度よみがえる。


 ――ほんとうに、今もまだ、あそこは「ある」のだろうか。


「……もう一回、行ってきてもいいですか」


 気づいたら、口が勝手に動いていた。


「おいおい、今日は別の案件も――」


「勤務時間外に、自分で。様子だけ確認してきます」


 言い切ってから、慌てて付け足す。御影さんは目を細めて私を見た。


 何かを計算しているような、その視線。


 しばらくしてから、彼はふっと息を吐いた。


「……ま、好きにしろ。地図から消えてるってことは、もう決済済みなんだろ」


「決済、済み……?」


「上がそう決めたなら、うちは撮るだけ。それがこの部署だ」


 「上」という言葉が、ぽつりと落ちた。


 本庁。局長。名前だけ聞いたことのある誰か。まだ顔を知らない人たちが、どこかで決めた「印」。


 私は、その言葉の重さをうまく飲み込めないまま、うなずくしかなかった。



 その日の仕事を一通り片づけて、陽が傾き始めた頃。私はカメラだけを持って、もう一度街へ出た。


 川沿いの電車は、夕方の混雑に向けて本数を増やし始めている。高架下の市場は、今度は「売り切り」の声でにぎやかだ。焼き鳥の煙が、低い天井の下でもくもくと立ちこめている。


 私は早足でその喧騒を抜け、昨日と同じルートをなぞるように歩いた。スマホの地図は、どちらのアプリも、例の路地を表示していない。それでも足は、昨日の感触を覚えているみたいに、迷わずあの隙間へと向かっていく。


 ビルとビルの間。看板の影。薄暗い隙間。


 そこに――


 路地は、なかった。


 あるのは、銀色の工事用フェンスと、「立入禁止」と書かれた黄色いテープだけだった。メッシュ状の金属越しに、さっきまで暖かかかった空気が、どこか遠くへ押しやられたみたいに冷たくなっている。


「……え?」


 思わず声が漏れた。


 昨日、私が石畳を踏んで歩いた場所には、もう足を入れることすらできない。フェンスの向こう側は、仮設の作業灯が白く照らしていて、その光が逆に奥の様子を見えにくくしている。


 近づいて、メッシュ越しに目を凝らしてみる。石畳の一部が剥がされ始めているのが見えた。洗濯物はもうない。ポスターは破り取られている。猫の姿もない。


 工事は、本当に「今」始まったばかり、という感じだった。


 私の胸の中で、何かがずるりとずれた。


 昼。私が写真を撮ったとき。あの路地は、ちゃんと「あった」。夕方。今。あそこはもう、「なくなりかけている」。


 ――早すぎる。


 再開発とか、工事とか、そういうものがこんなスピードで動くものなのか、私は知らない。けれど、昨日新入りが撮ってきた路地に、翌日にはもうフェンスが立っているなんて、あまりにも都合が良すぎるように思えた。


「お嬢さん、そこ危ないよ」


 背中の方から声がして、私はびくりと振り返った。


 通りの街灯の下に、昨日交差点ですれ違った男が立っていた。ラフなコート姿。ポケットに手を突っ込んだまま、こちらをじっと見ている。


 私服の刑事だ、とすぐにわかった。


「あ、すみません……」


 思わず下がると、彼は笑ったでもなく、怒ったでもなく、淡々とした調子で続けた。


「ここ、先週までは何もなかったはずだけどな」


「え?」


「この仕事してると、一応ね。こういう場所は目につくから。工事の予定があるとか、変な噂があるとか」


 彼はフェンスの向こうを一瞥する。


「なのに、気づいたらこの有様。……で、お嬢さんは?」


 視線が、私の肩からさがるカメラに落ちる。レンズの型番まで読み取るような、鋭い目。


 私は、反射的にストラップを握り直した。


「ただの、写真を……」


「どこ所属?」


 柔らかい口調なのに、その一言だけは逃げ場をくれない。私は一瞬だけ迷ってから、正直に名乗ることにした。


「帝都幻灯局、です」


 男の眉が、わずかに動いた。


「……幻灯局、ね」


 その言い方には、聞き覚えと、少しの警戒と、ほんのわずかな好奇心が混ざっていた。


 私は、なんとなく肩身が狭くなって、言い訳みたいに付け足す。


「地図から消えているのに、実際にはある路地を、撮っておいてほしいって、昨日言われて……」


「地図にない路地」


 男はその言葉を繰り返し、ポケットから煙草ではなく、ライターだけを取り出した。火をつけるでもなく、指で弄ぶ。


「お宅の部署、再開発の前に“変な写真”撮らされてるって聞いてる」


「変な、写真……」


「地図から消す前に、記録だけ残しておきましょう、ってやつだろ。俺たちのところにも、ときどきデータが回ってくる」


 そんな話、聞いたことがない。少なくとも、昨日の時点では。


「じゃあ、警察の方なんですか?」


「そう見える?」


 男は少しだけ口角を上げた。


「相馬。まあ、一応は刑事。あんたは?」


「三上灯子です」


 フェンスを挟んで、名乗り合う。距離は近くないのに、メッシュ越しのせいか、妙に隔たりを意識させられる。


「三上さん」


 相馬さんは、私のカメラを指先で示した。


「さっき、ここ撮ってた?」


「……はい。フェンスの向こうは、入れないですけど」


「そうだな」


 彼はフェンスに近づき、メッシュの隙間から中を覗き込んだ。作業灯の白い光が、彼の横顔を冷たく照らす。


「前にも似たような“突然なくなる場所”を追いかけたことがある」


 ぽつりと落ちたその言葉に、私は息を呑んだ。


「そのときも、地図から消えて、フェンスが立って、何もなくなった。……何度か足を運んでるうちに、いつの間にか全部、なかったことになってた」


「事件、だったんですか?」


「未解決だよ」


 答えは短かった。そのくせ、その一語には、思っていた以上の重さがあった。


「だからね。お宅の部署が撮ってる“変な写真”には、ちょっと興味がある」


 そう言って、相馬さんは初めて、はっきりと笑った。笑っているのに、目は笑っていない。何かを試すような視線。


「そのカメラ、いいやつだな」


「卒業祝いで……」


 反射的に答えながら、私はストラップをさらに強く握った。自分の手汗が、皮にじっとりと染み込んでいく。


「幻灯局の新人さんが、わざわざ勤務後にこんなところまで来るなんて、熱心だ」


「昨日、ここを歩いたんです。だから……本当に消えたのか、気になって」


「消えた、ね」


 相馬さんはフェンスから一歩離れ、通りの方を振り返る。車のヘッドライトが行き交い、遠くで電車の音がする。


「さっきも言ったけど、俺の記憶じゃ、この路地、先週までは存在してなかった」


「え?」


「地図上にも、現場でも。なのに、気づいたら“立入禁止”。……お互い、見てる時間が違うのかもしれないな」


 軽い冗談みたいな言い方だった。でも、そこにある違和感は、冗談で片付けてはいけない気がした。


「三上さん」


 名前を呼ばれて、私は顔を上げる。


「幻灯局ってのは、何のためにあると思う?」


「えっと……再開発とか災害とかの前に、記録を残しておく部署、って……」


「なるほど、書類の通りの答えだ」


 相馬さんはふっと笑う。


「警察の中じゃ、別の噂もある。『消したいものを、ちゃんと消すための準備をする部署』だって」


「……どういう、意味ですか」


「さあね。俺も全部知ってるわけじゃない」


 彼はライターをポケットに戻した。


「ただ、ひとつ言えるのは――こういう場所は、撮るにしても、撮らないにしても、覚悟がいるってことだ」


 フェンス越しに、彼の目がまっすぐ私を見る。


「それじゃ。工事の邪魔になるから、ほどほどにな」


 そう言い残して、相馬さんはポケットに手を突っ込んだまま、通りの雑踏の中へと紛れていった。


 私は、しばらくその背中を見送っていた。


 ――撮るにしても、撮らないにしても、覚悟。


 フェンスの向こうにカメラを向ける。メッシュ越しに、白い作業灯の光と、剥がされかけの石畳が見える。


 ここを撮ることは、何を残すことになるんだろう。


 消える前の路地。消えかけの路地。完全に消えた後の空白。それらは全部、「同じ場所」なのか。


 わからないまま、私はシャッターを切った。


 カシャ。


 金属と光と影が、四角い世界に閉じ込められる。その瞬間、自分の中の何かが、ほんの少しだけ、別の位置にずれた気がした。



 夜。アパートの狭い部屋。蛍光灯の白い光が、机の上のノートPCとカメラを照らしていた。


 日中見た局の古いモニタとは違って、自分のPCは新しい。解像度も発色もいい。その分、写っているものの細部まで、否応なく目に飛び込んでくる。


 私は今日撮ったデータを取り込み、サムネイルがずらりと並ぶのを待った。


 路地の写真。フェンスの写真。工事灯。メッシュ。相馬さんの姿は、意識して撮らなかった。なんとなく、そうしない方がいい気がした。


 スクロールバーをゆっくり下げていく。昨日のデータの続きに、今日のファイルが並んでいる。


 ――その途中で、私は手を止めた。


「……あれ?」


 サムネイルの列の中に、一枚だけ、妙に暗いコマが混ざっている。


 撮影時刻の表示は、昨日の昼。路地を初めて歩いたあの時間帯だ。ファイル名の並びからしても、ほかの「路地だけ」の写真と変わらないはずだった。


 そのサムネイルをクリックする。


 画面に広がったのは、たしかに、あの路地だった。


 けれど、その奥は――


 昨日の写真と違って、路地の突き当たりにあるはずの階段が、ほとんど見えないくらい暗く沈んでいる。その暗がりの中に、縦横の影が浮かんでいた。


 工事用フェンスの、格子の影に似ていた。


 背筋に、冷たいものが走る。


 おそるおそる別の写真を開く。昨日撮ったはずの、明るい路地。洗濯物。猫。ポスター。その奥に、小さな黒い影。


 もう一度、さっきの不自然に暗い写真に戻る。階段の手前あたりにだけ、薄く白い光が残っている。その光の位置は、今日見た作業灯の位置と、どこか似ていた。


「……そんな、わけない」


 声が震えていた。


 撮影時刻の表示は、たしかに「昨日」の昼だ。Exifの情報だって、いたって普通の数値が並んでいる。


 なのに、画面の中だけが、「今日」の夜の光を、先取りしているみたいだった。


 時間の順番が、写真の中だけ、すこしだけおかしくなっている。


 あのとき、私は何枚も連写した。その中に、いつの間にか、見知らぬ一枚が紛れ込んでいたのか。私が気づかないうちに、設定が狂って、別の時間の光を拾ってしまったのか。


 理屈を探そうとする頭と、「違う」と言っている直感が、胸の中でぶつかり合う。


 私は、モニタから目を逸らして、部屋の中を見渡した。


 安い本棚。たたんでいない服。コンビニの袋。どこにでもある、若い一人暮らしの部屋。その中で、パソコンの光だけが、異様に冷たい。


 ベッドの上に投げ出されたカメラバッグが、こちらを見ているような気がした。


 ――このカメラは、本当に「今」を撮っているのだろうか。


 思わず、そんなことを考えてしまう。


 御影さんは言っていた。「記録の方が間違ってることもある」と。相馬さんは言っていた。「見てる時間が違うのかも」と。


 どちらの言葉も、今は、冗談に聞こえなかった。


 私はゆっくりと呼吸を整え、画面の写真を拡大した。暗がりの中に浮かぶ格子の影。その向こうに、何かがいるような気がして、またすぐに縮小する。


 削除ボタンには、指を伸ばさなかった。


 たとえ、どれだけ気味が悪くても。たとえ、自分の目や、カメラの方がおかしいのだとしても。


 ――ここで消してしまったら、本当に「なかったこと」になる。


 そう思った瞬間、自分の中で何かが固まった。


「……保存」


 小さく呟いて、私はデータを別フォルダにコピーした。自分だけが知っている、小さな箱。まだ誰にも見せたくないけれど、絶対に失くしたくない箱。


 ウィンドウを閉じると、部屋は一気に静かになった。


 遠くで電車の音がする。帝都の夜は、まだ完全には眠らない。道路を走る車のヘッドライトが、カーテンの隙間から細く差し込んで、天井をかすかに照らした。


 私はベッドの上に仰向けになり、真っ白な天井を見つめる。


 地図にない路地。フェンス。立入禁止。刑事。未解決の事件。写真の中の暗がり。


 全部が、まだバラバラの断片でしかない。それでも、どこかで一本の線になっているような気がしてならなかった。


 目を閉じても、路地の奥に浮かぶ格子の影が、瞼の裏にこびりついて離れない。


 私は枕元に手を伸ばし、カメラにそっと触れた。


 冷たい金属の感触が、指先に伝わる。


 ――この街で、私は何を「残す」のだろう。


 答えのない問いだけを抱えたまま、私はゆっくりとまぶたを落とした。帝都のざわめきと、自分の心臓の鼓動だけが、しばらくのあいだ、同じリズムで鳴っていた。


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