第17話「告知板の赤い印」
朝のラッシュ時の駅前ロータリーは、いつもより少しだけざわついていた。
通勤客の流れが、不自然に一箇所でふくらんでいる。路面電車から降りてきた人たちが、足を止めては、何かを一瞥してからまた歩き出していく。
その視線の先にあるのは、市の掲示板だった。
ガラスのカバーもない、昔ながらの大きな木枠。選挙のポスターや回覧のお知らせでごちゃごちゃしがちなそれの、真ん中を一枚の図面が占拠している。
白い紙に、細い線と数字と、太い赤い枠。
「帝都河岸第三区 市街地再編計画(素案)」と書かれたタイトルが、朝の光をまっすぐ反射していた。
私は、カメラバッグのストラップを握り直して、流れから一歩離れる。
路面電車のベル、バスのアイドリング音、スーツの擦れる音。そういう雑音の隙間から、ぽつぽつと言葉が漏れてくる。
「また地上げかよ……」
「うち、入ってんのかね、あの赤いとこ」
「でも、川の氾濫の対策にはなるんでしょ? 去年も浸かったし」
不満とも期待ともつかない声。ため息まじりの笑い。
掲示板の前に立っていると、そういうものが全部、紙の上の赤い線に吸い込まれていくみたいだった。
「朝から賑やかですねえ」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、九条さんがカメラを肩から下げて立っていた。髪はいつも通り寝癖ぎみで、片手には缶コーヒー。
「取材ですか?」
「取材……まではいかないけど、ネタ探し、ですかね」
彼は掲示板の前まで数歩進んで、図面を見上げた。
近くで見ると、紙の上の世界はもっと細かい。
川沿いの曲がりくねったライン。細い路地。坂道。小さな四角で区切られた住宅地。薄いグレーで塗られた部分と、真っ白な部分。
そして、そのいくつかをまとめて囲うように引かれた、赤いマーカーの枠。
枠の中の文字は、どれも似たような調子だ。
「優先的整備区域」「老朽化建築物多数」「土地収用の可能性あり」。
「“第三区”、ねえ」
九条さんが、缶コーヒーを指先でくるくる回しながらつぶやいた。
「……この呼び方、いつからありましたっけ」
「第三区?」
「うん。河岸地区、なら分かるんですけど。“第三区”って、地元の人から聞いた覚えがない」
確かに。
あの川沿いを撮りに行ったとき、誰もそんなふうには言っていなかった。坂の多い住宅街も、小さな神社も、「裏のほう」とか「上のほう」とか、すごく曖昧な言い方はしていたけれど。
「第三区」という言い方は、地図の上でしか聞いたことがない。
通りすがりのおばさんが、私たちの横で足を止めた。
「なにこれ、また家壊すの?」
「“再編計画”だそうですよ」
九条さんが答えると、おばさんはふんっと鼻を鳴らした。
「どうせウチみたいな古い家から潰されるんだろうねえ。でも、川の水来たときは怖かったしねえ……」
隣で、作業服姿の男性が肩をすくめる。
「俺んとこ、ローンまだ残ってんだけどな」
「でもさ、ここら一帯きれいになれば、店とか増えるかもしれないじゃない。そうすりゃ子どもらも帰ってくるかもよ」
「帰ってこないって。あいつら、都心のほうが好きなんだ」
笑いながら、笑えていない。
私は、掲示板から少し離れた位置に立って、カメラを構えた。
駅前ロータリー。行き交うバスと路面電車。朝の光に照らされた告知板。その前で立ち止まって図面を覗き込む人たち。
ファインダーの中で、赤い枠がじわりと浮き上がる。
シャッターを切ろうとして、指が止まった。
これは、市の広報課が撮るべき写真なのか。新聞社が撮るべき写真なのか。それとも、幻灯局が撮るべき写真なのか。
まだ、その線引きが、自分の中でうまく引けない。
「とりあえず撮っときましょう」
横から、軽い声がした。
「“とりあえず”が一番大事ですからね、こういうのは」
九条さんが、自分のカメラで掲示板に向けてシャッターを切る。音が、朝の雑踏の中で小さく弾んだ。
「局のほうにも、一本電話入れたほうがよさそうですね」
「……もう入ってるかもしれません」
私は、ポケットの中の携帯の重さを急に意識した。
こういう「街の形が変わるかもしれない」話は、だいたい、私たちのところにも回ってくる。
“記録”という名前で。
◇
幻灯局の事務机の上に、同じポスターの縮小版が広げられていた。
市役所から送られてきたというそれは、駅前の掲示板に張られていたものとほとんど同じだったが、角に「内部資料」と小さく印字されている。
紙の上の赤い線を、御影さんが指でなぞる。
「ここが“帝都河岸第三区”……ということになるらしいね」
局長代理としての彼の口調は、いつもより少しだけ硬い。
「で、市役所からの依頼内容がこれ」
机の端に置かれた封筒から、御影さんは紙を一枚取り出した。
「市街地再編計画に伴う現状記録業務委託の件」。
文字だけ見れば、きれいで真っ当な仕事だ。
「再編計画の対象になっているエリアの街並みや生活の様子を、市のアーカイブとして撮影・保管してほしい、だってさ。予算もちゃんとついてる」
「“市のアーカイブ”……」
私は、広げられた図面を見下ろした。
川沿いの古い家並み。坂の途中の小さな神社。商店街の裏口。高架下の飲み屋街。
私たちがこれまで何度も歩いてきた場所が、赤い枠の中にすっぽりと収まっている。
「仕事としては、悪くない話だと思うよ」
御影さんは続ける。
「市の公式記録として残る。幻灯局の存在も“役に立つ部署”として認識される。予算も出る」
淡々とした説明。
それが正しいのは分かる。多分、役所の職員が言うのと同じくらいに。
でも、胸のあたりにつっかえているものが消えない。
「……なんか」
私は、言葉を探しながら口を開く。
「“消す前提”で撮らされてる感じが、ちょっと嫌です」
図面の上の赤い線は、「ここを守るため」ではなく、「ここを変えるため」に引かれている。
今あるものをそのままに残すための線ではなく、「今あるものはここまで」という境界線。
そのことが、どうしても頭から離れなかった。
「気持ちは分かる」
御影さんは、眼鏡の位置を押し上げる。
「ただ、君が嫌がっても嫌がらなくても、再編計画は進む。だったら、その前にちゃんと記録として残しておくことにも意味はあると思う」
「記録しても、変わるものは変わるじゃないですか」
「変わるよ」
御影さんは、あっさり認めた。
「でも、“変わる前のことを知らないまま変わる”のと、“知っている誰かがいる状態で変わる”のは、違う」
彼の言葉は、いつも通り冷静だったけれど、その奥に少しだけ熱があった。
私は返す言葉を見つけられないまま、図面をじっと見つめる。
そこに、バン、と何かが叩きつけられた。
「――こういう叩きつけ方、やめてほしいんだけど」
御影さんが眉をひそめる。
机の上に、折りたたまれたもう一枚の地図が広がっていた。さっきのものよりも細かく、建物一つひとつまで描かれている。
見慣れた顔が、その向こう側に立っていた。
「ウチの連中の店も、まとめて“第三区”ってゴミ箱に入れられてるわけ」
七瀬さんだ。
スーツのジャケットのポケットから覗くのは、市役所の窓口でもらってきたらしいパンフレット。
「いやあ、便利な言葉考えるよねえ。“第三区”って」
彼はわざとらしく明るい声で言った。
「“こっからこっちはまとめて処理します”ってことだろ、要するに」
「七瀬さん、どこでこれを」
「市役所。文句言いに行ったら、余計な資料までくれた」
七瀬さんは鼻で笑った。
「“ご意見ありがとうございます。皆さまの声を今後の運用に活かしてまいります”だってさ。活かしてほしいのはこっちの生活なんだけど?」
図面の上で、赤い枠がさっきよりも生々しく見えた。
高架下の飲み屋街。細い路地に連なる小さな店の名前。そこに住む人たちの表札。
それらが、ひとつの枠で囲まれている。
「再開発は、前から噂はあったけどさ」
七瀬さんは、ポケットに手を突っ込みながら肩をすくめた。
「こうやって“第三区”とかって名前をつけられて、“優先的整備区域”とか書かれると、ああ、もう“まとめて片付ける対象なんだな”ってはっきりするじゃん」
「まとめて片付ける、ね……」
御影さんが小さく呟く。
そのとき、事務所のドアが開いた。
相馬さんが、珍しく早い時間に姿を見せた。
「おはようございます」
いつも通りの挨拶のあと、机の上の図面に目を落とす。
そして、ほんの一瞬だけ、表情が固まった。
「……“第三区”?」
彼の声が、低くなる。
「知ってるんですか」
私が尋ねると、相馬さんは短く息を吐いた。
「昔、似たような案件の捜査をしたことがある」
その言葉に、室内の空気が少し変わった。
「区画を番号で呼ぶのは、役所の都合上よくあることだ。でも――」
相馬さんは、指で図面の端を押さえた。
「この呼び方は、昔から“消す時だけ”使われるんだよ」
“消す時だけ”。
その言葉は、さっきまで紙の上にあった赤い線に、急に重さを与えた。
「どういうことですか?」
「ここで全部話す話じゃない」
相馬さんは、それ以上は語らなかった。
けれど、その横顔には、川沿いの高架下で見せたものと同じ、重たい影が落ちていた。
◇
その日の午後、私たちは「第三区」を公式に巡ることになった。
市役所の都市計画課の担当職員が一人同行し、九条さんも「市民目線の取材」という名目でついてくる。
川沿いの古い家並み。坂の途中の小さな神社。商店街アーケードの裏口。高架下の飲み屋街。
これまで一つひとつ別々の話として見てきた風景が、「第三区」という名前でひとまとめにされていく。
「こちらの川沿いはですね、近年、氾濫のリスクが高まっておりまして」
担当職員は、持参した資料を開きながら説明する。
「堤防のかさ上げと、避難路の整備が必要と判断されました。そのためには、河川沿いの建物の一部を撤去し――」
「“必要と判断されました”って、誰が?」
九条さんが、さらっと口を挟む。
「専門家の検討会議と、市の防災部門の協議の結果です」
職員は、慣れた口調で答える。
「もちろん、住民の皆さまのご意見も、今後の具体設計の段階で――」
「伺うんですよね?」
「ええ、“伺う”形になります」
「伺う」までが、ひとまとまりの言葉のように、すらすらと出てくる。
私は、そういう言葉の隙間を埋めるように、シャッターを切る。
川面の鈍い光。古い外壁。干してある洗濯物。窓からこちらを見ている誰かの顔。
市の公式記録用に指定されたアングルは、「河川と建物の距離が分かる構図」だった。担当職員が、「ここから撮っていただけると」と、親切そうに指を示す。
私は、その通りに一枚撮る。
そして、彼が前を向いた瞬間に、少し横にずれて、もう一枚撮る。
そこには、川と建物の距離だけでなく、玄関先に置かれた植木鉢や、窓辺のカーテンの柄も写り込むように。
(これは“帝都のための写真”じゃなくて……)
ファインダーの中で、赤い線は見えない。
でも、頭の中では、さっきの図面の上の枠が、常に重なっていた。
(“ここにいた人たちのための写真”にしたい)
坂の途中の小さな神社では、担当職員が「避難所としての有効活用」と「参道のバリアフリー化」について説明していた。
商店街の裏口では、「防犯上の問題」と「通行の安全性」を理由に、路地の拡幅や撤去の必要性が語られた。
どの言葉も、間違ってはいない。
ただ、それだけではないことも、私たちは知っている。
高架下の飲み屋街に差し掛かったとき、七瀬さんの姿はなかった。
代わりに、彼の配下らしい若い男が、遠くからこちらの様子を伺っている。目が合うと、軽く会釈して、どこかへ電話をかけに行った。
(裏のほうは裏のほうで、動いているんだろうな)
私は、電線の束と高架の柱と、路地に引かれた白線を一枚のフレームに収めながら思った。
表向きには「再編計画」。その裏で、「第三区の土地をまとめて買い叩こうとしている誰か」。
けれど、今の巻では、それ以上深く踏み込むことはできない。
今できるのは、ただ、見えるものを撮っておくことだけだ。
◇
一日の撮影を終えて、夕方、私たちは再び駅前の掲示板の前に戻ってきた。
朝と同じ図面が、昼の光から夕方の斜光に照らされている。
ただ、人の集まり方は少し違っていた。
ポスターの前には、数人の若者が立っていた。ジャージ姿の子もいれば、作業着の子もいる。どの顔も、苛立ちと不安で強張っていた。
その隣には、年配の男性や女性が数人。こっちはこっちで、腕を組んだり、腰に手を当てたりしている。
「だからさ、こんなの勝手に決められても――」
若者の一人が、ポスターに手を伸ばす。
「やめろ!」
年配の男性がその腕を掴んだ。
「破ったって意味ねえだろ! 余計、こっちが悪者にされるだけだ!」
「悪者もなにも――」
若者は振りほどこうとする。
「どうせ俺らの意見なんか、最初から聞かれてねえんだよ! “素案”とか言いながら、もう決まりなんだろ、こういうの!」
「全部反対してたら、何も進まないんだよ!」
年配の男性も、声を荒げる。
「ここらがきれいになれば、地価も上がって、店だって増えるかもしれないだろ! そうしたら仕事だって――」
「俺らがそこまでいられんのかよ!」
言い合いの輪の外側では、スーツ姿のサラリーマンたちが、遠巻きに様子を窺っていた。何人かは立ち止まってスマホを構えかけて、すぐにやめる。
私は、掲示板から少し距離をとって、その光景を見ていた。
カメラを肩から下げたまま、手がなかなか上がらない。
これは、撮るべきなのか。
若者の怒った顔も、年配の人の苛立った表情も、全部“第三区”という枠の中に収められている。
そこにレンズを向けることが、どこか残酷に思えた。
そのときだった。
「失礼、すみません」
スーツ姿の男性が、人の輪の間に入っていった。
市役所の職員だ。昼間一緒に回っていた担当とは別の人だが、同じ部署らしいバッジを胸につけている。
「ここに書いてあることは、もう“決まったこと”なんです」
淡々とした口調。
「皆さんのご意見は、今後の運用に反映させていただきますので――」
「“決まったこと”だから従えって?」
若者の一人が、唇を噛みしめながら言う。
「じゃあ、ここに来てる意味って何なんですか」
「感情的になられても――」
職員が言いかけたところで、その背中から声が飛んだ。
「じゃあさ」
九条さんだった。
彼は、いつもの軽い笑いを少しだけ引っ込めて、掲示板のポスターを見上げる。
「この赤い線の中って、もう“誰の街でもない”ってことですかね」
静かな声だった。
でも、その言葉は、掲示板の前にいた全員の耳に届いた。
若者たちも、年配の人たちも、職員も、一瞬だけ言葉を失う。
誰の街でもない。
行政の街でもなく、住民の街でもなく、裏社会のシマでもなく、記事ネタのフィールドでもなく。
「第三区」の中に引かれた赤い枠は、まるで、所有者不明の空白地帯みたいに見えた。
私の指が、自然に動いた。
カメラを持ち上げて、ファインダーを覗く。
ポスター。赤いマーカーの枠。掲示板の前で言い合う人たち。少し離れた場所でそれを見ているサラリーマン。どこか居心地悪そうに立っている市役所の職員。
その全部を、一枚のフレームに収める。
シャッターが落ちた瞬間、私は、自分が何のために撮っているのかを考えた。
市の公式記録として、でもなく。
新聞記事の挿絵として、でもなく。
ただ、「この赤い枠の中にも、いろんな顔がある」ということを、どこかに残しておきたいだけだった。
◇
局に戻ったあと、私は暗室にこもった。
駅前のカットを何枚か現像して、水洗いしたあと、乾燥台に並べていく。
ポスターに寄ったもの。人々の表情を追ったもの。ロータリー全体をロングで押さえたもの。
一枚一枚をライトにかざしながら、私は目を細めた。
ポスターのタイトル。「帝都河岸第三区 市街地再編計画(素案)」。
赤い枠の形。
数字の並び。
人の顔。
……違和感に気づいたのは、三枚目の写真を見たときだった。
「……あれ?」
思わず声が漏れる。
ポスターの上の「第三区」の赤枠。
川沿いの部分が、朝見た図面よりも、ほんの少しだけ大きくえぐられているように見えた。
河川に沿って描かれた曲線が、紙の上で不自然に膨らんでいる。その内側に含まれている建物の数が、増えている。
さらに、坂の途中の小さな神社がある区画。
そこだけ、四角く切り取られたみたいに、赤い枠の外に押し出されていた。
朝、駅前で九条さんと一緒に見たとき――あの神社は、確か、枠の中にぎりぎり入っていた。
「……見間違い、かな」
自分の記憶を疑いながら、別のカットも確認する。
角度が違っても、枠の形は同じだった。
川沿いが大きくえぐられ、神社だけが不自然に外に出ている。
頭の中で、朝の光の中のポスターを思い出す。
通勤客の流れ。立ち止まる人たち。あのとき私は、何を見ていた。
赤い枠の内側に、坂道と神社がすっぽり収まっている図。
それは、私の勝手なイメージだったのかもしれない。
でも――もし違うとしたら。
誰かが、図面の線を引き直した。
ほんの数ミリの違いで、枠の中に入るものと外に出るものを変えた。
その瞬間を、私は見ていない。
カメラも、撮っていない。
「……現物、見に行こう」
私は、現像したばかりの写真を乾燥台に残したまま、暗室を飛び出した。
◇
駅前ロータリーは、すでに夜の顔になっていた。
路面電車の窓から漏れる光と、バス停の照明。コンビニの看板。
朝と同じ場所に立つと、掲示板の前にはもう人だかりはなかった。
代わりに、涼しげな夜風と、紙の端を揺らす微かな音だけがある。
掲示板のガラスは、昼間よりも暗く、私の姿をぼんやりと映していた。
その真ん中に、新しいポスターが張られている。
「帝都河岸第三区 市街地再編計画(素案)」。
タイトルは同じ。でも、紙はさっきよりも白く、端のテープも貼り直されたばかりのようにきれいだ。
私は、一歩近づいて見上げた。
赤い枠の形。
川沿いのラインが、えぐられた状態で描かれている。
神社の区画は、最初から枠の外側にある。
「……いつの間に?」
自分の声が、自分の耳から少し遅れて届く。
朝から夕方までのあいだに、ポスターは張り替えられた。
誰かが、赤い枠の形を変えた新しい図面を持ってきて、古いものの上から重ねた。
その作業は、きっとほんの数分で終わったはずだ。
でも、その数分で、紙の上の「第三区」の中身は変わった。
枠の中にある「誰かの家」と「誰かの店」が増えたり減ったりする。
私は、ポケットからカメラを取り出すかどうか迷った。
さっき現像した写真と、このポスターを並べて撮れば、枠の形の違いは一目瞭然だ。
でも、今撮る一枚は、「変わったあとの形」しか映さない。
変わる前の形は、もう紙の上にはない。私の記憶と、暗室の中のプリントにしか残っていない。
駅前を、路面電車がゆっくりと通り過ぎていく。
車体の光が、掲示板のガラスを斜めに横切り、ポスターの上の赤い線を一瞬だけ照らした。
その光の動きを見ながら、私は思う。
地図の上でも、現実の上でも、誰かが“街の形”を勝手に描き直している。
再開発の図面を引く人。土地の値段を計算する人。ファンドだの、何だのという名前でまとまっているどこかの勢力。
そして、その線に従って、家を出て行かされる人。店を畳まされる人。何も知らないまま、いつの間にか枠の中に入れられている人。
消える街は、先に地図の上で囲まれる。
そんなルールが、この帝都にはあるのかもしれない。
でも、その線を引いた人の顔も、線の中で暮らしている人の顔も、地図には描かれない。
それを撮るのが、私たちの仕事だ。
私は、ゆっくりとカメラを構えた。
夜の駅前ロータリー。路面電車の光。掲示板。新しいポスターの上の赤い枠。
ファインダー越しに見える世界は、さっき現像した写真とは、もう別のものになっている。
シャッターを押す前に、私は小さく息を吸った。
(どうせ、また誰かが描き直すのかもしれないけど)
それでも、今この瞬間の線の形と、その前後にいた人たちの気配を、どこかに置いておきたい。
そう思って、私はシャッターを切った。
カメラの中に収まった一枚が、この街のどこまでを守れるのかは分からない。
ただ、紙の上の赤い印だけが、帝都の形を決めているわけじゃない――そう信じていたい自分がいる、ということだけは、確かだった。




