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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第19話「市章入りの袖章」

 市役所からの封筒は、いつもの郵便物より少しだけ分厚かった。


 午前中の光が、路面電車のベルと一緒に窓ガラスを震わせる。古い木枠の窓越しに、帝都の本庁舎が小さく見えた。ガラスと金属で出来た、無駄に立派な建物。その横に、石造りの古い区庁舎が肩を寄せ合っている。


 その前を、クリーム色と緑の電車がゆっくりと通り過ぎていった。


 幻灯局の事務所の机の上に、その封筒がどん、と置かれる。


「市役所本庁舎 広報課」


 御影さんが宛名を読み上げる。


「普通郵便にしては、えらく“ご立派”な紙ですこと」


 九条さんが、その向かいでコンビニおにぎりの包装を破りながら、わざとらしく言った。


「中身もご立派なんだろうさ」


 御影さんは、封を指でなぞってから、ていねいに切り開いた。厚めの上質紙の匂いが、ふわりと漂う。


 中から出てきたのは、数枚の印刷された書類と、簡単な説明文。紙の端には、市章のマークが青いインクで印刷されている。


 御影さんは一枚目をざっと目で追い、それから声に出して読み上げた。


「『帝都市 幻灯記録協力機関 指定について(案)』」


 ふざけたような名前、とまでは言わないけれど、どこか嫌な引っかかりのある言葉だった。


「案、ってことは、まだ決定じゃないってことですよね」


 私は、カメラの手入れをしていた手を止めて、思わず聞いた。


「ああ。正式には、こっちが同意してからだな」


 御影さんは、目を細めて続きを読む。


「再開発や災害対策等の際、市の要請に応じ優先的に撮影を行う“協力機関”とする。代わりに、委託料、市役所内の専用保管庫、身分証・袖章などを付与……」


「袖章?」


 相馬さんが、珍しくそこで顔を上げた。


「腕につける、アレだよ。警備員とか市の職員がつけてるやつ」


 九条さんが、半分食べかけのおにぎりを持ったまま、自分の袖をつまんで見せる。


「『帝都市 幻灯記録協力機関』って、でかでかと刺繍されたやつでしょうね。なんかカッコいいような、ダサいような」


「悪くない話だ」


 御影さんは、ぽつりと言った。


「ここを正式に“職場”として守るには、こういう後ろ盾も必要だ」


「守る?」


「家賃も、機材も、フィルム代も、全部タダで降ってくるわけじゃない」


 御影さんは、書類から目を離して私たちを見る。


「“市の協力機関”ってお墨付きがあれば、予算も安定する。いざって時に閉めろと言われにくくなる。そういう意味では、悪い話じゃない」


 そう言われると、確かにそうだ。実際、この前フィルム注文の額を見たとき、私も胃が痛くなった。


 でも。


 頭の中に、赤い線が浮かぶ。


 駅前の掲示板に貼られていた、第三区の再開発図面。ポスターの上で、太いマーカーで囲われた「第三区」の枠。その中に含まれていた、川沿いの公園や、坂の途中の神社や、商店街の裏口や、高架下の路地。


 そして、図面の上には最初から存在していなかった、ボート小屋。


「……なんか、“消す前提で撮らされてる”感じがします」


 思ったまま口に出していた。


「消す前提、か」


 御影さんが、低く繰り返す。


「だって、第三区の“現状の記録”も、そういう意味じゃないんですか。線を引く前に、ちゃんと見ておきましたよ、っていう証拠作りみたいな」


「まあ、そういう側面も、あるだろうな」


 あっさり認められて、逆に言葉に詰まる。


「でも、撮るかどうかを決めるのは最終的にこっちだ」


 御影さんが、私のほうを見た。


「向こうからどう言われようと、“何のために撮るか”を手放さなきゃいい」


「“手放さなきゃいい”って簡単に言いますけど」


 私の代わりに、九条さんが口を挟む。


「条文の最後のほう、見ました? “市が指定した案件は優先撮影”“写真の一次利用権は市にある”“市の許可なく外部に出さないこと”」


 彼は指で紙をとんとん、と叩いた。


「それ、“検閲”ってやつのオシャレな言い換えですからね」


「物は言いようだな」


 御影さんが、苦笑まじりにぼやく。


 私の胸の中に、ざらざらしたものが積もっていく。


 誰かの“顔”を作るために、撮る。都合のいい物語を支えるために、シャッターを押す。


 それは、私がやりたかったことと、同じだろうか。


 答えが出る前に、扉をノックする音がした。



 現れたのは、見慣れない顔だった。


 スーツは市役所仕様の地味なグレー。胸には、市章のピンバッジ。髪は七三に分けられているけれど、どこか整えすぎていないラフさもある。


「帝都市役所 広報課の早乙女と申します」


 彼は名刺を差し出しながら、柔らかく笑った。


「本日は、先ほどお送りした“協力機関指定”の件で、少しご説明に伺いました」


 手渡された名刺の紙も、やっぱり少しだけ厚い。


 テーブルの上に書類を広げ、早乙女さんは要点をさらりとまとめていく。


「これまで通り、“街を撮っていただく”だけです」


 その言葉に、私はほんの少し肩の力が抜けた。


「ただ、その写真の一部を、市の公式アーカイブとしても使わせていただきたい。災害対策や再開発の記録として、後世に残すために」


 言い方だけ聞けば、悪い話ではない。むしろ、ありがたい話です、と言ってしまいそうなほどだ。


「もちろん、委託料はきちんとお支払いしますし、市役所内に専用の保管庫を用意する予定です。それから――」


 早乙女さんは、少し表情を明るくして続けた。


「身分証と袖章も。危険な現場での撮影などの際、警備や消防の職員と連携をとりやすくなります。身元の分からないカメラマンだと、どうしても足止めされがちですからね」


 袖章。さっき書類の中にあった単語。


 腕に市章の入った布を巻いて、堂々と現場に入っていく自分の姿を想像してみる。悪くない。むしろ、ちょっとカッコいいかもしれない。


 でも、そのイメージのすぐ隣に、“市のカメラ”という言葉が浮かぶ。


「いくつか、条件もあるようですが」


 御影さんが、淡々と言った。


「ええ。とはいえ、よくある条項です」


 早乙女さんは、書類の下のほうを指で示した。


「市が指定した案件の優先撮影。写真の一次利用権は市にあること。市の許可なく、一部の写真を外部に出さないこと。どれも、公平性や安全性を保つためには必要なルールです」


「“外部”って、たとえば新聞社とか?」


「そうですね。報道の方々とは別のラインで、市の公式記録として扱いますので」


「じゃあ、たとえば僕が、局にふらっと来たついでに“その写真見せてくださいよ、記事に使えるかも”って言っても、『ダメです』ってことになります?」


 九条さんが、ニヤリと笑って聞いた。


「まあ、原則としては」


 早乙女さんは、少し困ったように笑い返す。


「ただ、もちろん、広報課を通じてご相談いただければ、提供できる範囲でご協力はします。市としても、メディアの方々とは良好な関係を――」


「あー、出た、“良好な関係”」


 九条さんは、机に突っ伏すふりをした。


「それ、翻訳すると“仲良くしてくれるメディアには素材を優先的に渡します”って意味ですよね」


「九条」


 相馬さんが、低い声でたしなめる。


「いやいや、違いますよ」


 早乙女さんは、慌てて手を振った。


「そういう裏取引の話ではなくてですね……ただ、正直なところ、全部を出すわけにはいかないんです。市の顔として外に出す以上、ある程度“整える”必要がある」


 “顔”。


 さっきから、似たような言葉が何度も出てくる。


 街の“顔”。市の“顔”。公式の“顔”。


 顔を整える、ということは、どこかを削る、ということでもあるのだろう。


「とりあえず、すぐに結論を出さなくても結構です」


 早乙女さんは、話題を切り替えるように言った。


「実は、近日中に“お試し案件”が一つありまして。第三区再編計画に関する市長記者会見の、記録撮影です。もしよろしければ、それを一度ご担当いただいてから、改めてご判断いただければと」


「市長会見、ねえ」


 九条さんが、露骨に眉をひそめる。


「そっちはそっちで、うちの仕事なんですけど」


「報道枠とは別です。あくまで、公式記録用のスチール撮影として」


 早乙女さんは、私のほうをまっすぐ見た。


「カメラマンの方、お一人、ご同行いただけますか?」


 その視線の先にいるのは、私だ。


 胸の奥のどこかで、何かがざわついた。



 市役所本庁舎の前には、いつも以上に人がいた。


 ガラスと金属の外壁が陽の光を反射して眩しい。その隣で、古い石造りの区庁舎が、少し申し訳なさそうに影を落としている。


 その前を、路面電車とバスがひっきりなしに行き交っていた。


 テレビ局の中継車。新聞社のロゴが入ったワゴン。ケーブルを巻いたスタッフたち。マイクを持ったアナウンサーが、原稿を確認している。


 その中に紛れて、私はカメラバッグを肩にかけて立っていた。


「場違いな気分です」


「気分だけなら、俺も一緒だ」


 隣で、御影さんが小さく笑った。


 今日は珍しく、彼もスーツに近いジャケットを着ている。ネクタイはしていないけれど、いつもの朧町仕様のラフなシャツとは違う。


「報道の現場は、好きじゃない」


「じゃあ、なんで来たんですか」


「こういう時、写真がどう扱われるか、自分の目で見ておきたかったからだよ」


 御影さんの目は、庁舎の入口に向けられていた。


 中に入ると、廊下の片側に記者会見場への案内が立てかけられている。


 会場の扉を開けると、眩しいライトの海だった。


 壇上には、帝都市長の名前が書かれたプレートと、簡素な演台。その背後には、第三区再編計画のイメージパースが大きく掲げられている。未来的なビル群。整備された川沿いの遊歩道。笑顔の家族。


 前列には、テレビカメラとスチールカメラがずらりと並んでいる。三脚が林立し、シャッター音と小声のやり取りが飛び交う。


「こちらです。あの辺りにお並びいただけますか」


 早乙女さんが、私たちを記者席の端のほうへ案内した。


「市の公式カメラはこちら、幻灯局さんはこちら、テレビ局さんはこちら……」


 配置をてきぱきと決めていく。


「会見中は、壇上より後ろ側の撮影は極力控えていただきたいのと……」


「え、後ろ?」


「市長の表情と、イメージパースを中心に押さえていただければ大丈夫です。観客席側は、他社さんの素材もありますので」


 “観客席”。


 説明会にいた人たちが、この会見を見ているのだろうか。


 カメラの位置を調整しながら、私はふと後ろを振り返る。


 並べられた椅子。報道関係者のほかに、市の職員や、関係者らしき人たちが座っている。その後ろの方に、見覚えのある横顔があった。


 説明会で、立ち上がって質問していた、あの若い母親。


 彼女は、今日はベビーカーではなく、子どもを抱きかかえていた。会場の空気に押しつぶされそうな顔で、壇上を見つめている。


 マイクスタンドの前に誰かが立つ気配はない。彼女が再び質問するチャンスは、ここにはなさそうだった。


「それでは、間もなく市長が入場します」


 スタッフの声が響く。


 私は慌てて前を向く。


 市長が壇上に現れた瞬間、フラッシュの嵐が起こった。白い光が、一瞬、会場全体を真っ平らに照らす。


 私は、他のカメラマンたちに遅れないようにシャッターを切る。


 市長の顔。イメージパース。横に控える副市長と担当部長。


 「防災」「安全」「活性化」といった言葉が、マイクを通して次々と発せられていく。


「第三区は、帝都の将来にとって非常に重要なエリアです」


「川の氾濫リスクを低減し、市民の皆様の安全を守るため」


「新たな商業施設や住宅の整備により、地域の活性化を図ります」


 原稿に書かれた言葉。その通りに発音される言葉。


 私は、指示された通り、正面から市長を撮る。少し角度を変えて、イメージパースを背景にしたカットも押さえる。


「あの、もう少し正面からお願いします。市長の顔が暗くて」


 隣にいたスタッフが、小声で耳打ちしてきた。


「はい」


 私は、位置を半歩左にずらす。


「観客席の方はいいので、壇上を多めで。公式記録用なので」


 “観客席の方はいい”。


 さっき見た、母親の肩にしがみついていた子どもの手。途中で小さく咳をした年配の男性。メモ帳に何かを書き付けている若い職員。


 その全部が、“いいので”の一言で視界から追い出される。


 それでも、私はシャッターを切り続けた。


 途中で、一度だけ、背後から椅子のきしむ音がした。


 振り返りたい衝動を、何とか押さえる。


 会見が終盤に差し掛かった頃、我慢できずに一瞬だけ目線だけを後ろへ送る。


 さっきの母親が、子どもを抱いたまま、静かに席を立っていた。誰にも気づかれないように、そっと出口へ向かう。


 カメラを向けようとして、肩をつかまれた。


「すみません、そちらは結構です。会見の方を優先してください」


 スタッフの手は強くはなかったけれど、拒絶の意志だけははっきり伝わってきた。


「……はい」


 私は、カメラを前に戻した。


 壇上の市長は、変わらず「未来」を語っていた。



「ここが、広報室の編集スペースです」


 数日後。市役所の広報課。窓際に並ぶデスクの一角で、早乙女さんがモニターを指さした。


 そこには、先日の記者会見で撮られた写真のサムネイルがずらりと並んでいる。私たちのものだけでなく、市の公式カメラのもの、他社から提供されたものも含まれているようだった。


「ここで、“市の顔”として外に出す写真を選びます」


 早乙女さんは、マウスを動かして、一枚ずつクリックしていく。


 画面の端には、小さなチェックボックス。チェックを入れられた写真は、「採用候補」の色に変わる。別の色がついたものには「保管のみ」「破棄予定」といったタグが付けられていく。


 市長が笑っている写真。真剣な表情の写真。イメージパースを指さしている写真。


 そのどれもが、チェックボックスの中に収まる。


 その間に映っていた、空席の多い後方の椅子。うんざりしたような顔で腕を組んでいる人。途中で席を立つ人。


 そういうカットには、「破棄予定」のタグがつけられていく。


「市長の表情がいいものを中心に、会場の雰囲気が伝わるものを組み合わせて、一つの“物語”にするんです」


 早乙女さんは、ごく自然な口調で言った。


「たとえば、こちらのカット」


 マウスが、一枚の写真の上で止まる。


 市長が、少し硬い笑みを浮かべている写真。背景には、イメージパース。手前には、ペンを持った記者の横顔がぼやけて写っている。


「これは、“真剣に話を聞いている記者たち”という雰囲気が出ているので、採用ですね」


 クリック。チェックボックスに印がつく。


「こちらは……うーん」


 次に表示されたのは、市長の背後で、ぼんやりと空席が目立つカットだった。


「実際にはこうでしたが、外に出す写真としては“人が少ない”印象を与えかねませんので、保管のみで」


 「保管のみ」。画面の端に、淡いグレーの文字が表示される。


 さらに、私の撮ったカットの一つが表示される。


 壇上の横で、スタッフが慌てて何かを片付けている瞬間を押さえたもの。


 その後ろの席には、退屈そうにスマホをいじっている若い職員。あくびを噛み殺している人。


 会見の舞台裏の空気が、少しだけ見える写真だった。


「こちらは……そうですね」


 早乙女さんは、少しだけ苦笑した。


「面白い写真ですけど、“公式には出しにくい”ですね。“だらしない現場”という印象を与えてしまうので。こちらも保管のみで」


 クリック。「保管のみ」。


 その横に並んだ別のカットには、「破棄予定」の赤いタグがつけられている。


 私は思わず口を開いた。


「……これも、“記録”じゃないんですか?」


 画面の中の写真。あの日、あの場で、実際に起きていたこと。その一部。


「もちろん、全部、バックアップとしては残ります」


 早乙女さんは、穏やかに答えた。


「ただ、“市の顔”として外に出すには、ふさわしくないので。市民の皆さんが目にする広報誌やホームページには、できるだけ“前向きな姿”を載せたいんです」


 “ふさわしくない”。


 ふさわしくない、という言葉が、写真たちの上に薄い膜のようにかぶさる。


 説明会で、途中退席した母親の背中。あそこでカメラを向けたとしても、きっと「ふさわしくない」とタグを貼られて、どこかの「保管フォルダ」の奥に沈められていったのだろう。


 九条さんが、いつの間にかドアのところに寄りかかっていた。


「“顔”としてふさわしいかどうか、ですね」


 彼は、わざとらしく感心したような声を出した。


「じゃ、ふさわしくない部分は、誰が覚えてるんでしょうね」


 早乙女さんは苦笑し、曖昧に肩をすくめた。


「覚えておきたい人が、覚えておくんだと思いますよ」


 その言葉は、善意から出たものなのかもしれない。


 でも、私の胸には、じわじわと嫌なものを溜めていく。


 覚えておくのは、誰か。


 写真を撮る人か。写真を選ぶ人か。写真を見せられなかった人か。


 私は、自分の指の感覚を思い出した。


 ボート小屋をなぞった、あの時の指先。写真の上の空白をなぞったときの、何もない平らな感触。


 あれは、「破棄」でも「保管」でもなく、「最初からないこと」にされていた。


 地図の上でも、ポスターの上でも。


 ここでは、チェックボックス一つで、「顔」の内側と外側が決められていく。


 私の撮った写真のいくつかにも、「破棄予定」のタグがついていた。


 選ばれなかった表情。消されるべき現実。ふさわしくない空席。


 あの日押したシャッターが、「都合のいい物語」のためにだけ使われていくのかもしれない。



「本日は、貴重なお時間ありがとうございました」


 広報室を出たところで、早乙女さんが小さな箱を差し出してきた。


 白い紙箱。市章のシールで封がされている。


「これは?」


「協力機関になっていただいた場合に、お渡しする予定のものです。よろしければ、現物を見ておいていただければと思いまして」


 御影さんが、慎重にシールを剥がす。


 中から出てきたのは、深い紺色の布で出来た袖章と、プラスチックの身分証だった。


 袖章には、銀色の糸で市章と「帝都市 幻灯記録協力機関」の文字が刺繍されている。


「正式な協力機関になれば、これを皆さんにお渡しできます。危険な現場でも、警備の方が守ってくれますよ」


 早乙女さんの声には、本心からの善意が混じっているように聞こえた。


 御影さんは、その袖章を手に取った。


 少しの間、黙って重さを確かめるように指先でなぞる。それから、私のほうを見た。


「どう思う?」


 そう聞かれて、すぐには答えられなかった。


 袖章の紺色の布。光にきらりと反射する銀の糸。確かな「身分」の重さ。


 外の世界に出ていくための、パスのようなもの。


 でも、その裏側にある見えない糸が、私の腕ごとどこかに縛り付けるような気もした。


「……それ、付けたら、私たち、“市のカメラ”になりますよね」


 やっとのことで、言葉になる。


「“帝都の記録”じゃなくて、“市の記録”を撮る人になる気がします」


 早乙女さんは、一瞬だけ目を瞬かせた。


「いえいえ、そんなことは……」


 と言いかけて、言葉を飲み込む。


 御影さんは、小さく笑った。


「とりあえず、預かっておこう」


 袖章を箱に戻し、ふたを閉める。


「結論は、あとで出す」


「はい。それで構いません」


 早乙女さんは頭を下げた。


 市役所の廊下の窓から、路面電車の屋根が見える。ガラスに反射した空と庁舎と電車が、ぐにゃりと歪んでいる。


 その歪みの中に、自分の顔も少しだけ混じっているような気がした。



 その日の夕方。


 幻灯局の事務所には、いつもの静けさが戻っていた。


 窓の外を、電車の音が通り過ぎていく。


 机の上には、昼間もらってきた白い紙箱が置かれていた。シールを剥がされたまま、ふたは少し開いている。


 中には、紺色の袖章が眠っている。


 その隣には、私の手帳が置かれていた。


 大学の頃から使っている、カバーの角が擦り切れた手帳。ページの端には、フィルムの番号や撮影日、取材メモや、意味のない落書きが混ざっている。


 手帳の上に、私のカメラをそっと乗せる。


 袖章と手帳とカメラ。


 市章の紺と、擦り切れた紙の色と、金属の鈍い光。


 どちらが正しい、という話ではないのかもしれない。


 どちらも、帝都のどこか一部分を切り取るための道具だ。


 ただ、袖章は、「市の顔」を整えるためのもの。


 手帳とカメラは、「ここにいた人たち」のためにページを埋めたいと思っている、私自身の道具。


 私は、そっと箱のふたを閉めた。


 紺色の布の感触は、まだ手のひらに残っている。


 でも、それを腕に巻くかどうかは、今日決めなくてもいい。


 窓の外を、路面電車の光が横切る。


 ガラスに映った自分の姿は、昼間より少しだけはっきりしていた。


 私が撮ることで、誰かの“都合のいい物語”を手伝ってしまうかもしれない。


 それでも、シャッターを押すかどうかを決めるのは、私だ。


 市の袖章ではなく、この手帳のページと、自分の目の前にいる人たちの顔を思い浮かべながら。


 そう思って、私はカメラのシャッターを、一度だけ空で切った。


 小さな音が、事務所の薄暗い空気の中に、かすかに響いた。


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