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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第18話「川べりの境界線」

 川べりの公園は、いつもより人が多かった。


 といっても、子どもが遊んでいるわけではない。遊具の周りにロープが張られ、その内側には、即席のテントと折りたたみ椅子と、ホワイトボードに貼られた再開発パネル。


 テントの屋根には、市のマーク入りの横断幕がぶら下がっている。


 「第三区 住民説明会」。


 川面から反射した光が、その文字をやけに白々しく浮き上がらせていた。


 私は、テントから少し離れた場所でカメラを構えながら、その光景を眺めていた。


 折りたたみ椅子に座る住民たち。


 作業着のまま駆けつけたような人。買い物袋を足元に置いたままの人。ベビーカーをぎゅっと握っている若い母親。


 その前に立っている、市役所の職員たち。


 同じ色の名札。同じ色のファイル。同じような声のトーン。


 マニュアル通りの挨拶が、川風に乗って流れてくる。


「本日は、お忙しい中お集まりいただきまして――」


 私は、ファインダー越しに、その唇の動きと、後ろのホワイトボードのパネルを一緒にフレームに収める。


 第三区の地図。赤い枠。青い矢印。箇条書きになった「メリット」と「スケジュール」。


 シャッターを押す指の力が、ほんの少しだけ重い。


(“説明会の様子も記録しておいてほしい”……ね)


 昨日、局に入ってきた電話の内容を思い出す。


 市役所からの正式な依頼。再編計画の一環としての「現状記録業務」。その一部として、「住民説明会の様子も記録しておくこと」。


 予算がつく。公式のお墨付きがある。仕事としては、悪くない。


 それでも、胸のどこかがざらついている。


 テントの影から少し離れたところで、御影さんが腕を組んで立っている。隣には相馬さん。その少し後ろに、うさんくさい笑みを浮かべた七瀬さん。


 さらにその後ろで、九条さんが小さなノートに何かを書きつけているのが見えた。


「……豪華メンバー」


 思わず、小さくつぶやく。


「なんか言った?」


 いつの間にか背後に来ていた九条さんが、ひょいとのぞき込んできた。


「いえ。ただ、なんか、局の定例会議より人がそろってるなって」


「そりゃそうですよ。今日は“街の未来がどうとか”って話ですからね。おいしいネタが転がってる予感しかしない」


「そういう言い方、やめたほうがいいと思います」


「取材対象の本音、ってやつですよ」


 軽口を叩きながら、彼はテントのほうへレンズを向ける。


 その横顔は、いつもより少しだけ険しく見えた。



 説明会は、形式上は穏やかに進んでいった。


 職員が再開発パネルの前に立ち、「こちらが現状図で」「こちらが整備後の想定図です」と指し示す。


「まず、安全面から申し上げますと――」


 川の氾濫のリスク、老朽化した建物、避難経路の整備。どの言葉も、正しいように聞こえる。


「補償につきましては、個別のご事情に応じた丁寧な対応を――」


 丁寧な、という単語が、何度も繰り返される。


「立ち退きまでのスケジュールは、おおよそ二年を目処に――」


 ざわ、と小さな波が椅子の列を走る。


 私は、その一つひとつの表情を追いながら、シャッターを切った。


 眉間にしわを寄せる人。うつむいて手を握りしめる人。子どもの頭を撫でながら、遠くを見ている人。


 撮りながら、自分の胸の奥もざわついていくのを感じる。


(これは、“誰のため”の記録なんだろう)


 市のアーカイブのため。


 後で「説明会はこのように行われました」と示すため。


 でも、今ここにいる人たちのためでは、ないのかもしれない。


「ご質問のある方は、挙手をお願いします」


 職員の言葉に、しばらく沈黙が落ちる。


 誰も手を挙げないまま、川の流れる音だけが聞こえる。


 やがて、その静けさを破るように、一人の若い母親が立ち上がった。


 ベビーカーの取っ手を握ったまま、声を震わせながら言う。


「あの……」


 職員たちの視線が、一斉にそちらへ向く。


「ここで育てた子どもたちの記憶は、どこに行くんですか?」


 その言葉は、マイクを通して公園全体に広がった。


 誰かのため息が聞こえた気がした。


 職員の一人が、マニュアルを探すように一瞬だけ目を伏せる。それから、よく通る声で答えた。


「ええと……今回の計画では、現状の街並みや行事などの様子を、写真や映像で記録し、市のアーカイブとして後世に残していく予定です」


「でも、それは……」


 母親は言葉を探す。


「ここで遊んだこととか、ここから見える川とか、花火とか……そういうのは」


「新しい街でも、きっと素敵な思い出を作っていただけると――」


 「新しい街」という言葉が、どこか空中を滑った。


 椅子の列の端で、誰かが小さく舌打ちする。


 私は、そのやり取りを撮るべきか、一瞬迷った。


 カメラを構えれば、母親の表情も、職員の表情も、ベビーカーの中で眠っている子どもの顔も、全部フィルムに閉じ込めてしまう。


 それが、誰のためになるのか。


 迷っていると、その空気を切り裂くように、聞き慣れた笑い声が頭上から降ってきた。


「要するにさ」


 テントの横で腕を組んでいた七瀬さんが、一歩前に出る。


「ここは“誰のものでもない土地”ってことにして、いったん真っ白にしてから、好きなように分け直すって話でしょ?」


 わざとらしい軽さの裏に、尖った棘が隠れている声。


 職員たちの顔が、同時に固くなる。


「ええと……今回の計画の目的は、あくまで安全性の向上と――」


「安全のため、ね」


 七瀬さんは、ポスターのパネルを指先でとんとんと叩く。


「“第三区”って箱にまとめて入れて、“優先的整備区域”ってラベル貼って、あとは中身を好きに並べ替える。便利な言葉だよなあ」


 笑っているのに、目は笑っていない。


 住民たちの何人かが、ああ、と小さく息を漏らした。誰かが「言ってくれた」とでも言いたげな顔をする。


 職員の一人が慌てて前に出ようとしたとき、その腕を相馬さんが掴んだ。


「ここで揉め事を起こされると、困る」


 低く、しかしはっきりとした声で、今度は七瀬さんに向き直る。


「お前もだ、七瀬。余計な煽りを入れるな」


「余計かな?」


 七瀬さんは肩をすくめた。


「“みんなのための計画です”って、きれいな言葉だけ並べられるより、よっぽど誠実だと思うけどね」


 表側と裏側。警察とヤクザ。行政と住民。


 その全部が、川べりの小さな公園にぎゅっと押し込められている。


 私は、カメラを構えたり下ろしたりしながら、その場から少し離れることにした。


 テントの後ろを回って、川べりの斜面へ降りていく。


 草の匂いと、川から上がってくる湿った風。遠くを路面電車が走る音。


 川面を見下ろす位置で立ち止まると、少し上方、斜面の中腹に三つの影が現れた。


「さぼりですか?」


 九条さんが、いつもの調子で言う。


「取材です」


 言い返しながら振り返ると、彼の後ろに相馬さんと七瀬さんがいる。


 テントのざわめきから、少しだけ離れた空間。


 夕方が近づきつつある空の下で、四人の影だけが、川と街の境目に取り残されたみたいだった。


「で」


 七瀬さんが、ポケットに両手を突っ込みながら言う。


「“この街は誰のものか”って話、どう思ってんの、記録係さん」


「いきなり大きいテーマ振らないでください」


「大きくしたのは、あっちだよ」


 顎でテントのほうを示す。


「“みんなのもの”とか“帝都市民の宝です”とか。ああいう言葉、一番ごまかし効くんだよなあ」


「……それ、僕の台詞取らないでくださいよ」


 九条さんが、少しむっとした顔で割り込む。


「“みんなのもの”って言い方、本当に便利なんですよ。責任の所在をぼかせるし、“反対する人=わがままな少数派”って構図にできる」


「お前はすぐ構図で物事語るな」


 相馬さんが小さく息を吐く。


「少なくとも、ここに住んで税金払ってる連中のものだ。毎年の固定資産税だって、馬鹿にならない」


「税金払う余裕ないヤツの方が、この川の匂い知ってるけどね」


 七瀬さんの声が、ほんの少し低くなった。


「夜中の増水の気配とか。橋の下に溜まったゴミの匂いとか。あんたらが寝てる間に起きてることは、だいたい“払えてない側”のほうが知ってる」


 川面を見下ろすと、水面が夕日を受けてきらきら光っている。


 その向こうには、高層ビルの輪郭が並んでいる。ガラス張りの壁に、空と川と、この公園の小さなテントが逆さまに映っているかもしれない。


「記事にするときは、どう書くんですか」


 私は、九条さんに尋ねてみた。


「“第三区住民、再編計画に揺れる”とか?」


「うーん」


 彼は空を仰いだ。


「“街は誰のものか”なんて大層なタイトルつけたら、編集に怒られますね。“もっと分かりやすくしろ”って」


 そう言いながらも、目はどこか真面目だった。


「でも、書かないわけにもいかない。少なくとも、“ここでこういう説明会が行われて、こういう声が出た”ってことぐらいは、紙に残しておきたい」


「……それで、その紙は、いつか破られるかもしれない」


 私は、さっきの駅前の掲示板を思い出す。


 ポスター。赤い枠。貼り替えられた図面。


 どんな記事も、どんな記録も、いつかは紙切れになる。


「じゃあ、写真は?」


 七瀬さんの視線が、私のカメラに落ちた。


「お前の撮る写真は、誰の味方なんだ?」


 唐突にそう言われて、言葉が喉に詰まる。


 今まで、考えないようにしてきた問いだった。


 撮ること、それ自体が、どこかの陣営に加担することになるかもしれない、なんて。


「中立の記録者、ってやつ?」


 九条さんが、からかうような調子で言う。


「“偏りなく撮ります”って、一番難しいですよね。何を撮るか選んだ時点で、すでに偏ってる」


「それは、そうだけど……」


 私は、川面を見つめる。


 風で揺れる水の表面に、私たち四人の影がぼんやりと映っている。足元の斜面に引かれた白い線の上を、私の靴も七瀬さんの靴も、相馬さんの靴も並んでいる。


「……私の写真が、誰の味方になるのか、分かんなくなります」


 自分でも驚くほど、素直な言葉が出てきた。


「市役所の人たちのためなのか。記事のためなのか。ここに住んでる人たちのためなのか。どれにもなってないのか」


 沈黙が落ちる。


 七瀬さんが、珍しく真面目な顔で私を見た。


「誰の味方でもいいんじゃない?」


 そう言って、少しだけ笑った。


「“誰かの味方のつもりで撮ってた”ってことだけ、あとで分かれば」


「……そんなのでいいんですか」


「よくはないけどさ」


 彼は肩をすくめる。


「少なくとも、“どっちにも良い顔しようとして撮った”写真よりは信用できる」


「……それは、そうかもしれませんね」


 相馬さんが、小さく頷いた。


「警察だって、“中立”なんて建前だ。本当は、守りたいものの順番がそれぞれ違う」


 九条さんも、少し考えてから言葉を足す。


「記事だってそうです。“市民の味方”って言いながら、部数やクリック数のために書くこともある。本音と建前が食い違うのは、どこも一緒ですよ」


「じゃあ」


 私は、自分のカメラを見下ろす。


「私は……“ここにいた人たち”の味方で撮りたいです」


 口に出してみると、少しだけ楽になった。


 市のためでも、新聞社のためでもなく。


 名前のある人も、ない人も。税金を払っている人も、払えない人も。


 この川の匂いを知っている人たちのために。


「立派な答えだねえ」


 七瀬さんが、また少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべる。


「じゃあ、“ここにいた人たち”ってのを、ちゃんと撮らないとな。消される前に」


 その言葉に含まれた「消される前に」という響きが、胸のどこかを冷たく撫でていった。



 説明会が解散したあと、川べりの公園には、紙コップやチラシの残骸だけが残った。


 テントは手際よく畳まれ、折りたたみ椅子はトラックの荷台に積まれていく。


 私たちは、少し遠回りをしながら川沿いを歩いた。


 夕日が傾き始め、川面が金色に染まりつつある。


 しばらく進むと、小さな木造の小屋と、朽ちかけた桟橋が現れた。


 斜めになった屋根。板がところどころ剥がれた壁。桟橋の板は、何枚か抜け落ちている。


 でも、夕日がそこだけを優しく照らしていて、奇妙な美しさがあった。


「あ……」


 私は、思わず足を止める。


 再開発パネルの図面で見た、「川沿いの構造物」という文字が頭をよぎる。


 写真では、小さな四角でしかなかったものが、目の前ではこうして、風景として立っている。


「ここも、線の中か」


 七瀬さんが、図面を折りたたんだ紙を取り出して確認する。


 赤い枠の線が、ちょうどこのあたりを通っている。


「昔は、ここでボート乗り教えてたんだよ」


 桟橋の先に、人影があった。


 小屋の壁にもたれて座っていた老人が、ゆっくりとこちらを振り向く。


 顔に刻まれた深い皺。日に焼けた手。膝の上には、古びた救命胴衣が置かれている。


「おじいさん?」


「なんだ、役所の連中か」


 老人は、私たちを見比べてから、首をかしげた。


「いや、その顔ぶれはちょっと違うな。カメラ持ってるし」


「幻灯局です」


 私は軽く会釈する。


「街の記録を撮る仕事をしていて……今日、説明会の様子を撮っていたんです」


「ほう」


 老人は、川のほうを見た。


「この小屋も、線の中だと?」


 七瀬さんが、折りたたみ図面を近づける。


「ええ。ここも“優先的整備区域”になってます」


「優先的に壊すってことだな」


 老人は、あっさりと言った。


 その言い方があまりにも淡々としていて、何と返せばいいか分からなくなる。


「ここで、子どもたちにボートを教えてきたんだ」


 老人は、膝の上の救命胴衣を撫でる。


「川の流れの読み方とか、オールの漕ぎ方とか。今どき、川で遊ぶ子なんて減ったけどな」


 ゆっくりと立ち上がり、桟橋のほうへ歩いていく。


「川が増水した時には、ここが避難場所にもなった。あの時は、えらい騒ぎだった」


 指差した先には、堤防の上に並ぶ住宅地が見える。


「上のほうの家から、ここまでみんな避難してきてな。子どもが泣いて、犬が吠えて、ばあさんが腰を抜かして」


 老人は、その光景を目の裏に浮かべるように目を細めた。


「ここにボート並べて、何往復もしたよ。水が引くまでな」


 私は、カメラを構えた。


 夕日に染まる木造小屋。朽ちかけた桟橋。その先に、きらきらと揺れる川面。


 そして、その横に立つ老人の横顔。


 シャッターを切る。


 一枚、二枚。


 構図を少し変えて、老人をシルエットにして撮る。


 桟橋の板の隙間から見える水面。小屋の壁に残った古いペンキの跡。ドアの横に打ち付けられた、錆びた釘。


 全部、できるだけ丁寧に。


「写真なんてな」


 老人が、私のほうを見もせずに言った。


「どうせどこかで忘れ去られる」


 その言葉に、私はシャッターを切る手を一瞬止めた。


「昔、ここに新聞社の人間も来たよ。川が氾濫したときな。“地域の絆”だのなんだのって、えらい持ち上げ方で記事にしてた」


 老人は、自嘲気味に笑う。


「あの新聞、今どこにあるか知ってるか?」


「……さあ」


「俺も知らん」


 肩をすくめる。


「でも、“あったこと”が一枚残るなら、まあ悪くない」


 そこで初めて、私のほうを真っ直ぐ見た。


「忘れられるのは、どっちみちだ。写真があろうがなかろうが。でも、“あった”ってことを誰かが見つけられる場所が一つくらいあっても、損はしない」


 その声は、妙に静かで、揺れていなかった。


 私は、小さく息を吸ってから、もう一枚シャッターを切る。


 老人と小屋と川と桟橋が、黄金色の光の中でひとつになるように。


 自分の中のどこかに、その言葉を刻み込むように。



 数日後。


 暗室の赤いライトの下で、私はフィルムを一本一本現像していた。


 川沿い公園での住民説明会。


 テント。椅子。ホワイトボード。立ち上がる若い母親。無表情な職員。苦い顔の住民たち。


 川べりの斜面での、四人のシルエット。


 夕日を背にして並ぶ、私と七瀬さんと相馬さんと九条さん。川面に伸びる影。遠くの高層ビルの輪郭。


 ボート小屋と朽ちた桟橋。


 老人の横顔。木造の壁。夕日に染まった水面。


 バットに浸した印画紙を、ピンセットでそっとつまみ上げるたびに、白い紙の上に像が浮かび上がる。


 現像液から定着液へ。水洗い。乾燥台へ。


 作業は、いつも通りだった。


 違和感が生まれたのは、最後の数枚を並べたときだ。


「……あれ?」


 自分の声が、赤い光の中で小さく響く。


 川沿いの全景を撮ったカットを、時系列順に並べてみる。


 最初の一枚。


 川。土手。いくつかの小屋。そのうちの一つが、さっきのボート小屋だ。


 二枚目。


 少し引きの全景。桟橋も、小屋の並びも、綺麗にフレームに収まっている。


 三枚目。


 夕日がさらに沈み、影が長く伸びたカット。


 そこには、川沿いの土手と桟橋と、老人の小さなシルエットが写っている。


 ……その背後にあるはずの、小屋が、一軒分だけ、ぽっかりと抜け落ちていた。


 抜け落ちている、という表現が一番近い。


 他の小屋はちゃんと写っているのに、その場所だけ、最初から何も建っていなかったかのように、ただの土手になっている。


 板の影も、屋根の輪郭もない。


 私は、指先でその部分をなぞった。


 指先はただ、平らな紙の感触を伝えてくるだけだ。


「……撮り漏らした、わけじゃない」


 スイッチを切り替えるみたいに、頭の中で再生する。


 あのときの夕日。ファインダー越しの構図。小屋をフレームに入れたことを何度も確認した、自分の手の感覚。


 ちゃんと、そこにあった。


 そこに、あるはずだった。


 扉が開いて、暗室の外側から白い光が漏れてくる。


「どうだい、出来は」


 御影さんの声。


「……ちょっと、見てください」


 私は、彼を呼び入れて、現像した写真を指し示した。


「説明会のやつ?」


「それは、まあまあ。問題は、こっちです」


 川沿いの全景カットを並べた列を指差す。


 一枚目、二枚目は、何の問題もない。ただ、三枚目から、視界の一部がすっと抜ける。


「ボート小屋が、一軒分だけ写ってないんです」


「ピントがずれたとか?」


「違います。ここに――」


 私は、写真の上の空白をなぞるように指を滑らせた。


「ここに、小屋があったんです」


 言葉にすると、どこか子どもじみた主張みたいに聞こえる。


 でも、本当に、そこにあった。


 老人が立っていた場所の、すぐ後ろに。


 御影さんは、写真を手にとって、しばらく黙って眺めた。


「……撮り漏らした、って可能性は?」


「ありません。フレームの端まで何度も確認しました。むしろ、小屋を中心に撮った一枚です」


 自分でも驚くくらい、強い口調になっていた。


 御影さんは、ふう、と小さく息を吐く。


「カメラの故障、って線は?」


「それなら、他のカットにも何か出てるはずです」


 私は、暗室の隅に置いたカメラバッグを見やる。


 レンズもシャッターも、さっきまで何の問題もなく動いていた。


「……まあ、現象としては“写っていない”。理由は、分からない」


 御影さんは、そうまとめた。


 分からない、で終わらせたくないのに、他に言葉が見つからない。


「おー、暗室だ暗室だ」


 唐突に、明るい声が暗室の外から飛び込んできた。


「ちょっと、勝手に入らないでください」


 ドアの隙間から顔を覗かせたのは、案の定、九条さんだった。


「お、いい感じにホラーな空気ですね。何か写っちゃいけないものとか――」


「写ってないもの、ならあります」


 私がそう言うと、彼はきょとんとした顔をした。


「写ってないもの?」


「これ」


 全景カットの列を指差す。


 九条さんは、赤いライトの下で目を細めながら、一枚一枚を眺めた。


 そして、三枚目の写真で眉を寄せる。


「……あれ。小屋、消えてます?」


「消えてる、というより、“最初からない”みたいに写ってます」


「レタッチ前提の時代に、フィルムで写真改ざんってのも珍しいですね」


「冗談言ってる場合じゃないです」


 ため息まじりに言うと、彼は肩をすくめた。


「冗談じゃないですよ。ほら」


 九条さんは、鞄から一枚の紙を取り出した。


 見覚えのあるレイアウトの、それでも少しサイズの違うそれは、市から配られた再開発パネルのコピーだった。


「説明会で配ってたやつ、ちょっと拝借してきました」


 彼は、そのコピーを写真の横に並べる。


 白い紙の上に描かれた川沿いの地図。


 「第三区」と赤い枠で囲われたエリア。


 細かな四角で示された建物の群れ。


 その中に――ボート小屋を示すはずの印が、最初からどこにもなかった。


「公式の図面上では、“最初から何もなかった場所”になってる」


 九条さんが、さらりと言った。


「ここの小屋も、桟橋も、老人も。全部、地図の上では“K”みたいな記号一つすらもらえない」


 私は、写真と地図を交互に見た。


 老人が語った記憶。川の増水の夜の話。子どもたちの笑い声。犬の吠える声。


 その全部が、“地図にないもの”として、線の外側に押しやられている。


 写真の中では、二枚目までは、ちゃんとそこにあったのに。


 三枚目では、もう「最初からなかった」みたいに、空白になっている。


 私の記憶の中では、確かにそこにあったのに。


 地図の中では、そもそも存在していない。


 どちらが本当で、どちらが間違っているのか。


 どちらも、本当で、どちらも、少しずつ嘘なのかもしれない。


「じゃあ――」


 自分でも驚くほど、声が小さかった。


「じゃあ、ここは、誰の街だったんですか?」


 地図を描いた人の街でもなく。


 再開発を進める人たちの街でもなく。


 税金を払っている人だけの街でもなく。


 ここでボートを教えてきた老人の街であり、川の匂いを知っている子どもたちの街であり、説明会で質問した若い母親の街でもある。


 でも、そのどれもが、紙の上の線一本で「最初からなかったこと」にされていく。


 私のカメラが、どちらの味方をしているのか、まだ分からない。


 ただ一つだけ分かるのは――今、目の前にある空白を、「最初から何もなかった場所」にしてしまうのかどうかを決めるのは、私の手の中のシャッターだということだった。



 暗室を出ると、局の窓の外はすっかり暗くなっていた。


 遠くで路面電車の走る音がする。


 窓ガラスに映った自分の顔は、赤いライトの残像のせいか、少しだけ見慣れない表情をしていた。


 帝都の記録は、きっとどこか一箇所にきれいにまとめられることはない。


 再開発の図面。市のアーカイブ。新聞記事。幻灯局の写真。


 そして、花のノートや、老人の語る川の夜の記憶や、説明会で立ち上がった母親の声。


 そういうものが、全部ばらばらの場所に、面倒くさく散らばり続ける。


 そのどれか一つが欠けても、街は街として回っていくのかもしれない。


 でも、私は、自分のカメラで切り取った一枚を、その散らばったピースのどこかに、確かに置いておきたいと思った。


 消される前提ではなく、「あった」と言える場所として。


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