第2話「地図にない路地」
翌朝、目覚ましが鳴る少し前に、私は目を覚ました。
天井の薄い染みをぼんやり眺めているだけで、昨日撮った路地の匂いが鼻の奥によみがえってくる。古い木の匂いと、味噌汁と、夕方の斜めの光。
枕元のカメラバッグに伸ばしかけた手を、私は途中で止めた。
――まだ、見ていない。
昨夜は、わざと電源を入れなかった。もしあの中身まで「おかしかったら」、きっと眠れなくなると思ったからだ。
けれど、いつまでも放っておくわけにもいかない。今日からは、あの局の仕事として、ちゃんと向き合わなきゃいけない。
私は布団を蹴って起き上がり、いつもより少し丁寧に顔を洗った。鏡の中の自分は、まだ帝都に来たばかりの、あか抜けない新人のままだけれど、目の下の影だけは、昨日より濃くなっている気がした。
◇
幻灯局の部屋は、午前中だというのに、もう紙と湯気でいっぱいだった。
コピー機の音。キーボードを叩く音。花さんが湯呑みを並べる軽い音。全部が狭い空間の中に重なって、独特のリズムを作っている。
「おはようございます」
「あ、おはよー灯子ちゃん。ちゃんと起きれた?」
花さんが笑いながら湯呑みを差し出してくれる。その後ろで、御影さんは新聞を三紙まとめてめくっていて、九条さんは、ペンを咥えたままパソコン画面とにらめっこしていた。
「昨日の分、データ上がってるか?」
「はい。これから整理しようと思ってて……」
私はカメラを机の上に置き、局用の古いデスクトップにケーブルをつなぐ。立ち上がりの遅いPCが、うなり声みたいなファンの音を立てた。
モニタに昨日のファイル名が並ぶ。淡々とした英数字の列の中に、自分だけが知っている感触がひそんでいる。
石畳。洗濯物。猫。斜めの光。
「……開きますね」
私は、自分に言い聞かせるように呟いて、最初の一枚を表示した。
画面に広がるのは、あの路地だった。
石畳の質感も、壁のひびも、思っていた以上にはっきり写っている。ファインダー越しに見ていたときの四角い世界が、そのまま薄い液晶の奥に貼り付けられているみたいだ。
「ほう。悪くないじゃないか」
いつの間にか背後に来ていた御影さんが、腕組みをして画面をのぞき込む。
「奥行きがちゃんと出てる。……この路地、今はもう地図にない」
「はい。紙の方には、何も……」
私は紙の地図を机に広げる。昨日赤い丸を付けた場所は、やっぱり真っ白なままだった。
もう一枚、写真を送る。路地の奥を少しズームしたショット。洗濯物の間から覗く空。路地の突き当たりにある階段。
――そこで、私は違和感に気づいた。
「あれ?」
画面の奥、突き当たりのあたりに、小さな黒い影が立っている。ピントは手前の石畳に合っていて、その影は少しぼやけている。人の後ろ姿のようにも見えるし、ただの柱かアンテナのようにも見える。
もう少し拡大してみる。ボケた画素が増えるだけで、形はむしろ曖昧になった。
「人……に、見えますけど……」
「ん?」
御影さんが覗き込む。眉間にしわを寄せたかと思うと、すぐに表情を緩めた。
「まあ、古い街ってのはな、だいたい記録の方が間違ってる」
「記録の方が、ですか?」
「覚えてるつもりでも、見落としてるもんだ。ランプ一本、誰かの背中ひとつ。後から見ると“こんなのなかった”って思う。でも、写真にはちゃんと残ってる」
そう言って、御影さんは肩をすくめた。
「それに、あそこはもうすぐ工事入るって話だ。電気屋だか業者だかが、先にポール立ててったのかもしれん」
その言い方は、説明というより、「ここで終わり」という印だった。
けれど、私の目には、画面の中の影が、どうしても「人」の輪郭から離れてくれなかった。肩の傾き。足の開き方。どことなく、誰かがこっちに背を向けて立っているように見える。
「地図には、やっぱり載ってないですよね」
「地図なんて、今や上がどうとでもする。消したいなら消すし、増やしたいなら増やす」
御影さんは、あっけらかんと言う。
「大事なのは、今ここにあるってことだ。地図にあるかないかなんて、後付けだよ」
今ここにある。
昨日、私が歩いたあの石畳の感触が、足裏にもう一度よみがえる。
――ほんとうに、今もまだ、あそこは「ある」のだろうか。
「……もう一回、行ってきてもいいですか」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
「おいおい、今日は別の案件も――」
「勤務時間外に、自分で。様子だけ確認してきます」
言い切ってから、慌てて付け足す。御影さんは目を細めて私を見た。
何かを計算しているような、その視線。
しばらくしてから、彼はふっと息を吐いた。
「……ま、好きにしろ。地図から消えてるってことは、もう決済済みなんだろ」
「決済、済み……?」
「上がそう決めたなら、うちは撮るだけ。それがこの部署だ」
「上」という言葉が、ぽつりと落ちた。
本庁。局長。名前だけ聞いたことのある誰か。まだ顔を知らない人たちが、どこかで決めた「印」。
私は、その言葉の重さをうまく飲み込めないまま、うなずくしかなかった。
◇
その日の仕事を一通り片づけて、陽が傾き始めた頃。私はカメラだけを持って、もう一度街へ出た。
川沿いの電車は、夕方の混雑に向けて本数を増やし始めている。高架下の市場は、今度は「売り切り」の声でにぎやかだ。焼き鳥の煙が、低い天井の下でもくもくと立ちこめている。
私は早足でその喧騒を抜け、昨日と同じルートをなぞるように歩いた。スマホの地図は、どちらのアプリも、例の路地を表示していない。それでも足は、昨日の感触を覚えているみたいに、迷わずあの隙間へと向かっていく。
ビルとビルの間。看板の影。薄暗い隙間。
そこに――
路地は、なかった。
あるのは、銀色の工事用フェンスと、「立入禁止」と書かれた黄色いテープだけだった。メッシュ状の金属越しに、さっきまで暖かかかった空気が、どこか遠くへ押しやられたみたいに冷たくなっている。
「……え?」
思わず声が漏れた。
昨日、私が石畳を踏んで歩いた場所には、もう足を入れることすらできない。フェンスの向こう側は、仮設の作業灯が白く照らしていて、その光が逆に奥の様子を見えにくくしている。
近づいて、メッシュ越しに目を凝らしてみる。石畳の一部が剥がされ始めているのが見えた。洗濯物はもうない。ポスターは破り取られている。猫の姿もない。
工事は、本当に「今」始まったばかり、という感じだった。
私の胸の中で、何かがずるりとずれた。
昼。私が写真を撮ったとき。あの路地は、ちゃんと「あった」。夕方。今。あそこはもう、「なくなりかけている」。
――早すぎる。
再開発とか、工事とか、そういうものがこんなスピードで動くものなのか、私は知らない。けれど、昨日新入りが撮ってきた路地に、翌日にはもうフェンスが立っているなんて、あまりにも都合が良すぎるように思えた。
「お嬢さん、そこ危ないよ」
背中の方から声がして、私はびくりと振り返った。
通りの街灯の下に、昨日交差点ですれ違った男が立っていた。ラフなコート姿。ポケットに手を突っ込んだまま、こちらをじっと見ている。
私服の刑事だ、とすぐにわかった。
「あ、すみません……」
思わず下がると、彼は笑ったでもなく、怒ったでもなく、淡々とした調子で続けた。
「ここ、先週までは何もなかったはずだけどな」
「え?」
「この仕事してると、一応ね。こういう場所は目につくから。工事の予定があるとか、変な噂があるとか」
彼はフェンスの向こうを一瞥する。
「なのに、気づいたらこの有様。……で、お嬢さんは?」
視線が、私の肩からさがるカメラに落ちる。レンズの型番まで読み取るような、鋭い目。
私は、反射的にストラップを握り直した。
「ただの、写真を……」
「どこ所属?」
柔らかい口調なのに、その一言だけは逃げ場をくれない。私は一瞬だけ迷ってから、正直に名乗ることにした。
「帝都幻灯局、です」
男の眉が、わずかに動いた。
「……幻灯局、ね」
その言い方には、聞き覚えと、少しの警戒と、ほんのわずかな好奇心が混ざっていた。
私は、なんとなく肩身が狭くなって、言い訳みたいに付け足す。
「地図から消えているのに、実際にはある路地を、撮っておいてほしいって、昨日言われて……」
「地図にない路地」
男はその言葉を繰り返し、ポケットから煙草ではなく、ライターだけを取り出した。火をつけるでもなく、指で弄ぶ。
「お宅の部署、再開発の前に“変な写真”撮らされてるって聞いてる」
「変な、写真……」
「地図から消す前に、記録だけ残しておきましょう、ってやつだろ。俺たちのところにも、ときどきデータが回ってくる」
そんな話、聞いたことがない。少なくとも、昨日の時点では。
「じゃあ、警察の方なんですか?」
「そう見える?」
男は少しだけ口角を上げた。
「相馬。まあ、一応は刑事。あんたは?」
「三上灯子です」
フェンスを挟んで、名乗り合う。距離は近くないのに、メッシュ越しのせいか、妙に隔たりを意識させられる。
「三上さん」
相馬さんは、私のカメラを指先で示した。
「さっき、ここ撮ってた?」
「……はい。フェンスの向こうは、入れないですけど」
「そうだな」
彼はフェンスに近づき、メッシュの隙間から中を覗き込んだ。作業灯の白い光が、彼の横顔を冷たく照らす。
「前にも似たような“突然なくなる場所”を追いかけたことがある」
ぽつりと落ちたその言葉に、私は息を呑んだ。
「そのときも、地図から消えて、フェンスが立って、何もなくなった。……何度か足を運んでるうちに、いつの間にか全部、なかったことになってた」
「事件、だったんですか?」
「未解決だよ」
答えは短かった。そのくせ、その一語には、思っていた以上の重さがあった。
「だからね。お宅の部署が撮ってる“変な写真”には、ちょっと興味がある」
そう言って、相馬さんは初めて、はっきりと笑った。笑っているのに、目は笑っていない。何かを試すような視線。
「そのカメラ、いいやつだな」
「卒業祝いで……」
反射的に答えながら、私はストラップをさらに強く握った。自分の手汗が、皮にじっとりと染み込んでいく。
「幻灯局の新人さんが、わざわざ勤務後にこんなところまで来るなんて、熱心だ」
「昨日、ここを歩いたんです。だから……本当に消えたのか、気になって」
「消えた、ね」
相馬さんはフェンスから一歩離れ、通りの方を振り返る。車のヘッドライトが行き交い、遠くで電車の音がする。
「さっきも言ったけど、俺の記憶じゃ、この路地、先週までは存在してなかった」
「え?」
「地図上にも、現場でも。なのに、気づいたら“立入禁止”。……お互い、見てる時間が違うのかもしれないな」
軽い冗談みたいな言い方だった。でも、そこにある違和感は、冗談で片付けてはいけない気がした。
「三上さん」
名前を呼ばれて、私は顔を上げる。
「幻灯局ってのは、何のためにあると思う?」
「えっと……再開発とか災害とかの前に、記録を残しておく部署、って……」
「なるほど、書類の通りの答えだ」
相馬さんはふっと笑う。
「警察の中じゃ、別の噂もある。『消したいものを、ちゃんと消すための準備をする部署』だって」
「……どういう、意味ですか」
「さあね。俺も全部知ってるわけじゃない」
彼はライターをポケットに戻した。
「ただ、ひとつ言えるのは――こういう場所は、撮るにしても、撮らないにしても、覚悟がいるってことだ」
フェンス越しに、彼の目がまっすぐ私を見る。
「それじゃ。工事の邪魔になるから、ほどほどにな」
そう言い残して、相馬さんはポケットに手を突っ込んだまま、通りの雑踏の中へと紛れていった。
私は、しばらくその背中を見送っていた。
――撮るにしても、撮らないにしても、覚悟。
フェンスの向こうにカメラを向ける。メッシュ越しに、白い作業灯の光と、剥がされかけの石畳が見える。
ここを撮ることは、何を残すことになるんだろう。
消える前の路地。消えかけの路地。完全に消えた後の空白。それらは全部、「同じ場所」なのか。
わからないまま、私はシャッターを切った。
カシャ。
金属と光と影が、四角い世界に閉じ込められる。その瞬間、自分の中の何かが、ほんの少しだけ、別の位置にずれた気がした。
◇
夜。アパートの狭い部屋。蛍光灯の白い光が、机の上のノートPCとカメラを照らしていた。
日中見た局の古いモニタとは違って、自分のPCは新しい。解像度も発色もいい。その分、写っているものの細部まで、否応なく目に飛び込んでくる。
私は今日撮ったデータを取り込み、サムネイルがずらりと並ぶのを待った。
路地の写真。フェンスの写真。工事灯。メッシュ。相馬さんの姿は、意識して撮らなかった。なんとなく、そうしない方がいい気がした。
スクロールバーをゆっくり下げていく。昨日のデータの続きに、今日のファイルが並んでいる。
――その途中で、私は手を止めた。
「……あれ?」
サムネイルの列の中に、一枚だけ、妙に暗いコマが混ざっている。
撮影時刻の表示は、昨日の昼。路地を初めて歩いたあの時間帯だ。ファイル名の並びからしても、ほかの「路地だけ」の写真と変わらないはずだった。
そのサムネイルをクリックする。
画面に広がったのは、たしかに、あの路地だった。
けれど、その奥は――
昨日の写真と違って、路地の突き当たりにあるはずの階段が、ほとんど見えないくらい暗く沈んでいる。その暗がりの中に、縦横の影が浮かんでいた。
工事用フェンスの、格子の影に似ていた。
背筋に、冷たいものが走る。
おそるおそる別の写真を開く。昨日撮ったはずの、明るい路地。洗濯物。猫。ポスター。その奥に、小さな黒い影。
もう一度、さっきの不自然に暗い写真に戻る。階段の手前あたりにだけ、薄く白い光が残っている。その光の位置は、今日見た作業灯の位置と、どこか似ていた。
「……そんな、わけない」
声が震えていた。
撮影時刻の表示は、たしかに「昨日」の昼だ。Exifの情報だって、いたって普通の数値が並んでいる。
なのに、画面の中だけが、「今日」の夜の光を、先取りしているみたいだった。
時間の順番が、写真の中だけ、すこしだけおかしくなっている。
あのとき、私は何枚も連写した。その中に、いつの間にか、見知らぬ一枚が紛れ込んでいたのか。私が気づかないうちに、設定が狂って、別の時間の光を拾ってしまったのか。
理屈を探そうとする頭と、「違う」と言っている直感が、胸の中でぶつかり合う。
私は、モニタから目を逸らして、部屋の中を見渡した。
安い本棚。たたんでいない服。コンビニの袋。どこにでもある、若い一人暮らしの部屋。その中で、パソコンの光だけが、異様に冷たい。
ベッドの上に投げ出されたカメラバッグが、こちらを見ているような気がした。
――このカメラは、本当に「今」を撮っているのだろうか。
思わず、そんなことを考えてしまう。
御影さんは言っていた。「記録の方が間違ってることもある」と。相馬さんは言っていた。「見てる時間が違うのかも」と。
どちらの言葉も、今は、冗談に聞こえなかった。
私はゆっくりと呼吸を整え、画面の写真を拡大した。暗がりの中に浮かぶ格子の影。その向こうに、何かがいるような気がして、またすぐに縮小する。
削除ボタンには、指を伸ばさなかった。
たとえ、どれだけ気味が悪くても。たとえ、自分の目や、カメラの方がおかしいのだとしても。
――ここで消してしまったら、本当に「なかったこと」になる。
そう思った瞬間、自分の中で何かが固まった。
「……保存」
小さく呟いて、私はデータを別フォルダにコピーした。自分だけが知っている、小さな箱。まだ誰にも見せたくないけれど、絶対に失くしたくない箱。
ウィンドウを閉じると、部屋は一気に静かになった。
遠くで電車の音がする。帝都の夜は、まだ完全には眠らない。道路を走る車のヘッドライトが、カーテンの隙間から細く差し込んで、天井をかすかに照らした。
私はベッドの上に仰向けになり、真っ白な天井を見つめる。
地図にない路地。フェンス。立入禁止。刑事。未解決の事件。写真の中の暗がり。
全部が、まだバラバラの断片でしかない。それでも、どこかで一本の線になっているような気がしてならなかった。
目を閉じても、路地の奥に浮かぶ格子の影が、瞼の裏にこびりついて離れない。
私は枕元に手を伸ばし、カメラにそっと触れた。
冷たい金属の感触が、指先に伝わる。
――この街で、私は何を「残す」のだろう。
答えのない問いだけを抱えたまま、私はゆっくりとまぶたを落とした。帝都のざわめきと、自分の心臓の鼓動だけが、しばらくのあいだ、同じリズムで鳴っていた。




