第16話「花の定休日」
その日、喫茶店のシャッターは、いつもより低い位置で止まっていた。
通りから見ると、「準備中」と「閉店」のあいだで迷っているみたいな半端な高さ。しゃがめばくぐれるし、知らない人は「あれ、やってるのかな」と一瞬だけ立ち止まるかもしれない。
でも、貼り紙にはちゃんと「本日定休日」の文字があった。
私は、そのシャッターの隙間をくぐって中に入る。
ベルの音は鳴らない。いつものようにきちんと整えられたテーブルと椅子も、そこにはなかった。
代わりに、テーブルの上には椅子がひっくり返されて載っていて、床にはモップの水あとが残っている。カウンターの端には、常連から預かったらしい忘れ物が、籠にまとめて押し込まれていた。
片方だけの手袋、読みかけの文庫本、名前の書いていないマグカップ。
どれも、ここに通ってくる誰かの一部だ。
「やっと来た」
キッチンから顔を出した花さんが、エプロンの裾で手を拭きながら言った。
「すみません、電車がちょっと……」
「いいのいいの。定休日に時間きっちり来られても、逆に困るし」
笑いながら、花さんはガス台の火を弱める。
ふわっと、バターと砂糖の焦げる匂いが店内に広がった。いつものブレンドの香りとは違う、甘い匂いだ。
「何作ってるんですか?」
「“試作”。定休日限定、実験メニュー祭り」
カウンターの上には、メモ用紙がいくつも散らばっていた。
「季節のケーキ案」「軽食セット」「夜限定おつまみ」――ボールペンで走り書きされた案の隣には、ところどころに花さんの落書きみたいなイラストが添えられている。
「で、暇そうな灯子ちゃんを一人、召喚したわけよ」
「暇そうって……」
「図星でしょ?」
図星だった。
ここ数日、高架下だの川沿いだの、街の“底”ばかり歩いていたから、急に予定が空いてしまうと、体のほうが落ち着かない。
「手伝ってもらいたいこと、二つ」
花さんは、指を二本立てる。
「一つ目は、仕入れ。商店街まで付き合って。二つ目は、試作品の毒味」
「……どっちがメインですか」
「そりゃあ毒味でしょ」
迷いなく言い切るあたりが、この人らしい。
「じゃ、エプロン貸してあげるから。定休日バージョンね」
渡されたエプロンは、いつものホール用とは違って、少し色あせたチェック柄だった。ポケットの端がほつれていて、それが逆に馴染んで見える。
「御影さんたちは?」
「あとで来るって。相馬さんがなんか“まとめたい資料がある”って言ってたから、カウンター奥を占拠する気満々」
花さんは肩をすくめた。
「七瀬くんと九条くんも、どうせ暇してるから顔出すでしょ。あの人たち、休みの日に限って集まってくるんだよね」
「……それ、店の引力ですよ」
「そう? だったら、定休日くらい引力を逆向きにしようかな。こっちから捕まえに行く」
花さんは、カウンターに置かれた買い物メモをひょいとつまみ上げた。
「じゃ、行こっか。商店街コース」
◇
喫茶店から少し歩くと、古いアーケードが頭上を覆い始める。
ガラスと鉄骨で組まれた天井から、昼の光が柔らかく差し込んでいた。透明な部分と曇りガラスの部分がまだらに混ざっていて、その隙間を縫うように光の筋道が伸びている。
通りの両側には、小さな店がぎゅっと詰まっていた。
入口に段ボールの山を築いた青果店。色とりどりのビニール袋が、風に揺れる。
昭和から時間が止まったみたいな駄菓子屋。店先に並んだカラフルなお菓子と、手書きの値札。
奥まった位置にひっそりとある古本屋からは、紙とインクの匂いが漏れてくる。その隣には、やけに明るいチェーンのカフェが新しくできていて、窓越しに見える内装だけが、周囲から半歩浮いていた。
シャッターが半分だけ降りたままの店も何軒かある。貼り紙には「長期休業」「改装準備中」といった言葉が並んでいた。
私は、エプロンのポケットからカメラを取り出す。
天井のガラス越しに見える空。並ぶ青果の橙や緑。吊り下げられたビニール袋の反射。その奥に、歴史を感じる看板と、新しいロゴ。
いつか、ここ全部を「要再開発地域」という一言で丸ごと括る資料が出てくるのだろう。
そう思うと、今この瞬間の光の配分が、急に貴重なものに見えてきた。
「撮っちゃいなよ、撮っちゃいなよ」
前を歩いていた花さんが、振り返りもせずに言う。
「ほら、あそこの八百屋さん、今日トマトめちゃくちゃ安いから。“山の高さ”が記録に残るの、きっと今日だけ」
「山の高さ、ですか」
「明日にはちゃんと減ってるからさ。そういう瞬間って、案外貴重なんだよ」
確かに、青果店の店先には、真っ赤なトマトが山になっていた。横に立てかけられた段ボールには、「本日限り!」の文字。
私は、その山と、店主のおじさんの笑い皺と、レジ横でレシートを数えているおばさんを一枚に収めるように、アングルを探した。
「花ちゃん、今日は定休日じゃなかったのかい」
シャッターを切る前に、おじさんの声が飛んでくる。
「定休日だからこそ来るんですー。仕事の日はバタバタして買いに来られないもん」
花さんは、かごを差し出しながら笑った。
「トマトと、レモンと、あと……そこら辺の“見切り品”、全部ください」
「全部は店が困るよ」
周囲の店からも、軽口が飛んでくる。
「花ちゃん、また男連れ?」「今日は女の子だねー」
「はいはい、みんな商売中なんだから、ひやかさない」
そんなやりとりを聞きながら、私はシャッターを押した。
レンズ越しに見ると、この商店街の人たちの距離感が、少しだけ分かる気がする。店と客、というより、顔見知り同士の延長線上のような。
古本屋の前では、花さんが店主のおじいさんに、何か世間話をしている。棚から抜き出された本のタイトルは、料理本と、古い旅行雑誌だった。
「みんな、花さんの顔を覚えてるんですね」
私がそう言うと、花さんはきょとんとした顔をした。
「そりゃ覚えてるでしょ。ほぼ毎日来てるんだし」
「でも、商店街って、人の入れ替わりも激しいじゃないですか。チェーン店も増えてるし……」
「ああ、そういう意味ね」
花さんは、買い物袋の持ち手を握り直した。
「顔だけじゃなくてさ。この人はトマトよりナスが好きだとか、こっちの人は牛乳はいつも二本買ってくとか、そういうのも含めて覚えてる」
「全部ですか?」
「全部は無理だよ。そこまで記憶力よかったら、もっと違う仕事してる」
そう言って笑いながらも、花さんの目は、アーケードの奥をしっかりと見ていた。
「でもね。ニュースとか地図とかが勝手に変わってもさ」
彼女は、歩きながらぽつりと続ける。
「ここに何があって、誰がいたかくらいは、誰かが勝手に覚えてるでしょ」
その言葉は、さらっとした口調にしては、やけに重みがあった。
川沿いの高架下で見た、滲んだ名簿。再開発図から消された列。高架下の白線の上を歩いていた二人。
あの人たちの名前を、今の地図は書いてくれない。新聞にも、大きくは載らないかもしれない。
でも、どこかで誰かが、勝手に覚えている。
花さんの言う「誰か」の中に、私たち幻灯局も含まれているのだとしたら――それは、少しだけ心強かった。
「……花さんは、全部覚えてる側の人ですよね」
「全部は無理だって」
また笑いながら、彼女は買い物袋を片手で持ち上げた。
「だから、たまにノートにメモるの。忘れ物リストとか、常連さんの好みとか。覚えきれない分は、紙に押しつける」
「紙に押しつける……」
「そう。そういうのも含めて、“うちの店の記録”ってことで」
その言葉が、このあと別の形で意味を持つことを、私はまだ知らない。
◇
店に戻ると、空気の密度が少し変わっていた。
シャッターはさっきと同じように半分だけ降りているのに、中からは人の気配と、紙とキーボードの音が漏れている。
椅子はまだテーブルの上に乗ったままだけれど、カウンター周りだけが妙に賑やかだった。
御影さんは、ノートPCを開きながら、花さんの「試作」と書かれた皿からひょいひょいとクッキーをつまんでいる。
相馬さんは、その奥で古い新聞の切り抜きを広げて、何かを分類していた。記事の見出しには、見覚えのある地名がちらほらと混じっている。
窓際の席には、七瀬さんが足を組んで座っていた。店内禁煙なので火はついていないけれど、片手にはお馴染みの煙草がある。指の間で、白い箱が退屈そうにくるくる回されていた。
その床に、九条さんが結跏趺坐みたいな姿勢で座って、ノートPCと紙のノートを両方広げていた。ペンを咥えたまま、ラフな記事案を書いているらしい。
「……なにこの光景」
思わず口をついて出ると、花さんが笑った。
「だから言ったでしょ。休みの日に限って集まってくるって」
「ひどい言われようですね、店主さん」
九条さんがペンを咥えたまま抗議する。
「こっちはまっとうに“締切と向き合う場”としてこの店を選んでるんですよ」
「定休日を“締切前夜カフェ”にしないでほしい」
花さんは、買い物袋をカウンターに置いた。
「はい、みんな。作戦会議の前に、まずは試食会」
「作戦会議の前提になってるんですね、試食」
御影さんが苦笑する。
「今日のテーマは?」
「“うちの定番になれるかもしれないもの”」
花さんは、焼き上がったばかりの小さなケーキを、四角く切って皿に盛りつけていく。
「ほら、灯子ちゃんも座って。エプロンのままでいいから」
テーブルの上には、まだ椅子が乗ったままなので、私たちはカウンターと壁際の隙間に、それぞれ落ち着き先を見つけた。
御影さんは、PCと皿の距離を絶妙にとりながら、ケーキの角から慎重にフォークを入れる。
「……甘さはしっかりあるけど、後味は軽い。ナッツの食感もいいですね」
「採用?」
「仮採用」
「厳しいなあ」
花さんは、横でメモ帳を開いた。
相馬さんも、切り抜きから目を離して一口食べる。
「おいしいですよ。ただ、仕事中に食べたら、眠くなるかもしれません」
「じゃあ“勤務時間外推奨”って書いとく」
「そんな注意書き、見たことないです」
カウンターの端で、七瀬さんもケーキを摘んだ。
一口食べて、無言で咀嚼。しばらくしてから、ぽつりと言う。
「……うまい」
「でしょ?」
「けど、ウチの連中に出したら、甘すぎて喧嘩になるね」
「そっちの世界は、甘さにも喧嘩腰なの?」
「酒のアテが甘いと、いろいろ拗れるんだよ」
七瀬さんは、フォークを皿に戻しながら言う。
「“俺はこんな甘いもん食ってねえ”とか、“ここは女子会か”とか、いちいちうるさい」
「じゃあ、“七瀬スペシャル”は砂糖半分ね」
花さんは、迷いのない顔でメモ帳に書き込んだ。
「“裏メニュー/七瀬スペシャル:甘さ控えめ・苦味多め”」
「名前まで正式採用ですか」
「ネーミングは大事だからね。メニューに載せとけば、普通のお客さんも頼めるし」
「やめとけ。変な客層増える」
口ではそう言いながら、七瀬さんの表情はどこか楽しそうだった。
「僕のスペシャルは?」
床に座ったまま、九条さんが手を挙げる。
「“締切前夜限定・胃に優しいセット”がいいです」
「胃に優しいってどのへん?」
「カフェイン控えめで、糖分と塩分がバランスよくて、そして何より、食べてるあいだだけ締切のことを忘れられる味」
「それはもはや医薬品の領域では」
御影さんが小さく笑う。
「“現実逃避味”ってメニュー名にしようか」
「余計に胃が痛くなりそうですね」
相馬さんですら、苦笑いをこらえきれないようだった。
こんなふうに、何でもない会話で笑っている時間が、ここ数日でどれだけ貴重になったか。
川沿いの名簿、高架下の噂。再開発の線引きと、その向こう側にいる人たち。
そういうものをいったん忘れさせてくれる場所が、この店だ。
だからこそ、この店の空気が変わるのが、少しだけ怖い。
◇
ひと通り試食が済み、花さんのメモ帳が「砂糖控えめ」「ナッツ多め」「夜限定」などの書き込みで埋まってきたころ、話題が少しだけ変わった。
「そういえばさ」
九条さんが、ノートPCの画面から目を離さずに言う。
「うちの編集長がね、“例の川沿いの記事、思ったより反応あった”って喜んでましたよ」
「あ、昨日送ったやつ?」
「“消された列の話”。タイトルは無難に変えられましたけど」
九条さんは、少しだけ口の端を上げた。
「“読んだ人が翌日も仕事に行けるくらいの重さ”ってライン、意外とちゃんと読まれてるっぽい」
「よかったじゃない」
花さんが、コーヒーを手渡しながら言う。
「しんどくてチャンネル変えられたら、書いたほうも辛いもんね」
「そういう意味では、花さんの一言は参考になりました」
「え、私そんな偉そうなこと言った?」
「“私ならチャンネル変えちゃう”って」
「ああ、それね」
花さんは、カウンター越しに笑う。
「だって、毎日働いて、毎日ニュースで暗い話ばっかり見せられたら、どこで休めばいいのって話でしょ。うちは休む場所だからさ」
その「だからさ」が、さらっとしているのに強かった。
「じゃあ、花さんの店は、“ニュースから逃げる避難所”として、帝都に必要不可欠ってことで」
「大げさだよ」
「大げさじゃないと思いますけどね」
相馬さんが、切り抜きを束ねながら口を挟んだ。
「警察署にも、記者クラブにも、こういう場所はないですから」
「……それはそれで怖いね」
花さんは苦笑したあと、ふと真顔になる。
「でもまあ、避難所ってことはさ」
彼女は、カウンター越しに店内を見回す。
「いつか“閉鎖します”って言われる可能性もあるってことだよね」
笑っていた空気が、ほんの少しだけ変わる。
「再開発が本気出したら、うちみたいな店から消えてくんだろうね」
誰に向けた言葉でもなく、ぽつりとこぼれた。
私は、反射的にカメラに手を伸ばしていた。
カウンター越しの花さん。定休日モードで椅子が上がったテーブル。床に座る九条さん。窓際で煙草を弄ぶ七瀬さん。紙の束とノートPCと、試作の皿。
今ここにある“帝都の日常の一枚”を、撮るべきかどうか。
シャッターを切ろうとして、指が止まる。
「どうしたの?」
花さんが、首をかしげる。
「……なんか」
私は、ファインダーから目を離した。
「“いなくなる前提”で撮るの、ちょっと嫌で」
自分で言ってから、言葉の重さに少し驚く。
消えてしまうかもしれない街。消されかけている名簿。再開発図から抜け落ちた列。
そういうものを撮ってきたのは、私のほうだ。
けれど、この店にカメラを向けた瞬間に、「いつか消える店」としてフレーミングしてしまうのが、どうしようもなく嫌だと思ってしまった。
「……そっか」
花さんは、少しだけ目を丸くしたあと、ゆっくり頷いた。
「じゃあさ」
彼女は、カウンターの下から一冊のノートを取り出した。
茶色いカバーの、B5サイズくらいのノート。表紙の角が少し擦り切れている。
「こっちから、先に“残しとく”のはどう?」
「残す?」
「うん。これ、前にも見せたっけ」
花さんはノートを開く。
中には、手書きの文字がびっしりと並んでいた。
「○○さん:ブレンド・砂糖なし・ミルク多め」「△△さん:アメリカン・甘いもの全部好き」「誕生日:六月三日」
常連さんたちの名前と、好みと、たまに小さなメモが添えられている。
「“公式の台帳”とかじゃないけどさ」
花さんは、ペンを指のあいだでくるくる回した。
「ここに書いてある人は、“たしかに来た”ってことにしてる」
その言い方は、冗談めかしながらも、どこか祈りみたいだった。
「地図に載らなくても、再開発の資料から消されても、ここに書いてあるなら、“この人はここにいた”ってことにする」
私は、ノートのページを見つめた。
紙は少し黄色みがかってきていて、インクの色もところどころ違う。時間の層が、そのまま重なっている。
「じゃあさ」
花さんは、新しいページを開いた。
何も書かれていない真っ白なページ。罫線だけが、淡く走っている。
「いなくなるかどうかは置いといて、うちに来た人のことだけ、ちょっとずつ書いとくよ。あんたたちのことも」
「え」
「え、じゃない」
花さんは、ペンのキャップを外して、迷いなく書き始めた。
「帝都幻灯局/灯子・御影・相馬」
その文字が、白い紙の上にじわりと広がる。
「ほら」
花さんは、ペン先を止めて、にやりと笑った。
「これで、今日ここにいたのは“公式”ね」
「いや、“公式”ってのは、もっと面倒くさいもんだぞ」
相馬さんが、思わずツッコむ。
でも、その顔はいつもの皮肉っぽい笑い方ではなく、どこか肩の力が抜けていた。
「書類作って、印鑑もらって、上の許可も必要で」
「そういうのはそっちに任せる」
花さんはあっさり言う。
「こっちはこっちの“公式”だから。うちの店で、誰が何を飲んで、どんな顔してたか。そういうの全部まとめて、“花の喫茶店・公式記録”」
「勝手に“局”名乗られるよりは、健全かもしれませんね」
御影さんが、ノートを覗き込みながら言う。
「“公式”の種類が増えるのは、悪いことじゃない」
「ですよね」
私は、そっとカメラを構えた。
ペン先と、開かれたノートと、「帝都幻灯局」の文字。
レンズの端に、花さんの指と、カウンターの木目が映り込む。
シャッターを切る。
今度は、「いなくなる前提」で撮っているわけじゃない。
ここにいた、ということを、ただそのままに写しているだけだ。
「はい、これで灯子ちゃんたちも、うちの“常連リスト”入り」
花さんは、ペンをくるりと回してキャップを閉める。
「会社の台帳にも、新聞の名簿にも載らなくても、ここには名前がある。そういうのも含めて、“帝都”なんじゃない?」
「帝都」という言葉が、この狭い店内には少し大きすぎる気がしたけれど、誰も否定はしなかった。
◇
日が傾いてくると、商店街アーケードの蛍光灯が少しずつ灯り始めた。
ガラスの天井の向こうで空が薄い橙色に変わっていく。アーケードの外を走る路面電車の影が、ガラス越しに黒いシルエットになって横切った。
定休日の喫茶店の中では、各自の“作業”が終わりかけていた。
御影さんは、ノートPCを閉じて、マグカップの底に残ったコーヒーを飲み干す。
相馬さんは、切り抜きを封筒に戻しながら、「これは局のほうにもコピーを」と呟いている。
九条さんは、床に散らかった紙をまとめながら、「締切前夜なのに、思ったより進んでない」と頭を抱えていた。
「それ、ここに来なかったらもっと進んでないやつだよ」
花さんが冷たく言い放つ。
「七瀬くんは?」
「俺は、いつも通り」
七瀬さんは、火のついていない煙草をしまいながら椅子から立ち上がった。
「うちの通りの様子見てから帰る。今日のケーキ、うちの連中には内緒な」
「“甘いもん食べてない”って顔で帰るんでしょ」
「そういうこと」
彼は、半分降りたシャッターの隙間から出ていった。
その背中を見送りながら、私はふと、ノートのページを思い出す。
七瀬さんの名前は、まだそこに書かれていない。
でもきっと、そのうちどこかのページに、「七瀬:砂糖半分・苦味多め」と書き足されるのだろう。
「そろそろ閉めるか」
花さんが、カウンターから出てシャッターの取っ手に手をかけた。
「外に出る人は今のうち」
私たちは、順番にシャッターの隙間を潜り抜けて外に出る。
商店街の通りは、さっきよりも少し静かになっていた。昼間は開いていた店のいくつかがシャッターを下ろし始めている。
私たちが外に出たのを確認してから、花さんがシャッターをゆっくりと引き下ろした。
金属の板が、下から上へと街の景色を切り取っていく。
最後まで残った店の看板の文字だけが、街灯の光に照らされていた。
シャッターが閉まりきる直前、隙間から漏れていた店内の暖かい光が、すっと消える。
その奥で、路面電車の光がガラス越しに横切った。
カメラを構えた私は、その瞬間を一枚の写真に収める。
閉まりゆくシャッター。街灯に照らされた看板。ガラス越しに通り過ぎる電車の光。
たぶん、これだけを見た誰かには、ただの「定休日の喫茶店外観」にしか見えないだろう。
でも、私には知っていることがある。
シャッターの向こうに、今日一日ここにいた人たちがいたこと。
カウンターの上の試作メニューと、ノートの白いページと、「帝都幻灯局」という文字。
名前のない人たちの名簿と、名前だけのノート。新聞記事と、局の記録。地図の線と、誰かの記憶。
帝都の記録は、たぶんどこか一箇所に、きれいにまとめて残るんじゃない。
そう思いながら、私はカメラを下ろした。
こうやって、ばらばらのノートと写真と、誰かの記憶の中に、面倒くさく散らばるんだと思う。
その散らばり方ごと、この街のかたちなのだとしたら――
私は、シャッターの前から半歩下がって、商店街のアーケードを見上げた。
天井のガラスの向こうを、もう一度、路面電車のシルエットが横切っていく。光と影のラインが、帝都の空を細く区切っていた。




